勇者は空を飛ぶ
朝もやに煙る湖畔。
そろーりそろりと、ククルは静寂を破らぬよう足を忍ばせる。
「怖くないですよー。そのまま、そのままでいてくださいねー」
彼女が向かう先には、白い馬が足を湖に浸けて佇んでいた。じぃっとククルを見つめるその背には、白い翼が生えている。
空飛ぶ馬、ペガサスだ。
じりじりと近寄る女の子から視線を外さず、長い尻尾を揺らめかせている。
と、木々の間からロープが放たれた。
先が輪っかになったロープは狙い違わずペガサスの首に絡みつく。
ペガサスは翼を大きく広げ、身をよじった。
「ぬぉっ!」
ロープが引っ張られ、それをつかんでいた男が茂みの向こうから飛んできた。ガリウスだ。
ペガサスを押さえきれずに翻弄され、地面に転がった。
「それぇ!」
ククルが掛け声とともに飛びかかる。同時にガリウスの背後からも巨大な影が飛び出した。こちらはアオだ。
アオはペガサスの頭上を飛び越えた。驚いたペガサスは飛び立つことができず、その場で足踏みする。すかさずククルがロープをつかみ、ぐいっと引っ張った。
嘶きがひとつ。ペガサスはククルの力強さにまいったのか、抵抗をやめた。
「大人しくしてくださいね。すぐに済みますから」
ククルはロープを手繰り寄せつつ近づいて、その脚をぽんぽんと優しく叩いた。
「ふぅ、すまなかった。やはり俺の力では無理があったな」
「でも、一回でロープをかけられましたよ。さすがです」
投げ縄の扱いは【アイテム・マスター】でどうにでもなるが、問題はその先だ。この恩恵は操る先に動物がいると上手くいかないのだ。
だが、ククルのパワーとアオの連携で目的のペガサスは捕らえることができた。
ガリウスは腰のポーチからハサミを取り出すと、手早く尻尾の毛をひとつかみ分ほど、切り取った。
「無理に捕まえてしまってごめんなさいです。ご迷惑をおかけしました」
ククルがロープを外すと、ペガサスはぷいっと不機嫌そうにして飛び立っていった。
「これも拾っていくか」
水面に浮かぶ幾つもの羽も回収する。ペガサス自体が稀少種で、羽の一枚にも相当な魔力が蓄えられている。素材としては一級品だろう。
ただし今回の目的は、あくまで『ペガサスの尾の毛』だ。
ガリウスは動物に乗るのが苦手である。
手綱さばきは超一流でも、動物が相手では振り落とされてしまうのだ。
しかも飛竜に乗るとなれば、難易度が跳ね上がる。
そこで飛竜を操ることに特化したアイテム――『竜操の手綱』を作ろうとしていた。
ペガサスの尾の毛はその材料のひとつだ。
「残るは『千年竜の鱗』か……」
名前からして国宝級の稀少素材だ。実際、王国の宝物庫にひとつだけ眠っていると噂されるほど。
ところが、この最果ての森では入手方法が存在した――。
リムルレスタの都から、さらに東。
巨大山脈の手前までやってきた。山脈には劣るものの、二千メートル級の高い山々が連なっている。
とある山の中腹まで固い雪道を登り、ぐるりと裏側へ回ると。
「ふわ~、すごい景色ですね」
アオにまたがったククルが目を丸くする。
深い、とてつもなく深い渓谷だった。
まるで山が二つに裂かれたようで、山肌は歪に削られている。壁面には凍った雪が貼りついていた。谷の底は真っ暗で窺い知れない。
そこを悠然と飛び回る、数百に上る飛竜たち。
体長は長い尾を入れなければ三~五メートルほど。茶色や灰色、真っ黒など、色は様々だった。
すぐ横を通過した飛竜が、ちらりとガリウスたちに目を向けた。
警戒はしているようだが、襲いかかってはこない。
正規の道を進んでいる限り、客として扱ってくれるそうだ。
しばらく歩いていくと、崖の真ん中に平らな部分がせり出しているところにたどり着いた。
そこに、巨大なドラゴンが寝そべっていた。
長い首を持ち上げ、二十メートルほど上から見下ろしてくる。
『ほう、人族とは珍しい。なんの用だ? まさか儂を討伐に来たのではあるまいな』
頭の中に直接響くような低い声音。
「貴方がこの辺りを管轄する精霊獣、エンシェント・ドラゴンのファヴニールか?」
『いかにも。して? 何用であるかの質問には答えぬのか?』
「失礼した。貴方を討伐に来たのではない。お願いと、相談がある」
ガリウスはここに至る事情を説明した。
『ほほう、遥か西の王国がなあ。儂らには関係ない、とも言えぬか。ヒトの強欲は果てがない。国を奪うような連中ならば、いずれこの地にも手を伸ばしてくるだろう』
理解を示した巨大竜だったが、大きな目を眇めてガリウスを見やる。
『鱗なんぞはいくらでも生えてくるから惜しくはない。が、タダでくれてやる義理もない』
「ああ、わかっているさ」
ガリウスはアオに括りつけた大きな樽を下ろした。二つあるうちのひとつだ。
蓋を開けると、ファヴニールは『むむっ』と首を垂れる。大きな口で器用に咥え、天高く持ち上げて逆さまにした。
樽の中に入っていた液体がどばどばと口内に落ちていく。最後は樽をバリボリ砕いて飲みこんだ。
『ぷはぁ……。うむ、美味であった。酒なぞ何十年ぶりであろうか』
満足そうに目を細めたものの、『しかし』とファヴニールは顔をそむけた。
『まだ足りぬな』
むろん、想定の範囲内である。
酒樽ひとつで国宝級の素材が手にできるとは思っていない。
ガリウスは再びアオに近寄ると、荷物の中からモップを取り出した。ククルもアオの背から降り、モップを持って腕まくり。
山肌にしみ出た水でモップの先を濡らし、
『うはっ、うほほほぉ!』
ごしごしと巨大竜の体を磨いていった。
『うむ、よい、よいぞぉ。くすぐったくも汚れが落ちる爽快感。やはりこれ! これをしてもらわなくてはなあ』
ファヴニールはご満悦である。
背中や頭、尻尾の先まで丁寧に。かなり時間と体力を持っていかれたが、ついにピカピカに磨き上げると、
『ここに対価は受領した。我が鱗、持っていくがよい』
宣言とともに、手のひら大の鱗が二枚、ガリウスの前に落ちてきた。
「ありがたい。ではさっそく、アイテムを作ろうと思う。ここで作業しても構わないか?」
『自由にしてよい。人族の恩恵とやらも眺めてみたいしな』
ガリウスは荷物の中から、大きめの頭絡を取り出した。革製の手綱と金属製の銜がセットになったものだ。
さらにペガサスの尾の毛束と、裁縫道具。
地面に腰を落とし、まずは手綱部分にナイフで薄く切れこみを入れる。そこへ毛を押しこんで、毛を糸代わりに縫っていった。
その作業を繰り返し、手綱全体にペガサスの魔力が行き渡るようにして第一段階は終了。
次に銜の両側に竜の鱗を取り付ける。特殊な接着剤で貼りつけ、革ひもでしっかりと固定した。
これで『竜操の手綱』は完成だ。
そして残るは――。
「飛竜を一体、雇いたい」
ガリウスが告げると、ファヴニールは山を揺らすほどの咆哮を上げた。
しばらくして、一体の飛竜が舞い降りる。黒い鱗を持つ、立って三メートルほどの個体だった。
『食事は週二度。うち一回は酒も付けること。また二週間に一度は体を磨く。その条件で一年、だそうだ』
「コストがかさむな……」
『まからんぞ?』
「いや、その条件でお願いしよう」
対費用効果で考えれば破格だ。文句を言って機嫌を損ねるほうが問題だった。
ガリウスはもうひとつ用意した樽を抱えてきて、蓋を開けた。黒い飛竜がペタペタと寄ってきて、樽の中に首を突っこむ。ごくごくとすぐさま空にして、クェッとひと声鳴いた。
『契約は完了した。我が同胞だ。大切に扱ってくれ』
「ああ、そのつもりだ。よろしく頼む」
ぽんと飛竜の首を叩くと、クェッとまたもひと声鳴く。
「ガリウスさん、試しに乗ってみてはどうですか?」とククル。
「えっ、いや……」
『乗り心地は保証するが、あとで文句を言われても困るからな』
「いやだから、酒を飲んだろう?」
『安心しろ。その程度で酔うものか』
ゆらゆら首を揺らす飛竜にはまったく説得力がなかった。
だが断る状況でもなさそうなので、仕方なく頭絡を嵌め、飛竜にまたがった。
【アイテム・マスター】を発動。直後、自らをアイテム化する感覚とともに、飛竜もその一部となったような感触に震えた。
手綱を引く。ばさりと翼をはためかせ、飛竜が浮き上がった。
高く、速く。
空を翔けていく。
(これは……すごいな)
振り落とされる心配は、微塵も感じなかった。飛竜と一体になった、そんな気分だ。ただほろ酔いで調子に乗っているのか、ぐるぐる旋回されて気持ちが悪くなる。
そして、もうひとつ。
(目を、開けていられない……)
あまりのスピードに冷たい風を正面から受け、涙が止まらなかった。
酒を与えるのは寝る前に。
飛行中はゴーグルを着用する。
そう決めるガリウスだった――。