【第6話:二人―なかま―】
アリサ・アスカテンナは裕福な家庭に産まれた。帝国でも名高い武器職人の家で、何不自由ない生活を送るはずだった。
だが彼女が産まれた直後、母親が原因不明の発作で死亡してしまう。さらに産まれたその姿が両親のどちらにも似ていない美しい顔立ちに、銀色に輝く髪……そして魔族にしか見られない赤い瞳の色だった。
それから父はできる限りアリサを外には出さず、家の中の使われなくなった古い書斎の中に閉じ込めていた。名高きアスカテンナ家が魔族と同じ赤い瞳の子を匿っていることがバレてしまえば、武器職人としての地位が失われるどころか粛清すらも有り得る話だった。
「お前みたいな子供、生まれなければ良かったのだ」
それが父から聞いた最後の言葉だった。最初は死ぬ間際の母の頼みで匿いながら生きさせていたようだが、秘密を守り続けるのには限界があったらしい。ついにアスカテンナ家は赤い瞳の忌み子を匿っていることが公になり、帝国直属の武器職人の座を引き摺り下ろされてしまう。
父は怒り狂い、やがて幻覚を見るようになり、妄言も吐くようになり……潰れていった。そして諸悪の根源とされたアリサは奴隷として売りに出され、男たちの高級な性玩具として5歳で処女を奪われ、幼い膣をすり減らし続けてきた。
もう全てが終わった。
この赤い瞳と銀色の髪、そして呪いのように周囲に降りかかる不幸をもって産まれてきた自分は、堕ちるところまできてしまったのだ。
自分で死ぬことができないから、死ぬまで生きるしかない。
そんな日々が4年間続いた。
そしてある時より妊娠していたことが発覚した。誰の子種で孕んだのかも分からない子供だ。最初はどうすればいいか分からなく、堕胎効果のある薬草を使おうかとも思った。しかしアリサはそれができぬまま、ついに助産師もいない薄汚れた路地裏で男の子を出産した。
産まれて間もなく、激痛で憔悴していたアリサに向かって赤子は微笑んだ。
汚れ切った世界で見た、唯一純粋無垢な笑顔だった。
その時、アリサは決意したのだ。自分にはもう未来はないかもしれない。いつしか性病にかかるか、殺されるまで使い潰されるかどちらかなのだろう。
だが、この子は違う。
この子は今この残酷な世界に産まれても元気に叫んでいる。生きようというエネルギーに満ち溢れていたのだ。きっとこの子は世界を変えてくれる。希望をどこかで見つけて生き続けてくれる。
そう信じて育てよう。そのためならば自分の肉はどれだけでも削って稼ごう。自分の命など惜しむものか。絶対に……絶対に。
アリサは鳥のように空高く自由に飛ぶ子に育って欲しいと願い、赤子に「ホーク」という名前をつけた。
自分の生きる意味だった。
埃だらけの書斎でも、男たちの精液でシミだらけになったベッドの上でも見つからなかった、希望だ。 それが今、自分の胸の中にある。
産まれて初めて感じた幸せだった。
しかし今、生命の灯火が消えた小さすぎる亡骸は、アリサの手から転がり落ちていくのだった。
もう二度と這い上がることのできない、奈落の底へと……。
その日、一人の赤子の屍が投げ入れられた。
周囲を山々に囲まれたグルガルンには市街地と山の麓の間に大きな溝がある。そこがここに住む者たちの共同墓地である。墓地とはいっても溝に死体を投げ入れるだけなのだが。
市街地に死体を放置することは不衛生極まりなく、感染症の原因になりかねないため、巡回中の騎士たちや、死者の家族たちがよく拾った死体をここに投げ入れに来る。ファイナが物心ついた頃に見た溝はかなり深かったはずだが、近年になって死体が多くなってきたのか、底のほうで折り重なって倒れている魔族たちの死体がはっきりと見えた。
ファイナはエリーザの死体の入ったボロ布を溝の中に投げ入れると、胸元で十字架をきった。
「頭のほうも取り返したら、ここに入れるからな……」
とはいってもこれが何を示すのか彼女は知らない。死者を弔う時の動作はこうする、としか教えられていなかったからだ。
それを「神に祈りを捧げる行為」だとアリサは教えてくれた。次の世では幸せに暮らせるようにと、人間たちが生み出した思想らしい。本来は人間が人間の死者のためにやる行為で、魔族の文化にはなかったものなのだとか。
やはり魔族は魔族らしく死体を投げ捨てて、今までありがとうと頭の中で念じておくだけに留めておいたほうがいいのかもしれない。そうファイナは思った。
「次の世では幸せになれるようにとは祈らなかった。エリーザ姉ちゃんは多分、今の世でも私を強く育てられて幸せだって胸を張って言うと思うからな」
「強かったんだね、その人は……」
アリサはまだ震えた手のまま、静かに溝の底を眺めていた。彼女がホークと名づけた赤子の姿はそこにはっきりとあった。しかしそれも数日経てば、他の死体が上に被さり、二度と陽の光を浴びることはなくなるであろう。
「生きなきゃ……私も……」
「ああ、それが残酷な運命に抗うただ一つの方法だ」
二人は大切なものを奈落の底へと投げ込んだ。
いつか自分たちも落ちるであろう、そこへ。
「殺されるまで生きてやる」
自ら落ちることはしないだろう。
誰かに背中を押され、それでも足の腱が切れるまで抗い続け、それでも落ちる時まで。
ファイナは決意を込め、そう言った。
その隣でアリサはしゃがみ込み、大粒の涙を流していた。
しかしファイナは何も言わず、彼女の手を取って立ち上がらせた。するとアリサは泣きながらも、叫びながらも、静かに歩みだしたのだ。
泣き叫びながらも歩むことも強さなのだとファイナは思い、ただ前に進んだ。
市街地を堂々と歩く少女が二人いた。一人は赤髪から巻き角の生えた魔族の少女、一人はそれよりも少し身長も高く大人びた雰囲気の銀髪の人間の少女。朦朧としながらただ明日を求めて彷徨い歩く者たちで満ちたこの街でも、堂々と歩みを進めていた。
「これからどうするの?」
「決まっている。エリーザ姉ちゃんを殺した騎士を殺す」
「どうやって?」
「今考えている!」
実際問題、エリーザを殺した男の名前すらも分かっていない。分かっているのは騎士という地位と、巨漢であることぐらいだ。しかしアリサは何か知っていたようで、ファイナの前に出て言った。
「あの男は街で有名な、ならず者よ。たしかに騎士だけど、そこらのゴロツキと変わらないぐらい素行が悪く、こんな辺境の地に飛ばされたらしいよ。名前はガルズランド・ガードン。剣の腕はそんじょそこらの武芸者よりも秀でており……」
「よく知っているな」
「路上生活をする上で、危険人物の情報は常に仕入れておかないと。私たちには人権どころか、守ってくれる人もいないからね……。鬱憤を晴らすために殺されても文句は言えないし、抵抗するだけの力もないし、そういう人たちからは逃げるしかないの」
なるほど、とファイナは思った。薄汚れていても美しいと感じるアリサの容姿ゆえに気づきにくかったが、彼女はファイナよりもずっと過酷な環境で生きてきたのだ。生きる為の術は自分の何十倍も多く持っているのだろう、とファイナは改めて自分の住んでいた世界の狭さに悔しさを覚える。
自分はまだ恵まれた環境に生きていたのか。
「奴は二日に一回、あの山にある城の門前の夜間警備を行っているわ」
アリサが指さした山の麓には、中規模ながらもしっかりとした造りの城があった。廃材を屋根にしている市街地の建物とは雲泥の差だ。周囲を切り立った崖に囲まれているため門は一つしかない。あそこはグルガルンに駐屯している騎士たちがいる場所だ。
騎士たちはグルガルンにおいて治安維持や警備などを行っている。しかしこの有様を見てしまえば、何のために剣を持っているのかすらも分からないほど堕落した内部事情が伺える。魔族相手に暴力沙汰を起こしたり、遊び呆けている者が大半だ。楯突く者がいないことを良いことに、好き放題していた。
力なき者に対し、帝国から貰っただけの剣という名の武力を振りかざし、我が物顔でこの街を支配しているのだ。
「しかし、夜間の警備が奴一人なのか」
「他にもいるのだろうけど、ガルズランド一人に任せても大丈夫だと怠けきっているそうよ。事実、門の警備が一人で事足りるほど、奴は強いらしいし」
「そうか。一人か、ならば好都合というもの」
「話聞いていた? 一人で警備が十分なぐらい強いのよ……」
「どれだけ強かろうと、憎き者は絶対に殺してやる」
「は、はぁ……」
この子にはきっと「負ける」という選択肢はないのだろう。屍になったとしてもあの世で敗北を認めないぐらい、真っ直ぐで頑固な人間だとアリサは思った。だからこそ信頼でき、ついて行けば何かが見つかるかもしれないと思える存在なのだが。少々心配だ。
やはりそこは自分が年上の人間として補うべきなのか。
「殺すにしても手段はどうするのよ」
「そんなものナイフで首を掻き切ればいいのではないか?」
「それができなかったから、昨晩は返り討ちにされたんでしょ……」
「だが……な、それは、そのだな」
「ファイナって意志と力は強いけど、真っ直ぐすぎるというか、なんというか……」
アリサは頭を抱えながらも、ファイナの肩を掴んでこう言った。
「脳筋だね」
「なんだ、それは?」
「脳まで筋肉で出来てそうな人のことを言うのよ」
「それは褒めているのか?」
「いいえ、馬鹿って言ってるの」
その一秒後アリサに向かって、脳まで筋肉で出来たような者の真っ直ぐな拳が飛んできたのは言うまでもない。