【第4話:雨音―わかれ―】
気づけばファイナは廃材で出来た天井を眺めていた。道端に倒れている魔族を介錯するのは初めてではなかったし、自分と同じぐらいの歳の子供の物乞いを振り払ったのも初めてではない。しかし慣れたわけではなかった。
廃材の隙間から覗く灰色の空は、もうすぐ雨が降ることを教えてくれた。どんよりと世界を覆う灰色は、まるで今のファイナの心情を表しているかのようだった。
もしかすれば自分もエリーザに拾われなければ、物乞いにも、使い捨ての道具にもなっていたのかもしれない。いや、これから先そうなるかもしれない。しかしファイナが感じているのはそうなるかもしれない恐怖ではなく、そうなる運命を弱き者たちに押し付ける世界に対する怒りだった。
行き場のない怒りとは、まさにこのことだ。
そうこう考えていると、隣に寝転がって同じく灰色の空を眺めていたエリーザが、物思いにふけるファイナの頬を突っついてきた。
「おー、考え事かい?」
「まぁ……ちょっとな」
他の二人は指名が入ったようで少し早めに仕事に入っている。何でも二人同時に相手する商人の男らしい。稼ぎ時だと意気揚々と出て行く彼女らと、ファイナはすれ違いになったようだ。
「なんでエリーザは私を拾った?」
「何を今さら。金の為だよ、金の!」
「嘘はいいぞ」
「はいはい。まぁ勘の鈍いあんたでもそれは分かるか」
「どうして母の亡骸に抱かれて鳴いている赤子を……拾って育てようなんてしたんだ?」
「どうして、だろうねぇ」
夜空を見上げながら、どこか寂しげな口調でエリーザは語り始めた。
「母性本能、悪く言えば母親のエゴってやつでさ……子供を育てることで自分の生きた跡をこの世に残せるんじゃないかって。私の子じゃないけど、この子を立派な子に育て上げて。それが私の生きる意味だったんだって思いたかった」
「つまり、自分が生きた証を残したかった」
「そうね。私たちの命には価値がない。人間に殺されても文句は言えない存在。そんな私たちが生きた証を残すには、一人でも多くの子供を未来へ繋いでいくことなんじゃないかって。このクソみたいな世界を変えることができる希望になってくれるんじゃないかって。変かな」
もっともな理由だった。自分がより多くの命を残し、その命が何かを変えてくれると信じて、尊厳を失ったままの命の炎を静かに消していく。そうやって命を繋いでいくことでしか、自分は未来へ貢献できない。
ファイナはエリーザの右手足を見てその言葉に静かに受け止めた。彼女はもうトロールの女戦士として世界の歪みと戦うことはできない。男に春を売る存在でしかこの世で生きていけない体になってしまった。それでも今そこにある命、ファイナを未来へ繋ぐために必死に生きている。
「でもさ……じゃあさ、エリーザ姉ちゃんは」
しかしそれでも、ファイナは現実に納得できなかった。勢いよく立ち上がってエリーザの目をまっすぐ見つめる。
「諦めているのか!? 自分が生きて何かを変えようとできず、このまま死んでいくことを受け入れているのか!?」
「ああそうさ。誰も思っちゃいないさ。今この状況から抜け出して自由に生きようなんてことはね。自由に生きることができないから、こういう生き方しかできないの。膣が壊れて使い物にならなくなるか、病気を移されて衰弱していくか……そのどちらかの未来でも死ぬよりはマシだって」
「嫌だ! 生きながらえることだけが人生じゃないって……」
「ファイナ。あんたもいつかこの街で春を売って生きていかなきゃいけなくなるかもしれない。いや、そうでなくても受け入れなければいけない現実はあるはずよ。だから……」
「じゃあ一生、世界なんか変えられないじゃないか!」
世界を変えられるかもしれない子供たちに未来を繋げるために子を育むはずが、その子に世界を変えられないと言い聞かせる。幼く真っ直ぐすぎるファイナの耳には、エリーザの言葉が矛盾しているように聞こえた。
「そうかもしれない。だけどそうじゃないかもしれない」
「私は絶対に……絶対に嫌だ!」
言ってはいけない。
これは思っても口に出してはいけないことだ。
「汚れた男の為に股を開きながら静かに死んでいく人生なんて、私は絶対に嫌だ!」
「ファイナ……」
「男に処女を奪われるぐらいなら、舌を噛み切って死んでやる!」
言ってしまった。
自分を育ててくれたのは、誰ともしれない欲望にまみれた男に抱かれるという恐怖を毎晩のように味わいながら金を稼いで、自分に生きる道を教えてくれたエリーザだというのに。そんなエリーザの生き方を否定してしまった。
今まで自分が生きていけた理由を否定したのだ。
「言い過ぎ、た、な」
「いや、間違っちゃいないよ」
「でも……」
「いいの! それがあんたの強さでしょ」
エリーザは松葉杖を左手で抱えてゆっくりと立ち上がると、ファイナのほうを振り返ることなく歩き出した。震えた左手でもしっかりと一歩、また一歩と松葉杖を前に出して進んでいく。
「仕事だ。少しすればまた戻ってくる。そうしたら皆で晩御飯を食べましょ」
ゆらりゆらりと命をすり減らしながらも生きようとするエリーザの背中を、ファイナはただ見つめることしかできなかった。自分はなんてことを言ってしまったのだろうか。絶望に打ちひしがれ、両手はだらりと垂れ下がる。力が抜け、ファイナは全身を木の床に落とした。
「雨の匂いがする」
廃材の隙間から夜空に浮かんでいる月は、次第に雲に隠れていってしまった。
その日の夜は長く感じられた。
ただひたすらに雨が地面に落ちていく音を聞いている気がした。
止む気配のない雨と、夜の街に浮き足立っている男どもの雑踏をファイナはずっと眺めていた。貧困と差別の掃き溜めの街となっているグルガルンも、夜になれば欲望渦巻く肉欲の街になる。魔族の女は安くで抱けるというのがこの世界の常識だ。人間の女と違い「人権」が存在せず、安価で取引される。一部のもの好きはラミアの蛇のような下半身だとか、トロールの巨体に性的興奮を抱くらしく、帝国中央区からわざわざ出向いてくることもあるらしいが。
帝国。
今の世界を支配する人間たちの最高権力のことである。100万もの兵士を従えた軍隊を持っており、軍人が皇帝として君臨し人々を統治する巨大な軍事国家だ。魔族に対して敵性勢力であるという姿勢を崩すことなく、絶えず討伐戦争(という名の一方的な虐殺行為)を仕掛けている。
魔族などそこらへんを彷徨いているだけで拘束され拷問を受けるぐらいなので、魔族たちが生きていける場所はこういった辺境の地しかない。ここでも拘束を免れるような保証はないが、帝国の近くにいるよりかはよっぽどマシだ。
「エリーザ姉ちゃん、遅いな」
仕事が長引いているにしても、途中で少し休憩をもらって夕飯を食べに戻ってくるはずだ。しかし今日はいつになっても帰ってこない。もうすぐ夜が明けそうなのに。
忙しくて戻ることができないのかとファイナは思い、自分とエリーザのパンを抱えて家を飛び出していった。居ても立ってもいられなくなったのは、早くエリーザに謝りたかったからというのもある。今、自分が食べようとしているパンがエリーザの血と肉をすり減らしてようやく買うことができたものなのに、あんな酷いことを言ってしまった。
自分は体すら売ることのできない―――いや幼い少女の体を求める男など星の数ほどいる。そうだ、自分は体を売ろうと思えば売れるのにそうしなかった臆病者なのだ。
そんなどうしょうもない後悔を胸にファイナは駆け出す。ちょうど家の向かい側にある路地を抜けて左にある娼館が、エリーザたちが働いている場所だ。
華やかさの欠片もない木造の建物。ドアの左右にランタンの火が揺れているのみだった。そんな娼館の横にしゃがみこんで佇む人影があった。昼間、物乞いをしてきた銀髪の少女だ。何かを抱きしめてすすり泣いていた。きっと大粒の涙を流そうにも、それすらもできないほど憔悴しているのだろう。
「お前……いや、今は!」
銀髪の少女を無視して、ファイナは娼館に向かって歩き出したその時。
「まったく大変な騒ぎだったぜ……邪魔だ、そこの小娘」
力仕事を任されているオークが全長3mは超えるボロ布に包まれた“何か”を抱えながら娼館から出てくると、しゃがみこんでいた銀髪の少女を退かせてそれを地面に荒々しく投げ置いた。それから間もなく娼館から出てきた白い顎鬚を伸ばした人間の大男が、筒状の箱をぶら下げてゆらりと歩き始めた。
嫌な予感がした。
流れた一筋の汗を腕で拭うと、ファイナはその大男に向かって駆け出した。
「お、おい! その箱の中に入ったものは何だ!」
黒いローブを纏った大男はファイナの問いかけに「クックック……」と汚らしい笑い声を漏らしながら、振り返って箱を見せつけてきた。
「魔族の小娘かァ。いいものを見せてやろう……」
「い、いいから早く見せろ!」
ファイナはその男に対して底知れない狂気を感じた。左右非対称に醜く崩れたうすら笑いをする顔に、口元から垂れた茶色いヨダレ。まるで化物だった
「じゃァじゃーァン」
箱の中から取り出してファイナに見せつけたものは……エリーザの頭部だった。青い血飛沫が頬にべっとりとついており、白目を向いていた。その様子から苦しみに満ちた最期だったということは想像に難くない。
「嘘……」
「こいつは良い女だったなァ……。ナイフを腹に突き刺された時の叫び声といい、そんな中で俺のイチモツが入るとアンアンと甘い声を出しやがる。それに濡れてやがったんだぜ、信じられるかよォ!? そんでもって最期は首切り落として手土産とさァ……これ、騎士団長に「凶悪な魔族を討伐しました」って提出すれば、武勲として認められるらしいじゃねぇかァ。いやァ、俺も出世かねェ……」
そんなはずはない。
さっきまでエリーザは自分の傍にいて、自分を拾って育ててくれて……酷いことを言ってしまったから謝らなきゃと思ってここに来たら、嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
「あ、でもアンアンって断末魔で、濡れてたのは愛液じゃなくて、青い汚い血だっけなァ……いやァ、妄想って怖い怖い」
……こいつが、殺した。
こいつが殺した。
エリーザ姉ちゃんを。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
心の底から叫んだ。理不尽で残酷な世界の中でも、今までこの世界で響いたことがないような獣の咆哮が、夜の空へと打ち上がり爆発する。体の内側を流れる青い血液が、全身から噴き出さんとばかりに暴れ狂う。育ての親を失った絶望すらも一瞬で塗り替えられるほど、濃厚な殺意がファイナの思考を赤色に染めていく。奴の肉を引き裂き、全身が枯れ果てるほどの血を流させねば気が済まなかった。
いやそれでも足りないと思うないほど、巨大な怒りであった。
ファイナは護身用のナイフを握り締めて、そのまま男の右腕に突き刺―――しかし男はローブの下に甲冑を纏っており、その手甲にナイフの刃は阻まれてしまう。
「殺す! お前だけは私が!」
「おいおい、小娘よ。俺はちゃんとエリーザ姉ちゃんの弁償金は払ったぜ?」
人間が魔族を殺したところで罪にはならない。娼館が所有する娼婦であるエリーザとてそれは同じこと。店の所有物を壊したことと同じだ。弁償すれば何もかも丸く収まる。
自分たち魔族は「モノ」なのだ。
生まれるではなく買われる。
死んでしまうのではなく壊れてしまう。
それでも。それでも当事者であるファイナは受け入れられるはずもなかった。この男の腐った性根に汚された命よりも、モノとして取引されていようとも必死に今日を生きようとしていたエリーザの命のほうがよっぽど上等であると知っていたから。
だが世界はそれを認めようとはしない。
「エリーザ姉ちゃんを……命の尊厳を弄ぶなぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
「そうかそうか。金で武勲を買ったと思っているのか、それについては―――」
ファイナはナイフを一度引き、もう一度、今度は男の心臓を狙ってナイフを持つ手を伸ばした。だがその手も男の手に捕まってしまう。
「いい加減、受け入れろよォ!」
そのままファイナは男の怪力に負け、娼館とは反対側の家屋のレンガの壁に叩きつけられてしまう。激昂した男は壁に打ち付けられて横たわっているファイナの腹に、何度も蹴りを入れた。
「お前ら! 魔族に! 生を全うするする権利なんざ! ねェンだよ! そんな奴らが騎士の俺に歯向かうンじゃねェよォ!」
毎日ちゃんとした飯を食べることができ、ちゃんとした鍛え方をして武芸を嗜んでいる騎士の蹴りは、一発一発が想像を絶するほどに重たかった。朝方にパンを食べただけだったので吐瀉するものは殆どなかったが、胃液がのぼってくるのは分かった。吐き出された酸味と、しばらくして口元から流れ出した青い血が、水溜りの中に落ちて荒っぽい波紋を浮かび上がらせる。
これほどまでに無力なものなのか、私は。
薄れる意識の中、ファイナは己の弱さを噛み締めながらも、ようやく自分を育ててくれたエリーザが死んだ悲しみに気づいた。すると、赤い瞳の奥から涙が溢れ出してきた。
ファイナを甚振ることに飽きた騎士の男はエリーザの首の入った箱を抱え歩み始めた。力をなくして横たわるファイナから、男の背中は遠ざかっていく。
行かないで、エリーザ姉ちゃん。
まだ言えていないこと、たくさんあったのに。
嫌だよ。
手を伸ばそうとしても力が抜けてしまい、胃液と吐いた血でドロドロになった水溜りの上に落ちていく。降りしきる雨は容赦なく少女に打ち付ける。
「……ね、え、ちゃ……ん」
視界が次第に暗くなっていく。
雨音が掻き消えていき、思考が停止していく。
ファイナは意識が消えるその瞬間まで、エリーザの首の入った箱を虚ろな瞳で見つめていた。