おいで
登場人物
宮部貴志
某中学、二年一組の男子生徒。理科の授業は比較的好きだが講義にはあまり興味がなく、内職もしばしば。
有栖川葉月
某中学、二年二組の男子生徒。面倒くさがりで鈍感。サバイバルホラーゲームが好き。
森
某中学、二年二組の男子生徒で委員長。
島田神奈子
某中学、二年二組の女子生徒。大人しくて冷静な自分が好き。割と空気が読める。
綾辻弥生
某中学、二年三組の女子生徒。夢見る乙女。有栖川葉月の事が以前から気になっている。
西野恵一
某中学の理科担当講師。担任として受け持っているのは三年。二年との関わりは理科の授業だけだが、某中学の二年生のイベントの一つである「勉強強化合宿」の担当に選ばれてしまった。
俺は夢でも見ていたんだろうか。
あの夜の出来事を思い出す度、そう思わずにはいられない。
*
「いいかお前ら、始めに言っておくが、幽霊はオカルトではないっ‼︎」
よりにもよって夏期休暇の強化合宿の初日、開口一番、西野先生はそう言った。教室内は一瞬戸惑いに満ちた。それはそうだろう。ここにいる生徒達は中学二年の理科の勉強に来ているのであって、誰も西野先生のオカルト談義など聴きに来ている訳ではないのだから。……まぁ、皆で集まってお勉強会なんて性には合わないけれど、先生に少しでも真面目ちゃんアピールしておいた方が内申点良くなるかな? なんて不届きな下心でこの合宿に参加している俺、こと有栖川葉月のような輩も居るわけだけれど。そんな人間にしてみればますます興味ない内容なんだよね。さぁて、ここは他の生徒達と同様、内職の英単語暗記作業に取り掛かりましょうか。
「それはせんせー、幽霊はいるって言いたいの?いないって言いたいの?」
誰かがアホみたいに間延びした声でそう言った。幽霊は英語で…phantom? specter? うーん、わざわざそんな難しい単語にせずとも、普通にghostと答えればいいか。でもどうでもいいや。そんな単語、覚えていたって再来年の受験に役立つとは到底思えない。
「皆が幽霊と呼ぶものの正体は必ず存在する。だがその事象に対し、安易に幽霊という言葉を使うのは承知出来ないな」
先生の答えに教室はざわめいた。
*
オカルトを否定する人間には大きく分けて二種類いると俺は考えている。簡単に言うならば「そんなの気のせいだろ」と笑いとばす奴と、「それにはれっきとした科学的根拠があるからして『オカルト』だなどとカテゴライズしてはいけない」とぐちぐち論理を展開する奴。俺は間違いなく後者だ。だが論理展開すら馬鹿らしいと思っている俺は一刀両断する。金縛り? レム睡眠です。こっくりさん? 無意識の筋肉運動です。こんな事を言うと女生徒からは「これだから理系オタクとは話したくない」という眼を向けられるが、それは仕方がない。これが俺、西野恵一だ。そして俺は今、中学二年生の教え子を目の前にオカルト全否定発言をしたばかりなのである。
強化合宿に参加している奴らの目的が勉強でない事位は、俺も割としっかり理解している。生徒の半分は内申点、もう半分は夜に予定されている生徒会主催の肝試し大会がお目当てと言ったところだろう。夜の学校で「きゃー怖ーい‼︎」などと黄色い声を上げ、あわよくばお目当ての相手とカップルになってやろうなんて下らない目的のもと、俺の特別授業に来ていると思うと……もう、さあ。教える側としては苛立ちしかないわけだよ。
しかも、俺は二年の理科こそ担当しているが、本来担任として受け持っているのは三年だ。それなのに俺の講義を聴きもしないで内職ばかりしている中二の強化合宿担任に選ばれるとか、訳わかんないだろ? くそ、有栖川は教科書の下で英単語帳を広げてるし、宮部に至っちゃ一番後ろだからばれないとでも思っているのか、教科書すら開いてない。理科の成績が良くなかったら教室から叩き出しているところだ。
おっと、脱線してすまない。要は、だ。俺の発言は唐突過ぎたかもしれないけれど、決して理由もなく言った訳じゃないんだという事だけはわかってほしい。いや、勘違いしないでくれ。それでも俺は真面目に授業するぞ? 俺は教師だからな。
*
同じクラスの委員長、森にどうしてもと頼まれて出席した肝試し大会に俺、有栖川葉月は早速嫌気がさしていた。俺はそもそも特別授業だけの参加の筈で、肝試しには参加する予定はなかったんだ。折角さっさと家に帰り、流行りのサバイバルホラーゲームで今日も沢山の気持ち悪いゾンビ達を潰しまくるつもりだったのに……。まぁいい。くじ運が良かったのか、そこそこの器量良しが同じグループに入った事は救いだったな。えーと、同じクラスの島田に、確か隣のクラスの…名前、なんて言ったかな? 女に興味はないけれど、不細工よりは可愛い方が良いに決まっている。
「は、初めて話すよね、有栖川葉月君。私、綾辻弥生って言います‼︎ 今日は宜しく‼︎」
そうだそうだ、綾辻だ。綾辻は妙に愛想の良い笑みを浮かべ手を差し出してきた。俺はわざと無表情に彼女の手を軽く握り返した。島田が微笑ましいものでも見たかのような生温かい視線を向けていた気がしたが、そこには特に言及しない事にした。
今回の肝試しのルールは至ってシンプルだった。グループで一つペンライトを持ち、玄関から本館三階の渡り廊下を経由し別館一階の図書室へ行く。そして机の上にあるお札を取って裏口から出て、裏庭の木の前まで全員で辿り着く。ただそれだけ。途中で生徒会の人達がお化け役になって驚かせるらしいけれど、大したイベントもないので皆気が緩み切っていた。そう。島田が口を開いた、その時までは。
*
「…今、下の階から音がしなかった?」
そう言ったのは、三階へ向かう階段を一番後ろからついてきていた島田さんだった。彼女の言葉に葉有栖川君と綾辻さんは揃って振り向いた。僕、宮部貴志は危うく有栖川君にぶつかりそうになったけど、寸前で避けて無事だった。
「……聴こえた……かな?」
「……聴こえ、た……?」
僕と綾辻さんがほぼ同時にそう言い、一番前を歩いていた有栖川君は首を傾げた。
「……下って二階の事か? 二階はルートに入っていないし、誰も居ない筈だろう?」
「……そう、だよね……。でも……」
島田さんは二階の廊下を見下ろし俯いた。その顔には純粋な不安だけがあったと思う。けれど彼女は違った。
「……ねえ、二階、行ってみない?」
彼女、綾辻弥生の目の奥に何か妙な思惑が見えたように、僕には思えた。例えば…有栖川君の気を引きたい、とか。考え過ぎだろうか?
「えー、ルート以外の場所へ行くのは、止めといた方が良いんじゃないかな……?」
億劫そうな有栖川君の言葉に僕は黙って頷いた。でも綾辻さんは引き下がらなかった。
「で、でも、泥棒とか……あ、タヌキかも‼︎ それなら私達の手で追い出してやりましょうよ‼︎」
あまりに荒唐無稽なその返しに僕は思わず吹き出しそうになった。案の定、有栖川君は顔を曇らせている。綾辻さんの計画はどう考えても失敗だった。少し可哀想な気もするが、これはフォローのしようがない。
「……うん、確かめたいかも、私」
島田さんからの突然の同意に有栖川君と僕は目を瞠った。
*
非常に面倒な事になったなぁと他人事のように現状分析しながら、俺達、有栖川葉月のグループはルート外の二階に足を踏み入れた。そもそも島田の言葉は本当なのか? そう素直に思った事を口にしたら、何故か綾辻に怒られてしまった。
「有栖川君ったら酷いよう、島田さんの事を信じないなんて……」
「仕方がないよ。私も自信ないから……」
島田が取りなすように口を挟む。島田の真面目な性格は一応同じクラスだから知ってるし、多分本当に聴こえたって事なんだろうけど……正直のところ、現実味に欠ける話だとしか思えなかった。
「何が聴こえたんだ?」
俺の声に微かな苛立ちを感じ取ったのだろう、島田は目を数回ぱちつかせて視線をそらした。
「えっと、二階の一番奥、二年一組の方から聴こえたと思うの……。上手く言えないんだけど、妙な胸騒ぎというか、原因を確かめた方が良いような気がして……。」
「それは分かったよ。で、何て聴こえたんだって?」
「……あまり良く聴こえなかったけど……べ……いえ、げ、かも。そんな感じの唸り声が……。何と言うか…壊れた管楽器みたいな……不自然に低い声だった……」
「……何だろうな?」
そんな話をしているうちに俺達は一組の戸の前に立っていた。
*
「……先生っ‼︎ 西野先生‼︎」
突然開いたドアの音と生徒の呼び声が、一階の職員室でぐっすり眠っていた俺の耳を劈いた。寝ぼけ眼で扉の方を見ると、少し小柄な男子生徒が立っているのがわかった。
「……えーと、お前、確か……?」
「一組の宮部、宮部貴志って言います‼︎」
まだ寝起きでぼうっとする頭を振りながら俺は宮部へ言った。
「……で、宮部、どうした? そんな真っ青な顔して。」
「皆が……皆が……‼︎」
宮部は全身をがくがく震わせ、その両眼には溢れんばかりの涙を溜め、嗚咽まじりにそう言った。そう言うのが精一杯のようだった。肝試しの最中に何か問題が起きたのだろうが、状況が全く飲み込めない以上、俺が直接行かねばなるまい。俺は入り口にかけていた長白衣を羽織った。
「……で、誰がどうなったんだって?」
大股で歩く俺の後を小走りで追いかけながら宮部は答えた。
「えっと、綾辻さんが教室の後ろのドアを開けて、皆入って行って、僕も入ろうとしたら突然ドアが凄い勢いで閉まって……初めは中の三人の仕業だと思ったんです。でもすぐに中から悲鳴が聴こえて……窓ガラスも全部一斉に揺れ出すし……僕、もう怖くて……」
懸命に説明しようとしたのだろうが、宮部の言葉は支離滅裂になっていた。それでも俺は宮部の言わんとする事を少しでも理解しようと努めた。おそらく宮部はこう言いたいのだろう。肝試しの最中に何かしら事故が起きて、三人が教室から出られない状態になったのだと。
「……悪戯じゃないだろうな? 悪戯なら早く言った方が良いぜ? 今なら怒らないでおいてやるから。」
「悪戯なんて、とんでもないですよ‼︎」
胡散臭そうに見下ろす俺を前に、宮部は語気を荒げた。これがもし下らない悪戯だったらどんなに良いか……! そんな思いが宮部の顔から見て取れた。
「……分かったよ、疑って悪かったな」
俺は頭を掻くと一組の引き戸の前に立った。状況は何となく理解した。
多分宮部の言ってる事は嘘ではないのだろう。こいつは俺の授業で堂々と内職する癖に、理科のテストで追試を食らったことは一度もない筈だ。こんな酷い泣き顔で下らない茶番に俺を巻き込むような馬鹿な奴じゃない。であれば、可能性は一つだけ。中に閉じ込められたという三人の自作自演。その可能性が濃厚だ。宮部を驚かせるだけの筈だったのに、宮部がパニックになり過ぎて俺を呼びに来てしまい、今は罪悪感に苛まれながら近くの備品室に隠れてる、大方そんなところじゃなかろうか。ま、俺もこんなあほくさい事で怒りたくないし、ここは馬鹿正直に教室の中を探し、他の奴らが逃げ出せる隙を作ってやろうかね。
…………
……あれ、開かない。
…………
……開かない。と言うか、何だこの手応えは。鍵がかかっているのとも、後ろからつっかえ棒をしているのとも違う。そう、例えるならば引き戸の隙間に強力な接着剤を流し込んで固定したみたいな、かなり堅い感触。そしてそれは窓も、前方の引き戸も同様だった。
「……おい、中にいるのか⁉︎」
真っ暗な教室に人が潜んでいるとは到底思えなかったが、俺は敢えて呼びかけた。だが返事はなかった。何かの気配はあるような気がするが、声らしい声は聴こえない。
嫌な予感がする。
俺は周囲を見回し、手近の消火器を担ぎ上げた。
「せ、先生⁉︎ 何を……⁉︎」
宮部の上ずった声にも耳を貸さず、俺は窓の前に仁王立ちになり声を張った。
「おいお前ら‼︎ 中に人がいるなら、ここをすぐ開けろ‼︎ 開けねーと窓をぶち破るからな‼︎」
……やはり返事はない。教室内も、廊下も、それはしんと静まり返っていた。
「先生……」
宮部は泣き顔を強張らせて俺の後ろに立ち尽くしていた。俺は空いている左手を肩越しに振った。
「宮部、少し離れてろ。ガラスが飛ぶだろうから。」
宮部が頷き後ずさったのを確認し、俺は反動をつけて消火器を教室の窓めがけて投げつけた。
ガッシャアァァァァァァン‼︎
ごうわぁん、ごろごろごろ……。
清々しい程の破壊音と、消火器が床を転がる音が鈍く耳に残った。俺は窓枠に残ったガラスの破片を肘で砕き、室内履きの運動靴で窓枠に上った。
「おい、お前ら、何処だ‼︎」
ガラスで手を切らぬよう気をつけて窓枠を握り、中へと身を乗り出して呼びかける。やはり返事はなかった。ポケットにペンライトが入っていたのを思い出した俺は、そっと片手で取り出しペンライトの尻を咥え、目を瞑り本体を回した。明かりがついたのが瞼越しに分かったところで俺はその頼りない光源を闇にかざした。
室内は嫌にべとつく湿気に満ちていた。昼間は何の変哲もない教室だったその部屋は井戸の中のように湿っぽく、だが粘り気を伴う冷気が仄かに漂っていた。殊更暑い訳でもないのに背中がじっとり汗ばむのが分かった。それでも教室の中を調べない訳にはいかない。俺はできるだけ静かに教室の床へ下りたった。ガラスを踏みしめた音が嫌に室内に響いた。
「おい、何処だ? 怒らんから出て来い‼︎」
ペンライトを辺りに向け、俺は声を張った。乱れた机と椅子の列の他に目につく物はなかった。廊下の方の物音もそれとなく探ったが、隠れていた生徒が出てくる気配はなかった。予想が外れたか? 眉をひそめたその時、変にエコーのかかった低い声が俺の顔の横をすり抜けた。
――ぐぉ、ぎぃぃ、げぇ……
その声、いや、音自体は、朝方聴こえる新聞配達の原付バイクの音に似ていた。だがその音には何らかの醜悪な感情がこもっていた。
怨嗟。俺の頭の中にその二文字が浮かんだ。同時に身体の右半分を南極の海の中に突っ込まれたかのような凄まじい悪寒に襲われ、俺は咄嗟に後ろを振り返った。
だがそこには、何もいなかった。
「……いや、確かに何かが……」
いた筈だ。そう言おうとした時、彼らの呻き声が聴こえた。
*
先生は叩き割った窓から部屋の中へと入って行った。僕はただぼんやりとほうけている事しか出来なかった。どうしよう、他の生徒を呼んだ方がいいかな? でも先生を待っていた方が……? 同じ思考が頭を巡った。混乱と恐怖に止めどなく溢れる涙を堪えられず、僕は涙を拭った。その時だった。
――ぎぃ、だぁ……
不気味にねっとりした低いエコー音が、教室の中から、確かにそう聴こえた。
(……何かがいる‼︎)
僕は思わず後ずさった。しかし退路を柱に遮られて足の力が抜け、その場に座り込んでしまった。すぐに立ち上がり直そうと足掻いたが、両足はすっかり笑ってしまって役に立たなかった。
――ご、ぼぃ、ぐぇ……。
水底から湧き上がる泡のようなおぞましいエコー音とともに、黒い霧のようなものがこちらへ近づいてくるのが分かった。……いや、それは霧というにはあまりに粘着の高い動きだった。そしてその動きには無機質とは思えぬ明確な意思が宿っていた。標的は自分だ。それが直感で分かったにも関わらず、僕は逃げ出す事すら出来なかった。全身の毛穴から嫌な汗が噴き出てきたが、それを抑える術はなかった。そして。
――ごぉい゛ぐぇぇぇぇぇ‼︎
黒い霧はにやりと大きな口を開け、ビブラートのかかった声と共に僕へぬめりと覆い被さった。
大雨の裏山。
沼のウシガエル。
泥から伸びた無数の手。
僕は……。
*
俺は教室の後方で倒れている三人のところへ駆け寄りペンライトを向けた。
「お前ら無事か⁉︎」
俺の呼びかけに初めに気がついたのは島田だった。彼女は俺に気がつくとばっと俺の足に追いすがった。
「お、おい!」
「な、何かが、何かが暗闇に……‼︎」
島田は顔面蒼白で肩を震わせ、完全に我を忘れていた。俺は島田の肩をがっちり掴むとわざと乱暴に揺さぶった。
「落ちつけ‼︎ まず俺を見ろ‼︎ 俺は理科担当の西野だ。分かるか?」
俺の言葉に涙を浮かべ、島田は円らな目を見開き頷いた。まだ身体は震えているが、どうにかこちらの話を聴ける程度には落ち着きを取り戻したようだった。
「二人をとにかく外へ連れ出そう‼︎ 立てるか?」
俺の言葉に島田は戸惑い気味に頷いた。
*
俺、有栖川葉月が目覚めたのは保健室のベッドの上だった。傍らには島田、森、そして西野先生が座っていた。
「…葉月、大丈夫か? 一組からすごい音がしたから駆けつけてみたら、先生がお前達を抱えて廊下へ出て来てて……びっくりしたじゃないか。」
森の心配そうな声に俺は弱々しく笑った。記憶が曖昧だが、俺は二年一組の教室で気絶した筈だ。であればさっき教室で起こった事は夢ではなかったに違いない。けれどここに森や西野先生がいるという事は、俺は助かったという事だ。
……俺は?
「あ、綾辻さんは?」
「大丈夫、隣のベッドですやすや眠ってる」
俺の質問に島田さんが答えてくれた。その顔は今にも泣きそうで、でも俺が目覚めた事に本当に安堵したのだろう、優しい笑みを浮かべてくれた。
「有栖川、気がついて早々申し訳ないが、俺にあの教室であった事を説明してくれないだろうか?」
俺から見て二人の反対側に座っていた西野先生が口を開いた。その声はどことなく険悪な雰囲気を纏っているように感じられて、俺は西野先生の顔をどう見つめて良いか分からず視線を泳がせた。
オカルト全否定派だと今朝宣言していた先生に話すには、それはあまりに非科学的で理解不能だった。きっと何を言っても先生は俺達の悪戯としか思わないだろう。俺は結局目を伏せる事しか出来なかった。
……ぽん。
不意に頭に優しく置かれた掌の温かさに、俺は思わず西野先生の顔を見上げていた。
「朝言っただろ? 俺は皆が幽霊と呼ぶその事象自体は存在すると思ってる。ただそれにはちゃんとした理由づけがなされるべきで、むやみに『幽霊だ』『お化けの仕業だ』なんて騒ぐのはおかしいと思ってる、そんだけなんだ。今回の件に関してはお前らが悪ふざけしたとは思ってないから、どうか正直に話してくれ。な?」
西野先生の優しい言葉があまりにも思いがけなくて、俺は不覚にも涙をぽろりと零してしまった。
「……最初、島田さんが何か聴こえたって言って、それで俺達、一組の教室へ向かったんです。だよな?島田さん。」
「はい、何かよく分からない音が聴こえたので、皆で教室の中へ踏み込んで、そしたら突然ドアがビシャアン‼︎って閉まって……持っていたペンライトも消えちゃって。」
島田の言葉に同調するように俺は力強く頷いた。それを西野先生はただ静かに、無表情に聴いていた。
「……背筋に悪寒が走って、低い、変な声が教室内に反響するみたいに聴こえ始めて……」
「そうです、あれは……」
き、み、た、ち、じゃ、な、い。
俺と島田は顔を見合わせ、一語一語を確かめ合うように声を揃えて言った。そこで俺は本当に確信を持った。信じ難いが信じざるを得ない。あれは幻聴でも夢でもなかったのだ。
「……そんな風に聴こえた、気が、します……水の中にいるみたいに凄く聞き取りづらくて、そんな感じに聴こえた、と言うしかないのですが……あまりの恐怖にすぐに気絶してしまったので、私にはそれ以上の事は言えません。」
島田は申し訳なさそうに目を伏せた。
*
島田と有栖川の話は作り話とは思えなかったが、さりとて直ぐに信じて良いものかと俺は思案した。こういう時は、話し手を追加して少しでも情報を集めた方が良い。俺は委員長の森へ視線を移した。
「すまんが森、宮部を呼んでくれるか?」
森は俺の言葉に頷きかけたが、一時停止すると俺の顔を凝視した。
「……え?」
俺には森がなぜ不思議そうな声を上げたのか分からなかった。森は委員長をやっており、今回の強化合宿の計画を取りまとめたメンバーの一人だ。違うクラスとはいえ、合宿に参加している生徒の名前を覚えていないとは考えにくかった。
「宮部だよ宮部。一組の。」
俺が補足してやると、森はますます困惑した顔になった。
「…いや、呼ぶも何も…」
「どうした?」
俺の問いかけに、森はとても言いにくそうに上目遣いで答えた。
「……彼、今年の5月に亡くなったじゃないですか。酷い大雨の日に、立ち入り禁止になっている裏山の沼に落っこちて。牛蛙の観察をしようとして足を滑らせたって、聞きましたけど……」
「……は?」
俺は自分の耳を疑った。宮部が死んでる? だって昼間の授業にもいたし、さっきも俺を呼びに……。
「……お前ら、四人でグループを組んでたんじゃ……?」
震える声を懸命に抑え、俺は島田と有栖川を振り返った。だがしかし、有栖川は俺の顔を不思議そうに見つめて言った。
「……俺達、始めから三人でしたよ?」
気がつくと、三人は揃って俺の顔をしげしげと見つめていた。
「……そ、そうか……いや、すまなかった。何でもない。今回の件は俺が始末しておくから、お前達は何も気にしなくていい」
俺は慌てて取り繕った。まさか、自分がそういう体験をしていたなんて。正直、認めたくはなかった。俺はそれ以上言及しなかったし、その日以降、俺がその話を持ち出す事は二度となかった。
*
いつからだろう、その中学校では一つの噂話が囁かれるようになった。夏期休暇の晩になると、二年一組の教室に壊れたラジオのような聞き取りにくい重低音が響くという。
「……ごぉ、いぃ、げぇ、ぐぉ、い、でぇ……」
夏の夜、学校の側を通る機会がもしあったならば遠くから耳をすませてみよう。闇の底へ誘い込むような恐ろしい声を、貴方も耳にするかもしれない……。