勇者は悪霊を退治する
森に入って二時間ほど。
道と呼べるかは怪しい悪路をひたすら歩いた先に、開けた場所があった。
直径百メートルほどの大きな広場で、正面には切り立った崖がそびえている。その中央部分に大きな洞窟が暗い口を開けていた。
あの洞窟に精霊獣リュナテアが住む、はずなのだが。
一同は立ち止まり、呆然とする。
眼前の光景があまりに異常だったからだ。
薙ぎ倒された木々がそこらに横たわり、地面は穴だらけ。不自然に砕けた岩も多数。
嵐が過ぎ去った、と表現するのは生ぬるい。
強大な力を持つ何かが二体、戦ったあとだと考えるのが自然だろう。
「なんでぇ? こりゃあ……」
ゼパルが歩き出す。左右を警戒し、ゆっくりした足取りだ。
ガリウスも続く。
後方の森からは何の気配も感じられない。左右を見渡しても、崖の上に目をやっても、何かが隠れている雰囲気ではなかった。
しかし、いる。
強烈な殺気を放つ何者かが、こちらを窺っているとガリウスは直感した。
(あのときの奴か)
アオを拾ったとき、背後から迫ってきた殺気。
だがその出所がつかめない。
感覚を研ぎ澄ませ、状況をつぶさに観察し、ガリウスは結論に至った。
「ゼパル戻れ! 下から何か来るぞ!」
ボコリ、とゼパルの足元が盛り上がった。
土煙を上げ、咆哮とともに姿を現したのは巨大な熊だ。
ククルが叫ぶ。
「ギガント・グリズリーですっ。でも、あれは……」
灰色の毛並みを持つ巨体。王国にも生息する、魔物扱いされる凶暴な熊だが、その体長は三メートルほど。しかし現れたのはその三倍は大きい。
しかも巨躯には黒ずんだ霧のようなものがまとわりついていた。
「〝悪霊〟に、取り憑かれているのです」
「悪霊……?」
「悪に染まった精霊とお考え下さい。それに憑かれた獣――悪霊獣は、精霊格を得た精霊獣とは根本が異なります。ざっくりいうと、話が通じませんっ」
「ゼパル!」
「くそがぁ!」
ゼパルは身を翻し、駆け出そうとした。しかし丸太のような腕が振るわれ、
「ぐはっ!」
吹っ飛ばされた。
メキっと嫌な音が鳴る。ゼパルはごろごろと転がった。
「ぅ、ぅぅ……」
意識はあるものの、動けないようだ。
悪霊獣がゆっくりと体をゼパルへと向ける。追撃態勢に入った。
「おふたりは、ここにいてください。すぐそこに結界が張られています。あの獣は、結界の外には出られないようですから」
「結界? いや待て。それより君は何をするつも――」
ガリウスの言葉を最後まで聞かず、ククルが飛び出した。子どもとは思えないスピードで肉薄すると、巨大な熊の横っ面を蹴り飛ばす。
ぐらりと巨躯が傾いた。
「ゼパルさん、今助け――」
「攻撃がくるぞ!」
ゼパルへ駆け寄ろうとしたククルの頭上から、大きな手が降ってくる。
「あうっ!」
地面に叩きつけられた。そのまま地面と手に挟まれ、身動きが取れなくなる。
必死に抗っているが、押しつぶされるのは時間の問題だ。
飛び出そうとしたガリウスの肩が引き戻される。
代わりにテリオスが突進し、太い腕に体当たりを食らわせた。隙間ができたところでククルを引っ張り出し、ガリウスへ放り投げる。
体全部で受け止めて、しりもちをついて衝撃を和らげた。ククルはぐったりとしている。
「ククル様を連れて逃げろ!」
「バカを言うな。結界の外に出せばいいのだろう? 俺が時間を稼ぐから、その間にゼパルを頼む」
ククルを寝かし、腰の短剣を抜く。今度こそ結界の内側に足を踏み入れようとした。
「ダメだ! いくら貴様でも、なんの変哲もないその短剣では荷が勝ちすぎる。置いてこいと言ったオレが言うのもなんだが、シルフィード・ダガーを取ってこい。あとは、貴様に託す」
「ふざけるな! 片道徒歩で二時間だぞ? 走って取りに戻ったとしても、貴方たちが……」
「この結界とて、いつまで持つのかわからん。今はククル様を連れて逃げてくれ。オレとゼパルはまあ、運が悪かったってことだ」
テリオスが笑みを引きつらせる。
彼は、戦うのが嫌で早くから最果ての森で国造りに参加していた。
自ら『いてもいなくても変わらない』、ただ議会が決めたことにうなずくだけの存在と嘯いていたが、実際には違う。
議会では町の様々な取り決めがなされるが、種族間の対立とまでは言えないものの、やはりそれぞれの主張がかみ合わない場合もあった。
それをうまく取りまとめ、遺恨を残さないよう苦心していたのが彼だ。
その手腕は、町の者全員が認めている。
「けっ、テメエと心中なんざごめんだぜ。こちとら老い先短い身だ。最後っ屁くらい、盛大にやってやらあ!」
ゼパルが立ち上がった。口から血を吐きながら、ぎろりと巨大熊を睨み据える。
「ほう。そこまで元気なら、結界の外へ自力で脱出できるのではないか? あとは若い者に任せ、老人は引っこんでいてもらおう」
二人はじりじりと距離を広げる。
悪霊獣はどちらを先に始末するか決めかねているようだ。しかし、意識の半分以上はゼパルに向けている。傷ついたほうを狙うつもりだろう。
「どこに若者がいるって? この中年オヤジが」
「む、まだ若いつもりでいるぞ」
テリオスは自分に注意を向けようと、一歩近寄った。怪しく光る眼が彼を捉える。
だがゼパルも歯を食いしばり、ドスンと足踏みして地面を鳴らした。
(ああ、そうだ。彼らは、いつだってそうだった……)
魔族と忌み嫌われていた亜人たち。
しかし人族との戦いでは、愛する仲間を、家族を守るため、勇猛果敢に挑んできた。
そんな彼らに憧れた。
ただ命令に従い、漫然と剣を振るう自分が嫌になった。
「ガリウス、さん……」
ククルが小さな手を伸ばす。
「わたくし、ごめんなさい……。もう、どうしたらいいか、わから、ないです……」
彼らとの生活は、本当に楽しい。
生きていると実感できて、とても充実していた。
その幸せを踏みにじるものは、何であれ――。
「排除する」
ガリウスは結界内に足を踏み入れ、悠々と歩いていく。
ゼパルとテリオスが呆気に取られる中、くるくると短剣をもてあそび、悪霊獣を挑発した。
獣の咆哮が轟く。
それを合図にガリウスは駆けた。伸びてきた腕をかいくぐり、股の間を滑りつつ、斬りつける。
ガキィンと金属音が響いた。
「ッ!?」
予想外の硬さに体勢を整え、短剣を確認。刃が欠けていた。
(なんだアレは? 黒い霧のようなものに、防がれたのか?)
瘴気のような何かだと思っていたが、装甲の役割を果たしているのだろうか。
悪霊獣の猛攻が始まる。
ガリウスは【アイテム・マスター】に身を委ね、自身を道具と一体化させてどうにかしのぐものの、時折斬りつけてもやはり黒い霧に弾かれた。
(厄介だな。この硬さ、シルフィード・ダガーでも肉に届くかどうか……)
だが、手はまだある。
成功するかどうか確証はないが、イチかバチか試してみる価値はあった。
覚悟を決め、隙を窺う。
悪霊獣が腕を大きくしならせた。この攻撃をかいくぐり、接近しようと身構えたものの。
「ぐはっ!」
腕は大地に叩きつけられ、爆発じみた衝撃で土や小石がガリウスを襲った。ダメージはさほどでもないが、顔を両腕で庇った一瞬の隙をつかれた。
悪霊獣がまたも腕をしならせる。まともに食らえばつぶされると考え、両足に力を込めた。そのとき。
「このぉ!」
「うわあ!」
左右から、ゼパルとテリオスが敵に飛びかかった。
テリオスは片脚に、ゼパルは振り上げた腕にしがみつく。
「テメエは……ガリウスだけは死なせねえ!」
「はっ、よくぞ貴様からその言葉が出たものだ」
会話の意図するものはわからない。しかし二人が作ってくれたこの機会を、不意にはできなかった。
ガリウスが正面から突っこむ。
短剣を右手にしっかりと握り、左手を前に伸ばした。
黒い霧に、手を添える。
瞬間、理解した。
「なるほど。やはりこれは装甲か。で、あれば――」
ガリウスが念じると、黒い霧が音もなく、一瞬ののちに消え去った。
あらゆるアイテムを使いこなす【アイテム・マスター】。それは対象となるアイテムを完全に理解することから始まる。
実際にはその恩恵を通じて脳裏に流れてくるのだが、それが示したのは、黒い霧が『防具』であること。
そしてアイテムである以上、ガリウスが触れれば彼の管理下に置くことができる。
全機能の停止。
結果、黒い霧は実態を保つことができず、消失したのだ。
飛び上がり、鉄壁の守りを失ったのど元へ向け、短剣を振るう。
ズバッと小気味よい音のあと、血しぶきが舞った。
悪霊獣の瞳が光を失い、巨躯が崩れ落ちる。
勝負は決した、とテリオスとゼパルが安堵する中。
「テリオス、ゼパルを連れて結界の外へ。急げ!」
ガリウスは叫ぶ。何が何だかわからない風のテリオスとともに、ゼパルを結界の外に連れ出した。
「もう終わったのでないのか?」とテリオス。
「いや、まだだ。見てみろ」
通常サイズに縮んだ熊の亡骸から、黒い霧が立ち昇っていた。それらは空中で寄り集まり、球体になる。
「あれが悪霊とやらの本体のようだ。さて、どうするか……」
結界の外には出てこれないようだが、ここで見逃しても別の獣に取り憑く可能性がある。結界もいつ消えてしまうかわからず、そうなれば別の場所で暴れる危険があった。
できるならこの場で始末したい。
自分の、この町に住むみんなの幸せな暮らしを守るために。
そのためには強力な武器なりが必要なのだが。
「いいタイミングだ」
ガリウスのつぶやきの直前、「ウォーン」という鳴き声が耳に届いた。
「アオ、よく来たな。ということは、アレを持ってきたのだろう?」
頭を撫でようとして、口に何も咥えていないのに気づく。そも口に何か咥えていたら吠えられない。
単に心配で来てくれたのだろうかと固まっていると、
「ガリウス! みんな無事なの?」
遅れてリリアネアがやってきた。ゼパルやククルの様子に絶句し、彼方に浮かぶ黒い球体に身構える。
「なるほど。『触るな』と命令してしまったから、彼女に持ってきてもらったのか」
事情説明は後回しにし、リリアネアからシルフィード・ダガーを受け取った。
軽く風刃を飛ばすと、球体に切れ込みが入った。すぐ元に戻ったものの、ふらふらと落ち着かない様子だ。
「どうやら、依り代がなければあの堅牢な装甲は生み出せないらしい」
ならば、と。
ガリウスはシルフィード・ダガーを振るい、特大の風の砲弾を撃ち放った。
悪霊はたまらずといった風に飛び去ろうとするも、結界の外には出られず、右往左往する。それを執拗に追いかけた砲弾は、ついに悪霊を捉える。
バチンッ!
破裂音じみた音が鳴ると、黒い球体は呆気なく霧散した。
『見事だ。ヒトなる勇者よ』
頭の中に直接響くような声音。洞窟の奥で、二つの光が並んで動いた。
『彼奴を逃すまいと結界の維持に注力していてな。挨拶が遅れた。非礼を詫び、我が姿を晒そう』
やがて、洞窟から巨大な獣が姿を現した。
『我が名はリュナテア。この森を統べるモノである』
体高で三メートルを超す、大きな狼だ。艶やかな体毛は青みのある銀色。そして額には、鋭く長い一本の角が生えていた。
あんぐりと口を開ける一同。
『ふむ。そう注目されると、照れるな。だから姿を晒したくはなかったのだ』
何やらぶつぶつ言っているが、それどころではない。
ガリウスは、足元に目をやった。
同じ体毛を持つ小さな狼が、『褒めて。撫でて』とでも言いたげに、ガリウスの足に体を擦りつけていた――。