【第3話:故郷―はきだめ―】
今から6年前に物語は遡る。
魔剣歴81年。
砂塵と酒と死体の臭いで覆われた街、グルガルンに若干6歳の魔族の少女がいた。
彼女の名前はファイナ・ドラグレイド。蒼の義賊の切り込み隊長となる女戦士だ。
世界の端っこにあるこの街の人々の殆どは浮浪者か貧困者だ。それ以外は、社会的立場は安定しているものの何らかの理由で辺境の地に飛ばされ、中央都市部への勤務を目指して職務に励む騎士とその家族、もしくは魔族を商売道具にする意地汚い商人ぐらいだ。
廃材を屋根にし、薄汚れたレンガを積み重ねた壁の家が建ち並んでいるこの街で、ファイナは育った。母は、生まれたばかりの赤子のファイナを抱きながら貧民街の路地裏で息絶えたと聞く。何故、死んだのかは分からない。人間に殺されたか、それとも飢えて死んでいったか。はっきりとしたことをファイナは覚えていなかった。
「ふぅ……朝っぱらから飲んだくれの汚いイチモツをくわえる仕事はキツいわ」
全長3mほどの巨大な体の女性は褐色の肌を、腐食の進んだ木の床に寝転がらせて溜息を吐いた。長い黒髪に細い目をした美しいトロールの女性だった。しかし右手足の腱を切られては戦士として生きることはできない、ただの売春婦としてのトロールでしかない。
トロールの女性はその大きな体躯に引き締まった体つきをしているため、それなりに売れる体をしている者が多い。しかしその怪力を恐れる者が多いのも事実で、トロールの売春婦は右か左かどちらかの手足の腱を切ることで抵抗できなくされている。
それを受け入れられずに討伐される者もいれば、諦めて受け入れ、松葉杖がなければ満足に歩けない体で春を売って生き永らえるか。二つに一つの選択だ。
「エリーザの朝飯は男のクソみたいな味のするモノか?」
「あはは、それは栄養つきそうねぇ!」
「クソの方がマシだと思える悪臭だったよ、まったく。ま、金は持っていたようだから好きなようにさせてやったさ」
狭い小部屋に三人のトロールの女性たちがひしめき合って生活をしていた。皆、胸元を強調したきわどい服を着ていたが、色気の全くない座り方をしていた。そんな中、勢いよく小屋のドアを開けて、巻き角の生えた赤髪の少女が飛び入ってくる。右手には体の半分はある大きさの酒樽を抱えていた。
「エリーザ姉ちゃん、言われていたお酒買ってきたぞ!」
「でかした! 偉いぞ、ファイナは~」
エリーザは左手で上半身を支えながらゆっくりと起き上がると、ファイナのおでこに頭を優しくぶつけて微笑んだ。エリーザの身長の半分もないファイナは「姉ちゃんの石頭……たんこぶできた」と苦い顔をするも、信頼を寄せた相手が元気にしていることに安堵感を覚えているようだった。
生まれてすぐ母と死別し孤独になったファイナを拾ってくれたのは、まだ娼婦になって間もなかったエリーザというトロールの女性だった。本人曰く「サラマンダーという珍しい種族だから後々金になる」と思って保護したと言っていたが、この様子を見るに単なる親切心だったのだろう。
たとえファイナがトロールでも、ラミアでも、ゴブリンでも、同じようになっていたはずだ。エリーザとはそういう優しく、そして強さを持ったトロールだとファイナは信じている。
たとえ金になったとしても、6年間も傍に置いて飯を食わせている理由にはならない。
「酒は娼婦の生きる糧ってやつよ! さ、皆で飲みましょ」
ところどころ割れたジョッキをエリーザは他の二人に配ると酒樽から安物のエールを汲み上げた。床の余ったスペースにちょこんと座ったファイナの前にもエールがいっぱいに入ったジョッキを前に出された。飲んでいい、ということなのだろうがファイナは俯いたまま、ジョッキに手を伸ばそうとはしない。
「私はその……お姉ちゃんたちみたいに、稼いでいないから。飲んでいいわけない」
「なーに言ってんだ、この馬鹿!」
エリーザはファイナにゲンコツをくらわせると、
「お前はまともに体を動かせない私たちに代わって、買い物炊事洗濯、やってくれてんだろう? お前を含めて皆で稼いだ金で買った酒だ。飲め!」
「ありがとう!」
ボロ布を着たサラマンダーの少女ファイナは、笑みの中に一筋の涙を流しながらジョッキを手にするとそれを一気に飲み干した。6歳の舌は酒の味こそ理解できなかったものの、水と違って味もあって、そして何より皆と一緒に飲んで騒ぐのがとても楽しかった。
「……にしても、良い飲みっぷりだねぇ、あんた」
「美味しくないけど、美味しいぞ!」
「ははっ、なんじゃそりゃ」
苦笑いを浮かべるエリーザは、紅い尻尾を左右に揺らして上機嫌なファイナの頭を撫でてやることができないことを残念に思いながらも、過酷な現実の中のひと時の休息を満喫した。
ファイナの日常は朝の掃除と洗濯から始まる。特に今日は悪酔いしたトロールの一人が盛大に嘔吐し、その掃除が手間取った。ひとしきり飲んで騒ぐと三人のトロールは夜の仕事まで眠りにつく。そんな中でファイナは昼間の買い出しに行く。
とは言っても、市場でパンを4つと腐りかけ(もしくは腐っているが食べられないわけではない)肉を買うだけなのだが。たとえ娼婦であっても魔族の体はそう高くは売れない。人間の娼婦に払う金がない客のためにある、というのが一般的だ。
それでも重い荷物を四六時中抱えながら少しでもペースが落ちるとムチで叩かれ、動けなくなると剣の試し斬りに使われる……そんな生活よりは幾分かマシだろう。
買い物に向かう途中だったファイナは足元に転がっているゴブリンの姿を見ながら、そう思った。市街地の真ん中で両手両足を切り落とされており、しかしまだ息はあるようだった。灰色の空を眺めながら何かを呟いていた。不気味に思った者たちが彼を避けていく。
だがファイナは避けることなく彼の目の前に立つと、腰を降ろして話しかけた。
「自分では終われない、のか」
人間であれば四肢を斬り落とされると、間もなく死ぬだろう。しかし魔族は人間よりもタフでどれだけ大量に出血していても、すぐには死なない。
「あぁ……死ねなくて苦しい。こんな無様な姿、お嬢ちゃんに見られたら終わりだ……なぁ」
「無様などではない!」
叫んだファイナは護身用に持っていたナイフを取り出すと、ゴブリンの首筋に突き立てた。
「お前は精一杯生きて、生きて、生きて、生き抜いて貴様はここにいる!」
「良い事、言ってくれ、るねぇ……」
「胸を張って目を瞑ればいいんだ……」
そう言われると四肢を切り落とされ捨てられていたゴブリンは静かに目を閉じた。
「死ぬ前に……教えて、くれ。お嬢ちゃ、ん……名前は?」
「ファイナ・ドラグレイド」
「そうかい……んじゃ、あの世で仲間たちに自慢し、て……やろうか。最期の最期で、強い心を持ったべっぴんさんに、介錯された……って」
「ああ」
ファイナはナイフでゴブリンの首を斬った。どんな生き物も首を落とせばすぐに死ぬ。人間も魔族もそれは同じだ。ゴブリンの死に顔にはどうしてか希望に満ち溢れた微笑みを浮かんでいた。
「これが世界か……クソ……ッ!」
血に濡れたナイフをポケットに仕舞うと早足でファイナはゆらりと立ち上がった。魔族だから、人間の敵だった者たちだから、そんな理由で道具のように使い捨てられていく命。それを見て見ぬふりをし慈悲を与えぬ神、いや神なんてこの世界には存在しない。
フザけた世界を作っているのは、そのような傲慢を許す人間たちだ。人間たちの作り出した魔族を虐げることで成立している社会システム、それに対し苛立ちを覚えながらもどこへぶつければいいのかも分からないまま、気づけばファイナは走り出していた。
そのゴブリンの雇い主を殴ればいいわけではない。
帝国に従順な騎士を殴ればいいわけではない。
世界を歪ませている帝国の人間には6歳の小娘の拳は届かない。
かといって、ではどこに、この拳を向ければいい?
そんな世界を変えられない、弱い自分か。
通りすがる者たちの視線をかいくぐりながら市場に向かうと、雑踏をかきわけて前に進む。6歳の小さな体は他の魔族たちに押し潰されそうになるものの、負けずに押し返してようやく目的にしていたパンと腐りかけの肉を、握り締めた硬貨と引き換えに手に入れた。
どれだけ悔しいことがあっても悲しいことがあっても、自分とその仲間たちが生きていくために必要なことを欠かすわけにはいかない。そうしないと明日は我が身なのだ。
帰り道、突然ファイナの腕が何者かに掴まれた。少女を誘拐して売り物にする奴らか、とも思ったがその手はファイナのそれよりも細く骨が浮き出しているほど飢えているようだった。もう一方の手がパンに伸びようとしていたため振りほどくと、その手の主は路地裏まで吹き飛んでいった。
「物乞いなら失せろ! これは姉ちゃんたちの分だ」
吹き飛んでいった少女はレンガの壁に頭を打ち付け、額から赤い血を流しながらもゆらりと立ち上がり、おぼつかない歩調でファイナに向かっていく。ボサボサにハネた銀髪から覗く赤い瞳は宝石のように輝いており、肌も白磁器のように白く美しい。
銀髪もただの銀ではなく、まるで純銀のような輝きを放っていた。それに赤い瞳は人間では滅多に見なく、逆に魔族などに多いものであった。とはいえ魔族的な特徴は一切なく、人間であることは少し見たら分かることだ。
しかし痩せ細った体はたとえ僻地での勤務にうんざりした騎士の男でも欲情ではなく、同情してしまうであろうほど痩せ細っており、飢えに飢えていることがよく分かる。ファイナよりも少し年上だろう。背丈だけはファイナより高かったし、顔立ちも大人びていた。
人間の少女が飢えて苦しんでいるのは珍しかったが、ありえない話でもなかった。人間の中でも最下層となれば魔族と対して扱いは変わらない。この街、グルガルンはそういった最下層まで落ちた人間たちの掃き溜めでもあった。
「おね、がい……」
「……ダメだ」
喉の奥から絞り出したような擦り切れた声も届きはしない。気づけば銀髪の少女以外にも多くの物乞いがファイナを取り囲んでいた。一人一人に配れるほどのパンはあるわけないし、渡してしまえば今度は自分たちが飢えてしまう。
「おねがい、しま……す……おね、がい、し、ます……」
「……ッ!」
銀髪の少女や、群がってきた物乞いたちを振りほどき、ファイナは駆け出した。どうしょうもできないことへの悔しさが心の底から溢れてきたからだ。銀髪の少女以外は皆、ゴブリンやオークなどといった魔族だった。肉体を酷使する労働にすらありつけず、道端に時々転がっている同族の肉を貪る者もいるほどだ。
この街には当たり前のように絶望が転がっている。
しかし希望は一つも転がっていない。
血と肉を惨たらしくすり減らしながら生きる者たちばかりだった。