【第5話:希望―しかばね―】
雨は夜明けまで止むことはなかった。
ファイナの小さな体は営業を終えて帰宅する娼婦たちの目にも止まることなく、血と死臭漂う路地裏に陽が射し込むまで起き上がることはなかった。
夜は明け、ファイナは静かに目を覚ます。体の節々が痛むが何とか立ち上がることはできた。サラマンダーという種族は魔族の中でもトロールやオークの次に頑丈な種族なので、たとえ子供であってもそう簡単には死なないし、傷の再生も成人した人間の体と比べても遥かに早い。
「エリーザ姉ちゃんを、私が助けなきゃ……」
屍人が起き上がったかのように項垂れながら起き上がったファイナは、営業を終了した娼館の前に立ち尽くす。さっきのアレは夢なのかもしれない。本当はエリーザは生きていて、家に帰っているのかもしれない。エリーザに渡すはずだった泥だらけのパンをポケットに押し込んで、ファイナはゆらりゆらりと前進した。
これは夢なんだ。
そう信じたかった。
だが娼館の横に捨てられていたボロ布の中身が首のないトロールの女性の死体で、背中にある痣がエリーザのものと同じだったことが分かり、ファイナはこれが夢でないという現実を受け入れざるを得なくなってしまった。
どうしてだ。
どうして必死に生きていた者が苦しんで死ななきゃいけないのか。
どうして未来へ希望を繋ごうと子供を育んでいた女が、その場限りの歪んだ快楽と腐った武勲のために生きている男に殺されなきゃいけなのだ。
己を内側から燃やし尽くさんほどの怒りが湧き出してくるが、中々上手く動かすことのできない体はそれに答えてくれない。全身に青あざができており、口の中は血の臭いしかしなかった。何もかもがボロボロで立つこともやっとの状態だった。
「畜生……畜生、畜生畜生が!」
雨に濡れて泥が一面に広がっている地面にファイナは跪き、何度も拳で殴りつけた。
「あいつが、あいつがエリーザ姉ちゃんを……!」
血が滲んでも、皮膚がめくれても気にしなかった。
「殺す! 絶対に! 絶対に見つけ出して殺してやる!」
肉が抉れようとも殴り続けた。
このクソッタレな世界を。
「あぁぁぁぁあぁぁぁッ! あぁぁッ! がぁぁぁぁぁッ! アァァァァァッッ!!!」
涙は出なかった。
獣のように叫び、地面を殴り続ける少女がそこにはいた。
そんな息を荒げながらも叫び続けるファイナを、冷めた目で見つめる視線があった。娼館の前で蹲っていた銀髪の少女は微動だにせず、その様子を眺めていた。右手にはファイナが蹴られた時に落としたであろうパンが握り締められていた。
「お前……」
ファイナは不思議に思った。あれだけ物乞いするほど飢えていたはずの少女が、いっこうにパンを口に運ぼうとはしないのだ。死んでいるのかと思うほど動かないが、微かに聞こえる少女の息遣いがそれを否定した。
「食べない、のか?」
それはエリーザ姉ちゃんのものだとも言おうとしたが、少女の様子が尋常ではないことに気づき、言葉を喉の奥に止めた。ファイナは少女の元に這い寄ると、抱き抱えていたものが何か知りたくて覗き込んだ。
赤子だった。
銀髪の少女が抱き抱えていたのは、全身の骨が浮き出ている赤子だったのだ。お腹だけ大きく膨れ上がっており、両目玉が今にもこぼれ落ちそうなほど前に出ていた。そして何よりハエがたかり、蛆虫が沸いており、死臭がした。
銀髪の少女はそんな赤子を抱き続け、掠れた声でファイナに言った。
「この子、3日前から何も、食べようとしないんだ……」
右手に持ったパンを赤子の口元に持っていくが、その小さな口はいっこうに開かない。パンを押し付けると赤子の首が頭の重さに耐えられずに折れ、両目玉がポトリと地面に落ちていった。
「もう死んでいる」
「違うよ。生きているんだよ。ほらだって、まだおぎゃーおぎゃーって……」
銀髪の少女の瞳は色彩を失っており、現実から目を背け続けていた。
「死んでいる。お前の弟だったのか?」
「わかっているよ、そんなこと。それに弟じゃない……この子は私の子供だもの」
ファイナと同い年ほどの少女が子を産み、育てていたのだ。よく見れば、赤子のへその緒は腐ってはいたものの、乱雑に途中で切られていることが分かった。助産師も誰もいない状況で出産したのだろうか。子が産まれる瞬間を知らないファイナには想像もつかなかった。
「5歳の頃に忌み子として両親に売られて、それからずっと体を売って生きてきた……」
銀髪の少女は赤子の屍を抱き続けながら、語り始めた。
「最初は股が裂けるかと思ったけど、慣れたらどーってことなかった。四年間、体を売り続けたよ。そのうち病気か何かで死ぬのかな、って思っていたその時ね……この子が産まれたの」
「じゃあ、物乞いは……」
「赤ちゃんにはね、栄養が必要なんだよ。だから……どうしても生きて欲しかった。希望だったの……何も無いまま死んでいくより、この子に希望を与えながら死んでいきたかった。でもどうして―――」
銀髪の少女は赤子の屍を地面に置くと、ゆっくりと起き上がってファイナに歩み寄ると胸ぐらを掴んで叫んだ。
「どうしてこの子が死んじゃうのよ!」
衛生面、食事の質、栄養……赤子を育てる環境が何一つ少女の周囲にはなかった。赤子は栄養失調とも、病気とも、食中毒とも判別できない死に方をしていたのだから。もしくはその全てが原因か。
「希望だったの……忌み子として捨てられ、死んでいくまで消費され続けるだけの存在の私が唯一、この世界に産み落とすことのできる希望だったの。なのに……」
「食え」
ファイナは銀髪の少女の手に持たれていたパンを奪い取ると、少女の口に押し付けた。
「お前の口はまだ開くだろ」
「私に生きる意味なんてもうないよ」
その手を払い除け、少女は壁に背中を打ち付けて地面に崩れていく。
「あんたもそうでしょ!? あのトロールの女の人、あんたの大切な人だったんでしょ? 生きる希望だったんでしょ……それを失って、どうして!? どうして立っていられるのよ」
大切なものを失った者同士、それでも立っているファイナと、崩れ落ちて泣き叫んでいる銀髪の少女の二人が娼館の前にいた。
「こうして死んでいくだけなんだって……。もう嫌だよ、死にたいよ。今すぐそのナイフで私の喉を切り裂いてよ。もう終わりだ、あんたも私も! あははははははは!!!」
銀髪の少女は仰向けになりファイナの持っていた護身用のナイフを指差して、狂ったように笑いだした。しかしファイナはナイフを投げ捨てると、少女の手を掴んで体ごと自分の元に引き寄せると叫んだ。
「勝手に終わらせるな! 生きているんだ、私もお前―――いや、貴様も!」
「だって希望なんて無いんだよ、この世界には!」
「貴様は希望を食って生きているのか! 私は違う。希望がなくても生きていける! パンと水だけで十分だ! 希望だって今はなくとも見つけ出してやる!」
絶望しかない世界でも、抗うための手足をファイナも銀髪の少女も持っていた。
「憎き者には最上級の苦しみを与えながら殺してやる! 絶望を与える者たちには逆に絶望を与え返してやる! この道を邪魔する者は善だろうが悪だろうが叩き潰しながら進んでやる!」
エリーザが死に、それを殺した者が今ものうのうと生きている。その事実が許せなかった。
たしかに魔族の命は金で買えるし、まともな職にありつけずにその大半が飢えに苦しんでいる。この街で生まれ育った時点で苦しみながら死んでいく未来は確定したようなものだ。だが、それでも、とファイナは抗い続けることを決意していた。
「この命が尽きるまで、私は私の道を諦めない! 理不尽に屈して泣き寝入りするぐらいなら、殺されたほうがマシだ!」
「……強いんだね、あなたは」
「貴様も強い。子を産んで育み、未来へ可能性を繋ごうとした貴様の強さは私にはない」
エリーザもそうだった。母の屍に抱かれて泣き叫び続けていた赤子の自分を、ここまで育ててくれたのだから。
「だからこそ、生きろ。そして食え! 泥だらけだろうが、腐っていようが、生きる糧だ!」
「でも生きる意味がもうないのは変わらないよ……だから食べられない」
「意味なんかなくていい。希望がなければ、見つけに行けばいい」
「じゃあどこに行けばいいの? どこに行けば希望は見つかるの!?」
銀髪の少女をファイナは抱き寄せて言った。
「私の道に希望があるかは分からない。だが、貴様が望むなら見つけに行こう」
「どうして、そこまで……」
「私もな、大切な人を失って悲しくてしょうがないんだ。誰かに傍に居て欲しい。だから私と一緒にきてくれ。」
決してファイナとて強い人間ではない。気づけば涙を流していたのはファイナのほうだったし、抱き寄せた両手は震えていた。二人は孤独だった。泥臭くて血生臭くて、希望どころかパンのひと欠片も転がっていないこの街で。
それでも強く生きていこう。
絶望に屈するぐらいなら、生きて殺されたほうがマシだ。
「一緒に見つけに行こう。希望を」
「……ええ」
銀髪の少女は静かに頷いた。ファイナに絶対的な信頼を寄せたわけではない。むしろ疑心のほうが大きいかもしれなかった。ただの傷を舐めあう相手なら切り捨ててしまおうと思っていた。
しかし、この世のあらゆる不条理にも屈することなく抗うことのできる存在。つまり絶対的な強者なのかもしれない、とも思っていた。ならばファイナは自分にもう一度希望を与えてくれる存在だ。
いや、いつも希望を奪ってきた理不尽な世界から守ってくれる存在。
それを見極めるために銀髪の少女、アリサは、
「ついていくわ、貴女に」
「ああ。そのためにも食べろ」
ファイナは赤子の屍を抱きかかえると同時に、右手に持っていたパンを銀髪の少女に投げ渡して尋ねた。
「名前は、あるか?」
「アリサ……」
パンを受け取ると、意を決して銀髪の少女アリサは口に運んだ。泥水が染み込んでいたパンだったが、気づけばそれは全てアリサの胃袋の中に落ちていた。
「アリサ・アスカテンナ。それが私の名前」
「そうか、アリサか。私はファイナ・ドラグレイドだ。よろしく」
二人はしばらく見つめ合った後、ぎこちない動作で握手をかわした。
「じゃあ行こう。死んだ者を野ざらしにしておくわけにはいかないからな……。生きている者たちのためにも、死んだ者たちのためにも」
ファイナは赤子をボロ布に包むと、エリーザの死体の入ったボロ布と同時に担ぐと駆け出した。アリサもそれについて行く。
眼前にある理不尽な絶望に復讐するために。
どこにあるかも分からない希望を探すために。
二人の少女は夜明けの空の下、歩み出した。