勇者は精霊と出会う
ときどき休憩を挟みながら、剣の稽古を交え、その日はのんびりと過ごした。
夜遅くまで語り合い、いつの間にか寄り添うように寝てしまう。
ふと、ガリウスは目を覚ました。
雲のない、満天の星空が飛びこんでくる。
押しつぶされるような威圧感。それでいて吸いこまれるような浮遊感。眠気は吹き飛んで、しばらくは煌めく星々を眺めていた。
――と、視界の端が明るく瞬いた。星々の輝きのような儚いものではなく、夜空の黒を穿つ月明かりにも似た強さだ。
同時に何かの気配を感じたガリウスは、脇に置いたシルフィード・ダガーをつかみ、跳ね起きた。
光の出どころは、泉――その、中央。
ガリウスは息をのんだ。瞬きすら忘れてそれに見入る。
――美しい女が浮いていた。
正確には水面に立っている。つま先が触れた個所から、波紋が広がっていく。
金色の長い髪。髪と同色の神々しい薄手のワンピースを着た女は、おとぎ話に出てくるような清楚にして可憐な乙女――まるで女神のようだった。
『見つかって、しまいましたね』
ささやくような声は風に運ばれてきたのではなく、頭の中で直接響いた。なにせ女とは五十メートル近く離れている。いくら虫の声すらない静寂でも、明瞭に聞こえるはずがなかった。
「誰だ、お前は……」
体が、硬直して動かない。声はどうにか絞り出せたが、それだけだ。が、言葉は相手に伝わったらしい。
『わたくしが何者であるのか。はたして今が、明らかにすべきときかどうか、判断に迷いますね。わたくしはただの語り部。あなたを〝狭間〟から見守る者にすぎません』
女は微笑みを投げかける。
『今宵の邂逅はわたくしの不注意によるもの。忘れてください、とは無理なお願いでしょうけれど、今は気にしないでください』
「何を、言っている……? 俺たちに用があるのではないのか?」
『いいえ、差し迫った用件はありません。それと、わたくしはあなたの前にしか現れません。すくなくとも現代においては』
「用がないのならば、お前はどうして今、そこにいる?」
無理に体を動かそうとしなければ、話すのに苦はないと気づく。だが、いつでもシルフィード・ダガーの特殊効果を発動できるよう、注意を払った。
油断はしない。相手が華奢な娘であろうと、見た目で判断する愚を彼はけっして犯さなかった。しかも女は魔法じみた怪しげな術で、ガリウスを拘束しているのだから。
女はガリウスから視線を外し、天を仰いだ。ガリウスは女から意識を切ることなく、彼女の視線の先を眼球だけ動かして追った。
丸い月が、夜空に佇んでいる。
『月に、誘われました』
女が視線を戻す。
危うく薄い笑みに引きこまれそうになったものの、ガリウスは自らを叱咤する。
『しかし、ええ。こうして見えたのには、何かしらの意味があるのでしょう。運命の導き、とかっこよさげな言葉を用いれば、わたくしのうっかりミスも水泡に帰す……妙案ですよね?』
「……」
『ふふ、呆れていますね。ええ、では仕方がありません。ふんわりとした自己紹介をして、お茶を濁すことにいたしましょう』
女はスカートの裾を指でつまみ、緩やかな所作でお辞儀をしつつ、その名を告げた。
『わたくしの名はエルザナード』
「なっ――!?」
ガリウスは思わず声を上げた。
あり得ない。いや、あるかもしれないが、続く言葉は彼の想像を肯定する内容だったものだから、さらに混乱に拍車がかかる。
『あなたと共に在りて、あなたを見守る者です』
ミッドテリア王国に伝わる幾つもの秘宝の中で、突出した性能を持つ聖剣と聖鎧。
それぞれに名はないが、二つ合わせての聖武具としての名称こそ、エルザナード。
たしかに古い文献では太古の女神を宿したと記されているものの、そんな眉唾な話を信じる者はいなかった。
『お気軽に〝エルちゃん〟と、呼んでいただければ』
「つまりお前はその……聖武具に宿った女神とか、精霊の類、なのか……?」
『ふふ、物の見事にスルーされてしまいましたね。まあ、いいでしょう。質問にお答えしますと、どちらかと言えば後者でしょうか。自ら神を名乗るなど、おこがましいことですので』
「人型の精霊というのも、珍しいな』
『ああ、これですか。今は月を愛でるにふさわしい姿として、ヒトの形が選ばれているだけです。次がもしあるのなら、別のカタチであるかもしれませんね。たとえば、小鳥とか』
女――エルザナードは少女のようにクスクスと笑う。
『ああ、そうですね。せっかくですから、お節介をひとつ』
エルザナードはしなやかな腕を水平に伸ばし、人差し指で真横を指し示した。
『東へ』
「東?」
『そうです。まっすぐ、東に進んでください。そこに、新たな出会いが待っているかもしれません』
「条件を付けるわりに、断言はしないのだな」
『ええ、わたくしは預言者ではありません。ただその方角には、あなたを求める者たちがいます。あなたにとっても、自身を見つめるよい機会となるでしょう。もし彼らとそこで出会えなければ、二度と交わることはない縁です。逃すには惜しいのではないでしょうか』
何かの罠だろうか? それならもっと具体的な誘い文句を並べるはずだが……。
そも王国の聖武具に宿る精霊というのも信じがたい。証拠は何もないのだ。
『では、わたくしはこれにて失礼いたします。しばらくは、見守ることに徹しましょう』
エルザナードの体がふわりと浮きあがる。
「待て。気になることばかり残して逃げるのか? 寝覚めが悪いだろうが」
『わたくしは常に、あなたとともに』
「また意味深なことをっ。それは常に俺を監視していると――」
世界が白く染まる。女の体からまばゆいばかりの光が放たれたのだ。
そして、白い世界はやがて――。
――青い空に変わった。
「朝……か?」
むくりと起き上がる。いつの間にか横たわっていたらしい。きょろきょろ辺りを見回しても、金髪の女はいなかった。
「ん……おはよう、ガリウス。……どうしたの?」
「いや、なんでもない」
夢、だったのだろうか? それにしては現実感が半端なかった。
(ま、気にするなといったのだから、気にしないでおこう)
エルザナードを名乗る女は、東へ向かえと言った。何かの罠だとしても、どのみち目的の場所は東なのだ。警戒はしても、進路を変えるつもりはない。
今はただ――。
(自らの決定に従うのみ。何も考えず、ただ指示に従っていたころには、戻りたくない)
この旅はリッピに誘われたものであっても、決めたのは自分。
ならば、自信をもって進むだけ。
ガリウスはそう、決意をあらたにするのだった――。