自分の未来を選択する時なのです 零
この世界における『はると』の活躍は凄まじかった。
陸上部では、中距離のエースとして県大会を優勝、全国大会で一年生ながら五位入賞を果たした。スポーツにそれほど力を入れている学校ではないので、陸上部の全国大会出場は学校創立以来初めてのできごとだった。同時に、夏休み前の定期テストでは学年一位であり、学業成績も主要科目は全て五段階評価の五であった。
また、『はると』は実績だけでなく、その性格も周りから評価されていた。自分だけでなく周りの人間も明るくし、誰に対しても誠実に対応する姿に教師からは生徒会長に就任するように打診があったほどであった。そのような人物であったから自然と彼の周りには人が集まったが、『はると』はその一人一人に平等に接していた。
「オレ、すごいなぁ」
と、のんきなことを言っている『ハルト』はその様子を感心しながら見てきた。今は、昼休みに教室で雑談をする『はると』を『ハルト』は見守っていた。
体育祭の後、『ハルト』は透明人間のような状態でこの世界の様子を観察していた。『ハルト』の方からこちらの世界の住人には干渉できない。また、彼らの方から『ハルト』に気づくこともなく、『ハルト』は単なる傍観者となっていた。こちらの世界の『はると』には、『ハルト』も驚かされるばかりであった。
「オレもやればできる子なんだなぁ」
などと、こちらの世界の自分の活躍に妙な感慨を覚えていた。出来のいい弟をもって自慢したい兄のような気分だった。
「けど、マユはどうしたというんだ?」
『はると』の活躍に対して、『まゆ』の方はおとなしい少女であった。そもそも部活動にも所属しておらず、学業成績も中の上。性格もあの大きな明るい声で背中を叩くようなものではなく、むしろ人見知りでクラスの数人の友人と昼休みにしゃべる程度で、声も蚊が鳴くような声量しか出せなかった。
・・・この世界のオレとこの世界のマユ。この二人がまるで別人だ。それ以外は特に変わっていないのに、なぜこの二人がこうも違う
『ハルト』はこの二人を長い時間観察してきた。体育祭のあった五月の初めから、夏、秋と過ぎて冬になっていた。半年以上の月日が経過していたが、『ハルト』の感覚では一時間程度しか経過していない。ほとんど全ての状況を観察することができていたが、この世界の時間感覚は違うように『ハルト』は感じていた。事実、『ハルト』はこの半年以上の間に一度も食欲と睡魔に襲われたことはない。
・・・まぁ、資料を見せるとか言っていたから、こんな方法になっているんだろうな
『ハルト』は資料を見せる空間としてここに来たのであるから、それも当然かと考えていた。全編のダイジェストではなく、早送りで全編再生しているようなものだろうと、『ハルト』は思い始めていた。
『ハルト』はこのようにしながら、約半年に渡るこの世界における自分の高校生活を振り返っていた。それはあまりに去年の自分と違っていたために、他人の活躍をみせられているような気分に『ハルト』はなっていた。だが、『ハルト』にも一つ腑に落ちない点があった。それは時々襲ってくる胸の痛みである。
「うっ……」
『はると』が教室で女子生徒と楽しげに話している場面を『ハルト』が廊下から見ていると、『ハルト』は急に胸の痛みを覚えた。これは『ハルト』がこの半年の観察中に不定期に襲ってくる謎の痛みであった。起こる場所も時間も不定期だが、一つだけ必ず共通点があった。
「よぉ、まゆ!」
『はると』が廊下から教室の中をのぞいていた『まゆ』に声を掛けた。『ハルト』のすぐそばにいた『まゆ』は驚きながらも軽く手を振り、急いで作った笑顔でぎこちなく答えている。『はると』も白い歯を見せながら手を振ってこたえていた。
・・・我ながらあれは見ているこちらが恥ずかしくなる
『ハルト』が胸の痛み以上の恥ずかしさを覚えていると、『まゆ』は立ち去そろうと走りだした。『まゆ』とすれ違う時、『ハルト』は『まゆ』の小さな声を拾った。
「はるとのバカ」
『まゆ』は小走りに走り去ってしまった。『ハルト』が『まゆ』の発言に耳を傾ける余裕がなかった。
『ハルト』の胸の痛みはだんだんと強くなっていったのだ。だが、それも数分後には収まっていった。
・・・この痛みは一体。そして、どうして『まゆ』と『はると』が会話をすると襲ってくるんだ?
『ハルト』がこの半年で胸の痛みに関して分かったこと。それはこの痛みが『まゆ』と『はると』の二人が会話をした時に起こるということであった。そして、その会話が終わった後にピークをむかえ、その後急速に収まっていく。
・・・この胸の痛みとマユとの関係は……?
『ハルト』は胸の痛みに関する疑問は解消されずに年を越した。そして、現実の世界で『マユ』が事故にあった日の一年前、二人の間にある事件が起こっていた。
※ ※ ※ ※ ※
『マユ』が事故に遭うちょうど一年前の日、『ハルト』は何か嫌な予感がしていた。
それは、事故のことが思い出されてしまうということもあった。また、年が明けてから胸の痛みがだんだんと強くなってきていることも要因の一つだった。胸の痛みが起こるのはやはり『まゆ』と『はると』が会話をしている時であり、ピークも会話が終わってからであったが、その痛みの激しさと時間の長さが日に日に長くなっているのを『ハルト』は感じていた。そして、胸の痛みがひいていった後、『ハルト』には胸の中に何も残っていない虚しさだけが待っていた。何もないのに息のつまりそうな、まるで心が真空空間で押しつぶされてしまいそうな気持ちに『ハルト』に襲われていた。
・・・この重苦しさと息苦しさ。何がどうなっているんだ
そして、この胸の痛みが激しくなる状態がしばらく続いているうちに、その日が来た。
この日、『はると』は陸上部の朝練もなく、一般生徒の登校時間に登校していた。『はると』はいつも黒のスポーツタイプの自転車で学校に通っていた。すると、『はると』の目の前に『まゆ』がいた。緑のリボンでポニーテールを作っている後姿に『はると』は声をかけた。
「おはよう!まゆ」
『まゆ』突然、後ろから声をかけられて背中を強張らせて振り返った。そして、後ろから迫ってくる『はると』に小さく手を振った。
「おはよう……」
「どうした、体調でも悪いのか?最近、元気ないな、まゆは」
『はると』は『まゆ』のすぐそばに来ると自転車を止めた。信号が赤だったのだ。それはあの事故現場の横断歩道だった。
・・・うぅ……また、胸の痛みが……
『ハルト』は『まゆ』のすぐ後ろにいたが、もちろん、二人からは『ハルト』のことが見えていない。『ハルト』はまた襲ってきた胸の痛みに耐えながら、二人の話を聞いていた。
「そうでも、ないよ」
『まゆ』は隣にいる『はると』にやっと聞き取れるような小さな声で話している。『はると』は『まゆ』の隣で自転車を降りて、信号待ちをしている。
「まゆはいつもこの時間に来てるのか」
「うん。はると、今日は朝早くなかったの?」
「今日は朝練がないんだ」
とりとめもない会話であった。一方で『ハルト』は胸の痛みが増していくのを感じていた。二人の会話は続いていく。
「はると、最近もすごい活躍してるそうだね。高校新記録にあと少しだったんでしょ」
『まゆ』は『はると』の方を見上げて話しかけている。『はると』は目の前を通り過ぎていく車を目で追っていた。
「あぁ、そうだった。そんなことより、まゆは最近どうなんだよ?お前だってやればできるやつなんだから、なんかやってみればいいのに、もったいない」
「わたしなんて、何やってもダメだから。やっぱり、はるとはすごいんだよ」
『はると』を見つめていた『まゆ』は目線を下に落としながら、そっと呟いた。
「そんな卑屈になる必要はないんだぞ、まゆ」
『はると』は『まゆ』を見ることなく会話していた。そして、そのまま続けた。
「お前との付き合いが長いオレだからわかるんだよ。お前にはどんなことでもやれば成功させることができるような素質があることぐらい分かるよ」
「そんなことは……」
「いや、あるって」
と、『はると』は『まゆ』の言葉を遮った。『はると』の顔は『まゆ』の方を向いていた。『まゆ』はずっと下を向いたまま話を続ける。
「まゆもやればできる。何も頑張ってないやつには何もできない。お前も何かに打ち込んでみろよ。そうすれば、世界が変わるぞ」
「でも、わたし努力ってできないから……。やっぱり努力できるのって才能じゃないかな」
『まゆ』が『はると』に意見するのは初めてかもしれないと、ずっとすぐ後ろで話を聞いていた『ハルト』は思った。胸の痛みは徐々にではあるが、その激しさを増していた。
「そんなことはないだろう」
『はると』は少し大きな声で答えた。『まゆ』そのことに驚いて思わず一歩下がってしまった。『はると』は一つ間を置いてから話を再開した。信号は青になり、二人以外はすでに横断歩道を渡り始めている。
「大丈夫、お前はやればできる。俺は信じているから」
少しきまりが悪そうな二人の間には冷たい冬の風が吹いていた。
「悪かったな、朝から。気にしなくていいからさ」
そういうと、『はると』は『まゆ』の頭を撫でた。
「あっ……」
『まゆ』は小さな声を上げたが、決して嫌がっているのではなく、いきなり頭を触られて驚いたようだ。その後は顔を真っ赤にして下を向いたまま黙り込んでしまった。
「ほら、行くぞ」
そういうと、『はると』は自転車に乗り、こぎ出して横断歩道を渡ってしまった。『まゆ』はあっという間に行っていしまった『はると』を眺めていた。まもなく、信号が赤に変わって車が『まゆ』の前を通り過ぎた。
「まゆ、先行くぞ」
そういうと『はると』は学校への坂道を登って行った。『まゆ』は何か言いおうとしたが、目の前を通過していく車に遮られて何もできなかった。
・・・何だこれ
『ハルト』の脳内は嫌な記憶に支配されていた。この会話が事故の日の『ハルト』と『マユ』の会話とよく似ていたからだ。場所が同じだけでなく、内容もよく似ていた。ただ、大きく違うのは『ハルト』と『マユ』の発言内容がこの世界の『はると』と『まゆ』で正反対であったことだ。
あの時、『ハルト』は信号待ちをしていると自転車に乗った『マユ』に声をかけられた。あいさつを交わした後に、『マユ』の最近の部活動の活躍について『ハルト』が称賛を贈り、その努力する姿勢に感心していた。と、同時に『マユ』には敵わないと『ハルト』の本心が思わず口から出たが、それがきっかけとなって『マユ』と言い合いになってしまった。しかし、それは、『ハルト』が『マユ』の頭を撫でることで解決できた。
・・・あの時とよく似ている
『ハルト』は胸の痛みが更に増していくことに気がついた。あの時とほぼ、立場を入れ替えた光景が目の前に現れたことで、『ハルト』は気分が悪くなった。しかし、それ以上に『ハルト』にとってこの胸の痛みが耐えがたいものになっていた。
とうとう、『ハルト』は膝から崩れてしまった。今にも心臓が止まってしまいそうな激しい痛みに『ハルト』はかがみこんでしまった。そこは、先程まで『はると』がいた場所であった。
「はるとのバカ」
『ハルト』は胸の苦しみをこらえながら、『まゆ』が小さな声で発せられた言葉を聞いた。それは、廊下で聞いたのと同じ言葉であったが、今回は続きがあった。
「わたしのことを気にしている場合じゃないでしょ。あなたには明日、大事な大会があるのだから、今日、朝練がないわけがないじゃない……」
『ハルト』はこの半年以上の二人の関係を見続けていて気づいたことがあった。それは、お互いにお互いのことをよく考えている関係であるということだ。
例えば、『はると』は周囲の人からも頼られているので、声をかけられることが多い。そんな時は『まゆ』は決して声をかけない。例えば、体育祭で『はると』が主役になっている時、『まゆ』は自ら『はると』の元へ近づこうとはしなかった。
一方で、『まゆ』が一人でいて遠くの空を見上げている時がある。その時のこちらの世界の『まゆ』の姿はどこか寂しげで現実世界の『マユ』からは想像できないが、空を見上げる姿に『ハルト』は魅せられていた。しかし、『ハルト』がそんな『まゆ』の姿を見ることができる時間はそう長くない。なぜなら、そんな時には必ず『はると』が現れて『まゆ』に声をかけるからだ。それは、体育祭の時も、廊下を一人で歩いている時も同じだった。
それはお互いにお互いを支え合う良好な関係なのかもしれない。しかし、お互いに一線を越えることがない平行線のような関係でもあった。半年近い二人のやり取りを全て見ている傍観者の『ハルト』にとっては、なんとも歯がゆい思いをする場面もあったのだ。
・・・この二人はどのような関係になることが望みなんだろう
『ハルト』はまるで他人事の色恋話を妄想で膨らましているかのように二人のやり取りをだんだんと見るようになっていた。『はると』も『まゆ』も現実と顔や声までも同じで、それぞれ同姓同名の男女が舞台の上で恋物語を織りなしているだけに思えていた。そんな風に『ハルト』が思っていたころに今日の出来事があったのだ。
胸の苦しみに耐えていた『ハルト』は『まゆ』を見上げた。徐々にではあるが、『ハルト』は胸の痛みが和らいでいるのを感じていたので、隣の『まゆ』を再び観察することができるようになったのだ。赤いフレームのメガネの奥には瞳に涙を貯めこめるだけ貯めこんでいる今にも泣き出しそうな『まゆ』顔があった。
「はるとの邪魔にならないようにしないと」
『まゆ』は独り言ではあるが、思いが口から滑り出ていた。
・・・それは違う!
『まゆ』の言葉は冬の風に乗ってきたからだろうか、『ハルト』の心をひんやりとした冷気を運んできた。『ハルト』は自らそれを振り払うために、そのようなことを思ったのかもしれない。そして、このドラマを見せられてからずっと感じている疑問へと自ら帰ってきてしまった。
・・・なぜ、この世界のオレ達はどうしてこうも正反対なんだ
徐々に胸の痛みから解放されていく『ハルト』がそんなことを考えていた。『まゆ』も泣き顔からいつものおとなしそうな少女に戻っていた。すぐに信号は青信号となり、『まゆ』は渡り始めた。冷たい風は『まゆ』の髪をなびかせていた。
※ ※ ※ ※ ※
「よう、まゆ」
昼休みの時間、一年生の廊下を『はると』が歩いていると、正面から『まゆ』が歩いてきた。『ハルト』は再び一人で虚ろ気な表情の美少女を鑑賞する機会を自らに奪われてしまった。
「こんにちは」
『まゆ』は『はると』にだけ聞こえるような小さな声で答えた。
「まゆ、朝は悪かったな」
「ううん、気にしてないよ」
『まゆ』は笑顔で答えていた。その微笑みに悲しさはなかった。
「そうか。それはよかった」
『はると』は『まゆ』の前で立ち止まると、頭をかいていた。『ハルト』は二人の様子を伺った。どちらも互いの顔を見ようとはしていない。
「じゃあ、またね」
と、『まゆ』は立ち去さろうとした。それは、傍観者『ハルト』が半年以上観察した経験から、これでこの会話は終わるはずであった。
「ちょっと待ってくれ」
『はると』は『まゆ』に声をかけた。そして、『まゆ』の制服の袖口を掴んだ。『まゆ』は振り返る。突然、腕を取られたことに驚き、この状況に顔を赤くしている『まゆ』に『はると』は話を続けた。
「今、時間があるならちょっと来てくれないか」
「えっ、どうして急に?」
『まゆ』は驚いた様子で『はると』を見ながら瞬きを何度もしていた。
「どうしてもしておきたい話があるんだ」
『はると』は『まゆ』の制服の袖口を掴んだまま話している。ずっと二人を観察していた『ハルト』にとっては珍しい光景に見えた。
「ここでは、話せないの?」
「できたら、誰もいないところで話をしたい」
『はると』はじっと『まゆ』の目を見ている。『はると』の瞳の輝きは『まゆ』の潤んだ瞳に映されている。そんな二人のやり取りを『ハルト』は一人さらなる冬を経験しているかのように見ていた。
・・・おぉ、何だ、この背筋が寒くなる思いは!
『ハルト』が両肘を手のひらでさすっていると、二人の沈黙は破られた。
「ねぇ、はると、何やってるの?」
それは、制服のリボンからして一年生の女子であった。茶色いセミロングの髪の毛先にはウェーブがかかっていて、その髪を右手の人差指でくるくるとまわしながら、『はると』たちに話しかけている。『ハルト』はどこかで見たことがあると思ったら、体育祭の時に『はると』に対して声援を送り、優勝を決めた後は胴上げの輪に加わっていた女生徒の一人であった。
「で、はると。その女、誰?いつも声かけているけど、はるとのカノジョ?」
脳と口との間に何の遮断壁がないのかという『ハルト』の疑問はよそに、『はると』は茶髪女子に返答した。
「いや、そういう訳ではないんだが、ちょっと話があって」
「ふぅ~ん。で、カノジョの袖口を掴みながら何を話していたわけ?」
そう言われて、『はると』はようやく『まゆ』の袖口から手を離した。『まゆ』は離された右手の袖口を胸の前に持ってきて、左手で『はると』が握っていたのと同じ場所を掴んでいた。
「いや、何でもないよ。ただ、まゆに用事があっただけで……」
『はると』はそう言いながら女生徒の方に話しかけていた。しかし、女生徒は『はると』が「まゆ」と名前を呼んだ時、眉間にしわをよせた。そして、明らかに表情を強張らせていた。
「別に、あたしははるとのカノジョでもないけどさ、一応、気になるじゃあない。はるとがどんな娘に興味があるのか」
女生徒は着崩した制服のポケットに遊ばしていた右手を入れて、『まゆ』の方を見た。『まゆ』はヘビに睨まれたカエルというよりは、ヘビに睨まれた鳥の卵のように、逃げることも立ち向かうこともなく、そこにいるだけだった。
「チッ」
茶色いウェーブ女は野生の本能をむき出しにして『まゆ』を見ながら舌打ちした。『はると』が何か言おうとする前に、話し出した。
「あんたさ、はるとの何なん?」
「……幼なじみ……」
「えっ?」
「幼なじみです!」
『まゆ』のありの足音のような小さな声は狩人の目をした鷹のような迫力で迫ってくる女生徒の前では繊細過ぎた。
「あのさ、もっとはっきりと喋ってよ。聞こえないじゃない」
『まゆ』は何も出来ずに立ちすくんでいる。
この時、『ハルト』の胸に急に痛みが舞い戻ってきた。『ハルト』は胸を押さえながら、二人のやり取りを聞いている。
「まぁ、いいや。そんなことよりさ。あんた、はるとのことをどう思ってるの?」
「……どうっていうのは……」
「えっ?聞こえないんだけど」
茶髪のウェーブを振り乱しながら女生徒は『まゆ』に近づいて話を聞き出そうとしている。『まゆ』は胸の前で右袖口を握っていた左手にさらに力を入れた。赤いフレーム越しの瞳には朝と同じような涙が浮かんでいた。
「わたしの……大切な……」
「もう、いいだろう!」
女子二人の会話に『はると』が割り込んできた。
「お前ら、よせよ。こんな所でケンカしても意味ないだろう」
「はぁ、ケンカなんかしてないし、というか、そもそもはるとが……」
茶色いウェーブを振り子のように九十度回転させた女生徒は、『はると』の顔を覗き込みながら文句を言い続けている。
・・・オレ、助け舟を出すの遅すぎだろう!
胸の痛みに耐えながら『ハルト』は目の前の寸劇を見ていた。いつ青春ドラマから昼ドラのお子様版へと変わってしまったのかと、『はると』は考えていた。
『まゆ』は目の前の光景に圧倒されていたが、やがてその場を逃げ出してしまった。
「邪魔にならないようにしないとね」
立ち去る時に『まゆ』が落としていった言葉を『ハルト』はこぼすことなく受け取っていた。立ち去ってしまう『まゆ』に声をかける暇もなく、『はると』は目の前の女生徒をなだめることに残りの昼休みを費やしてしまった。
※ ※ ※ ※ ※
「さっきはゴメン。ホントに悪かった」
放課後になって夕日が差し込む昇降口に『はると』と『まゆ』は立っていた。『はると』が『まゆ』よりも早く下駄箱の前に来て待ち伏せしていた。『ハルト』も向かいの下駄箱の前で二人の会話を聞いている。この時、すでに『ハルト』には軽い胸の痛みがあったが、それは、昼からずっと弱く続いていたので、慣れてきたところだった。
「……」
朝の時の謝罪をすぐに受け入れたのとは異なり、『まゆ』は返事をするのをためらっていた。上履きを脱いで学校指定の革靴を取りだすと、『はると』を無視しながら靴を履き始める。
「お前に怖い思いをさせたことは謝るよ。ホントにゴメン」
『はると』は『まゆ』の顔を覗き込んで許しを請いていた。いつも自信にあふれた輝きを自ら発している『はると』も今は夕日によって誰しもが抱える半身の影に覆われていた。
「彼女は少しイライラしていたんだよ。少し前に彼氏にひどい振られ方をしたんだ。それで、相談に乗っていたんだけど、まさかこんなことになるなんて。ちっとも思っていなかったんだよ」
『はると』は必死に説得しているが、『まゆ』はそれに耳を貸すこともしない。
「まゆ、ホントにごめん。この通り」
『はると』は『まゆ』の進路に立ちふさがり、上半身を九十度曲げて謝罪した。
「わたしは、気にしてないよ」
『まゆ』は頭を下げている『はると』に対して言葉をかけた。
「はると、あなたが誰と付き合おうとあなたの勝手なのよ。わたしのことをいちいち気にかけなくていいから」
『はると』は頭を下げたまま動かない。その脇を『まゆ』は通り抜けて外へと向かった。
「待ってくれ!」
『はると』は顔を上げ、振り向いて大声を上げた。
「まゆ、昼にできなかった話をさせてくれ」
『まゆ』は立ち止まって背中で『はると』の話を聞いている。外から校舎へ差し込む西日で逆光になっている『まゆ』の後姿は『はると』に話しかけた。
「それは、人に聞かれては困ることではなかったの?昇降口なんかで話してもいいことなの?」
「それは、確かにそうだけど、でも言わせてくれ。まゆ、俺はお前にどうしても言わなくてはならないことが……」
「やめて!」
『まゆ』は『はると』の話を遮ると、外へと駆け出して行った。
「行かないでくれ!」
『はると』は『まゆ』の後を追いかけて校舎を飛び出していった。
この間、ずっと傍観者としてやり取りを見ていた『ハルト』には不思議なことが起こっていた。今までとは逆に胸の痛みが少しずつ和らいでいったのだ。今までは『はると』と『まゆ』の会話を聞いているうちに段々と胸の痛みが増していくものであったが、今回は徐々に痛みが引いていくのが分かった。そして、『まゆ』が校舎から外に出ていってしまった時には、すっかり痛みはなかった。
・・・こんなこともあるのか
『ハルト』はその状況をじっくりと味わっていることもできず、校舎を飛び出した二人の後を追うために校舎を出て走りだした。『ハルト』の胸は苦しみ以外のものが支配していた。それは、漠然とはしているが、想像することを拒んでいるものであった。
・・・まさか、やめてくれよ
『ハルト』は腕時計で時間を見る。それは彼の不安をさらに増す結果となってしまった。
・・・このまま二人が歩いていくと、あの時間にあの場所に着いてしまう
『ハルト』があの時間だと考えているのは、現実世界で『マユ』がひかれた現場に居合わせた時間だ。もうすぐその時間になるが、それが、この二人があの横断歩道にたどり着く頃なのだ。『ハルト』には思い出したくない光景が頭をかすめた。リタによって公園に映し出された病院のベッドの上に横たわる『マユ』。『ハルト』にはその映像が鮮明に思い出された。
・・・頼むから、マユ。死なないでくれ
『ハルト』はあの時の『マユ』の姿をまた見ることを考えただけで、自分が嫌になりそうだった。
・・・そんな考え、捨てちまえ!
と、『ハルト』は頭を振って二人を追った。
杞憂であって欲しい。それが、『ハルト』の純粋な願いだった。
※ ※ ※ ※ ※
「止まってくれ、まゆ。話を聞いてくれ」
『はると』の声を無視して『まゆ』は長い坂を下りていく。『はると』は『まゆ』の歩みを止めようと後ろから声をかけているが、まったく相手にされていなかった。
「まゆ、頼むよ。少しでいいから俺の話を聞いてくれよ!」
日頃、学校の中心メンバーとして活躍していることが多い『はると』が、一人の女子生徒に声をかけ続けていることも珍しい。しかし、それ以上に珍しいのは『まゆ』がここまで『はると』を拒絶していることである。『ハルト』は二人が近づいては離れていく運動を繰り返すのをすぐ横で見ていた。
「まゆ、待ってくれ!頼むから俺の話を聞いてくれ」
『はると』は同じことを何度も言っているが、『まゆ』は何も言わずに早足で坂を下りている。『ハルト』はその表情を伺おうとしたが、うつむき加減で歩いているために、なかなか見ることができなかった。
二人が坂を下りていく時に、何人かの同じ制服を着た学生とすれ違った。しかし、彼らは二人に興味を抱かなかったようである。彼らは皆、話す機会を与えてくれるように請う男の声とくっついては離れる男女二人の奇怪な運動に一瞬目を奪われていた。しかし、二人が足早に去っていったために通り過ぎた後は二人のやり取りを注目する人はいなかった。
二人が坂の途中にあるコンビニの前まで来た時に、『まゆ』が『はると』の方を振り返った。『はると』は遂にその試みが成功したかに思えたが、次の『まゆ』の一言が帰ってきただけだった。
「はると、だめだよ。明日は大会なんだから、部活に行かないとだめじゃない」
『まゆ』の手は力強く握られていたが、同時に震えていた。潤んだ『まゆ』の瞳は『はると』の方を見上げている。わずかな身長差があるので、『まゆ』は自然と上目づかいで『はると』に迫っていた。その声はコンビニの前にいた同じ制服の集団にも聞こえるほどであった。『まゆ』にしては珍しいぐらいの大声が彼らの注目を集めた。
「まゆ、そんなことは今、いいんだよ。それよりも大事なことがあるんだから」
「そんなのよくない!」
『まゆ』は更に『はると』に詰め寄りながら反論を続ける。
「はると、陸上にかけてきた思いを捨てちゃダメだよ。何のために、今まで練習してきたの?わたしなんかのためにそんなチャンスを、才能をつぶしたらだめだよ」
『まゆ』はそういうと、顔を近づけ過ぎていたことに気づいた。『はると』から一歩引いてまた、『まゆ』は下を向いてしまった。
「そ、そんなことはないぞ!」
「だめなんだって。わたしみたいな人間にかまっていてはダメなんだって……」
そういうと、『まゆ』は駆け足で『はると』の脇を抜けてまた坂を下りはじめた。
「おい、待ってくれよ、まゆ!」
『はると』は『まゆ』を追いかけた。二人のやり取りをコンビニの前で見ていた生徒たちは一斉に話を始める。そんな彼らには一瞥も与えず、『ハルト』は二人を追いかけて坂を下りていった。
・・・待ってくれ、今はダメだ。そこに行くな!
『ハルト』が叫んだところで誰も振り向くことはない。彼がこの世界に干渉することは一切できない。今回もそのルールが適用されている。だから、『ハルト』には信じることしかできなかった。
時間は刻一刻と迫っている。コンビニの前でたむろする生徒たちも『ハルト』を不安にさせた。それは時間以外の状況も酷似してきたことを示していた。
・・・嫌だ、嫌だ。待ってくれ!
『ハルト』の視界にはあの横断歩道が見えてきた。観察対象である『まゆ』と『はると』は横断歩道に向かって早足で歩いていく。
「まゆ、頼む、話を聞いてくれ!」
「はると、やめて!」
『まゆ』は、『はると』の伸ばした腕を振り払った。そして、『まゆ』は走りだした。顔が下を向いている。前が見えていないのだろう。
「まゆ、だめだ。止まれ!」
『はると』が叫んでも『まゆ』は止まらなかった。
「まゆ、だめだ!」
『まゆ』は『はると』の声を聞くまいと走り続けている。
「まゆ、前を見ろ!」
『まゆ』は前を見た。そして、彼女は足がすくんで立ち止まってしまった。そこは横断歩道のど真ん中。そして、彼女が見上げた先には赤い信号があった。
「まゆ、危ない!」
『はると』の叫び声よりも、大きなクラクションの音が『まゆ』を右へ向けさせた。『まゆ』の目の前には大きなトラックがクラクションを鳴らしながら、迫ってくる。
・・・間に合わない……
と、『ハルト』が諦めかけたその時、一人が横断歩道に向かって走り始めた。
「まゆ!」
「来ちゃダメ、はると!」
『まゆ』がその名前を呼ぶ前に『はると』は歩道から車道へ飛び出した。そして、『まゆ』を押し出した。
「はると!」
少女の叫び声は夕焼けの空に響いた。
※ ※ ※ ※ ※
点滅する蛍光灯の下で『まゆ』は病院のイスに座っていた。どこかの窓が開いているのだろうか、冷たい風が吹き抜ける暗い廊下の先には赤い蛍光灯に照らされた白抜きの「手術室」の文字が浮かんでいた。
あの後、『まゆ』は意識を失っていた。病院のベッドの上で意識を取り戻した時には、すっかり日は暮れていた。
「はるとは?」
見舞いに駆けつけていた両親に『まゆ』がはじめに聞いたことはそれだった。
『まゆ』の両親は少しためらっていたが、『まゆ』は何度も何度も問い続けた。ついにその根気に負けた両親は『はると』が今手術中であることを告げた。
『まゆ』は幸い軽傷で、すぐに起き上がることができた。そして、その後からずっとこの廊下のイスに座っていた。
『ハルト』は傍観者としてここまでの様子を全て見ていた。事故の一部始終も二人が病院に運ばれていった後のこともありのままを観察することができた。そして、今は傷心で身体を震わせながら一人、伏せている『まゆ』を見ていた。
・・・この世界では、オレが死ぬのか
『ハルト』は『まゆ』の落ち込む様子を見ながら、現実世界とこの世界の違いについて改めて考えていた。
まず、自分と幼なじみがまるで正反対の立場になっていた。現実世界の『ハルト』は平凡な少年であったが、こちらの世界の『はると』は非凡な才能の持ち主であった。
・・・まるで、『夢のスーパー超人はると』のようだな、オレ
『ハルト』は自分自身の活躍ぶりにそんなことを思っていた。一方で、現実世界では何でもこなし、屈託のない笑顔しか浮かべていない『マユ』が、こちらの世界では自分の意見を素直に言うこともできない内向的な『まゆ』となっていた。
・・・なぜ、マユはあそこまで変わってしまったのだろうか
『ハルト』が暗い廊下で一人待っている『まゆ』の姿を見ながら考えていた。すると、また、あの胸の痛みが『ハルト』を襲った。『ハルト』はシャツの上から胸に手を当て、服を掴んだ。
この痛みも『ハルト』の疑問点のひとつである。不規則に『ハルト』を襲う謎の胸の痛みは、痛みの強さも時間もバラバラであった。しかし、それは『まゆ』と『はると』が会話している時に多かった。
今、『まゆ』は下を向いたままじっとしている。この世界の『はると』と会話をしている訳ではないが『ハルト』の胸にはずんと重たい痛みがあった。それは激しくないが、ゆっくりと『ハルト』の胸をゆっくりと締め付けていた。そんな痛みに耐えながら『ハルト』は次の疑問点の考察を始めた。事故についてである。
・・・なぜ、一年前に同じような事故が起こっているのだろうか
『ハルト』が現実の世界で『マユ』の事故を経験し、こうしてこの世界に来ているのは十七歳、高校二年生の時である。だが、こちらの世界では高校一年生の時に『はると』が事故にあっている。時期が一年違うことと被害者が違うこと。この二点が大きく異なっている。それ以外の時間や場所、周りの状況などはほとんど変わりがなかった。
『ハルト』は頭をかいた。胸の痛みや答えを見つけられない苛立ちもあったが、それ以上に何も出来ない自分に腹が立っていた。目の端には落ち込んで身体をブルブルと震わせている『まゆ』の姿が映っている。この世界に干渉できない『ハルト』は『まゆ』に触れることも声をかけることも出来ない。
『ハルト』は『まゆ』に近づいた。もちろん、『まゆ』は気づかない。
「マユ……」
『ハルト』の声は『まゆ』には届かない。しかし、『ハルト』には何かできることがしたかった。点滅する蛍光灯の下、『ハルト』は『まゆ』の隣に腰かけた。『まゆ』の右隣に座った『ハルト』は左手で『まゆ』の頭を撫でる仕草をした。『ハルト』は『まゆ』に触れないので、空中で手を往復運動させる。
「スマンな、マユ。オレにはこれしか出来ないんだ」
『ハルト』には何の効果もないことは分かっていた。自らの行為が自らの慰めにしかならないことも分かっていた。ただ、何かをしなくてはならないと、『ハルト』は手を動かしていた。
「はると、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
『まゆ』はずっと謝り続けていた。そして、ただただ泣いていた。決して頭を撫でたからでないことは『ハルト』は分かっていた。しかし、それは彼女の心の荷を軽くしてくれるものであると『ハルト』は願っていた。
・・・こんなものを見せて、何がしたいのだ
『まゆ』が泣きやまない姿を見ながら、『ハルト』は苛立っていた。こんな世界を見せて何がしたいのか、何が目的なのか。それが『ハルト』にとってはこの世界に来た時からの疑問だった。
・・・世界を選ぶための資料。この世界が資料だというのか
『ハルト』は『まゆ』の頭を撫でる仕草をしながら考えた。この世界がどういう世界なのかを知ることが先の疑問点を解消する鍵ではないか。そのことを知ることが先決なのではないか。彼の錆色の脳細胞はフル回転していた。
しかし、『ハルト』は思考を停止せざるを得なかった。また、あの時と同じ現象が起きたのだ。
時の流れが止まった。
「えっ」
下を向いて泣いていた『まゆ』も変化に気づいたようだ。二人を照らしていた蛍光灯が点滅をやめて、ずっと光っていた。吹きぬけていた廊下の風もぴたりと止んだ。
そして、『ハルト』には懐かしく感じられる声が聞こえてきた。
「あなたには、『事実』を変える機会が与えられています」
その声は暗い廊下の先から聞こえてきた。こつこつとこちらに近寄ってくる足音が聞こえる。
「誰なの!」
『まゆ』は立ち上がって叫んだ。
「夏野まゆ様、今こそ、自分の未来を選択する時なのです」
声の主は窓の外から差し込む月明かりに照らされその姿を現した。毛先が大きくカールした青い長い髪。ノースリーブから出た肩、フリルのついたミニスカートと黒のニーソックスの間に見える太ももは彼女が白い肌の持ち主であることを伝えている。
「あなたは一体?」
『まゆ』は問いかけた。だが、『ハルト』はその答えを知っている。なぜなら、『ハルト』をこの世界に連れてきた張本人だからだ。
「申し遅れました。私はリタ=フォン=シュヴァイル。運命の使者でございます」