やっぱり、あなたはすごいんだね
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「ずっと好きでした」
・・・・・・
少女が『ハルト』の目の前に立っている。
「ハルト、ずっと好きでした」
・・・・・・
目線を下に落とした少女は『ハルト』との距離を保ったままである。ハルトの高校と同じ制服なので、高校生のようだが、この場には爽やかさも温かさもない。
「ハルト、わたし・・・」
『ハルト』は不思議な感覚で少女を見つめていた。重たく、ひんやりとした荷物を背中に背負っているような気分になっている自分に、『ハルト』は耐えられそうもなかった。
・・・寒い、暗い、そして何もない。
下を向いているので、『ハルト』は少女の表情をうかがい知ることができない。そんな少女を見ながら、『ハルト』は不安に押しつぶされそうになっていた。理解できない、不快な気分に『ハルト』が耐えられなくなってきた時、少女は顔を上げ、そして、笑いかけた。
「ハルト、ずっと好きでした。だって、あなたは・・・」
・・・マユ!
聞き覚えのある声に『ハルト』がその名前を思い出すと少女はその笑顔を残して遠ざかっていった。
・・・マユ、行くな!
『ハルト』は手を伸ばした。今まですぐそこに、簡単に捕まえられる場所にいたかけがえのない幼なじみは遠く小さくなっていた。
・・・マユ、おい、待て!行かないでくれ!
『ハルト』の視界は歪んでいく。屈折した映像が頭の中をぐるぐると回り、『ハルト』は再び崩れ落ちてしまった。『ハルト』は何もできなかった。
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「マユ!」
自分の叫び声に驚いてハルトは目を覚ました。マユの消えていく水平線へと伸ばしていた手は、天上へと伸びていた。目じりから耳の横をつたう水滴がハルトに起きていることを伝えていた。
・・・マユ、マユは……
グルグルと回っている頭でハルトは必死に現在の状況を掴もうとした。どうやら、今彼は床の上に仰向けで寝ている状態らしい。背中に小石や砂利のゴツゴツとした不快感がなかったため、平坦などこかの部屋の床の上で寝ているとハルトは推測したのだ。また、目の前には高い真っ白な天井らしきものが広がっていることや風を感じなかったので、ハルトは自分が屋外ではなく、屋内にいるのではないかと感じ取っていた。もっとも、今のハルトは寝起きのため、あまり深く考えることはできなかったが、うっすらと感じ取っていた情報からそのような判断を下していた。
・・・オレは助けに行かねばならない
運命の使者リタと公園で、仮契約を結んだハルトは幼なじみのマユを救うために世界を選択する決心をした。頭がフラフラしている状態で、自分がどこにいるのかも分からない状況だが、ハルトは自分の使命を忘れてはいなかった。普通の人生を捨てて選んだ道、ハルトのはじめての決断ともいえる。だから、ハルトはこの役割を勤め上げる意識が高かったのである。
ハルトはゆっくりと起き上がった。仰向けからうつむきになり、両膝を立て一つ一つの動作を確認するように上半身を起こした。その動作の中で頭痛以外はとくに身体の異常は感じられないということをハルトは確認した。ハルトの厄介な頭痛も次第に収まってきて、ハルトが周囲の状況を確認する余裕が生まれてきたのはそれから数分後のことであった。
・・・ここがリタの言っていた『資料を見せるための空間』とかいう場所なのだろうか?
仮契約を結んだ後、リタは時間を再び進めることなく、ハルトをこの場所へ送り込んだ。激しい頭痛があり、記憶も曖昧だが、空間酔いとかなんだか言っていたことをハルトは思い出していた。事前に説明しておいてくれれば、身体の準備はできなくても、心の準備ぐらいはできたかもしれないとハルトは思っていた。だが、そんなことよりも自分が置かれたこの特異な空間に戸惑いを覚え始めていた。何にもないのである。人も物も色もないのである。
・・・ここに何があるというのだ
仰向けで寝ていた時には白い天井があるとハルトは思っていた。しかし、だんだんと周りを観察することができるようになると、天井などなく、空間の広がりがずっと上へと、まるで白い空のようになっていることにハルトは気づいた。また、ハルトは前後左右を見渡しても壁がなく、広い白の草原に置きざれていたのである。地面にも座っているのか、いや、もしかしたら浮いているのかもしれないというほどハルトは実感が湧かなかった。まるで、白い紙に書かれた漫画の主人公が、作者の怠惰のせいで一枚の紙にポツンと描かれてしまった絵のように、ハルトは自分が取り残されてしまったように思えた。
日常生活では起こりうる事がないことが目の前で起きるのは、リタと少しずつ過ごすうちに慣れてきたと思ったが、この不安定なのか、安定しているのか分からないこの空間にはハルトもどうしていいのか分からなかった。
・・・何もない空間が資料をみせる場所でいいのか
リタのやつめ、説明しとけ!―――と、いつものハルトならば思っているかも知れなかったが、状況はハルトにそのような暇を与えてくれなかった。
「・・・ハルト」
どこからともなく聞こえてくる、自分の名前を呼ぶ声に気がついた。声のする方へ意識を集中させると、また同じように自分の名前を呼ぶ声をハルトは聞いた。音量はやっと聞こえるぐらいだが、自分の右側からうっすらと聞こえていることにハルトは気がついたのだ。
・・・マユ、なのか?
はっきりと識別できる音量でもなかったので、ハルトはその音源に向かうことにした。ゆっくりと立ち上がると、ゆっくりとその声のする方へ近づいていった。
・・・マユ、待っていろ。今行くから
念仏を唱えるかのように、ハルトはずっとマユの無事を祈っていた。それはマユを助けたいハルトの本心であるが、同時に不可解な状況でも自分を取り乱すことのないための呪文でもあった。逃げた出したい本音をかき消すように、ハルトは自分を鼓舞していた。
・・・ここで逃げ出すわけにはいかない
前後左右どころか、上下すらまともに分からない場所を、マユを助けるという目的のために、ハルトは声のする方へと歩いていった。マユのことを思い、自らを励まし続けていると、次第に声の大きさがはっきりと聞き取れるほどになってきた。
「ハルトくん、がんばれ」
「行け、ハルト」
声の主は一人ではなかった。複数人がハルトを応援している声援であった。
・・・なぜ、オレは応援されているのだろうか
スポーツが得意でもないハルトが応援されるような場面は彼の人生の中では経験のないことであった。ハルトが記憶の中でそのような経験を探していると、目の前に初めて自分以外のものが登場した。
「これって・・・映写機?」
思わず立ち止まったハルトが独り言をつぶやいた。何もなかった空間に一台の映写機が現れたのである。
※ ※ ※ ※ ※
大きな二つの丸いフィルムと映像を送り出すレンズが備わった映写機がハルトの目の前に置いてある。いや、浮いていると言った方が正確なのかもしれない。そこには台でもあるのだろうか、フィルムを除いたレンズとその本体の大きさは学生かばん程度で、丸いフィルムはフリスビーより一回り大きいぐらいである。
・・・これは動くのだろうか?
ハルトは映写機の実物を見たのは初めてであった。スクリーンに映像を映し出すものといえば、プロジェクターであり、映写機は映画館にでもあるものであろうと、ハルトは思っていた。こんな小さな映写機では家庭用ではないだろうか、などとハルトが思っていると突然カラカラと音を立ててフィルムが巻き取られていく。突然動き出したことにハルトは驚いたが、すぐにレンズの向いている先に目をやった。そこにはスクリーンすらないので何も映し出されていない。
・・・聞こえた声の発生源はここなのであろうか
ハルトがこの映写機に近づいた目的を思い出したが、肝心の声援は映写機を見つけてからは聞こえなくなっていた。今は代わりに映写機の音が響いている。
・・・ここではないのだろうか
何もない世界でハルトはここまで導いてくれた声を失った。代わりに目の前には何も映し出さない映写機が一台カラカラと音を立てている。ハルトは映写機が回るのを見ていくうちに、自分の心までカラカラと回り始めるのではないかと思い始めた。結局は自分一人の力ではなく、リタの力を借りなければマユを救えない事実とそのリタの力を借りることができるのもマユのおかげである現実がハルトをより憂鬱な気分にさせた。
・・・自分一人では何もできないのではないか
ハルトがこのように自分を責め始めていると、何もない空間にまた新たな変化が起こった。イスが一脚現れたのだ。赤いクッションが背もたれと座る部分にあり、肘掛けや全体の枠組みは明るい色の木材でできてきた。何の前触れもなく、何の音もなく現れた新たな存在にハルトは思わず笑ってしまった。映写機とイス。
「なるほど、オレに資料を見せるっていうんだな。この映写機で。だから、このイスに座ってじっくりと見ろというんだな」
返事をする人のいない独り言をハルトは笑いながら言った。こんなに笑っているのは久しぶりだ、とハルトは思った。
「リタ、お前にのっかてやろうじゃないか」
ハルトはそうやって自分一人で決意表明をすると、イスに座った。どっしりと座ると何もない正面を向いた。
・・・オレには何もできないかもしれない
ハルトは自分の無力を認めた。自分の非力も認めた。この状況を作り出したのも自分ではないし、何も一人ではできなかった。
・・・けど、オレは二人に頼られている
何もできない、といって昔のハルト、つまり、リタに会い、この不可思議な状況を経験する前のハルトだったら逃げ出していたのかもしれない。ただ、今のハルトは違った。ハルトは二人の人から頼られている。一人は幼なじみであり、一人はその友人であった。その二人からかけがえのない幼なじみを救うチャンスを与えられたのだ。
・・・他に方法がないのなら、この方法をとことんやってやろうじゃんか!
自分一人で何でもカッコよく、スマートに仕事をやり切る人間はこの世にいくらでもいるが、自分がそういう人間ではないことをハルトは知っている。ただ、それはハルトにとっては認めたくない事実であると同時に隠してしまい自分から見えなくした可能性であった。自分で自分の欠点を認めることは苦しいことであることをリタとの言葉と平手打ちのやりとりでハルトは知った。だが、その先にハルトは絶対に失いたくないものを確かめることと、それを守る手段を手に入れた。
「さぁ、来るなら来い!早くオレにマユを救わせろ!」
一人でこんなことを言っている自分が恥ずかしいと、ハルトは心の片隅で思っていた。だが、それ以上に自分にできることがある充実感と可能性への期待がハルトの心の中では大きかった。
「さぁ、どうした。オレは準備できているぞ!」
誰に問いかけるわけでも要求する訳でもなくハルトは興奮しながら語っている。ハルトがそんな自分に少し酔っていると突然目の前が真っ暗になった。
「いよいよか」
ハルトは肘掛けを握る手にぐっと力を入れた。手汗がハルトの手と肘掛けを少し滑らしていた。ハルトは周りの状況をよく見直してみることにした。先程までの白い世界は真っ黒な世界へと変わっていた。隣にある映写機から光とカラカラとフィルムの回る音だけが今度はハルトに残された。ハルトは周りが白い空間が黒い空間へと変わったのではないかと思い始めた。プラネタリウムで星のない宇宙を見ているようであった。
・・・マユ、待っていろ
何度このことを思ってきただろうか。
・・・オレが救ってやる
具体的なやり方も分からない。だが、その志は思うたびに強くなっていることをハルトは感じていた。
・・・オレが救う。マユはオレが救う
ハルトが何度も気持ちの確認をしていると、突然真っ暗な空間の中に大きな白抜きの数字が現れた。
⑤
白抜きの数字を白い丸が囲んでいる。
④
ハルトの目の前中央に出された数字は減った。
③
カウントダウンであることは、ハルトは気づいていた。相変わらず映写機のカラカラと回る音がしている。
②
ハルトは生唾を飲んだ。自分が前のめりになって、額に汗を浮かべていることにハルトは気づいていなかった。
①
ハルトは目を見開いた。手でこぶしを作ったが、手汗のじめっとした感覚をハルトは感じる暇がなかった。
〇
・・・さぁ、来い!
真っ黒な世界は一瞬白いスクリーン映したかと思うと強烈な光の世界を生んだ。全ての感覚器を目の前の映像に集中していたハルトはその全ての器官で強烈な光を受け取ってしまった。
「な、何なんだ!?」
ハルトは目をつぶり、両手を顔の前で交差させ、これ以上光が目に入るのを防いだ。この強烈な光の被害をまともに受けたのが目であることは言うまでもない。あまりのまぶしさにハルトは目をすぐにあけることができなかった。だが、ハルトは一刻も早くその目を開けたかった。なぜなら、ハルトはまたあの声を聞いたのだ。あの声援が先程よりもはっきりと聞こえてきたのだ。
※ ※ ※ ※ ※
「がんばれ!」
「負けるな!」
男女を問わず聞こえる声援に『ハルト』は気づいた。『ハルト』が何事だと思う暇もない。今度は声だけでなく、周囲の音も聞こえるようなっていた。
「行け、赤組!」
「次の走者は位置について」
『ハルト』は少しずつ目を開ける。まだ視界がぼんやりとしていたが、『ハルト』は少しずつ辺りの様子が分かってきた。ここは『ハルト』にとって見慣れた風景だった。高校のグラウンド、そして、多くの生徒が体操着でいる。『ハルト』は風も感じることができるようになっていた。冬のような冷たい風でなく、心地よい涼しさを運んでくれる新緑の風。季節は夏前と推測できた『ハルト』はこれが体育祭の場面であることに気づいた。
「次はいよいよアンカーです。優勝がかかった大事なバトンになります」
放送部のアナウンスが高校体育祭のメインイベントにして最終種目色別対抗リレーの実況であることを『ハルト』は理解した。ポイントの配点が大きく、全生徒を誕生日で四組に分けて行なわれる体育祭の優勝をかけた大事な競技である。そんな中、『ハルト』は目の前のトラックにようやく視力を取り戻した目をやると、先頭集団が最終コーナーを回って最後の直線に入ってきた。アンカーは証である赤、青、黄色、緑のタスキを肩から掛けて緊張した面持ちであった。
「第七走者から最終走者へのバトンが今渡されました!トップは赤組、わずかな差で青組、黄組。そして、最後にやや遅れてバトンを渡したのは緑組」
『ハルト』はその様子を大会本部の裏から見ていた。ちょうど、ゴール地点となるところなので、群衆も大勢集まっていた。たくさんの人が通り過ぎるにも関わらず、周りの人間は『ハルト』のことに目線を向けることなく過ぎていった。体育祭の日に制服でいるのはとても目立つものだが、反応がない。レースが気になったが、それ以上に今の自分の存在のあり方が気になった。試しに目の前の女の子の肩を叩こうと『ハルト』は手を伸ばした。が、『ハルト』の手はスッと彼女の身体を抜けていってしまった。『ハルト』は自分の手を慌てて引き抜いて見てみると、半透明になっていることに気づいた。ここでは影も形もない透明人間のような存在になっていると、『ハルト』は考えた。
・・・資料を見るっていうのは、実際に過去の立体映像でも見るということなのか?
『ハルト』が自分の状況について考えようとした時、実況のアナウンサーが大きな声を上げた。
「これはすごい!最下位でタスキをつないだ緑組のアンカーが最終コーナーでトップの赤組に追いついた!あとは直線勝負だ!」
会場もどっと沸いている。体育祭は一つずつ全て同じグランドで行なうので、観客は全員同じ種目に集中している。トップ争いをしている二人が最後の直線に入ってきた。赤組の走者がややリードしている。
・・・はて、こんな盛り上がったリレーがあったけ?
『ハルト』はあまり体育祭に関心がなかったとはいえ、一応参加していた。だが、足の速い生徒が固まりやすく、一年生の時などは八人のリレーで半周の差がついてしまった。
「さぁ、トップの赤組は野球部の盗塁王、三年橋口くん!トップを守れるのか!?」
アナウンサーが場を盛り上げる。確かにトップの赤組走者は、身体は小さいがよく鍛えられた太ももで力強く地面を蹴っていた。だが、それ以上にスピードで迫ってくるのが緑のタスキをかけた人物であった。背丈は高校生の平均身長約一七〇センチメートル程度だが、ぐんぐんスピードを上げていく。
「さぁ、緑組も迫ってきた!もう差はほとんどないぞ!」
相変わらず煽ることが上手い放送部である。ゴールまで二〇メートルといったところで、緑の走者が一気に赤組の橋口先輩を追い抜いた。
「抜いた!さすがは陸上部期待の一年生!ゴール前、昨年もゴールテープを切っている橋口くんを抜いた!」
『ハルト』も思わずレースに見入っていた。赤組のアンカーも速いことが分かる。だが、それ以上に緑組のアンカーが速かった。無駄のないフォームと圧倒的な加速力。『ハルト』は群衆の隙間から緑組の走者をチラッと見ることができた。
・・・あんな一年生いたっけ?
『ハルト』が見えたのは疾走してくる緑組のアンカーの顔が少し見えただけだった。
・・・でも、どこかで見たような
『ハルト』にはすぐには思いだせなかった。その時、緑組のアンカーはわずかではあるが、赤組に差をつけてゴールした。空中に空砲が撃たれてレースが終了したことが知らされた。ゴールテープを切った緑組のアンカーは『ハルト』の目の前を通過した。
「えっ・・・」
『ハルト』は思わず、驚きの言葉が口から洩れてしまった。そして、こめかみから頬を経て顎の下へと流れおちる冷や汗を『ハルト』は感じ取っていた。
「ウソだろ?」
ゴールした緑組のアンカーは緑組の団長や応援団長など緑組の幹部である三年生に取り囲まれている。敗れた赤組のアンカーはゴールするとその場に倒れ込み、泣いていた。すぐに赤組の幹部が声をかけに走っていった。まさに青春の一ページとも言うべき光景である。観客たちの心に素晴らしい感動を残していっただろう。だが、『ハルト』には驚きと理解できない苛立ちしか残っていなかった。
・・・何なんだ、これは
『ハルト』が覚えていた体育祭と結果が違うことも本来なら大問題かもしれないが、それ以上に『ハルト』には考えられないことが起こっていた。
「素晴らしい逆転劇!わが校の体育祭史に確実に残る名勝負だったでしょう。その主役となったのは陸上部期待の一年生、浦上はるとくんです!」
※ ※ ※ ※
放送部のアナウンスが『ハルト』に驚きが誤りでないことを告げていた。今、目の前で野球部の盗塁王を抜き、体育祭で主役となった自分自身のことを『ハルト』は見たのである。
「はるとく~ん!」
群衆からは緑組の生徒と思われる女子生徒から黄色い歓声が飛んだ。
「よくやったな、はると。お前のおかげで優勝だ!」
今度は上級生と思われる男子生徒から歓声が飛んだ。中には柵を越えて直接目の前の自分に飛びかかり祝う様子を『ハルト』は見せられていた。
・・・何なんだ、これは。これが資料だというのか!?
『ハルト』には訳が分からなかった。もちろん、『ハルト』にはこんな経験をしたことがない。そもそも、『一年生の浦上はるとくん』と言っているから、去年の体育祭となるが、『ハルト』は去年の体育祭は綱引きと棒倒しの抑える役目でしか体育祭に参加していない。それなのに、ここでは一年生ながらリレーのアンカーとして出場している。この色別対抗リレーは体育祭でも人気の競技で、盛り上がり方も他の競技と比べ物にならないので、各色の団長がそれぞれの組の足の速いものを揃えてくる。たいていは三年生を中心とする運動部メンバーであるが、中には一年生や二年生でも俊足の持ち主が選出されることがある。だが、アンカーは最大の見せ場となるので、一年生がアンカー登場することはほとんどない。実際にハルトが経験した体育祭では、二年生アンカーが四色のうち、一人いただけで、後は三年生だった。しかし、ここでは一年生アンカーでしかも、三人抜きで優勝に貢献する働きである。
・・・あいつは、オレなのか?
『ハルト』は祝福を受けている自分の姿を見ながら自問自答を繰り返していた。高校はおろか、中学の時から部活に入ったことのない『ハルト』が陸上部で期待の新人扱いされることはまずない。また、女子生徒からあんな歓声を受けて平気でいられるほど『ハルト』は女性に慣れていない。慣れていれば、リタとの初体面ももう少し体裁よく対応できただろう。
「そうか、これはリタが言っていた『選択後の世界の可能性』というやつか」
リタの存在を思い出して『ハルト』はここがリタによって連れてこられた空間であることを思い出した。リタがマユを助けたい気持ちは分かっている。だが、リタの考えを全て理解している訳でもなく、『ハルト』にはリタの行動が不思議に思われることが多かった。
「しかし、選択後の世界といいながら、過去の映像を見せるとはどういうことか」
リタのやりたいことは良く分からない。そんなことを考えていると、『ハルト』の横に『ハルト』より若干背の低い女子生徒がやってきた。彼女の黒いしなやかな髪は緑色の大きなリボンで留められていた。
「はると、良かったね」
緑色の大きなリボンが特徴的な少女がそっと呟いた。『ハルト』はその声を聞いてすぐに右を向いた。緑色の大きな瞳が赤いフレームのメガネ越しに皆に囲まれている今回の体育祭の主役を見つめている。
「マユ!」
『ハルト』は叫んだ。『まゆ』は自分の足で立っていた。あの救急車で運ばれていった時や公園でリタが映し出した時の『リタ』とは違って、頬が赤く染まっていて健康そうな女の子であった。『まゆ』がメガネをかけているところを今までに見たことがないが、今隣にいる『まゆ』はメガネをかけたおとなしそうな女の子であった。
「おい、マユ。大丈夫か!大丈夫なのか!」
『ハルト』がどんな大声で叫んでも『まゆ』は気づかない。『ハルト』は両手で『まゆ』の両肩を掴もうとした。だが、『ハルト』にはそれができない。目の前で手を振ろうが、頬を掴もうとしても『まゆ』は気づかない。
・・・そうか、ここは現実とは違うのか
先程から気づいているが『ハルト』はやはり『まゆ』に気づいてほしかった。今の『まゆ』に『ハルト』が心配をしたら、逆に心配されてしまうかもしれない。それでも、『ハルト』は『まゆ』に気づいてほしかったのだ。ただ、さすがに考えつく限りの手段を尽くしたが、『まゆ』はずっと向こうの『はると』を見つめていた。
「ダメか。やはり、気づかないのか」
『ハルト』は心の中では分かっていた。ここはリタによって見せられている資料の中であって、現実ではないことを『ハルト』は理解していた。風になびく『まゆ』の髪に触れられないことがさびしく思えた。
「この後は表彰式に移ります。皆さんはグラウンドの中央に集合して色別、学年別で並んでください」
放送部がプログラムを進めるためにアナウンスしていた。緑組は誰もが興奮を隠し切れていない。『まゆ』は『ハルト』と誕生日が近いので同じ緑組であった。事実、『まゆ』は緑色のハチマキをしていた。『まゆ』は振り返って『ハルト』のそばを離れていった。
「マユ!」
『ハルト』がそう言うと『まゆ』は立ち止まった。『ハルト』は遂に声が届いたのかと思った。しかし、それは違った。『ハルト』の後ろには仲間に囲まれた『はると』がいた。
「まゆ!見てたか!」
「見てたよ。優勝おめどとう」
「おめでとうって、お前も緑組じゃないか。お前もおめでとうなんだろ」
そういうと『ハルト』は後ろから来た緑組の幹部に首に腕をまわされて、祝福されていた。『まゆ』は少し照れた笑みを浮かべながらその様子を見ていた。『はると』は『まゆ』に軽く手を振ってまた緑組の中心に戻っていった。そのやり取りを見ていた『ハルト』は二人の関係が逆転していることに驚いたが、そんな気遣いができるこちらの『はると』にも感心していた。オレもやればできるじゃないか、と心の中で自画自賛していると、急に『ハルト』の胸に痛みが襲った。
・・・うっ、何だ、これは
『ハルト』は胸に手を当てそして、胸のワイシャツをぐっと握った。胸が痛いのだが胸を圧迫するような痛みではなかった。むしろ、ゾクッとする悪寒と身体の中から湧きあがって破裂しそうになる不快感が『ハルト』を襲った痛みであった。
・・・何なんだろう、この感覚は
『ハルト』がその痛みに耐えているすぐ近くで『まゆ』がずっとグランドの中央を見つめていた。そこには、教師の注意も聞かず、体育祭の優勝を祝う緑組の幹部とその中心で胴上げをされている『はると』がいた。
「先生の指示に従ってください。閉会式へのご協力をお願いします!」
放送部の教師側の指示を流すアナウンスがグラウンド中に響いていた。そんな中でマユはずっと胴上げされている様子を見つめている。
「おめでとう、はると。やっぱり、あなたはすごいんだね」
『まゆ』がぼそっと呟いた独り言を聞いているのは『ハルト』をおいて他にはいないだろう。だが、この時が『ハルト』の胸の痛みが一番激しかった時であった。『まゆ』は一つ小さなため息をついて整列するためにグラウンドへと向かっていった。その様子を見ながら『ハル』トは胸の苦しみに耐えていたが、その後、痛みは急速に収まっていった。
・・・あの痛みは何なんだろうか
『ハルト』がそんなことを考えていると閉会式が始まった。新緑の風になびく優勝旗を持ち輝いて見える自分。目立たない位置で閉会式に参加している『まゆ』。いつもの関係性とは変わっている二人を『ハルト』はじっと見つめていた。