魔王は悪霊に対する
ボルダルの町の側にある森の奥。
ガリウスはぽっかり開けたところにやってきた。切り立った崖の大きな洞窟から、巨大な狼が姿を現す。
頭に長い一本角を持つ、精霊獣リュナテアだ。地面に胡坐をかいたガリウスの正面に伏せ、ぎょろりと瞳を動かした。
『ふむ。悪霊とは何ぞや、との質問か』
ガリウスはうなずき、手にした長い枝を後方へ放り投げた。
『悪霊とは、悪意の集合体。不特定多数の負の感情が寄り集まり、個として方向性を持ったものだ。そこにまた悪意が付着して大きくなり、やがて害を為す』
「感情が物理的に集まる、というのがいまいちピンとこないな」
からんと横に長い枝が降ってきて、ガリウスはそれをまた後方へ放り投げる。
『悪意とは妬み、嫉み、羨み、憎しみ、嫌悪など負の感情の総体だ。それらは魔力とよく絡む。通常は生まれて消えるものではあるが、強い負の感情は当人から離れても世界に留まるのだ。魔力によってわずかながら実体を得た、と考えるとよいかもしれぬな』
「それが集まるとより顕著に実体化し、悪霊となるのか。だが、なぜ最果ての森に多いんだ? 王国で悪霊を見たことはないが……」
『悪意は誰しも持っている。人も、亜人も、獣でさえもな。たしかに量で言えば人族が圧倒している。数でも質でも、な』
目の前に長い枝が降ってきた。
『最果てに悪意が集まる理由は、世界の構造に他ならぬ。地脈を通り、あるいは風に運ばれたどり着き、大山脈に突き当たる。地形のみが原因ではあるまいが、ともかく大陸中の悪意が集結してしまうのだ』
ガリウスは長い枝をもてあそび、今度はさらに遠くへと放り投げた。
『ところで、さっきからそなた、何をしている?」
彼の背後でウォンとひと声。嬉々として枝を追いかける巨大な影。
リュナテアとそっくりなユニコーン・フェンリルが、空中で枝をキャッチした。喜び勇んで戻ってきて、ガリウスに枝を渡す。
「アオが退屈そうにしていたのでね。話ながら相手をしていた」
『うむ。それはわかる。わかるのだが、今は真面目な話をしているのだし、なんというか、その……』
グルルルルゥ……とアオに睨まれて、リュナテアがたじろいでいる。
『元は我が半身であるのに、なぜこうも嫌われるのか……』
「嫌ってはいないと思うぞ? たんに遊びを邪魔されて怒っているだけだ」
『そ、そうか。体は大きくなったがまだまだ子どもよ。しかし落ち着かぬし、我慢してほしい』
「というわけだ、アオ。しばらく大人しくしていてくれ」
アオは『仕方ないなあ』とばかりにガリウスの背後に伏せ、頭を彼の横にすり寄せてきた。もふもふを撫でると、気持ちよさそうに目を閉じる。
「話を聞く限り、悪意とやらの大半は人族の領域から流れ着くもののようだな。最近になって悪霊が増加しつつあるというのは、王国でのいざこざが関係しているのだろうか?」
『然り。人と亜人の戦いでもそうだったが、戦乱は負の感情を生みやすい』
「となれば、悪意の流入を防ぐのが悪霊を減らすもっとも有効な手か」
王国内の混乱はまだ続くだろう。そも大陸中から集まって来るのなら、人族をどうこうしようなどと考えるだけ無駄だ。
『容易くできるのであれば、すでにやっている』
「しかし貴女は以前、結界の中に悪霊獣を閉じこめていたな。獣から離れて悪霊に戻っても、奴は外に出ていけなかった」
『小規模な結界なら我でも可能だ。しかし最果ての森全体となれば、いったいどれだけ魔力が必要となるか……。維持するにも膨大な魔力が要る』
「さすがに全体は無理だろうが、ある程度を弾き返せれば、それなりに効果があるように思うが」
悪意の大半が人族の領域からやってくるのだ。彼らにいくらかでも押しつけたい。
『うぅむ。風に乗って流れてくるものは防ぎようがない。地脈ならば場所を特定し、塞ぐことはできようが、悪意のみを弾かねばならぬ。それ以外にも有益なものも流れてくるのでな』
それに、とリュナテアはため息交じりに言う。
『最果てにつながる地脈の数は万にも届こう。ひとつひとつに結界を張り、維持するとなれば、やはり相当な魔力が常時必要となる。やはり現実的とは思えぬな』
ガリウスはアオの頭を撫でながら考える。
今までのように発生してから対処するやり方でも、専用の武具なり罠なりを作ればある程度の効率化は可能だろう。
しかし劇的に負荷が減るかと言えば、疑問符がつく。
結界をなるべく多く張り、それを維持するにしても、やはり魔力は必要だ。誰かが専従してしまえば、人手不足の解消にはつながらない。
(魔力……魔力、か。うん、試してみる価値はあるな)
ガリウスはとある策を閃いた。腰を上げ、リュナテアに告げる。
「ひとつ、頼みを聞いてくれないか」
『我にできることであれば協力しよう』
立ち上がったリュナテアに自身の考えを説明すると、精霊獣は目をぱちくりさせた。
『……本気か?』
「ああ、本気だ。ダメなら次の手を考えるさ。というわけだ。明日また来るから、準備をお願いする」
うむとうなずいたリュナテアと別れ、アオに乗って都に舞い戻った――。
翌日、ガリウスがリュナテアの棲み処を訪れると、彼女はすでに洞窟から出て待ち構えていた。
『よいのが見つかった。こっちだ』
挨拶もそこそこに、リュナテアは森の奥深くへと進んでいく。ガリウスはアオを引き連れてその後を追った。
三十分ほど道なき道を行き、リュナテアは歩みを止めた。
『正面の大樹のすぐ右側だ。見えるか?』
ガリウスは目を凝らす。
しばらく眉間にしわをよせて集中すると、うっすら黒い靄がかかっているように感じた。
「あれが悪霊なのか? 以前見たものより薄ぼんやりとして判別しづらい」
『生まれたてであるからだが、そなた、あまり魔力が高くないな。エルフほどの魔力を有していれば、はっきりと見えよう』
「俺は人族でも並以下だからな。で、アレはもう害を為すのか?」
『いや。自我は芽生えているだろうが、今は自身の成長のみに注力している段階だ。とはいえ、妙な場所に留まられると危険ではある』
悪霊は獣に憑りついて暴れるだけではない。
山の地脈に溜まれば崩落を引き起こし、水源で大きくなれば毒水に変えることもあるという。悪霊はときに、自然災害をも引き起こすのだ。
『今は我の小規模結界で閉じこめている。これ以上成長はすまい。外にいれば安全ではあるのだが……』
言っているそばからガリウスはずんずんと黒い靄に近づいていく。
手にした黒い槍を振るい、躊躇なく突き刺した。精神力を注ぎ、特殊効果を発動する。
手応えはなかった。
しかし黒い靄はざわりと一瞬大きく広がると、
「よし、出たぞ」
突き刺した部分から細い幹が無数に生えてきた。
細い幹は寄り集まり、黒い靄を包みこんだ。最終的には樹木のかたちではなく、直径一メートルほどの球体に落ち着いた。
『なんと。驚いたな。隙間は多いが、完全に中の悪霊を閉じこめている。あれ自体が結界であるのか』
気体じみた悪霊が隙間から逃れないか心配だったが、どうやら杞憂に終わったらしい。
あそこから脱出したケラの恩恵はやはり厄介だな、と今さらながら思う。
「さて、ここまでは期待通りだ。あとはこれから魔力が吸い出せるのか、どのくらいもつのか。検証だな」
他にも想定外の事態を考慮し、扱いには細心の注意を払わなければならない。
「こいつをうまく使えば、地脈からの流入ルートをいくつもつぶせる」
悪霊の発生を減らせれば、森を守る獣たちの負担が減り、深い共生関係を築けるのだ。
悪霊のみを弾く魔法具の開発。
魔樹の呪槍が一本だけなので生産性にも難がある。
解決すべき問題はいくつもあるが、試作で成功すれば、別の期待も膨らむ。
「なにせ悪霊はそこかしこで生まれるのだからな。大規模な魔力供給装置の構築も夢じゃない」
さっそくガリウスは、アオに樹木化した球体を転がしてもらい、都へと持ち帰るのだった――。