自分の未来を選択する時なのです③
「はい、承りました!」
と言うと、リタは両手を胸の前で二度叩いた。すると、病院で指を鳴らした時のように周りの時間が止まったことにハルトは気づいた。マユの映像も止まっており、木の枝が風で曲げられたまま固まっている。
「ハルト様、まったく、ギリギリですよ。あと三秒だったじゃないですか」
リタはハルトの腕の中からゆっくりと一人で起きて立ち上がると、服に着いた埃をはたいた。額には汗が浮かんでいて、呼吸も若干乱れ気味ではあったが、あえて明るく振舞っているようにハルトには感じられた。
「そんなことより、お前は大丈夫なのか?」
「はい、ハルト様が契約の意思表示をしていただいたおかげで、本部からの制裁も解除されたようです。それはそうと、介抱してくださってありがとうございました」
リタは軽く頭を下げた。ハルトが体調を気づかうと、先程の苦しい顔とは違って、すっきりとした笑顔で答えていた。
「ところでリタ、ここはどこなんだ?さっきみたいに、時間を止めたのか?」
ハルトは公園を見渡しながらリタに尋ねる。風で揺れていたブランコは振り子の運動をすることもなく、遠くのネオンは点滅することもなく、その光は黒いキャンパスに描かれた点描でしかなかった。先程までの冷たい風もなく、かといって暑くもない。止まったままの景色はまさに風景画の世界である。
「ここは、契約行為を行なう場所のようなものです。なにぶん、書類にサインとハンコだけでできる契約ではないので、契約者のプライバシー保護も兼ねて、この空間が契約の際には用いられる決まりになっているのです」
リタは事務的な説明をしながら、辺りを見回して何かを探しているようだった。
「あっ、ありましたね。ハルト様あちらにイスとテーブルがあるのでそちらに移動しましょう。たぶん、必要なものも揃っているでしょう」
そう言って、リタは公園の入口の方を指差した。すると、そこには野外の公園にあるには相応しくない木製のイスとテーブルが置かれていた。
「さぁ、行きましょう」
リタは再びハルトに催促して、テーブルとイス二脚が置かれた公園の入口に歩いていった。ハルトもリタに言われるがままついていった。
「おい、リタ。さっき時間がないと言っていたけど、大丈夫なのか?」
「あぁ、そのことなら大丈夫ですよ。この空間に入るまでの時間に制限があったのだけですので、もう時間の心配は必要ないですよ」
リタはゆっくりとした足取りで先程までの苦しさを感じさせなかった。何も動かない世界の中を二人は歩いている。公園の入口に着くと、立派な木彫りのテーブルの上に一枚の書類が置かれているのにハルトは気がついた。
「さぁ、どうぞ。ハルト様、お座りください」
と、リタはイスを引いてハルトに座るように促した。ハルトがそのイスに座ると、リタは向かいのイスに座る。
「では、改めまして、ご本人様確認をさせていただきます。まず、あなたは浦上ハルト様でお間違いないですか?」
リタは書類を自分の方に引き寄せ、目を通しながら質問している。
「もう、何回会ってるんだ?そんなことよりも早く、マユを救いにいかないと」
「ハルト様。大事な契約ですので、必要な確認を細かく行なう必要があるのですよ。早く済むようにご協力をお願いします」
リタは頭を下げながら頼んでいる。ハルトも早く終わらせたかったので、協力することにした。
「そうだ、オレは浦上ハルトだ」
「はい、分かりました。それでは自己認識の確認が取れましたので、生態確認をさせていただきます。失礼させていただきます」
そう言うと、リタはイスから立ち上がり、ハルトの横へ近づいた。そして、最初に出会ったときのように、自らの額をハルトの額に押し付けた。
「動かないでくださいね」
じっと三秒。リタの吐息がハルトの鼻の先をなでる。
「はい、データが取れました。データベースで確認させていただきます」
自分の席に戻って、座り直すとリタはこの前のように目を閉じた。
「はい、生態的な確認が取れました。浦上ハルト様、ここからは仮契約の内容を一緒に確認させていただきます」
そう言うと、リタはハルトの前に一枚の紙をそっと置いた。学校のノートよりは一回り大きいサイズ、A4サイズ程度の何も書かれていない紙だった。
「ハルト様、今回は仮契約です。正確に言うと、本契約前の必要な手続きに関わる契約ですので、この契約によって後に取り返しのつかない事態が発生することはございません」
リタはハルトの正面に座り、ハルトの目を見ながら話している。
「今回の主だった内容は二点ございます。一つは世界を選択するための資料の提供に関する内容、もう一つは本契約の期限についてです」
「また、期限があるのか?」
ハルトは眉を寄せて不満を表した。つい先ほどまでのカウントダウンに疲れていたからだ。
「一応ございますが、先程のような急ぎの期限ではありません。あとできちんとご説明させていただきます」
リタはハルトの質問により事務的に答えている。
「まずは、我々が提供する資料についてです。資料の内容はハルト様が選択をなさる際に必要だと思われる内容について関連するものを全て我々が提供させていただきます。それはあらゆる情報や知識だけでなく、人の記憶や感情という媒体も含まれています」
「記憶や感情?人の脳の中にあるものも資料になるとでもいうのか?」
「はい、ハルト様だけでなく、他の方の記憶でハルト様が世界の選択に必要と思われるものは私どもが提供させ頂きます」
ハルトは記憶や感情が資料として提供されるということがよく分からなかった。しかし、今自分がいる空間や置かれている状況も人の常識が通用しない。だから、そこまで気にならなかった。ただ、一点気になることが思い浮かんだ。
「その記憶や感情ってマユのものも含まれるのか?」
ハルトが世界を選択することとなったのは夏野マユがその権利をハルトに託したからである。となれば、当然マユのことが出てこない訳はないだろうとハルトは思ったのだ。
「その点は私にも分かりかねます。提供される資料というのは全て本部より選定されるものなので実際に資料が届くまでは分かりません。ただ、今回はこの契約に至った経緯を鑑みるに、提供されるのではないかと思われます」
リタは軽く頭を下げながら答える。ハルトはそれ以上問い詰める気になれなかった。先程のリタの苦しむ姿が思い出されたからである。
「わかった。で、他に話すことは?」
「前にもお話しさせていただきましたが、資料の提供方法にはいろいろな方法があり、中には多少強引な手を使うものあるので、その点はご了承ください。また、資料には選択後の世界の可能性について示されたものも含まれているので、よく確認してください」
わかった、わかったと、話を早く進めたいハルトは首を縦に振っていた。時間が止まっているとはいえ、今のハルトには一分一秒が惜しいように思われた。
「最後に、本契約の期限ですが、全ての資料をハルト様が十分に吟味なされたと判断された時点となっております」
判断された時点?それは、ハルトが決心した時ということだろうか。
「その判断は私が行なうことになっています。それが私たち、運命の使者の責務ですから」
リタは右手の手のひらを胸にあてながら話していた。大きな紅い瞳の輝きはハルトをじっと見つめていた。ハルトはリタに契約の期限を定められることに戸惑っていた。何の前触れもなく突然現れて、何も言わずに退場したかと思えば、時間を意のままに操り、場の主導権を完全に掌握してしまうリタに、決断の主導権まで握られてしまうことが不安だったのだ。だが、リタの大きな瞳は彼女の毒々しい舌ほど語りはしないが、一つのことを訴え続けていた。
「ハルト様、どうか私を信じては頂けませんか。運命の使者としての私とマユの友人としての私を信じていただけませんか?」
言葉に出す前にハルトには分かっていた。リタは確かにふざけている時も多いが、契約の内容については真面目に話していた。何よりも、ここに来ることに躊躇していたハルトを涙ながらに叱咤し、今、その紅く強い視線をこちらに向けているリタを、ハルトは信じているのだ。
「わかった。お前のことを信じよう」
「ありがとうございます」
と、リタは深く頭を下げた。深々と下げた頭をゆっくりと起こすまで十秒ほどかかっただろうか。リタは呼吸を整えるとハルトに問いかけた。
「それでは、ハルト様、仮契約を結んでいただけますか?」
「あぁ、もちろんだ」
ハルトは即答した。いつも煮え切らない態度をとっている自分が、すぐに返答できたことに自分自身が驚いていた。
「やっぱり、ハルト様は少しお変りになられましたね」
リタは微笑みをハルトに送った。
「契約の意志を確認しました。では、こちらの紙にサインをしていただけますか」
そういうと、リタは先程ハルトの目の前に出した紙を示すと、すぐ横にペンを置いた。白い羽がついたつけペンであったがすでにインクがペン先についていた。
「名前だけでいいのか」
ハルトの問いにリタは頷いた。ハルトはペンを走らせた。いつになく、ペンが軽かった。ハルトは、マユから世界を変える権利が託され、そのためにリタを信用している自分に新鮮さを覚えていた。
・・・これは、あの『夢のスーパー超人はると』になれるのか
サインを終えたハルトにとって、世界の選択の責任は重荷ではなく、彼を高みへと連れていく翼となっていた。託されるという信頼と託すという信用を同時に手にしたハルトは、生まれ変わったような高揚感に全身が支配されていた。
「はい、仮契約完了です。お疲れさまでした」
そう言うと、リタは指を再び鳴らした。また、周りの世界が元に戻るのだろうと、ハルトは思っていた。しかし、世界は元に戻らず、ハルトは急で激しいめまいに襲われた。リタに説明を求めようとしても、立っているのが困難なほどの立ちくらみである。ハルトはその場に膝から崩れてしまった。
「申し訳ありません、ハルト様。これから資料を提供するための空間へ転送されることになるのですが、人間の方はどうしてもこの空間酔いが発生してしまうのです」
崩れ落ち、床に手をついているハルトにリタはかがみ込んで話していた。ハルトからはリタの顔が歪んで見えた。激しい頭痛をこらえていたハルトだったが、やがて視界は真っ暗になってしまった。遠くなっていく意識の中でハルトはリタの声を聞いていた。
「ハルト様、あなたに私の友人を託します。だって、あなたは・・・」
リタの声は遠くに去っていった。すると、ハルトは薄れゆく意識の中でその声を聞いた。
「ハルト・・・」
何度も聞いたことのあるその声は、とてもか細く、今にも途切れそうな声であった。
・・・マユ
意識が朦朧としているハルトは、その名前を強く願った。
・・・待っていろ、マユ
今助けにいく。思い出される幼なじみの屈託のない笑顔に、そんな誓いを立てながら、ハルトは深い眠りへと落ちていった。