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姫と竹取とエトセトラ  作者: 朱ウ
1/1

はじめましての誘拐事件

 梅雨明けの、夏らしい風が木々を揺らした。

 比稲春姫ヒイナハルキは読書を中断し、ベンチに座ったままの態勢でうん、と伸びをする。

 今日は土曜。今の時刻は午後二時十分。高校生の春姫にとって一番幸せなひととき。この時間に庭でする読書は何にも代えがたい、と春姫はひとり、ご満悦。

 広い広い庭。春姫が座るベンチの後方には館と呼ぶに相応しい屋敷が大きくそびえ立つ。

「春姫さん、お茶の用意ができましたよ。」

 後ろで、声がかかる。

 振り返ると、灰色のシンプルなエプロンを身に着けた五十代ぐらいの女性が微笑みと共に立っていた。

 お手伝いの川代さんである。

「はぁい。」

 笑顔で答えると、川代さんは「お早くね」と、ゆったりと言い残して屋敷の方へ戻っていった。春姫は読んでいた本を片手に勢い良く立ち上がる。屋敷に向かいながら、

「今日のお茶請けはフィナンシェの気分。」

 気分はまさしくるんるん春姫は根っからのお嬢様である。


 比稲家は古くからの資産家であり、春姫はその一人娘である。

 しかし、大富豪かと問われれば答えはノーである。比稲家を説明する際には資産家の前に『小さな』という言葉が欠かせない。超が付く程のお金持ちには足元にも及ばない。ただ、古くからの付き合いと現当主である春姫の父親の人柄からか、周囲が持つ比稲家への印象はすこぶる良かった。

 そして勿論、小さくても資産家は資産家。お金持ちには変わりなく、春姫も世にいうお嬢様には変わりない。

 お嬢様の春姫は今日もティールームでティータイム。テラスから部屋に上がり、窓とカーテンを開けたまま中央のテーブルに足を向ける。鼻に届くのは香ばしいカフェオレと甘い甘い・・・

「フィナンシェ、ビンゴ!」

 春姫は視覚で捉えた四角い焼き菓子に口角を上げ、慣れた手つきでカップにカフェオレを注ぐ。やばい、幸せ。

「幸せは目の前にしたときが一番幸せなんだよねぇ。」

 頭を軽く振りながら、悟った口調で持論を展開する。聞く人は、誰もいない。

 はずだった。

「成程、それも一理あるね。」

 あまりに緊張感のない声に、春姫も「でしょ!」と言いかける。いや、ちょっと待て、

「誰!?」

 テーブルに手をついて声のした方を振り返れば、そこには開け放たれた窓、白いカーテン、そしてそこから顔を覗かせている青いパーカーを着た一人の青年。

 春姫の感想は、

「イケメン。」

「そりゃどうも。」

 バカすぎる発言に、青年が律儀に頭を下げる。

 二十歳は確実にいってるよなぁ。でも若そう――――――――――――。

 春姫は冷静に――――――寧ろ全く危機感なく青年を観察する。

 しばらくして、

「あ、あの、誰ですか。」

 結局、最初の質問に戻る。春姫の問いに、青年が微笑みを浮かべる。

「君の知らない、お兄さんです。」

 確かに、知らない。

 妙に納得しかけた春姫だったが、ギリギリのところで知性が顔を出す。

「答えになっていません。」

 慎重に発言したが、急な異常事態の中で春姫の心は穏やかだった。それがすごく引っかかった。

 青年は春姫の追求に答えない。代わりに、

「ちょっと大変なことになっててね。ハルキちゃん、一緒に来てくれる?」

 怪しい!警察を呼べ!――――――――――――

 ・・・などという普通の対応をするような春姫ではない。目を瞑り、大きく息を吸って、吐いてからもう一度青年をその目に捉える。

「あなたは誰ですか。」

「ん?」

「名前を、教えてください。」

 首をかしげる青年に、春姫は強く申し出る。

「・・・・名乗ればついてきてくれるの?」

「はい。」

 即答すれば、青年は流石に驚いたようであったが、またすぐに微笑みを返してきた。

了助リョウスケです。」

「リョウスケ、さん。」

 春姫は青年の名前を反駁する。

 名乗られてしまった。後はもう、ついていくしかない。

「そこから出ればいいですか?」

「お、本当についてきてくれるんだ。」

 春姫の行動に、了助が苦笑い気味に言って手を招いた。

「待って。」

 行きかけた足を止め、春姫はテーブルの上を指さす。

「フィナンシェ、袋に入れて持って行っていいですか?」

「は?」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔になってしまった了助に、春姫がダメ押しをする。

「楽しみにしてて。持って行ってもいいですよね?」

「君は・・・・・」

 しばらく呆然としていた了助だったが、しばらく春姫を凝視した後でふいに破顔した。そして一言。

「マジ?」

 マジである。 


 窓から出て、庭に降り、堂々と門をくぐって敷地内から出た。

「何で門が開いてるんだろ。」

 速足のまま春姫が疑問を口にする。

 本来、比稲家に急な来客はない。そのため予定がない限り門には鍵がかかっている筈。なのに何故。

 思いはしたが、それまでだった。つまり、春姫にとってはその程度の問題。

 春姫がぼけっと歩を進めているうちに、前を進む了助は一台の青い車の前で止まった。春姫もそれに合わせて足を止めれば、了助は車の助手席側のドアを開けてニッコリ微笑んだ。

「乗って。」

 恐らくは、これがこの先の出来事から逃れられる最後のチャンスだった。ここで悲鳴を上げるなり、全力で逃げるなりしていれば、事態はきっともっと変わっていたのであろう。しかし―――――――

 わぁ、イケメンがドア開けてくれてる。紳士的~。

 ・・・・ぐらいにしか感じていなかった春姫は、本当に頭がどうかしていたという他にない。

 春姫はすんなり車に乗り込み、きちんとシートベルトを締めた。右手にはフィナンシェはいくつか入ったチャック付きの袋。助手席のドアが閉められ、運転席に了助が乗り込む。数秒後、車が発進した。行先は知らない。比稲家の古い門がどんどん遠ざかっていく。それをじっと眺める春姫には若干の不安はあったものの、そこに恐怖はなかった。それがとても不思議だった。

 ふと、首だけ回して車内を見渡してみた。乗車人数は五人ほどの、普通の車である。春姫は再び視線を車窓に戻し、流れる景色を見つめた。車は見晴らしの良い道路を走っており、暇になった春姫は目につく看板を意味もなく読んでいく。

 うなぎ、喫茶店、ガソリンスタンド、眼科、カラオケ・・・・

 適当に読み続けた。それが段々と読めなくなっていった。

 車酔いしたかな、と思った春姫は数回頭を振る。気分は別段、悪くない。目に悪いのは、車窓の流れるスピードだけ。

「速っ。」

 春姫は思わず、といった声が漏れる。それもそのはずで、気が付けば車のスピードが尋常ではない。慌ててメーターを確認すれば、八十、八十五、九十・・・あぁ!百キロいった!およそ一般道で出すスピードではない。

「スピード出しすぎですよ!事故りますよ!?」

 春姫が運転席に座る了助に向かって非難の声を上げるも、了助は取り合わない。

「全く、こんなところですごいな。」

 ぼそり、といった了助の言葉に「お前がな!」というツッコミが喉まできたところで、了付の視線がバックミラーに向けられていることに春姫は気が付いた。助手席に座る春姫からではうまくバックミラーを覗くことができないので、仕方なく先ほど車内を確認した時の様に直接確認する。

 後方には、五十メートルほど離れた位置に黒のミニバン。どこまで行っても、車間は変わらない。

 と、いうより━━━━━

「なんだか後ろの車に追われてる気がします!」

「え、そお?気のせいじゃないかな。」

 了助はまったりそんなことを言うが、絶対に春姫の勘違いなどではない。こんなにスピードを出しているのに、車間は変わらないどころか逆に迫ってきている。春姫はたまらず了助を仰ぎ見た。表情は穏やかだが、目の奥は真剣だ。絶対に、追われている。

「了助さん。」

「大丈夫だよ。何ならその、フィなんとかってお菓子食べながら、ゆっくりしてて。」

 フィナンシェです、と反射的に言いそうになったが、思うだけに止めておいた。今はそんなことどうだっていい。

 春姫はもう一度、車のメーターを見た。百キロをいったり、いかなかったりである。

「ちょーっとまずいかな。」

 了助の独り言。怖すぎる。

 前方には、交差点が控えている。人も車も多くはないがゼロではない。このスピードで突っ切るのは無茶だ。しかも信号は━━━━━赤だ。

「絶対やばいです。了助さん。」

 春姫はシートベルトを握り締めて訴える。が、了助は相変わらずの表情のままあろうことかスピードを上げていく。交差点はもう目の前。

 私、死ぬかも。

 思った瞬間、信号の色が変わった。

「ラッキー。」

 了助はそんなことを言うが、春姫からすれば冗談ではない。かといって抗議の出来るような状況でもない。春樹の乗る車が、前進し始めた前の車を容赦なく追い越した。すれすれで対向車とすれ違う。

 了助の声が鋭く春姫の耳に響いた。

「歯を食いしばって!」

 言葉の意味を解釈する前に、目の前の景色がものすごい勢いで回転した。春姫は重心を前後左右に激しく揺られ、何度か肩や頭を座席にぶつけた。

 これって、ゲームでいうスピンってやつ?てことは時間ロス、みたいな?

「無事?」

 やっと正常運転を取り戻し、了助が春姫の方を横目で伺う。

「舌は噛んでない?」

「・・・・生きているので、どうやら噛んでいないみたいです。」

 正直に答えれば、了助は「ははっ」とおかしそうに笑う。春姫はたまったものではないが。

「上出来だよ。」

「追ってきた、人たちは。」

 手に力が入って抜けないので、春姫はシートベルトを掴んだまま了助に問いかける。

 了助の表情は変わらない。

「あっちも上出来だったみたいだ。」

 その言葉に嫌な予感がして春姫は振り返る。その先には、米粒ほどではあるが、黒いミニバンを確認することができる。

「いやー、良かった良かった。あそこで事故でも起こされたらたまんないよ。」

 絶望に顔の色を変える春姫とは対照的に、了助はどこかほっとした表情を浮かべている。

 車のスピードが、再び上がり始めた。

「了助さん、まずいですよ。こっちは街です。このスピードは、まずいです。」

 大事なことなので、二回言った。

「平気平気。距離もだいぶ開いたし。それより、足元にフィ・・・お菓子が転がってるよ。」

 了助の指摘に足元を確認。どうやら先刻の大回転で落としてしまった様だ。フィナンシェです、と心の中で言いながら身を屈め、右手を伸ばして袋を回収する。中を確認しながら頭を上げると、隣で了助が携帯を耳に当てていた。どうやら電話をしているらしく、相手はすぐにでた。

「あ、僕だけど・・・・え、今?だからさ、そのことで電話を・・・・・・サボってなんかないってば。それより予定が狂ってね・・・・・。」

 見事な運転さばきを披露しながら電話する了助はひょっとしたら地球人ではないのかもしれない。そんな馬鹿なことを春姫が思っているうちに、了助の方の話はどんどん進んでいく。

「じゃ、そっちまで行くから後はよろしく。え?・・・・・我が儘言わないでよ、仕事でしょ。」

 その後もごにょごにょと電話の相手と言い合いをしている様子だったが遂には「知らないよ、そんなこと!」と言い捨てて了助は電話を切った。空気が若干ピリッとした。

「あのぉ・・・・。」

「ごめん、もう一件電話するから。」

 春姫の気遣いの声かけに了助は断りを入れてから再び携帯を耳に当てた。

 次の相手も、すぐに電話に出た。

「もしもし?急にごめんね・・・・え、今聞いた?そうなんだ。それでさ、調べを進めておいてほしいんだけど・・・・・うん、うん。じゃあ、よろしく。」

 今度は穏便に話が終わったようで、春姫もほっとする。

 と、ここで超スピードの車が勢いよく左折した。

 この辺りは飲食店も多く、日とも車も沢山だ。注意を促そうと春姫が口を開いたとき、車が急に止まった。あまりに急すぎて、春姫の体は見事に前に持っていかれる。顔面をぶつける寸前で、シートベルトが音を立てて本来の役割を果たし、事なきを経た。

「止まるなら先に言ってください・・・・。」

「降りて。」

 春姫の呻きに、了助はそう答えると徐にそれまでハンドルを握っていた手で春姫のシートベルトを外した。いきなりの宣言と妙な体の解放感に春姫は完全にフリーズしてしまう。了助の方は、既にハンドルを握り直しており、そのままにこやかにこちらを見つめている。

 と、突然助手席のドアが開いた。外気が車内に流れ込み、外の喧騒が春姫の耳にダイレクトに届く。

「っ・・・・・。」

 驚いて開いたドアに目を向ければ、そこには長身の男が一人、不機嫌そうに立っていた。

 酷く機嫌の悪そうなその男は、機嫌の悪いその瞳に呆けた春姫を映すと、今度は舌打ちでもしそうな勢いで一言、

「降りろ。」

 低く、強い声。きちんとした真黒なスーツに、磨かれた革靴という姿から、とても威圧的な印象を受ける。はっきり言って、怖い。

 黒ずくめの長身男にすっかり気後れしてしまった春姫を察し、了助は苦笑いを浮かべた。

「春姫ちゃん、安心して。悪い人じゃないから。」

 なんとも説得力のない話である。そもそも、了助の言葉一つで安心できるほど今の春姫は単純ではない。この時点では、了助についてきたことを、少しだけ後悔もしていた。

 相変わらず固まったままの春姫を他所に、了助は黒ずくめの男の方に向かって口を開く。

「じゃ、カグヤ。後はよろしく。」

 そういわれて黒ずくめの男━━飛葉神夜ヒバカグヤはその眉間に深い縦皺を刻んだのであった。


 一体何をどうしたら土曜の午後にこんなことになるはめになるのか、一番聞きたいのは春姫であった。

 手元には見るからに甘そうな茶色をしたアイスカフェオレ。そしてテーブルを挟んだ目の前に座るのはアイスコーヒーを前に何やらとても不満そうな顔をした黒スーツの男である。この状況を彼に問いただしたい思いは充分にあったのだが、かれこれ三十分弱それは叶わないでいる。ビコーズ、とっても不機嫌そうだから。

 じれったくなった春姫は思い切って、それでも控えめに口を開いた。

「あの・・・・・。」

「あァ?。」

 男が「あ」に濁点でも付きそうな勢いで凄む。春姫は気が付いた。

 これはあれだ、アイスコーヒーを前に不満そうなのではなくて、私を前に不機嫌なのだ。

 そのことに気が付いた春姫は慌てて口をつぐもうとして、あれ?と思う。

 どうして、私が気を遣わないといけないの。

「あなたは、誰ですか。」

 今度は堂々と春姫が聞けば、目の前の男はふんっと鼻を鳴らしてアイスコーヒーに口をつけた。どうやらまともに取り合う気はないらしい。そうだ、

「カグヤ、って呼ばれてましたよね。」

 先刻の了助とのやり取りを思い出してふっかけてみれば、黒スーツの不機嫌男もとい神夜は派手に舌打ちをかました。

 それでも、春姫の威勢は損なわれなかった。

「何がどうしてこうなっているのか、教えてください。」

「俺だって知りてぇよ。」

 吐き捨てるように言う神夜は一コマおいてからくわっと目を剥いた。

「何だよ、この甘ったるいアイスコーヒーは!俺はアイスコーヒーに甘さなんて求めてねぇ!」

 的外れな切れ方をした神夜に、春姫はあんぐりと口を開けたまま閉じるのを忘れてしまった。あと少しで「はぁ?」という音声までついてしまうところだったが、それはなんとか食い止めた。

「大体、俺が好きなアイスコーヒーってのはな・・・・。」

 文句の言い足りない様子の神夜はその後もぶつぶつとアイスコーヒーについて語りだす。

 なんだ、やっぱり私じゃなくてアイスコーヒーを前に不機嫌だったんだ━━━━と、春姫は胸中で再度訂正する。面倒くさい人だな。

「だったらミルクも入れなきゃよかったのに・・・・。」

 春姫はテーブルに転がるからのミルク容器をジト目で見つめながら小声でつっこむ━━━━睨まれた。

「これだからお子様は。」

 どっちがですか。

「て、そんなのはどうでもいいんですよ。私が聞きたいのは今のこのおかしな私の状況です!」

「ああ、そっち。」

 まるでその可能性を考えていなかった、という感じで言う神夜が心底腹立たしかった。ああ、そっち、って!そっちしかないでしょ!

「そうです、そっちです。」

 むかついたので、少し強い口調で言ってみた。

「何怒ってんだよ。」

 神夜が変なものでも見るような目つきと共に言ってくる。それに更にかちんときた。

 春姫の眉間に神夜以上の皺が寄ったころ、ようやく神夜がまともに口をきいた。

「お前は俺たちに誘拐される予定だったんだよ。」

 何でもない風に言われたので、春姫も一瞬何でもない風に受け入れてしまいそうになった。ユウカイ、ゆうかい、融解・・・・・誘拐!?

はっとなる。

「あ、私、了助さんに誘拐されてたのか。」

 ポンッと手を叩いて今初めて思い至った、という表情を春姫がすると、神夜は「お前なあ・・・」とややおののいてから非常に呆れた顔をした。

「全然余裕そうにしてるなぁとおもったら、そういうことかよ。アホだな、アホ。」

 悔しいが反論できない。押し黙った春姫をどう思ったのかは知らないが、神夜は「まぁ」と言って話を続けた。

「そういう依頼を受けたんで、了助が攫いに行って、いろいろあってこの状況だな。」

 そのいろいろの部分を激しく追及したい気分だったが、その前に引っかかった言葉に春姫は飛びついた。

「ちょっと待って、依頼って、誰からっ。」

「比稲頼仁ヨリヒト。」

 時が止まったような気がした。頼仁って・・・・・

「お父さん!?」

 驚愕してその後の言葉が続かない。春姫たちのテーブルの横を通っていった店員に訝し気な視線を受けたので、どうやら思ったより大きな声が出てしまったらしいことはわかった。しかし、今の春姫には音量を調節する余裕がない。

「何で?だって、お父さんは、今っ。」

「旅行中だろ?」 

 神夜に言い当てられ、春姫は今度こそ本当に言葉をなくしてしまった。

 父親は旅行中。その通りである。もっというと、両親ともに旅行中である。春姫の両親は今年で結婚二十周年。それを記念して、春姫の十六歳の誕生日の翌日から二人で世界中を旅している。らしいのだ。

 その父親が、娘の誘拐を依頼?━━━━意味が分からない。

 春姫はだんだん騙されているような気分になってきた。

「新手の詐欺か何かですか?」

「はァ?」

 割と真面目に聞いてみたら、神夜に鼻で笑われた。

 でも、だって、他に何だというのだ。詐欺というほかに。

 もう何が何だかわからなかったものが更にわからなくなってしまいお手上げ状態となった春姫は、とりあえず手に持っていたカフェオレを一口飲んだ。甘さが緊張した舌の上で溶けて喉まで液体が流れ込む。冷たい甘味に少しだけほっとした。

 そんな春姫を見て、数秒目を丸くしていた神夜だったが、すぐに表情を引き締める。アイスコーヒーはもう諦めたようで、そっとテーブルの端っこに置いた。

「俺らはビジネスとして誘拐の依頼を受けてる。」

 突然始まった神夜の説明に、春姫は慌てて理解しようと頭を働かせる。

「ビジネス?」

「ああ、内容はまぁ、危機管理の一種だな。」

 ここで危機管理、ときた。

「全く、意味が分かりません。」

 きっぱり言うと、神夜は酷く面倒くさそうに、しかし真面目に説明を続けてくれた。

「簡単に言えば、俺らが誘拐することで自分の子供の危機管理がどの程度備わっているかをテストするって感じだな。評価するのは俺らだけど。」

 意外にも神夜がかなりかみ砕いた感じで話をしてくれたのだが、やはりいまいちピンとこない。誘拐して、評価して、どうだというのだ。

 難しい顔をする春姫の疑問に気が付いたらしく、神夜が親切に付け加えてくれる。

「金持ちの親っていうのはたいてい、そういうシチュエーションを懸念している。だったら一度経験させて、ついでに評価までしちゃいますかっていうビジネスだ。」

 言い終えた流れで神夜が隅に避けていたアイスコーヒーを口にする。眉間に思い切り皺が寄った。

 春姫はというと、随分と白けた表情である。

 この人の言うビジネスについてはまぁ、うっすらと理解した。春姫の父親がこの人たちに春姫の誘拐を依頼したことも、不本意ではあるがわかったことにしておいてやろう。問題は━━━━

「それがどうしてあんなカーチェイスに巻き込まれて、挙句今あなたと向き合ってお茶する羽目になってるんですか!?」

 一気にまくしたてる。今までの了助や神夜とのやり取りで、現在の状況が予定外であることは明白だ。それくらい、春姫にだってわかる。声色を荒げた春姫に、神夜はこれっぽっちも悪い気などしていないように左ひじをテーブルに立て、その上に機嫌の悪い顔をのっけた。

「それは、鋭意捜査中。」

「捜査中って・・・・。」

 春姫は深いため息を吐いた。捜査中って、何にもしていないくせに。

「私には、捜査しているようには見えません。」

「お、捜査が終わったみたいだな。」

 神夜が視線を店の入り口に向けてそう言うので、つられて春姫もそちらに視線を送る。

 そこには、店に入ってきたばかりと見える茶髪にジャージ姿の若者が一人。男だ。

 その茶髪男子は、ぱっとこちらを素早く見つけると迷わず春姫たちの元へと歩み寄ってきた。遠くから見ると細くて白い現代の若者のようないでたちだったが、近くで見ると肌の白さはそのままに、少なくとも軟弱そうな印象は払拭された。がっちりとまではいかないが、春姫が力いっぱい押したくらいじゃびくともしなさそうな雰囲気があった。

 ぼけっと事の成り行きを見つめるしかない春姫を他所に、神夜が茶髪男子に声をかける。

「よ、カイ。」

 軽く手を上げ、茶髪男子の名を呼ぶ。カイと呼ばれたその茶髪男子は、ちらっとテーブルの様子を眺めて再びその長いまつ毛に縁どられた綺麗な目で神夜を見て口を開いた。

「神夜さん、人使い荒いくせに自分は優雅にお茶ってー、どうかと思いますよぉ?」

「うるせぇ。」

 吐き捨てる様に言う神夜を後目に、カイは春姫に「隣いい?」と断ってからちゃっちゃと着席した。

春姫は失礼にならない程度に隣に座ったカイを観察する。肌の白さは春姫などお話にならないぐらいの透き通ったもので、ハリウッド女優・・並みの長くボリュームのあるまつ毛は形の良い目を挑発的なそれへと見せている。

カイの容姿に見とれているうちに、その視線が彼の視線とぶつかった。色気のある瞳が微笑むように細くなり、春姫は動揺して俯いた。

そこに、神夜からの横やりが鋭く入る。

「お前、やめとけよ。この藤波快智フジナミカイチという男は一筋縄じゃいかない、毒蛇だからな!」

「それはお互い様ということで。」

 カイが目を伏せて楽し気に返しているのを見て、春姫は慌てて弁解しようと口を開けた。

「別に、そういうんじゃありません。」

「じゃあ、どういうんだよ。」

 意地悪く神夜が聞き返してきたが、その手には乗るまいと春姫はぷいっと横を向く。

 そこに、今度はカイから話しかけられた。

「あ、そうだ。名前は何だったっけぇ?」

 独特な口調のカイに、春姫は緊張を隠すように努めて冷静を装った。

「比稲、春姫です・・・・。」

「ああ、そうだそうだ。春姫ちゃん。ハルちゃんだね。」

 爽やかに微笑まれる。眩しすぎだ。

 神夜が盛大にため息を吐いたので、春姫は頬を膨らませた。

「だから、そういうんじゃありません。」

「だから、どういうんだよ。」

「まぁまぁ。」

 春姫と神夜の諍いをカイが両手を上下させて宥める。その手があまりに綺麗すぎて、春姫は思わず自分の手と見比べ━━━━るまでもないか。悲しいけれど。

 そして春姫はそこで、何故カイを前に(寧ろ横に)こんなにも緊張してしまうのか理由に思い至った。カイの容姿はとても人形的で━━━━━

「なんだか、美術品みたいな人だなぁって。」

 素直な言葉を口にすれば、難しい顔をしていた神夜が一転して笑いだした。カイはというと、苦笑いである。

「なかなか、正直に答えたねぇ・・・・。」

「お前、なかなか見る目があるな。」

 目に涙を浮かべて笑う神夜に、カイが恨めしそうな目を向ける。その仕草さへ、一枚の絵画の様な仕上がりなのだから、春姫はもう感心しきりであった。了助といいカイといい、世界にはいろいろな人がいたものである。

 最も、一番つかめないのは目の前に座る男であったが。

「んで、調査の結果は?」

 ひとしきり笑ってから、神夜は声のトーンを落としてカイに報告を促した。カイの表情にも真剣味が増す。

「結果的に言うと、ターゲットは俺らっぽい、かなぁ。」

 心地の良い声色で実に曖昧な返答をするカイに、神夜は渋面を作って春姫を指さす。

「こいつではなくて?」

「ではなくて。」

 カイがはっきりと首を横に振るのを見て、神夜の目つきが一層厳しくなる。緊張は春姫にまで伝染し、三にの空間だけ時が止まったようだった。

「で、犯人は?」

 神夜の低い問いかけに、緊張度がピークに達した。春姫は息をするのも忘れるくらいの中、

「わかんない。」

「はァ?」

「っえ?」

 悲しいくらいあっさりとした悪気のないカイの言葉に、春姫と神夜は間抜け面を作って絶句した。それから一拍おいて、神夜の渋面が酷くなる。

「おっまえなあ!それじゃあ、調査の意味ねーだろ!」

 周りの席の人からちょっと眉を顰められるくらいの大きな声で、神夜はカイを問い詰める。一方で、カイは心外だ、という顔をした。

「そうは言うけど、この一時間ちょっとの時間で何を調べろっていう訳ぇ?バイクとばしてここまで来るのが精いっぱい。」

「じゃあ、お前は、この一時間、何やってたんだよ!」

「だから、バイクを、とばしてたって言ってんじゃんっ。」

「お、お二人とも落ち着いて・・・・。」

 春姫の仲裁も空しく、二人の口論はあれよあれよという間にヒートアップしていく。

「おれ、寝たの昼の十二時なんですケド。誰かさんが仕事手伝わないから。三時間しか寝てないんです。」

「おい、俺がさぼってるみたいに言うんじゃねーよ。それはお前の分の仕事だろ。」

「仕事量が平等じゃぁありません。労働条件の見直しを強く希望します。」

「おおっ、なんだか盛り上がってるねぇ。」

 二人の応酬の果てに、のんびりとした声が割って入り、春姫がその声の主に視線を向ければ、

「了助さん!」

「やっほ、春姫ちゃん。」

 時間にしておよそ一時間半ぶりの再会。それなのにとても久しぶりに了助の顔を見た気がする。そしてなぜか、知らない土地で知人に会った時の様な妙な安堵感が春姫の中に生まれた。さっき出会ったばかりの、ビジネス誘拐犯だというのに。

 春姫は自分の感じている安心に警鐘を鳴らしながらも、了助に問いかける。

「あの、了助さん。大丈夫だったんですか?さっきの車。」

 さっきの車とは勿論先刻了助と見事なカーチェイスを披露してくれたあの黒いミニバンのことである。そこは勘違いされることなく了助には伝わったようであったが、彼は涼しい顔で頷く。

「うん。とりあえず平気だよ。事故ってないしね、お互い。」

 そういうことを聞いているのではないのだが、とは思いつつ、事故を起こしていないことは幸いだと春姫は引き攣りながらも笑顔を見せた。

「ま、まぁ、お怪我はなさそうで・・・。」

「そうだね。あ、春姫ちゃん、これ。」

 にっこり会話する了助が、右手に持っていた袋を春姫の方にグイッと突き出した。

「あっ。」

 中身は家から持ってきたフィナンシェである。どうやら、車から降りる際に置き忘れてしまったらしい。春姫は了助から袋を受け取り、そっとテーブルの上に置いた。

「ありがとうございます。」

「なにそれ?」

 一連の出来事に、神夜との言い合いを永遠と続けていたカイがそれを中断して不思議そうに聞いてきた。答えたのは了助である。

「春姫ちゃんが車に忘れたみたいで。フィ・・・まぁ、焼き菓子だよ。」

 神夜の隣にゆっくりと腰を下ろしながらそう言う了助に、春姫は小声で「フィナンシェです」と訴えた。了助は「それそれ」と、何故か満面の笑み。対照的に神夜は白けた顔でフィナンシェと春姫を交互に見つめる。

「へぇ。どうでもいい。本題に戻すぞ。」

「あれ、おれたち何の話してたんでしたっけぇ?」

 カイが本気のモードで首を傾げる。神夜の方も二人で喧嘩した記憶は遠い昔に置いてきてしまったようで、同じように首を傾げていた。

 まじですか、この二人。

「えーと、確かぁ。」

「あれだよ、あれ。春姫ちゃんをどうするかね。」

 記憶を遡り始めたカイを了助が強引に軌道修正させる。いささか強引すぎな気もしたが、二人とも「それそれ」と言ってまんまと術中にはまった。そんな話は欠片もしていなかったのに、と春姫は少々引き気味。

 慄く春姫を他所に、見事不毛な諍いを諫めてみせた了助が早速本題・・を進める。議題は、春姫をどうするか。

「ハルちゃんには自宅に帰ってもらえばいいんじゃないの?」

「ばかやろ。二日間預かる・・・契約になってんだよ。今、帰したら全てパーだろ。大問題だろ。」

 カイの提案に即異を唱えた神夜に、了助はその塩顔とも呼べる万人受け間違いなしの顔を怪訝なものにした。

「神夜の発言の方が大問題だよ。この自分勝手。」

 非難の声を上げる了助の隣で、神夜は大きく欠伸をして聞き流しているようである。春姫にはこの三人の関係性や共通点というものが全く分からなかった。一体どうしたら、こんなにもキャラの違う個性的な人たちが集まるというのか、甚だ疑問である。

 そんな中、場違いなのは百も承知していた春姫だったが、自分にも大きく関わってくる議題のため、思い切って質問してみることにした。

「あの、二日間の契約って?」

 問われた三人は謎のアイコンタクトを繰り返し━━━━多少テーブルの下で醜い争いをした結果、答えたのは了助だった。

「僕らの仕事については神夜から聞いたんだよね?・・・・・その依頼内容の中に、二日っていう決められた期間があって。この二日間は春姫ちゃんを誘拐しときますね~って、まぁ、そんな感じかな。」

「はぁ。」

 なんともはた迷惑な契約があったものである。とりあえず、次に父親に会った時には相当に文句を言ってやろうと春姫は密かに誓った。

呆れ半分の春姫の声に、隣に座るカイが「ははは」と乾いた笑いを漏らす。神夜は相変わらず不機嫌面でアイスコーヒーの入ったグラスを手元に寄せたり離れたところに置いたりと意味不明な行為を際限なく続けていた。

やっぱり、この人おかしい━━━━

 思いつつ、春姫は一呼吸置いてからすっと前を見つめる。

「でも、もう私はこの誘拐の意図するところを知ってしまったわけですし、今回は失敗したということで。私はもう・・・・。」

「失敗ぃ~?」

 まくしたてようとした春姫の言葉を、神夜の妬まし気な声が遮った。目の怖さといったらもう、毒蛇そのものである。

「ふざけんなよっ。誰が失敗だなんて認めるか!」

 興奮しているらしい神夜のテンションに、春姫もいいだけのせられてしまう。

「認めてください。失敗は、失敗でしょう!」

「トラブルになっただけで、まだ失敗じゃないっ。」

「往生際悪っ。」

 お互いに引き下がることなく熱が入り、声もどんどん大きくなっていく。周りのお客や店員の視線が集まってくるので、了助が仕方なく間に入った。

「失敗した、してないは今は置いておこうよ。とりあえず、現段階では危険要素がありすぎて春姫ちゃんを一人屋敷に帰すなんてことはできないんだ。」

 了助にそこまで言われては、何も返す言葉はない。春姫は黙って俯いた。しかし、神夜の熱はそんな言葉では冷めることはない。春姫に対する文句が止まらない。

「だいたい、俺らの仕事は小学生以下対象なのに。何が悲しくて口の悪い高校生なんか。あーあ、完全に貧乏くじ引いたな。」

「神夜、言い過ぎ。」

 遠慮なく悪態を吐く神夜を、了助が静かに窘めた。が、時既に遅し。

 この場に流れる、不穏な空気と予感。

「・・・・ああ、泣かせちゃいましたね。」

 カイが言いつつ楽しそうなのは若干疑問だったが、その言葉に神夜は多少顔色を変えた。

「なっ。」

「あ、いえ、泣いてません。」

 一瞬慌てた神夜だったが、光の速さで繰り出された春姫の否定に、「なんだよ」と小声で言って頬杖をついた。

 確かに、全部巻き込まれただけであるのに一方的に責められるのは悔しいが、別に泣くほどではない。そう思ってしっかり顔を上げた春姫に、了助は微笑みを向けて「じゃあ」と新たに切り出した。

「まずは場所を変えよう。車がまだそのままだし、追ってきた奴らに見つかる前にね。カイ、バイクだよね?」

「うん。」

「じゃ、春姫ちゃん乗せて先に戻ってて。僕と神夜は車を他に置いてくるから。」

「りょーかい。」

 脱線することなく順調に話を進めていく了助はさすがとしか言いようがない。春姫は胸中で感嘆の声を上げつつ、今の二人の会話から察するにここからはカイと行動するのだろうと安堵した。毒蛇やろーとではなくて良かった。

 春姫は目の前に座る毒蛇やろーをちら、と盗み見た。相変わらずの表情で、春姫の視線に気が付くとそのまま睨み返して━━━━こなかった。神夜はすぐに視線を外して、それから眉間の皺を少し濃くしただけだった。

 なんだか、拍子抜けである。

 首を傾げた春姫の隣で、カイがすくっと立ち上がった。

「よし、ハルちゃん。行こうか。」

「え、あ、はいっ。」

 咄嗟に我に返った春姫はテーブルの上のフィナンシェの入った袋を握りしめて、先にどんどん歩いて行ってしまうカイの後を追う。すると、神夜が「カイ」と呼び止めた。カイが振り向く。

「何か?」

「まぁ、なんだ、気をつけてな。」

 そう言う神夜の目線はどこかに外れている。

 急にそんな言葉をかけられたカイは、悪戯っ子のように笑ってみせた。

「わあ、珍しい。ひょっとして神夜さん・・・・」

「余計なことを言う前にさっさと行け。」

 からかい口調のカイに皆まで言わせず、神夜は虫でも追い払うかのようにしっし、と手を振った。それに「はいはい」と答えて店出入り口に向かうカイを、今の会話は何だったのだろうと思いながら春姫も急いで追いかけた。

 追いつくと、カイが小声で、

「楽しいね。」

 と言ってきたので、それには一応、

「全く。」

 とだけ返しておいた。

 やはり、この人もおかしい。


 目の前のアイスコーヒーは氷が大分解けてきて薄い色になっていた。グラス周りの水滴も、尋常ではない。グラスをつたってテーブルに辿り着いた水滴が、丸い円を描く。

「神夜、僕らも行こうよ。」

 斜め上から降ってくる了助の声。目線を向ければ、こちらの顔を覗き込むようにして了助は立っていた。神夜は「ああ」と答えながらも、腰を上げる素振りを見せない。その様子を、了助は立ったままじっと見つめる。

「・・・・なんだよ。」

 さすがに気になって聞いてみれば、了助は「いや」と前置いてから続けた。

「後悔してんのかなぁ、と。」

「何をだよ。」

いろいろ・・・。」

 全く、敏くて意地の悪い奴は嫌いだ。

 そう思いながら深いため息を零す神夜の腕を、了助が無理やり掴みあげて立たせようとする。

「おい、腕を引っ張るな、腕を!」

 かなり強引に立たせられ、神夜は太ももをテーブルにぶつけた。弾みでテーブルの上の物が短く音をたてる。そんなことは気にもせず、今の了助はかなり神夜に対して雑だった。

「時間ないんだよ、早くして。あ、お会計もしてきてよ。」

 了助に背中をバンバン叩かれ、神夜も渋々歩き出す。手にしたオーダー表には「アイオレ1」「アイコー1」と書かれている。

「次はアイスカフェオレにするか。」

 神夜の呟きを聞いたものは誰もいない。


 カイの背中を見ながら慣れない揺れに身を任せることおよそ四十分。春姫はヘルメットを外して軽く頭を振った。外の空気が涼しく感じられ、春姫は汗ばんだ額にへばりつく前髪を即座に直し始める。そうしながら前方に視線を向ければ、そこにはこぎれいな二階建てアパートがあり、バイクを所定の位置に停めたカイが迷わずそのアパートの階段を上がっていく。その途中で棒立ちになっている春姫に気付き、おいでおいでと手を招いた。それに従って春姫も同じように階段を上る。アパートの二階にはドアが四つあり、カイはその一番奥の部屋の鍵穴にポケットから出したカギを差し込んだ。

 ガチャリ、と音が鳴り、カイの手によってドアが開けられる。

「ハルちゃんもどぉぞ。」

 中に入りながらカイが春姫に声をかけてくる。春姫は「お邪魔しますと」言いながら恐る恐る部屋に足を踏み入れた。

「狭いけど、勘弁してね~。」

 言いつつ、カイは床に散らかった書類やら洗濯物やらを雑に足でどかしていく。

 確かに、狭いことは狭い。しかし、それよりなにより散らかりぶりが凄まじい。春姫は玄関横のシンクにたまった食器や弁当の空容器に白い眼を向けながら靴を脱いだ。

 部屋の造りは見たところ2K。部屋の惨状から察するに、居間(っぽい部屋)と寝室(っぽい部屋)といった感じか。

「カイさん・・・・の、部屋ですか?」

 カイのことをなんと呼べばいいのやら戸惑いつつ曖昧に問いかけると、カイは「カイでいいよ」と先に言ってから答えた。

「一人じゃァないよ?神夜さんも一緒。というか、おれが居候?してる?みたいな?」

 春姫以上の曖昧さで答えたカイに、春姫の顔が引き攣る。男の二人暮らし━━━━

「一応、了助くんもだけど。あの人、すぐ車でどっか行っちゃって帰って来ないんだよねぇ。」

 春姫の気も知らず、しみじみと言って部屋を片付けるカイ。片づける、と言っても散乱するものを部屋の隅へと寄せているだけだが。カイは見た目に寄らず大雑把な性格のようで━━━━いや、服装だってジャージで、およそ繊細さはない。人形顔負けの容姿にばかり目がいっていたが、茶色の髪は見事に跳ねていてぼさぼさだ。見た目に寄らずというか、見た目通りの行動だったようだ。しかし、その類まれなる器量の良さから、ジャージはブランド物に、跳ねた髪はあえてそうセットしたかのように見えてしまう。美形は得だな、と春姫はそっと思った。

「よし、これでスペースができたかなぁ。」

 座布団を雑に放り投げ、手をぱんっと叩いてからカイがこちらを振り向いた。その表情はやはり、見とれるほどの美術的微笑み。その時価数千万はしそうな笑みのまま、カイが春姫に座るよう促すので、抗う術もなく座布団の上に座り込んだ。

「しばらくすれば二人とも戻ってくると思うから。それまでお茶でも飲んでよっか~。」

 自由気ままな提案をのんびりとした口調で言ってカイがお茶の準備を始める。その様子を、春樹は不思議な気持ちで見つめていた。

 遡ること約三時間半前。いつもの土曜日のように、庭で爽やかに読書をしていたはず。それが、謎の青年に誘拐(それに気が付いたのはもう少し後ではあったが)され、謎の毒蛇やろーとお茶しながら口論をし、今では謎の美術品(のような人)と知らないアパートの一室にいる。充分、危険と判断してよい事態。しかし、困ったことに一番厄介だったのは、この事態にして未だに春姫の警戒心レベルが上がるどころか微妙なまま停滞していることである。

 不安はあるのだ。それがどうしてか、神夜にも了助にもカイにも、警戒心がいまいち働かない。ひょっとしたら春姫の父親も、この娘の目も当てられないほどの危機管理の無さを嘆いて、小学生以下対象なのにも関わらず、無理に神夜たちに誘拐の依頼をしたのかもしれない。

 と、ここで思い出さなくてもいい先刻の神夜の台詞を思い出してしまう。

━━━━何が悲しくて口の悪い高校生なんか。あーあ、完全に貧乏くじ引いたな。

 脳内で再生された声に、春姫の怒りの熱が急上昇した。

「何が『口の悪い高校生』よっ。自分の方が数百倍口悪いくせに、貧乏くじとか。だったら最初っから依頼を断ればよかったのに!」

 そうだ、断ってくれればよかったのだ。そうすれば、こんな面倒には巻き込まれなくて済んだのに。ビジネスとか言ってたからどうせ、お金を積まれて納得したに違いない。あの毒蛇やろーのことだから、絶対そうだ。

 負のオーラを放つ春姫に苦笑しつつ、カイがお茶を淹れて持って来る。夏なので、透明のコップには氷が二つほど入れてくれてあった。お茶の色は薄緑だったので、緑茶かなと推測をつけた。小さなちゃぶ台にそれを置きながら、カイは春姫を窘めにかかった。

「まぁ、口は確かに悪いよね~。でも、仕事に対しては結構誠実なんだよぉ?今回のもさ・・・。」

 続くはずのカイの声は勢いよく開けられたドアの音によって阻まれた。

「あっち~。あのくそオヤジクーラーぶっ壊れてる車寄越しやがって!暑苦しいのは顔だけにしろ!」

 部屋に入ってくるなりテンションマックスで暴言を吐いたのは今しがたしていた話の中心人物、神夜である。その両手にはなぜかスーパーの袋。

 状況をつかみきれない春姫の横で、カイが普通のテンションで声をかける。

「お帰りなさい、神夜さん。」

「あれ、了助さんは。」

 紛れるようにカイに続けて春姫が神夜に問いかける。その長身の後ろに了助の姿は確認できない。神夜は両手の荷物を台所前の床に置きながら答えた。

「あいつは情報を集めに行った。すぐ来るだろ。その間に飯だ飯。」

「やった。買ってきてくれたんですね、晩御飯。」

 いつの間に場所を移動したのか、カイが台所の方でスーパーの袋の中身を物色している。そんなカイに、神夜はネクタイを緩めながら呆れ顔。

「焼きそばしか買ってきてねーぞ。」

「さすが神夜さん。スーパー富麿の超大盛コーナーの定番で来るとは。最高です。」

 ひとり感銘を受けているカイに神夜は「あ、そう」と反応する。春姫も正直同じ気持であったが、毒蛇やろーと同じというのも癪だったので口には出さなかった。代わりに、下から神夜を睨む。

 それに気が付いた神夜は、今度はあのカフェでの別れ際のように目を逸らしたりはせず、しかし睨み返してもこなかった。ただ、春姫を見下ろしながら訝しみの表情を浮かべている。

「・・・・何。」

「いえ、別に。」

 ぷいっと顔を背ければ、今度こそ神夜のいらだった声が降ってきた。

「何なんだよ。いつまで機嫌の悪さ引きずってんだよ。」

「機嫌が悪いのは、お互い様です。」

「っとに可愛くねぇ!」

 またもや始まりそうになった応酬は、カイの「まぁまぁ」という気の抜けた仲裁により一時休戦となったが、春姫の虫の居所は悪いまま。それは神夜も同じらしく、ふんっと鼻を鳴らして天井を仰いだ。

 ばちばちの空気感の中、もはや空気が読めないのではないかと疑ってしまうほどの場にそぐわない種類の声色でカイが話し始める。

「今のところハルちゃんの中の神夜さんの株って、下がりっぱなしですもんね。」

 焼きそばのパックを三つ抱えて運びながら的確な情報を口にする。

「相当嫌われてるみたいですけど、二人きりの時に何かしました?」

「してねーし。好かれたくもない。」

 つっけんどんにそう答える神夜に、カイは小さくため息を吐いた。

「また、そんなこと言ってぇ。さっきも人がせっかくフォローしてあげようと思ったのに、自分で邪魔しちゃうし。哀れですね。」

 カイに含み笑い付きで言われ、神夜腑に落ちないといった表情をしつつ、無言でその場に胡坐をかいた。そのままカイから焼きそばの人パックを貰う。続いて、春姫も。

 ━━━━って、量多すぎ!

「こんなに食べられません。」

 春姫は自分の前に置かれた焼きそばを指さしながら訴えた。ビックサイズの焼きそばのトレー(×3)のおかげで、小さなちゃぶ台の上にはもう何かを置くスペースはない。

 春姫の訴えに、カイは本気で首を傾げた。

「そう?食べられるもんだよ。おいしいし。」

 何の根拠もないカイの言葉に続いて神夜が、

「食べられるだけ食べたら残せ。了助に回す。」

 と言うので春姫は心配になった。

「了助さんの分、ないんですか?」

「お前が残した分があいつのだ。別に無理して残すことないけどな。」

 いやいや、完食の方が無理がある。というか、残り物ではあまりに了助がかわいそうだ。春姫の目には唯一、働いてるように見えるというのに。

 というか、この人たちはこの量を食べられるの━━━━

 戸惑う春姫のことなどおかまいなしにさっさと食事を始め、機械のように箸を動かす神夜とカイ。そんな二人をやや冷めた目に映しつつ、春姫も焼きそばのパックを開ける。割り箸をカイから受け取り、一口食べてみた。

「あ、おいしい。」

「でしょ。」

 春姫の素直な感想に、カイは例によって芸術的笑顔を浮かべた。お徳用品だとバカにしていたが、侮れない。ろくに焼きそばを食べたことなどなかったが、これは意外な発見だ。感心しながら箸を進めていくうちに、結局一人で半分以上食べてしまった。神夜とカイに至っては完食である。

 食後のお茶を飲む春姫に、神夜は意地悪そうな笑いを浮かべた。

「食べられないとか言ってたわりに、食べたな。」

「う、うるさいです。」

 神夜に的確にツッコまれ、春姫の威勢も少しだけたじろぐ。

「あ、でも、了助さんの分がこれだけに・・・。」

 半分以上が消えたトレーの中を見つめながら、春姫の表情が少し曇る。元の量が量なので、まだ普通に一食分にはなる量の焼きそばは残っているが、神夜とカイはそれぞれ一パック完食してしまっているので、了助にはこの量は少なすぎるかと不安になった。

 険しい顔つきで焼きそばを見つめる春姫を、神夜が鼻で笑う。

「あいつは燃費いいからな。お前より食べないぞ、きっと。」

 からかう神夜に「うざ」と小さく返して、春姫は三角座りした膝を両手で抱え込む。全く、この男にはデリカシーというものがないらしい。ふくれっ面の春姫を見て、空のトレーを台所側のゴミ箱へ捨てに行ったカイが苦笑気味に神夜の話を引き継ぐ。

「了助くん、小食ですもんね。残したらおれ、食べてもいいですかぁ?」

「好きにしろ。」

 神夜の返答に喜びを露わにするカイに春姫は絶句した。線が細いわりに大食いらしいカイ。一体そのスレンダーな体のどこに吸収されているのか。

 疑いの目でカイを見ていると、神夜がジャケットを脱いでワイシャツのボタンを三つほど外しながら台所に向かって手招きした。正確には、カイに向かって。

「カイ。仕事、しーごーとっ。」

 呼ばれたカイの眉が見事なハの字になる。

「またですか。たまには神夜さんやってくださいよぉ?」

「適材適所。」

 勝ち誇るように言う神夜に「調子いいんだから」と肩を竦めて漏らしながらもカイは神夜の斜め前にさっと腰を下ろす。

「明日、こいつを家に帰すことになったから。お前が送ってけ。」

 神夜がそう言って指さしたのは春姫である。カイは驚いた顔をしたが、それは春姫も同じだった。

「え、私、帰っていいんですか?」

 願ってもないことであるが、カフェで交わした話とはだいぶ異なるため春姫も困惑した。そんな春姫の問いかけに、神夜はこちらとは目を合わせずに「ああ」と短く答えて更に続ける。

「了助が持って来る情報にもよるが、犯人はお前狙いじゃないっぽいし。なら帰しちまった方が邪魔にならないからな。」

 邪魔とは失敬な。勝手に誘拐しといて何様だ。

 そんな春姫の心の声が聞こえたかのように、カイがやれやれと首を振る。

「本当に神夜さんてぇ、損な性格してますよね。おれ、なんか涙が出てきそうです。」

「そんな白けた目のどっから涙が出てくるんだよ。」

「素直な人にだけ、見える涙です。」

「お前が素直言うなっ。」

 不毛な争いをする神夜とカイを見つめ、春姫はもう完全に傍観者。この二人、何回喧嘩すれば気が済むのだろう。

 喧嘩、というよりは神夜が一方的にうるさいのだが、それでもよく続くと思う。先刻から神夜と口論しまくりの自分のことは棚上げ状態の春姫である。

 ただ、春姫と神夜の場合には了助やカイが止めてくれるのでそこそこで休戦となるが、神夜とカイの場合はそうもいかない。春姫が間に入っても無力であるだろうし、二人を仲裁できそうな了助は今この場にはいない。したがって、この二人の喧嘩は永遠と続くのだ。

 そうして喧嘩の内容があっちこっちに飛び回り、最終的にはただのお互いに対する悪口大会になった頃、ようやく仲裁役の了助が帰ってきた。

「仲裁役っ。」

「え、何その呼び方。」

 帰って来ていきなり春姫に謎の呼称で呼ばれ、了助は困り顔で靴を脱いだ。その手元には、ワインレッド色のキャリーバックの持ち手の部分が握られている。何だろう、とは思ったが、今は先に優先すべきことがある。

 春姫は了助を手招きしてから、未だ口論し続ける神夜とカイの方を指さした。

「了助さん、この二人をなんとかしてください。」

 悲痛な声でそう言えば、了助は自身の黒髪をかき回しながら「あーあぁ」と呆れた様子。しかし、その瞳にはなぜか母親の様な温かみがある。

「はいはい、二人ともそこまで。僕が帰ってきたよ~。」

 若干棒読みの了助の言葉で、初めて彼の帰宅に気が付いた神夜とカイがそれぞれ了助に向かって口を開く。

「了助くんお帰りなさい。神夜さんが酷いよぉ。」

「どっちかってーと、カイの方がひでぇからな。」

 寧ろ二人の哀れな言い合いそのものが酷いと思うのだが、春姫はそれを口にはできない。口にしたら、怒りの矛先がこちらに向きそうで厄介だ。できれば、最後まで傍観者に徹していたい。

「だいたい、神夜さんが横暴だからでしょお?おれに関しては、しかたなくだよ。さんざん貶されたしぃ。」

「それは、お前が俺を貶すからだろっ。」

「だって、神夜さんが。」

「だって、カイが。」

 まるで、子供の喧嘩だ。目も当てられない。この幼すぎる争いを了助がどう収めるのか春姫は興味津々だった。

 やがて、了助が口を開く。と同時に、春姫の期待も高まった。

「プリン買ってきたんだけど、食べる?」

「は?」

 全く予想もしていなかった言葉に、春姫だけ間抜けな声を発した。呆気にとられる春姫に構わず、了助がどこに持っていたのやら、コンビニの袋から宣言通りプリンを四つ、空いたちゃぶ台の上に並べていく。

 春姫はまさかと思った。こんなことで喧嘩が止まるわけがない、と。

 しかし、

「あ、このプリン最近発売したばかりのコンビニ限定品ですよね。」

 ケロッとそういうのはカイである。

「近頃はコンビニスイーツも侮れないよな。」

 そう言って感心したのは神夜。二人の興味は完全にプリンの方へと向いている。

 認めない。私はこんなので仲裁になるだなんて認めない!━━━━

 春姫の胸中での反発も虚しく、神夜とカイの口論は終焉を迎えた。良いことだけれども、何か違う気がする。

「春姫ちゃんも食べる?」

 了助にプリンとスプーンを差し出され、反射的にそれを受け取る。神夜とカイにつられて蓋を開け、一口。いや、おいしいけれども。春姫はスプーンを持ったまま了助を仰ぎ見た。

「どうして、プリンで喧嘩が止まるんですか?」

 小声の問いに、了助は神夜などとは違って素直に、且つ無遠慮に答えてくれる。

「この二人は基本、食べ物を与えとけば機嫌いいから。」

 完全に飼い馴らされている、とは思ったが口にはできず、春姫はそれ以上は質問することは止めて静かにプリンを完食した。


「で、どうだった。」

 神夜は先刻まで繰り広げていたカイトのくだらない口論の記憶を捨て去り、神の所業を成し遂げたプリン様をたいらげた頃に漸く大事なことを思い出したようだった。即ち、これからどうするかということ。

 どうだった、と聞かれて答えたのは当然了助である。

「やっぱり、春姫ちゃんは一度お家に帰そう。犯人らしき奴らが僕らのこと嗅ぎまわってる。一緒にいたら危ないかも。」

 妙に真剣みを帯びた了助の顔や口調で、四人の間の空気は一気に温度を下げた。続く長い沈黙に、春姫は生唾を飲んだ。先ほどの焼きそばとプリンが体の中で化学反応を起こしたかのように、きりりとした。

 沈黙を破ったのは、神夜である。

「わかった。じゃあ、朝方五時にこいつを帰す。カイ、ルートの確認。」

「任されました。」

 神夜に言われてカイがそこらに埋もれていたパソコンを引きずり出す。電源を入れてからの作業は春姫には理解不能だった。

 完全に話においていかれた春姫に、了助があの謎に包まれたキャリーバックを寄越してきた。訳がわからず、了助に目で訴えると、彼はにっこりと笑った。

「これ、春姫ちゃんのお家の人から預かってたもの。二泊するのに必要なものは入ってると思うから、お風呂行っておいでよ。ちなみに、僕らは中身までは確認してないから。鍵は・・・・神夜。」

 そう言って了助が神夜に鍵を要求する。神夜は「ああ」と冷めた返事をしてスーツのポケットから小さな鍵を出し、了助に雑に放った。それを見事キャッチした了助はその鍵を春姫に手を取って握らせる。

「本当はちゃんとした宿泊施設を用意してたんだけど、今となっては危険だから。ごめんね、こんな汚いところで。」

「他人の家を汚いとかいうな。」

 了助の言葉に、神夜が取りこぼすことなくツッコミをいれる。が、了助はそれを完全スルー。更に追い打ちをかけるのは目線はパソコンの画面に向いたままのカイだ。

「大丈夫、おんぼろアパートだけど、なんと風呂トイレ別だから。」

「だから、ここ、他人ん家!」

 全力で噛みつく神夜に、春姫は思わず笑ってしまった。怒られるかな、と思ったけれど、特に何も言われなかったので遠慮なく笑い続けた。この三人のやり取りは、春姫にとって既に慣れ親しんだものになっていた。本当に、不思議なことだけれど。

「それじゃあ、お借りします。」

 春姫はぺこりと頭を軽く下げた後、キャリーバックとその鍵を持って了助に風呂場を案内してもらう。風呂場の中は狭かったけれど、カイが言った通りトイレとは別で、他の部屋よりかなり綺麗に保たれていた。

「今日はいろいろあったから、ゆっくりね。」

 そう言って了助がその場を離れていく。本当に、いろいろあった。いろいろありすぎて、庭で読書をしていたのが昨日のことのように感じられる。随分と危険な場面もあった。神夜とも沢山言い合ったし、訳の分からない展開のオンパレードだった。ある意味、かなり濃密な一日だったと言えよう。

「でも、明日には家に帰れる。」

 キャリーバックの中身を確認しながら、一人そんなことを呟いた。中には着替えやタオル、シャンプー類まで入っている。歯ブラシを見つけた時は、お泊り会かと少し笑った。急いで服を脱ぎ、シャワーで体を洗い流す。浴槽にはいつの間に準備したのか、湯が張られていて、驚きつつも浸かることにした。少し集めの湯に、肌がじりじりする。ゆっくりと手足を伸ばしていき、今日一日の疲れを存分に癒す。

 とここで、どうでもいいことに思い至った。春姫が風呂に入った後は、当然他の三人も入るだろう。春姫が浴槽に浸かってしまってよかったのだろうか。一抹の不安を抱えながらそそくさと風呂場を後にし、脱衣所でふわふわのタオルで前進と髪を丁寧に拭いてから居間へと戻った。

 戻るとすぐ、春姫の耳に思考を遮る大きめの音が響いた。何事か、と居間を見回すと、カイが部屋の隅でテレビを見ている姿が目に入った。なにやら格闘技系の映像が流れているらしく、カイはテレビに非常に近い位置でそれを観戦していた。

「カイ、テレビに近すぎ。もっと離れな。」

「はーい。」

 部屋の中心で焼きそばを食べていた了助が、まるきり母親が言う注意を口にする。その様子を、テレビから一番離れたところにいる神夜が白けた目で見つめていた。

 立ち尽くす春姫に気が付いたのは了助で、すっと箸を止める。

「春姫ちゃん、お風呂上がったの?布団敷かなきゃ。カイ、お風呂入っといで。明日は早いからさ、とっとと寝るの。」

「お前は母ちゃんか、それともばあちゃんか。」

 神夜が春姫の心を代弁してくれた。了助は心外だ、という顔をしていたが、この場面を見せられれば誰だってそうツッコみたくなる。

 タイミングよく番組が終わったらしいカイが、その辺から着替えを探し出してすくっと立ち上がった。

「じゃ、お風呂先に失礼しま~っす。」

 風呂場へ駆け込むカイに、春姫は大事なことを思い出す。

「あ、あの。私、湯船浸かっちゃったんですけど・・・・。」

 遠慮がちに言うと、了助は「ん?」という顔をしてから何か気が付いたように微笑んだ。

「ああ、カイか神夜がためたんだね。いいよ、あの二人、夏は基本、湯に浸からないから。」

 はぁ、と答えるしかない春姫とは離れた場所で、風呂場に駆け込む途中だったカイが神夜の足を踏んでしまったらしく、神夜が渋面を作っていた。

「お前、わざと踏んでっただろ。」

 低い声で凄む神夜に、カイは相変わらずである。

「まさかぁ。神夜さんの長いおみ足が目に入ったもので、ついね。」

「なにが長いおみ足だ。てか、ついねって今言っただろ、やるか?」

「上等です。」

 両者一歩も引かないこの何度目かになるいがみ合い。拳を握りしめる神夜が目に入り、春姫はそっと台所へと避難した。全く、この二人は懲りるというふうにはならないのだろうか。

 神夜とカイが相手の出方を探り合って静止しているうちに、最早ポジションが完全に母親である了助の厳しい声が飛んだ。

「カイ、いちいち神夜に絡まない。神夜も、いい加減凝りようよ。また気絶するよ?」

「き、気絶?」

 思わず声が出てしまった。神夜が、気絶。想像もできない。

 了助の指摘に、神夜は表情を曇らせた。

「机の角に頭ぶつけただけだろ。こいつ、室内で技かけるから。」

 指さした先は勿論カイである。そのカイは、神夜の言葉に少々不満顔で口を挟む。

「新技だからって、練習台になってくれたんじゃないですかぁ。」

「あーあぁ。そうでした、そうでした。」

 カイがそう責めれば、神夜は戦意喪失したらしく、大人しくその場に横になった。それからカイが風呂場へ行くのを見届けて、了助が布団の用意を始める。春姫はその背中にそっと問いかける。

「あの、カイさんて強いんですか?」

「ん?ああ、ちょっと格闘技好きが過ぎてね。押し入れの中とかそれ系のDVDでいっぱい。それ見て技を覚えてるっぽいよ。」

 若干呆れた口調の了助は、最後に乾いた笑いを漏らした。どうやら、手に負えないレベルであるらしい。春姫が「そうなんですか」と相槌を打つと、了助は笑顔を向けてきた。

「騒がしくてごめんね。でも、明日にはお家に帰れるからね。」

 優しく言われて、春姫は黙って頷くしかなかった。

 そうだ。明日には帰れるのだ。この危険極まりない不自然な誘拐は今日一度きり。きっと明日からはいつもと変わらない毎日が始まり、月曜には普通に学校に通って友人と笑いあっているのだ。

 ただ、この状況が、まるっきり楽しくなかったと言えば嘘になることは春姫にもわかっていた。心臓が止まるほど緊張した了助のカーチェイス、神夜のよくわからないアイスコーヒーへの熱意、その神夜と永遠口論し続けるカイ。混乱する頭の隅で、どこかそれを楽しんでいた自分は確かに存在していた。この人たちと別れることが寂しいと思うほどまでではないが、つまらなくなるかもという考えもあった。もう少し、この非日常的感覚を味わいたいという春姫の中の好奇心というものが柔らかくくすぐられている感覚。

 自分の中のそういったものに、一人怪訝な顔をする春姫には気づかず、了助が布団を敷き終えてもう一度笑顔を向けてくる。もう見慣れて、親しみすら覚える笑顔だ。

「狭いから隣近いんだけど、なるべく離しておくからね。おやすみ。」

 普通、この状況で少女が一人、無防備に寝ることなどできなさそうなものなのに、なんとなくこのメンバーなら平気かなと納得してしまう春姫はやはりどこか頭のネジが緩んでいるか外れているのだろう。

了助が少し離れた位置に布団を二枚並べていく。それを見て、居間で寝転がったままの神夜が声を上げた。

「布団足りねーじゃん。どーすんの。」

 ごもっともな疑問に、了助は涼しい顔。

「雑魚寝。」

「誰がだよ。」

 了助の返答に、既に雑魚寝状態の神夜が嫌そうに寝返りをうつ。居間と寝室は一続きなので、春姫から神夜の姿はよく見えた。それは向こうも同じようで、寝返りの拍子に目が合ってしまう。

「明日は四時起きだからな。お子様はとっとと寝ろよ。」

「お子様じゃないです。」

 神夜に鋭く返して、春姫は布団の中に潜り込んだ。しばらくすると、

「まったく、神夜は・・・・。春姫ちゃんのテンション上げさせないでよ。眠れなくなっちゃうでしょ。」

 という了助の母親発言がくぐもって聞こえてきた。


 実際、なかなか眠ることはできなかった。原因はよくわからないけれど、一日にこれだけのことがあって普段通りぐっすり眠れというのも無理な話で、春姫は布団の中で無意味に寝返りを繰り返した。春姫が横になった部屋の電気は消えていたが、仕切りのない隣の部屋の明かりはまだついているのでそれも眠れないことに影響しているだろう。

 テレビの音や神夜と了助の会話が微かに聞こえてくる。内容を理解することができないくらいには睡魔に襲われていたが、ぎりぎり意識を保てる状態が続いた。

 そして、ついには、

「あれ、ハルちゃんまだ寝てないの?」

 近くでカイの声。ゆっくり顔だけそちらに向ければ、そこには予想違わず美麗な微笑みが暗い中でも確認できた。眠い目も覚めるというものである。

 春姫は横になったまま体ごとカイの方へ寝返りをうった。するとカイは一メートル程離れた位置に敷かれた布団に仰向けになるところで、春姫の視線に気が付いて優しく微笑みを浮かべる。

「眠れないの?」

 一言。通常時より、声が低い気がした。春姫は天井に向けてそう言うカイの横顔を見ながら「はい」と小さく答えた。

「こんな汚いとこじゃ、眠れないよねぇ?それとも、緊張?」

「いや・・・・。」

 否定してから、続く言葉を脳内検索してみたが、結局一件もヒットしなかった。仕方がないので、曖昧に誤魔化す。

「えーと、はい、まぁ、緊張ですかね。」

 春姫はこれが現実なのか夢なのかわからなくなってきていた。自分の声が自分のものではない感覚に陥って、カイは真に夢の中の住人のような気がしてきてしまう。

「まだ、今の状況が理解しきれなくて。今日が終わったら・・・・明日になったら、全部終わるんだと思うと、じゃあ、今日のは何だったんだろうって。」

「そっか。」

 短く応えたカイに、春姫は自分の言葉の終わりが見えなくなってきていた。

「皆さんのこと、信用しているわけではないのに。会えなくなるの、寂しいとまでは思ってないけど、ちょっとだけいつも通りの毎日が退屈だったのかもって。これまで、そんなふうに思ったことなかったのに。」

 それは真実だった。慌ただしく朝を終え、学校に通って友人と他愛ない話をする日々。庭でゆっくり読書を嗜み、ティータイムの茶菓子を楽しみにする土曜のお昼。全部に満足していた。充実しているとさえ思っていた。しかし、今日の出来事はそれらとは完全に種類が違っていたのだ。毎日がこんなことになってしまうのはごめんだが、こういう日がたまにあるのもいいかもしれないと思っている。

 ずっと引っかかっていた。ビジネス誘拐を通じて奇妙な出会い方をした彼らに、なんの警戒心も働かないのはなにも春姫の所為だけではない気がする。

 意識が完全に自身へと向いていた春姫は、はっと我に返ってカイを見直す。いつの間にか、彼は天井ではなく春姫を見ていた。

「そうかぁ。寂しくはないか。」

「はい?」

「おれは寂しいけど。ハルちゃんがいると賑やかだからね。」

 息の分量の多い喋り方で、そんなことを言うカイに春姫は自身の心臓が飛び跳ねるのを確かに感じた。本当に、これは夢なのではないかと思い始める。

 黙り込んだ春姫に、カイは小さく笑うと「おやすみ」と言って寝返りをうった。もう、こちらから声をかけることはできそうにない。春姫は天井を仰ぎ見た。暗いのと多少の眠気でよく見えないが、部屋の電気が丁度真上にある。

 寂しいと、カイは言った。それはどういった経緯での言葉なのだろうか。今日一日のカイの言動を考えると、どこか嘘っぽいようにも聞こえるし、変に現実的にも聞こえてくる。きっと、その美麗な笑顔のまま洒落にならない冗談を言うくらい、カイには苦も無くできる気がした。それを言ったら了助も、本当は面倒くさいと思っていても、大人の対応で春姫に優しくすることは簡単にやってのけそうだ。神夜は━━━━

「そういえばハルちゃん。」

 薄暗い中、もう眠ってしまったと思っていたカイの声が、春姫の耳に届く。視線を向けると、カイはこちらに背を向けたまま。春姫は沈黙で話の続きを促した。

 カイは相変わらずの色気がこもった声でそっと続ける。

「神夜さんのこと、嫌いにならないであげてね。」

「え?」

 予想だにしていなかった言葉に思わず普通の音量で反応してしまい、春姫は内心ひやっとしながらカイの背中越しに居間の様子を窺ったテレビはついていたが、どういう訳か神夜も了助もそこにはいなかったので、春姫はほっとして小さく息を吐いた。それから、カイの言葉の真意を確かめる。

「どういうことですか?」

「うーん。さっきのフォローの続きってことで聞いてね。」

 フォローとは、このアパートに来たばかりに話が途中になっていたあれのことか。春姫は記憶を探りながら続く言葉を待った。

「ハルちゃんの誘拐ね、実は神夜さんは最後まで反対してたんだよ。どんなにお金を積まれてもできません、ってねぇ?」

「そうだったんですか。」

 春姫は本当に虚を突かれた。神夜が春姫のビジネス誘拐を嫌がっていたことは知っていたが、お金を積まれてもできないと言っていたことには驚きを隠せない。

 カイは春姫に背中を向けたまま、尚も続けた。

「でも、ハルちゃんのお父さんにどうしてもって押し切られて。一人娘だから心配だったんだろうね。それで神夜さん、根負けして今回の依頼を受けることにしたんだ。」

 春姫はもう、何も言うことができなくなった。そんなこと、今言われても困るというのと、それにしたって春姫への対応はいかがなものだったのかといういろいろな思いが交錯して、とても眠れる気がしなくなった。しかし、その点においてカイは一切フォローしてくれない。

「ちょっとしゃべりすぎたかなぁ。明日は早起きだから、本当にもうおやすみ。」

 薄情にもそう言って、春姫を精神的に独りにさせた。薄暗闇のはっきりしてしまった意識を持て余して、春姫は自身の鼓動に耳を傾ける。早さは正常だが、その音はまるで耳のすぐ傍で脈づいているような感覚さえ覚えるほどだった。

 神夜は今、何を思っているのだろうか。今の事態が春姫の所為ではないにしろ、何らかの要因となってしまったことは否定できないはずだ。依頼は断るべきだったと後悔しているか、それとも苛立っているか。恐らくその両方で、春姫への印象は相当悪いものになっているに違いない。それはお互い様なのだが、神夜の気も知らないで暴言を吐いていた自分が随分と子供の様な気がして自分に嫌気がさした。

 その夜は結局、楽しみを前に眠り方を忘れて焦る幼子のように寝返りを繰り返し、春姫は何十分もかけて漸く眠りについた。


 夢の中で、春姫はいつもの土曜の昼を満喫していた。朝寝坊をして、昼食だか朝食だかわからないご飯を食べて、昼過ぎは決まったように庭のベンチで読書。その後はお待ちかねのティータイムで、春姫は当然上機嫌だった。

 瞬間、ティールームのカーテンが風で大きく揺れる。はっとしてそちらを見るけれど、春姫の期待していることは起きず、がっくりと肩を落とした。そこで、はたと気づく。

 自分は一体、何を期待していたのか。考えようとしても、頭の中が固まった粘土のようにうまく言うことを聞いてくれない。

 春姫は夢の中なのに思い通りにならないもどかしさに、一人きりの世界で蹲った。

 

 目が覚めるという感覚ではなかった。ちょっと目を瞑って、開けてみたらタイムスリップしていた、みたいな。正確な時間はよくわからなかったが、まだ朝ではないことは部屋の明るさから容易に見当がついた。

 今が夢の延長線上にある気がした。で、あるというのに、既に夢の内容は波が引いていく様に遠のいていく。春姫はそれを手放したくなくて必死に追いかけるのだが、思い出そうとすればするほど頭は働くことを拒否してしまう。そうこうしている間に、夢の内容はもう手の届かない所へと行って二度と戻ってくることはなかった。

 春姫は暗闇で、半身を起こす。眠りにつく前は居間の明かりが灯っていたが、今はもうそちらの電気も消えている。目が暗順応していき、部屋の構造がなんとなく見えるようになった。横に首を回せば、少し離れたところにカイが先刻と同じように春姫に背を向けた状態で眠っている。呼吸を繰り返す以外微動だにしない彼を、春姫は本当に人形ではないかと一瞬疑った。そんなカイのもう一つ隣に敷かれた布団には、了助が仰向けで眠っている。

 なんだかとても不思議な感覚だった。今のこの状況こそが、夢の中にいるのではないかと錯覚した。

 布団の上に座った状態のままぼーっとする春姫の耳が、静寂の中のさりげない音を拾った。それは本当に遠慮がちで、音を立てた人物がかなり気を遣っていることがわかった。春姫はそっと掛け布団をどかし、その見えない人物に倣ってそうっとその場を移動する。音は、台所の方からしていた。カイと了助の足元をさっと通り抜け、春姫は台所へと向かって顔だけ覗いてみた。

 そこにあったのは、背の高い男の後ろ姿。神夜だ。

 カイと了助は寝ていたので、神夜だろうとは思っていたが、本人がそこにいたらいたで春姫にとっては気まずいものがある。黙ってその後ろ姿を見つめていると、視線に気が付いたのか、ただ単に向きを変えただけなのか、ミネラルウォータのペットボトルを右手に持った神夜が春姫に気が付いて「おおっ」と小さく奇妙な声を上げた。

 向かい合って改めて神夜を観察してみると、彼もなかなかの美形であることが見て取れた。しかし、相変わらずの不機嫌顔がそれを半減させている。

 勿体ない、と思う春姫に神夜は少し眉根を寄せるも何も言ってはこない。もう少ししたら冷たい言葉でも飛んでくるかと身構えるも、神夜はずっと口をつぐんだままだった。それに痺れを切らして、結局沈黙を破ったのは春姫だった。

「なにしてるんですか。」

「水飲んでんだよ。」

 見た通りのことを余計な情報なく答えられ、今度は春姫が黙り込む番になった。もう少し、会話を続ける努力をしてくれたっていいのに。そう思う春姫に、神夜は何を思ったのか冷蔵庫から新しくペットボトルを出して春姫に寄越した。「?」という感情をそのまま表情に出した春姫に、神夜は更に眉根を寄せる。

「眠れないなら、飲めば。」

「あ、ああ、はい・・・。」

 神夜からミネラルウォータのペットボトルを受け取って、春姫は流れでキャップを開けた。一口飲むと、喉が水分を欲していたことに気が付く。続けて二口、三口と飲んでキャップを閉めると、一連の春姫の様子を窺っていた神夜が表情を少しだけ和らげた。ひょっとしたら、神夜は春姫を前に何を言っていいのかわからなかったのかもしれない。わからなくて、でも永遠黙ったまま二人で立ち尽くすわけもいかないと思い、ミネラルウォータを渡してきたのかもしれない。春姫が思う以上に、彼は彼で今のこの状況に緊張している。

 それもそうかと思う。神夜にとってこれは仕事なのだ。失敗したら、そこだけで済む話ではなくなってしまう。カフェで神夜が意地になって失敗を認めなかったことを思い出した。神夜は自分勝手にそう言ったのではなくて、その失敗がもたらす大きな何かを恐れていたのかもしれない。

 再び訪れた静寂を、春姫はどうするつもりもなくなってしまった。このまま朝まで神夜と向き合って立っていることも、今ならできてしまいそうな気がする。朝になって、カイや了助が「何してんの」と言いながら起きてきて、事の成り行きを話すと二人は声を上げて笑うのだ。そんなことを簡単に想像できてしまえるほど、春姫の中でこの三人は馴染んでしまっている。今なら、彼らと別れることを「寂しい」と認めることができるかもしれない。

 目を開けたまま思考がどこか遠くへと飛んでいた春姫だったが、神夜は春姫の思う通りにはしてくれなかった。代わりに、

「後二時間ぐらいだが、もう一回寝とけ。」

 と、目を合わせずに行ってきたので春姫は素直に頷いて布団に戻り、もう一度目を瞑る。

 今度は楽に、眠りにつくことができた。


「ハルちゃん、起きて起きて。」

 朝の目覚めでこんなにすぐに目が冴えたことは今までになかった。しかし、寝起きからこんなに完璧な美術品・・・を見せられたら、誰だって目が冴える。

 春姫を起こしたのは勿論、美麗な笑みを浮かべたカイである。

「カイ、春姫ちゃん起きた?朝ごはんパンでいいか聞いてー。」

 ゆっくりと布団から這い出る春姫のまだ少し頼りない聴覚が、了助の声を捉える。軽く伸びをした後、カイからの確認に頷いて見せ、春姫は目覚めを実感した。時刻を確認しようと時計を探して居間に辿り着く。すると、台所で会話する了助と神夜の姿を見つける。

「ジャムしかねーの?バターは。」

「バター、売ってなかったよ。そういえば最近見ないなー。」

「にしたって、もっと他にあっただろ。マーマレードってあんま好きじゃない。」

「知らないよ、そんなの・・・・あ、春姫ちゃん。おはよう。」

 大人の男がするには随分と可愛らしい会話に微笑みつつ、春姫は「おはようございます」と軽く頭を下げる。上げたところで、神夜と目があった。夜中に会って、それからなのでなんとなく春姫は緊張する。何か言わねば、と思うのだが、言葉は悲しいくらい出てこない。

 そんな春姫に、神夜はいつもの調子だった。

「寝坊だな。三十分の。」

「えぇっ。」

 指摘されて春姫が雑多な部屋の隅にある背の低い棚の上の置時計を確認すると、時刻は四時半を回ったところだった。予定してた起床時間は四時である。

「すみません。」

 恐縮しきって頭を下げると、了助が神夜の脇腹を肘で突いて非難の声を上げた。

「別に、春姫ちゃんは僕らみたいに早くなくていいんだよ。だいたい、神夜だってちょっと起きるの遅かったじゃん、五分くらい。」

「五分くらい負けろよ。」

「やだ。」

 できたばかりのトーストを皿に載せて運ぶ了助に、春姫は駆け寄って手伝いを申し出る。しかし、それは彼にやんわりと断られた。

「ありがとう。でも春姫ちゃん、先着替えといで。脱衣所使っていいから。」

「はいっ・・・・。」

 言われて初めて自分がまだ寝巻だったことに気が付き、春姫は赤面する顔を俯かせて着替えと共に脱衣所へと飛び込んだ。服を替える途中で、洗面台の鏡に映った自分と目があった。寝起きなのもあって顔はお世辞にも良いコンディションとは言えないが、表情はかなり明るい。朝からあんな、なんちゃって夫婦漫才を見せられれば自然と顔も綻ぶというものだ。

 でもそれは今回一度きりのもので、この先一生見ることはない。今日で、この不思議な人たちともお別れだ。後はもう、普段の生活を送っていくだけだ。

 今になって、寂しいという気持ちが心のほとんどを占めていた。ここで手放してしまうには勿体ないくらい、春姫には刺激的なもの。でも、ここで我が儘を通せるほど現実は甘くないのだと春姫はわかっていた。

 着替えを終え、居間に戻るとカイと神夜がトーストに噛り付きながらテレビを見ていた。時間が時間なので、どこもかしこも通販番組しかやっていないらしい。

「わー、すごい。番組終了三十分までにお申し込みの方には、包丁もう一本だってぇ。絶対要らない。」

「その一本の方くれってな。まぁ、包丁に困ってねーけど。」

 実に一般的な意見を述べる二人を交互に見て、春姫はカイの少し後ろに腰を下ろす。気配に気が付いて、カイがトーストを口にしたまま首だけ捻ってこちらを見た。

「あ、ハルちゃん。パンあるから食べなぁ。マーマレードあるよ。」

 カイが進めてくるので、春姫は頷いてちゃぶ台の上のトーストを左手に持ってマーマレードの瓶を手に取る。そういえばマーマレードにケチつけていた神夜はどうしたのだろうと、ちらっと神夜が手にするトーストを見てみると、その上にはしっかりマーマレードが塗られていた。

 なんだ、結局マーマレードじゃん。春姫が苦笑すると神夜は視線に気が付いて、しかし春姫の意図までは読めず、結局眉根を寄せただけで何も言ってこなかった。

 春姫はトーストにマーマレードを遠慮がちに塗り、両手で持ち直して一口かじった。マーマレードの爽やかかつ苦甘い味を舌で味わいながら、しっかりと咀嚼して飲み込む。ちょっと傍観者になった気持ちで神夜とカイの姿を眺め、やはり現実味のない今の状況に春姫は妙な気持ちになった。これが夢だと言われても、たぶんすんなり受け入れられる気がする。

大人しく朝食をとっていると、外に出ていたらしい了助がドアを開けて部屋に戻ってきた。靴を脱ぎながら、春姫をその瞳に映す。

「春姫ちゃん、お茶飲む?水出しのやつしかないけど。」

「あ、はい。ありがとうございます。」

 了助の善意をそのまま受け入れてしまうくらいには、春姫もそれなりに大胆になっていた。そんな春姫に嫌な顔一つせず、了助は「ちょっと待っててね」と微笑む。お茶と容器を用意している了助の背中を見て、神夜がさっと手を挙げた。

「俺もお茶―。」

「あぁ、おれも欲しいです。」

 ちゃっかり便乗する神夜とカイに、了助は少々眉根を寄せたが、それでもコップを四つ用意していた。

 やっぱり優しいな、と感心する春姫の隣で、カイが「あっ」と短く声をあげた。

「神夜さん、おれ今日、学校あるんですよぉ。ハルちゃん送ったらそのまま行っていいですか?」

「が、学校!?」

 カイの口から出た驚きの単語に春姫が声を詰まらせる前で、神夜は素の顔で「いいぞ」と答えた。そのままその話がお流れになりそうだったところで、春姫はこの二日間で培った大胆さを発揮する。

「カイさんて、学校通ってるんですか?」

「通ってるよぉ、大学。おれ、十九歳。」

「えぇ!?」

 春姫は本当に驚いた。神夜や了助よりは若いだろうなと思っていたが、自分とそう変わらない年齢とは。カイの容姿や仕草があまりに人間離れしていて、同年代とはとても思えない。少なくとも、春姫の周りにこんなに妖艶な人はいない。

 朝から衝撃に近い事実に目を丸くした春姫をおいて、残り三人がバタバタと動き始める。狭い部屋なので、大人の男三人が行ったり来たりするとかなり騒々しい。数十秒に一回、誰かと誰かの進行方向が衝突してお見合いするような状況だ。春姫は邪魔にならないように、空になった皿を小さくなって台所に運ぶ。

「お皿はつけておいてくれればいいからね。」

 了助から、優しい声がかかる。忙しくしつつもしっかり春姫を見ているところはさすがだと春姫は何度目かになる感嘆の声をあげた。その前で、

「おいカイ!今のは完璧わざと俺の足、踏んでっただろ!」

「やだなぁ。たまたまですよ、ぐーぜん。」

 昨夜をプレイバックしているかのような出来事。しかし、仲裁役である了助は、今回ばかりは無視を決め込んでいるようで、もくもくと自分のやるべきことをこなしていく。このまま終わりのこない神夜とカイの口論を見なくてはいけないのかと春姫は肩を落としたが、意外にもカイが早々に身を引いた。

「ああ、もう時間だぁ。ハルちゃん、そろそろ出るからね。」

「もうそんな時間かよ?」

 カイが春姫に向かってかけた言葉に、神夜が腕時計を確認してうなる。時刻はもうじき午前五時半。春姫は出発時間を聞いていなかったので、急いで身支度を整える。整える、といっても、荷物を適当にキャリーバックの中に詰めただけだったが。

そしてついに、その時がやってくる。

「それじゃ、行ってきま~す。」

 玄関で靴を履くカイの後ろに立っていた春姫は、くるっと向きを変えて部屋の中にいる了助と神夜を振り返った。

 二度と、この狭い部屋に足を踏み入れることはないだろう。

「お世話になりました。」

 深々と頭を下げる春姫に、了助の優しい笑い声が降ってきた。視線を上げると、心なしか神夜も笑っているように見える。

「一応、誘拐してたんだけどね、僕ら。まきこんじゃってごめんね。」

「いいえ。」

 心からの否定だった。とんでもないことになった、巻き込まれた、と思った瞬間もあったが、今振り返るとなんとなくいい思い出となっている。過去だからか美化された記憶に、春姫は緩やかに笑って見せた。

「この荷物は僕らの方からお父さんを通して返すからね。」

「はい。」

「カイ。」

 キャリーバックを指さしながら言う了助に春姫が頷くと、神夜がなんでもないようにカイを呼び止めた。カイが、振り返る。

「なぁに?」

「まぁ、なんだ、気を付けてな。」

 どこかで、聞いたことのあるような台詞。そんな神夜の視線はカイを外れて、よくわからない所を見ていた。

 カイが悪戯っ子のように笑うのも、あのカフェでのものと同じだった。

「はいはい。気を付けてねだって、ハルちゃん。行こうか。」

「ええ?あぁ、はい。」

 カイに腕を引かれ、春姫は忙しなく靴を履いて外に出る。部屋のドアを閉める途中、中の了助が手を振っているのが見えた。

 その奥で、不機嫌面の神夜と目があった。気がした。


 夏の朝。バイクの後ろに乗った春姫は何も考えていなかった。最後の最後まで、ふわふわとした気分でいる。ぼーっとしている間に、周りの景色が見慣れたものへと変わっていく。空いた道路のおかげもあって、比稲邸には一時間ほどで着くことができた。バイクから降り、ヘルメットをとる。頭を振って見上げれば、随分と久しぶりな気がしてしまう比稲邸の門。昨日のお昼に見たはずなのだが、それからの体験が濃厚すぎて本当に遠い記憶になっている。

「それじゃーね、ハルちゃん。もう誘拐されちゃダメだよ?」

 門を前に立ち尽くす春姫の背中に、カイがバイクに乗ったまま声をかけた。春姫はすぐに振り向いて、カイにも深く一礼した。

「ありがとうございました、カイさん。」

「んーん、こちらこそ。ハルちゃんのおかげで楽しかったよぉ。」

 軽く手を振って、カイが風のように春姫の元を去っていった。その後ろ姿が見えなくなった頃、春姫は初めてこれは夢ではなかったと自覚できた。自身の呼吸が急にリアルに聞こえ、まだ早い時間帯の日曜の朝を感じられる。

 本当におかしな出来事、おかしな人たちだったなぁと春姫は口元に手を当ててくすくすと笑いながら開いたままの門をくぐった。

 広い、広い庭を歩きながら、春姫は進行方向を屋敷の玄関からティールームへと変えた。テラスからティールームを覗くと、いつも通りの部屋がそこにはあった。昨日、この部屋の中にいたのは春姫自身。今の春姫のように、外から中の様子を窺っていたのは了助である。それを考えると、とても不思議な気持ちになった。自分が了助になった気分で、少々緊張気味に靴を脱いで窓からティールームに上がった。右手に靴を提げ、なんとなく足音を潜めて部屋の中央にあるテーブルへと足を向ける。テーブルの上には、大皿に載せられたフィナンシェ。そして、注がれたままの冷えきったカフェオレ。

 あれ、と思った時にはもう遅かった。後ろでひとりでに開いたドアの音に振り返った直後、春姫の視界は何か黒いもので覆われ、すぐに気を失ってしまった。


了助の運転する車の助手席で、神夜は不機嫌顔だった。それがいつものことだといわれればそれまでなのだが、それ以上に、神夜には引っかかるものがあった。

「なに、どうかした?」

 視線は前に向けたまま、了助が問いかけてきた。それには「ああ、まぁ」と曖昧に濁して、眉間の皺を深いものにした。呆れた了助が、路肩に車を停車させる。

「どうしたの、さっきから。気になって運転に集中できないんだけど。」

「ああ、まぁ・・・・。」

 今度は了助が眉間に皺を寄せる番だった。こんなにもはっきりしない神夜はみたことないし、らしくない。飛葉神夜という男はもっと、口の悪い、思ったことを考え無しにすぐ口にしてしまうような男なのだ。

 ぼやっとする神夜を鋭く観察する了助が座る運転席側の窓を、誰かがノックした。すぐに反応して振り返れば、バイクにまたがったカイである。了助は車の窓を開けた。

「カイ。春姫ちゃん、ちゃんと送ってくれた?」

「ばっちりですよぉ。あれ、神夜さん、どうかされたんですか?」

 カイが覗き込むようにして神夜の方に視線を送る。それでも、神夜は「ああ、まぁ」と壊れたラジオのような対応しかとらない。痺れを切らした了助は、一旦車を降りて三人で話し合うことを提案した。カイは異論なしで頷いて、神夜は何も言ってこなかったが、それを都合よく肯定ととって了助は車を邪魔にならない所に停めて外に出た。カイもバイクを降り、神夜が相変わらず呆けていたので了助が無理やり引きずり出した。

「本当になんなの。機嫌悪いだけじゃないよね?」

「神夜さん、ひょっとしてハルちゃんいなくなって寂しーい?」

「そんなんじゃねーよ。」

 カイの冷やかしには反応良く否定して、それから難しい顔をした。

「なんだか、嫌な予感がするんだよ。」

 神夜は腕を組んで車によそりかかる。借りてるものなんだから、といつもなら注意する了助も、さすがに今それを言うことはできなかった。

「嫌な予感て、何さ。」

「知らねーって。だから、別に何でもないんだよ。」

 ぶっきらぼうに答える神夜だが、嫌な予感がすると言われてしまえば了助だって聞かなかったことにはできない。しかし、了助には神夜の嫌な予感が何からくるものなのかがわからないし、恐らく神夜もはっきりとはわかっていないのだろう。

 どうしたものか、と神夜と同じように腕を組んだ了助の横で、カイが首を傾げて「そういえば」と切り出した。

「なんかさ、おれもちょっと違和感あったんだけどぉ。」

「なんだよ?」

 ほとんど睨むに近い神夜の視線での促しに、カイは目を逸らしつつ続けた。

「ハルちゃんのお家の門、開いてたんだよね。何でかなぁって。」

「門が開いてた?」

 了助は反芻して考えを巡らせる。門が開いていた、あまりに小さなこと過ぎて引っかかりにくいが、確かにそれは少しおかしかった。

「今回の誘拐のこと知ってるのって、春姫ちゃんの両親と、屋敷で働いてる人だけだよね?」

「ああ。いつも通りだ。」

 ビジネス誘拐において、一番重要なのはその事実を知っている人の範囲だ。狭ければ狭いほどリアルだが、少なすぎると大事になってしまう可能性がある。その辺りも考慮して、比稲家で春姫のビジネス誘拐の事実を知っていたのは春姫の両親と、屋敷で働く人のみ。それは珍しいことではなく、今まで請け負ってきたほとんどの依頼がそのような仕組みになっていた。

「屋敷で働いてる人が本当のこと知ってたんならぁ、門を開いたままにするだなんて不用心なことしないよねぇ?」

 カイの推察に、神夜と了助がはっと顔を見合わせる。

「でも、昨日追ってきた奴らは確実に僕ら狙いだったよ?」

「それとこれとは違うんじゃないか?昨日追ってきた奴らは俺らを狙ってたが、ひょっとしたらあいつも他で狙われてて・・・・。」

 大人二人でお互いを追い詰めているようだった。そして、遂には沈黙に辿り着く。

「・・・・どうする?」

 神夜の機嫌を窺うように、了助は尋ねた。了助に、判断はできなかった。

 一方で、神夜は既に冷静さを取り戻していた。

「このままじゃ、寝ざめが悪いからな。」

 なんでもないように言う神夜が白々しく、了助は思わず笑ってしまった。

 そんな大人二人の様子を少し離れたところで眺めていたカイが、

「行きますかぁ?」

 と、軽く言ってヘルメットをかぶる。それを見て、了助は少しだけ表情を歪めた。

「でもカイ、今日は学校あるんでしょ?」

「そーだぞ。金の無駄になるぞ。」

「だーかーら~。」

 了助と神夜のまるで両親のような言葉にカイは呆れ半分のテンションを声色に混ぜ、そして誰よりも不敵に笑った。

「お金が無駄にならないように、ちゃっちゃと終わらせておれを学校に行かせてくださいよぉ。」

 生意気にもそんなことを言うカイに、大人二人は低く笑って━━━

 すぐさま、車に乗り込んだ。


 遠くで誰かが会話する声が聞こえる。

 春姫は頭部に走った鈍痛に目を覚ました。うっすらと開けた視界からの情報で、ここが比稲邸でないことを教えてくれる。ではどこなのかと聞かれたら答えられそうもない場所に、春姫はいた。

 軽く頭を振って現状を理解しようと試みるが、脳みそがかき混ぜられるような気持ちの悪さにさいなまれただけでうまくはいかなかった。そしてどうやら春姫は手足を縛られて椅子に座らせられているようで、身動きが取れない状態にある。

 春姫は鈍い働きしかしない脳細胞をたたき起こしてここまでの経緯を思い出そうとした。

 確か、カイに家まで送られた後、春姫はティールームから屋敷の中に入った。そして室内の奇妙さに気が付いたところで、後ろから目隠しされ、何が起きたかわからないうちに気絶してしまった。なんとなくばらけた記憶の欠片たちを組み合わせていくが、具体的に何が奇妙だったかは思い出すことができない。春姫は自身のふがいなさと手足に絡みつく縄の痛さに顔を引き攣らせた。埃っぽい臭いが、鼻を刺激する。

 そこに、先刻まで遠くに聞こえていた声がこちらに近づいてきて、春姫の目覚めに気が付いたようだった。

「おやおや、やっとお目覚め?」

 声の後に、その主が春姫の視界にフレームインしてくる。それが誰かを認識した瞬間、春姫は愕然とした。

「か、川代さん!?」

 比稲家のお手伝いさんとして、両親が旅行に行った日から働きに来てくれているあの、川代さんだった。しかし、いつも着用している灰色のシンプルなエプロンを今はしておらず、温和そうな表情を浮かべていた顔には今、醜く卑しい笑みが浮かんでいた。

 春姫は一瞬、名前を呼んでおいて人違いかと思った。それほどまでに、いつもの川代とは印象が違っていた。

「川代さん、どうしたんですか?ここはどこですか?」

「あーあぁ。質問のおおいお嬢様だこと。ほんと、疲れるわ。」

 一言一句、本当に川代の口から出ている言葉なのか非常に疑わしかった。川代の変貌を春姫はとても信じ切れず、彼女は他の誰かか、あるいはこれはまだ夢の続きなのではないかと困惑していた。

 そんな春姫をおいて、目の前では話が進んでいく。

 次に春姫の視界に入ってきたのは、四十代くらいの男である。その男が、川代に話しかける。

「おい、本当にこれでうまくいくのか?下手したら警察に通報・・・・・。」

「ばーか。脅す相手がこの子の親ならそうなるかもしれないけど、相手は誘拐を仕事にしてるやつらだよ?あいつらだって、警察沙汰になるのは避けたいはずさ。仕事の失敗を知られたくなくて、たんまり金を出してくれるさね。」

 二人の会話に、春姫はきゅっと心臓を掴まれた気分だった。彼らが強請ろうとしているのは、神夜たちだ。それを知って、春姫は椅子に縛り付けられたまま言葉で噛みついた。

「どうしてこんなことするんですか!?あの人たちを巻き込むのはやめて!」

 大きな声で怒鳴ると、その声は意外にも周りによく響いた。春姫は自身の置かれた状況に泣きだしそうになりながら、それでも毅然と振舞った。

 大丈夫。きっと、助けに来てくれる。

 具体的に誰とは思わなかったが、春姫の頭の中に浮かんでいたのはあの三人の顔である。

「全くうるさいお嬢様だよ。舌をちょん切ってやれば、ちょっとは静かになるのかしらねぇ?」

 舌打ちしそうな勢いで怖いことを言う川代に、春姫は本気でこれが夢であることを願った。恐ろしくてたまらなかった。これも誘拐と呼べるのだろうが、先日体験した誘拐とはかけ離れた実態に、春姫はもう耐えられそうもなかった。

 目をぎゅっと瞑る。瞼の裏に、いろんな人の顔が浮かんだ。父、母、学校の友達。親戚の人、そして、おかしな三人組。

「誰かっ。」

 息だけで吐きだした言葉は、その三人に向けての心からの叫びだった。

 そして、それに応えたのは━━━

 神夜の不機嫌な低い声でも、了助の母親然とした言葉でも、カイの悪戯な笑い声でもなく、何かがものすごい勢いで春姫たちのいる建物に突っ込んでくる衝突音だった。

「なんなの!?」

 言ったのは川代だったが、春姫も同じ思いだった。まるで状況が掴めない。ただ、衝撃が体まで伝わってきて、突き破られた壁の辺りから埃やらなんやらが舞っているのを春姫は確認した。そして、視界が開けきる前に、知った声が春姫の耳に飛び込んでくる。

「おい了助!お前、この車の修理代は誰が払うんだよ!?」

「うーん。これは修理じゃどうにもならないだろうから、買取だね。責任は綺麗に三等分しようね。」

「ちょっと待ってくださいよぉ。おれ、バイクできたんですけど?車、関係ないんですけど?」

 いつもの調子だ、と春姫は思った。いつもの調子過ぎて、こんな状況なのに笑ってしまう。同時に、全身に入っていた力がすっと抜けていく感覚が春姫にはあった。

 瓦礫と埃の台風が収まり、春姫の目にはあの三人の姿がはっきりと映し出される。

「やっほ、ハルちゃん。二時間ぶりぐらいかなぁ?」

「じゃ、僕らは三時間ぶりぐらいかな。春姫ちゃん、怪我してない?」

 もう少しシリアスな雰囲気は出せないものかと春姫がいらん心配をしてる前で、川代が派手に舌打ちした。

「全く、豪快に破ってくれちゃって。金は用意できたわけ?」

「なんのことだ?」

 交渉にだいたんにもそう応じたのは神夜である。黒いスーツ姿が決まっており、悪人面と相まってかなりの迫力だ。川代もそれを感じたようで少したじろいだが、すぐに何か思い出したように余裕の笑みを浮かべる。

「あら、取引に応じないつもり?金がないんならこの子は返さないよ。」

「金はねーから、力でどうにかさせてもらうことにした。」

 神夜の低い声はよく響いたし、少し離れた位置からでもその目力は多大なる影響があった。実際、春姫すらも身震いしたほどである。彼が味方であることを、今は素直に喜ばねばなるまい。

 しかし、川代はそう簡単に折れてくれはしなかった。代わりに、甲高い笑い声をあげた。

「あんたたち三人ぽっち、何ができるっていう訳?」

「お前らだって二人じゃねーか。」

「あーらごめんなさい。私たち、二人だけじゃないのよ。」

 川代がそう言うと、その背後から続々と人がやってきて、十人ほどに敵が増えた。これには春姫もまずい、と顔を強張らせて神夜たちを見つめた。しかし、神夜は少し眉を顰めただけで、白旗を上げる様子は見られない。

「げ、面倒だな。人数だけはいるってやつな。」

「やりがいはありますよねぇ?」

 そう言って首の骨を鳴らすカイはどこか楽しそうで、隣の了助は非常に微妙な顔をしていた。

「ぼく、武闘派じゃないんだけどなー。」

「言ってる場合か・・・・よし、カイ。行ってこい。」

 腕を組んだ神夜は、早くも高みの見物を決め込んでいるようで、顎でカイの出動を促す。それに素直に頷くほど純粋な性格を、カイはしていない。

「他人に任せてばっかりじゃないですかぁ。ちょっとは働きましょ?」

「適材適所。」

「出た出た、神夜さんの常套句。」

 文句を言いつつ、カイが先陣を切って多人数の敵へと切り込んでいく。

「あの三人を人を早く捕まえて!」

 川代の指示で、敵の陣も動き出す。さすがにこの人数ではカイが不利だと表情を曇らせる春姫の目の前で、いきなり誰かが吹っ飛んだ。瞬間、時が止まる。誰もが動きを止めて、カイを見つめた。

 敵に囲まれた状態の彼は、にこりと笑って見せる。

「全然だめだね。もっと本気で来てよ?じゃないとすーぐ終わっちゃうよ~。」

 カイの神がかり的な笑みとプロポーションに騙されて、言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまった。彼は今、これ以上ない挑発をしたのだ。そして、そこらに転がってしまった人は完全に気を失っているようで、ピクリともしない。

 春姫はあんぐりと口を開けたまま事の成り行きを見守るしかなかった。どうやらカイの格闘技好きは手が付けられないを通り越しているらしい。

「カイに任せてたら死人が出そうだよ。」

 ふぅ、とため息を吐いて、了助が加勢する。その間にも、カイは次々と躊躇なく蹴り飛ばして、投げ飛ばして、殴り飛ばしていた。その度に聞いたことのない鈍い音がして、春姫は思わず目をそらす。

 予想していなかっただろう劣勢に、川代は憎々しい表情を浮かべた。そして、順調にこちらに近づいてくるカイたちから逃れようと近くの男に声をかける。

「ぼさっとしてないで動くよ!あんたはこの娘を連れてきなっ。」

 川代にそう命令されて、男はその視界の隅でカイの様子を気にしつつ椅子に縛られて座ったままの春姫を無理やり立たせた。あまりに乱暴なやり方に、春姫は小さく呻く。立たされたのはいいが、この状態ではとても歩けそうにない。前のめりに倒れそうになる体を、男が強引に引っ張った。

「早くっ。あいつらが来ちまうよ。」

 慌てたように言う川代は既に速足で歩き始めており、春姫は男に引きずられるようにして連れ去られる。

「春姫ちゃんっ。」

 後ろから、了助が呼ぶ声が聞こえた。なんとかそれに応えたかったが、男に抵抗するのが精いっぱいでどうすることもできない。なかなか前に進まない春姫に、男が苛立たし気に声を荒げた。

「くっそ!さっさと歩け!」

「椅子に縛らてるんだから、速くなんて無理に決まってるでしょ!?」

 これまでに経験したことのない事態に、春姫は自分で言っていることもよくわからなくなってきていた。だからこその、この暴言。普通の精神ではもう耐えられそうにない。

 痺れを切らせたのは先を行く川代だった。

「ああもう!置いてっちまうよ!」

 川代の怒りの声に、男は大きく舌打ちして乱暴に春姫の足と椅子を繋げていた紐を解いた。椅子から解放され、春姫はやっとまともに立つことができた。しかし、先刻より動きやすくなった春姫を、男がここぞとばかりに引っ張って走り出す。春姫は抵抗しようとしたが、動く足が転ばないよう、勝手に前へ前へと進んでいった。

「その娘をこっちによこして、あんたは車をこっちにまわしな。」

「わ、わかった。」

 男から川代へと渡され、春姫は一生懸命抵抗した。体つきの良い男よりは、五十代の川代から逃れるのは簡単だと思ったからだ。しかし、既に疲れが出てきていた春姫の必死な抵抗は川代に通用しなかった。春姫は、泣きそうになる自分を必死に奮い立たせた。ここで泣いている場合ではない。まだ大丈夫だ、まだ、彼らがいる。そう離れていない距離に、あの三人がいるのだ。そのことだけが、春姫の心の支えだった。

 泣いてなんかいられない。

 春姫は勢いで川代を突き飛ばした。腕をがっちり掴まれていたため、春姫も一緒になって倒れこむ。縛られているので手を付けることができず、肩から転んで顔面強打を回避した。

「っこんの・・・・。」

 川代が恨めしげな声を上げたとき、春姫の耳は確かにその声を捉えた。

「春姫っ。」

 知った声が、呼んだことのなかった自分の名前を叫んだ。春姫は、その声の主を必死に探した。そして、

「神夜さん!」

 いつも不機嫌そうにしていた神夜が、今は必死の顔になって春姫を見つめていた。春姫は無我夢中で川代の手から逃れようと身を捩る。が、川代も必死だ。倒れた状態のままでも春姫の腕を離そうとしない。春姫は自分の不甲斐なさに腹立たしくなった。この手から逃れることすらできないだなんて、情けなくてしょうがなかった。

 涙でうっすら滲んだ視界には、走る神夜が見て取れた。

 そして、彼が叫ぶ。

「伏せろ!」

 言葉を理解したという自覚はなかった。ほとんど反射的に、春姫はその場に伏せた。すると、神夜の場にそぐわぬ楽し気な声がした。

「いい子だ。」

 神夜らしからぬ言葉に動揺している間に、間近で何かが吹っ飛んだ。それと同時に、ずっと強く掴まれていた腕の痛みが消失する。

 春姫は恐る恐る顔を上げた。瞳に映るのは、黒いスーツに身を包んだ長身の男一人。

 その神夜と、いつぶりかに視線がぶつかった。

「よう。」

 間の抜けた神夜の声が二人の間に響いた。これは、何を言ったらいいのかわからなかったやつだ。それに気が付いて、春姫は未だ涙が滲んだ状態で笑ってしまった。本当に、不器用な人だなと思う。

「なに笑ってんだよ。」

「なんでもありませーん。」

 春姫の様子に何か納得がいかない様子の神夜の後ろから、ひょこっと了助が顔を出す。

「春姫ちゃんは・・・・無事みたいだね。あーあぁ、神夜も派手にやってくれちゃって。」

 春姫の無事に安堵しながらも、了助がそんなことを言う。改めて、辺りを見回してみると、数メートル先で仰向けに倒れている川代が目に入った。完全にのびているようで、生死を確認するのが怖かった。多分、生きているけれど。

「カイに比べればこんなの、かわいいもんだろ。」

「今回は本当に誰か死ぬんじゃないかと思ったよ。カイなんて、目がもうキラッキラで・・・。」

 了助が、春姫の手を縛っていた紐を外しながら大きくため息を吐いたので、春姫は悪いとは思いつつ少し笑ってしまった。そうしているうちに、話の中心人物がしれっと現れる。

「あー、いたいた。ハルちゃんお疲れさま~。」

「お、お疲れ様です。」

 なんとも緩いカイの声と言葉に、春姫はつられてそう返すしかなかった。座り込んだままの春姫を囲うようにして、三人が話し始める。

「そういえばぁ、今さっき外で一人やってきたんですけどー。」

「春姫ちゃんを引きずってた男じゃないかな?外に出てくの見たよ。」

「どうせ、車をまわせとかなんとか言われたんだろ。」

 頭上で交わされる会話に耳を傾けながら、春姫は助かった事実を実感していた。

 再びこの三人の声を聞けたことにほっとした。嬉しくもあった。もう、二度と会うことはないだろうと思っていたから。

「春姫ちゃん?大丈夫?」

 黙り込む春姫を心配して、了助がしゃがんでこちらの様子を窺ってきた。同じように、カイも心配そうに首を傾げる。神夜は━━━━変わらずだったが、その目はしっかりと春姫を見ていた。

 春姫はゆっくりと首を縦に振った。

「大丈夫です。ちょっと、安心しちゃって。」

 言葉にしたら、余計に体の力が抜けた。大丈夫なことを証明したくて、ちゃんと自分の足で立ちたいのだが、腰から下に力が入らない。立ち上がろうと奮闘する春姫に、手が差し伸べられた。大きな掌から上へとその人物を追っていくと、最終的に待っていたのは微妙な顔をした神夜の顔だった。春姫は思わず噴き出した。同じように、了助とカイも噴き出す。だって、それくらい変な顔をしていたから。当の本人は何を笑われているのかわからないようで、そっと眉根を寄せた。

「なんなんだよ・・・・。」

「なーんでもないよ、神夜。それよりさ、春姫ちゃん立てないんだから、おぶってあげなよ。」

「えっ。」

 了助の提案に、春姫は思わず声をあげた。できればそれは遠慮したい。というか、絶対に神夜が嫌がると思った。だが、神夜は意外にも素直にしゃがんで春姫にその広い背中を向けた。

「乗れば。」

 神夜にそこまでされ、そこまで言われてしまえば、最早春姫に拒否することはできない。了助に手伝ってもらいながら、春姫は神夜の背中に乗っかった。服を通して感じる神夜の熱に、意図せず顔が赤くなった。それを神夜に見られることはないことだけが唯一の救いだった。

 春姫を背負った神夜を真ん中に、一行はゆっくりと歩き出す。

「いやー。一時はどうなることかと思ったけど、春姫ちゃんが無事で本当に良かったよ。」

 笑顔と共にそう言う了助の後に、バイクを押して歩くカイの大きめのため息が続いた。

「なんか、全然動き足りないんですけどぉ。みんな弱すぎっ。」

「お前に投げられた奴らが哀れだよ。てか、さっさと学校いけ。」

 変なことを嘆くカイに、神夜の呆れたつっこみが入る。神夜が何かを言う度にその振動が春姫にまで伝わって妙に照れくさかった。

 建物を出て、外をしばらく歩いてるうちに春姫はふとあることが気になった。神夜の顔を横から覗くようにしてそれを聞いてみる。

「あの倒しちゃった人たち、あのままでいいんですか?車も突っ込んだままですし・・・・。」

 不安そうに尋ねると、神夜が首だけこちらに向けてきた。思っていた以上の至近距離に、春姫は急いで顔を背けた。背けた先で、カイと目が合う。

「だいじょーぶ、だいじょーぶ。警察にも連絡しちゃったし、あの車はおれらのじゃないしね。」

 目があったついでに答えてくれた様子のあっけからんとしたカイの説明に、春姫は言葉に困った。警察に連絡したのはいいが、それでは神夜たちのことも少なからず咎められるのではないだろうか。それに、ダメにしてしまった車が自分たちのものではないというのは大丈夫に繋がらない。

 そんな春姫の疑問に気が付いたように、今度は了助が付け加えてくれる。

「向こうも誘拐のことはバレたくないだろうし、下手なことは言わないよ。車で建物に突っ込んだぐらいのことは被ってくれそうかな。まぁ、誘拐の事実はなかったことになるからそこだけ不満が残るけど。」

「これだけ計画的にやってるんだ、他にもいろいろやってんだろ。そっちが明るみに出てくれるのを祈るしかねーな。」

 神夜の意見に、了助が「そうだね」と短く返した。どうやら、春姫が心配するようなことではないらしい。一定のリズムで揺れる神夜の背中で、春姫はそっと肩の力を抜いた。神夜たちが痛くもない腹を探られることはなさそうなのでとりあえずは安心した。実際潔白かと聞かれれば否定できるかどうかはわからないけれど。

「そんなことより、だ。」

 歩く速度はそのままに、神夜が低く切り出した。何事かと、春姫は身構えた。一方で、了助とカイはこれから神夜が何を言い出すのかある程度予測がついているようだった。

「今回のことをうまくまとめるぞ。いろいろあったからな、こいつの親に説明もしないといけないし。」

「さすがに、黙っておけることじゃないもんね。」

 了助が同意する。春姫は話の行く末を見守ることしかできない。隣でカイが、空を見上げながら口を挟む。

「こればっかりはタダ働きになりそうですねぇ。ま、ちょっとは発散できたんでいいですけど。」

「あんなにやっといて、ちょっとかよ・・・。」

 神夜がカイの方を見ながら言ったので、その横顔が春姫にはちらっと見えた。顔は怖いが、本当は不器用なだけだということを、もう春姫は知っている。

 だから、

「あの、皆さん。私から提案があるんですけど。」

「?」

 思ってもみなかった春姫の言葉に、三人とも首を傾げる。それに満足しながら、春姫は自分の意見を口にした。


 その日の夜、旅行中の両親が急遽帰宅した。どうやら、神夜から春姫が本当に誘拐されたと連絡があったらしい。両親は娘の無事を喜んだ。

「いやー。本当に、彼らには感謝しなければ。」

 父親の頼仁が、春姫の頭を優しく撫でながらそんなことを言った。

 神夜はこと細やかに今回のことを両親に報告した。ただし、大きく嘘を交えて。

 春姫が誘拐されたのは一日前のことにした。つまり、春姫がビジネス誘拐される予定だった日。了助が比稲邸に入ると既に春姫は誘拐されており、一日かけて春姫を救い出したという筋書きだ。至極シンプルな春姫の案だったが、両親は完全に信じてくれたようだった。春姫が誘拐されたとわかった時点で何故連絡しなかったのかということに関してはどう説明するかが問題だったが、そこは旅行中の両親にうまく連絡がとれなかったという無理やりな理由でなんとか切り抜けた。

 と、言う訳で、神夜たちはビジネス誘拐は失敗したが本当に誘拐された春姫を見事助け出したとして、両親は非常に感謝していた。ちなみに、この誘拐については神夜たちの仕事上、警察に関わるとややこしいことになって多方面で迷惑をかけるとして警察に告げなかった旨もしっかりと告げた。春姫の誘拐の件を言わなくても、他の罪で罰を受けることになるだろうことを説明すると、ビジネス誘拐を依頼した頼仁も頷くしかなかった。

「そうだ、春姫。さっき、彼らに会ってきたんだが。」

 どうやら帰宅する前に神夜たちに会ってきたらしい。頼仁が後ろ手に持っていたものを春姫に差し出した。それは袋のようで、中身はあのフィナンシェだった。春姫はその場で笑い転げてしまった。わざわざ返してくれなくてもよかったのに、と春姫は目に涙を浮かべてとにかく笑った。

 元気そうな春姫を見て安心した両親は、その日は家で一夜を過ごして、明朝旅行の続きとしてニュージーランドへと出発した。我が親ながら、とんでもない性格をしていると春姫は思う。

 

 二週間が経った。

 あれ以来、彼らには会っていない。

 春姫は、日常の先で再び彼らに会うことを楽しみにしている。

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