あなたの運命をあたしに預けてみない?
「こんばんは。お邪魔してます」
その少女は窓のへりに腰かけていた。月に照らされた夜空を背景にして。彼女は窓から半身を乗り出して星を見上げていたようで、ハルトに気付くと落ち着いた様子で彼に挨拶をした。月夜にも負けないぐらい深く、引き込まれてしまいそうな青いロングヘアーは、毛先が大きくカールしていて、彼女から発せられる甘い空気を抱えている。吸い込まれそうな青い髪と対照的な星の光に負けない輝きを持った大きな紅い瞳が印象的だ。
「あら、そんなに驚いた?まぁ、びっくりするのも無理ないかな」
深夜の来訪者は窓のへりから降りると、ドアを開けて立ったままのハルトの方へ向かってきた。ノースリーブから見える肩、歩くたびに見え隠れする腰回りの肌、そして、フリルの付いたミニスカートと黒い二―ソからみえる絶対領域は、今の時期には寒いそうであったが、暗い夜でもわかるぐらい透き通る白い肌の持ち主であることを伝えている。また、耳の大きな星型のイアリングや手首の大きなブレスレットが月の光に照らされて歩くたびに一瞬、また一瞬と輝いている。
「ねぇ、何か言ったらどう?」
ハルトが少女との距離がほとんどないのに気づいたのは、甘い香りが彼の脳に認識された時であった。その時、彼女の顔はハルトの目の前であり、息遣いも伝わってくる。
「もしかして、あたしに見惚れている?」
彼女は手をハルトの紅潮した頬へと伸ばす。この時彼は初めて動いた。彼女の手を赤くなっている頬から振り払うと、一歩後ろへ引いたのだ。そして、慌てて手を引っ込め、下を向いた。
「うふふ、カワイイ。まだそういう経験がないのかしら」
彼女は長い髪を手ですくと、耳へとかけ、ハルトの顔を覗き込むように見上げる。整った顔立ちに薄いピンクの唇が、光沢を放っている。瞳の紅い輝きはまっすぐな視線となってハルトの顔を襲った。ハルトが慌てて目線をそらすとそこにはノースリーブの隙間から自己主張の強い胸の谷間が彼の目を襲うのである。
「ねぇ、いい加減、何か言ってよ。さすがにもうしゃべってくれてもいいんじゃない?」
・・・だ、だめだ。オレの理性が限界を超えてしまう・・・
平凡な男子高校生がこのような状態でも、本能を抑えているのはキセキと言うべきだろう。
「ねぇ、ほんとどうしたの。具合でも悪いの?」
彼女は心配そうな視線をハルトに送っている。誰もが認める美少女、そんな少女が目の前に、いや、本当に目と鼻の先にいることが彼を混乱させている。
・・・あぁ、こんな時に『はると』だったら気の利いたことでも言えるのだろうか。
典型的な夢の世界の状況に思わず夢の世界の主人公のことを思い出し、現実の対応を重ねてしまっている自分にハルトは軽い失望を覚えていた。もっとも、現在の状況があまりに非現実的であることに気づかないのは、彼が動揺していることの表れであるのだが。
「い、いやぁ、そ、その」
普通の運命しか歩んでこなかった少年は、今脳の細胞をフル回転させて、答えをひねり出そうとしている。そして、この状況を何とか理解しようとしていた。
・・・そう、まずは目の前の人物が誰で、何でここに来たのかを知らなくてはならない。勝手に人の部屋に入り込んでいる時点で怪しいじゃないか。何か企みがあるのか、はたまた犯罪目的なのか。と、とにかく、俺は部屋の主としてこの女に聞かなくてはならない。「お前は誰だ」と。なんだ、考えればできるじゃないかオレ!息を吸って吐くときに今考えたセリフを言えばいいんだ。よし、まずは息を吸って、
「ねぇ、大丈夫?」
少女は語りかけながら再びハルトの顔を下から見上げるように覗き込む。ハルトの目には彼女のあの豊かな胸が飛び込んできた。その刹那、彼は息を吐いた。
「お、おっぱいは誰なんだっ!」
不可抗力。一瞬にして辺りの空気が凍りついていくのがハルトには分かった。そして、己の血の気が引いていくのも分かっていた。取り繕おうと少女に話しかけようとしたその瞬間、
バチン!
という彼女の平手打ちがハルトを襲った。どうやら、今夜は悪夢が現実まで出張しているのだろうと、ハルトは左の頬の痛みを感じながら思っていた。
※※※※※
「あんたさぁ、ねぇ、もう少し、デリカシーってもんを考えた方がいいんじゃない?」
少女はハルトの部屋の中央にあるテーブルで頬杖をつきながら語りかけた。ビンタの後、彼女が部屋の中へ戻っていき、上座の方へ座ると、「こっちに来なさい」と下座を指さして座らした。まるで自分の部屋のような振舞い方だった。
「大体さぁ、女の子にそんな口のきき方するなんて、サイテーよね」
先程までの月夜に照らされた落ち着いた妖艶な天使は、ハルトが入る際につけた室内灯に照らされた態度のデカイねぇちゃんになってしまった。ああだこうだと文句を言い続けているその姿に先程までのイメージが崩れ去ってしまった。だが、そのことがハルトを少し落ち着かせることになった。もちろん、ビンタされた事実と頬に残る痛みが主な原因ではあるのだが。
「その前に、お前は誰なんだ?人の部屋に勝手に入り込んできて、いきなり人を殴って、あいさつもしないやつに、なんで俺は説教されないといけないんだよ」
こんな普通のセリフが言えるようになったのも、彼が落ち着いてきた証左となるだろう。
「あっ、そうっか。まだ、あいさつしてなかったけ?」
今更ながら気づいてしまったことに、とくに悪びれる様子もなく、座りなおして
「あた・・・私はリタ=フォン=シュヴァイルと申します。運命の使者をやってます!」
ゼロ円で売っているスマイルでも人は不快な気分にはならないだろう。だが、彼の目の前のあるのは、感情のこもっていない営業スマイルである。運命の使者。はて、新手の信仰宗教か何かの勧誘なのか。いやこんな時間に来るわけがない。などと聞きなれない言葉に戸惑っているハルトを無視するかのようにリタは続ける。
「本日は浦上ハルト様にご相談があってお伺いいたしました。まず、確認ですが、あなたは浦上ハルト様ご本人でお間違いないですか?」
「えっ?なんだよ、急に。何でそんなことをお前に教えなきゃならんのだ」
「(チッ、めんどくせぇ)ウ・ラ・ガ・ミ・ハ・ル・ト様でぇすぅかぁ?」
なんだか、心の声が聞こえたのは多分、気のせいだろう。しかし、それは平手打ちの恐怖をハルトに思い出させるには十分だった。防衛本能で彼は首肯した。
「ハイ、了解いたしました。こちらでも一度、本人確認いたします。少し、失礼しますよっ~」
そういうと彼女はハルトに近づいた。彼は身をそらしたが、彼女はお構いなく近づいてきた。そして、右手でハルトの額から前髪を除けると
「ちょっと動かないでくださいねぇ」
といって自分の額をハルトの額にくっつけた。じっと三秒。呆気にとられているハルトをよそにリタは「はい、大丈夫です」とまた上座に座ってハルトに向かい合った。
「ただ今データベースと照合いたしますので、少々お待ちください」
・・・何なんだ、この対応は。事務的にみせかけて・・・この女は何が目的なんだ。
リタは目を閉じてじっとしている。ハルトは改めてリタをよく観察してみた。なかなかお目にかかれない美少女であることは明るい部屋の中でも確認できた。しかし、改めて見てみると幾分幼く見える。身長はハルトより若干低く、声も少々高い。さらに、大きな紅い瞳に、赤みを帯びた頬が、なるほど、彼女を幼くみせているのだろう。外見に似合わないのはその胸だけであった。
「はい、生体レベルでの確認が取れました。浦上ハルト様、本日は運命の使者としてお願いがあってこちらにお伺いいたしました」
リタは改まってハルトに話しかけた。
「浦上ハルト様、あなたは今の世界にご満足いただいているでしょうか?」
「えっ、いや、急にそんなことを言われても」
唐突な問いに戸惑いながらハルトはすぐに答えることを避けた。こんな質問をしてくるので、ハルトは再びこの少女を新興宗教の勧誘かと考えた。しかし、平日の昼間にインターフォンを鳴らす中年女性以外の勧誘を知らない彼は、先程の理由からその仮説をうち消した。
「あら、即答なさらないのですね。あなたは『Yes』と即答する確率は七十二パーセント、『No』と答える確率七パーセント、『えぇ、今日もいい天気ですよ』などと自分の理解力のなさを露呈する確率二十一パーセントと踏んでいたのですが」
・・・どんな予想だ。
「まぁ、無理もないですかね。あなた様は普段から何も考えずに生きていますものね」
「そ、そんなことよりも、お、おま・・・」
「では、質問を変えましょう。」
・・・こいつ、どんだけ勝手に進めていくんだ。それにさっきからオレの心にトゲが刺さってくるのは気のせいだろうか。
相手の返答も、発言も許さずリタは淡々と説明を続けている。コホォンと、右手でこぶしを作って一つ咳払いをするとこう続けた。
「あなたは夢の世界に行きたくはありませんか?」
リタは営業スマイル全開でハルトを見つめている。こいつ変なことを言う。ハルトはその短い人生から得た教訓の一つとしてこういう人間にはあまり関わりを持たないようにするのが一番だと心得ていた。つまり、相手に自分が魅力のない人だと思わせればいいのである。
「夢の世界って、なんだ?おとぎの国とかテーマパークにでも行くのか?」
「はぁいぃ?」
「いや、夢の国ってそんな遊園地があったような気もんで。それとも何か、ゴミの埋め立て処分場の方とか・・・」
リタはこちらを向いて営業スマイルを崩さずに固まっている。ハルトはいい傾向だと考えた。とにかく、自分が話をする価値のない人間だと思わせれば、成功である。現状の作戦行動を続行せよとの脳内作戦会議が一瞬のうちに終了した。
「とにかく、オレはお前さんの話に、興味はないの。早く帰ってくれないかな。オレ、明日早いんだよね。あとさ、君。見たところオレより年下に見えるんだけど、こんな時間に外、出歩いていいの?お母さんが心配しない?」
ハルトは勝利を予感した。先程から、リタが何もしゃべらないことを勝利の吉兆と考えたのだ。だが、事態一瞬にして急転した。
「は、ハルト様。お・ふ・ざ・けが過ぎるのではないですかぁ?」
何だろう、この人の心を突き刺すような空気は。人はこれを殺気というのかもしれない。己の敗北を認めなければならない状況にあることを本能的に気付いたハルトが殺気というものを学習したその時、リタがテーブル越しに近づいてきた。額をくっつけた時とは目つきが違った。その大きな瞳を半分閉じた状態で
「にぃちゃん、ちっとは真面目に話したら。あたしの話が聞けないのなら、"人生の"夢の島に案内してもいいんだからさぁ」
ハルトは何も言わずに首肯した。激しく首肯した。
「もう、こっちが真剣なんだから、真面目に話を聞かないとだめだぞぉ」
上座に座り直したリタは再びあざと・・・いや、あどけなさの残る少女に戻った。
「うぅ~ん、少し質問の仕方が悪かったかなぁ?」
リタは話を本題に戻そうとする。ハルトはもう諦めて彼女の話に付き合うことにした。
「そ、それで、夢の世界って何なんだ・・・ですか?」
「夢の世界は、夢の世界ですよ。言葉の通りそのまま。もっと正確に言うのなら、こちらの世界からみた夢の世界ですよ」
「だから、それじゃあ、よく分からんと・・・すみません。私にはよく分からないのですが、もう少し分かりやすい説明をお願いできませんか」
恐怖する心を抱えたハルトには、イマイチ、リタの言いたいことが分からなかった。やっぱりリタと名乗る少女は不審者なのだろうか。だとしたらなぜ自分を拘束もせず、脅迫もせず、ただ座って質問などしているのだろう。などとハルトは緋色というよりは錆色の脳細胞をフル回転させていた。
「まったく、理解力が足りませんねぇ。どうやって高校生になったんですか」
リタは頬膨らませて、話の通じないハルトに対して不満があることを表現した。その仕草自体がリタを余計に幼くみせた。
「では、改めて質問を変えましょう」
リタは言った。彼女が知るはずのない言葉を。
「あなたは『夢のスーパー超人はると』になりたくありませんか?」
※※※※※
『夢のスーパー超人はると』。それはハルトが毎夜のごとく悩まされているあの悪夢の主人公だ。スポーツ万能、勉学優秀、人望も厚く、誰からも頼られる憧れの人。全ての悪夢で普段のハルトができないことをいとも簡単にやってのける。それが『夢のスーパー超人はると』であった。
「どうかしましたか、ハルト様?」
リタは心配そうにハルトを見ている。ハルトは自分が動揺していることにリタの問いかけで気づいた。ハルトにはひとつどう考えても理解できないことがあったのだ。
「どうして、お前はそ・い・つを知っている」
ハルトは座り直して、改めてリタに向き合った。リタは動じる様子はなく、営業スマイルを崩さない。
「そいつ、というのはどちら様のことでしょうか?」
「『夢のスーパー超人はると』のことをどうして知っている」
ハルトはリタの返事を聞くや否や続けざまに尋ねた。
「どうしてって、私はここに来るまでにハルト様のことを調べさせていただきましたし、先程の生体確認の際にもハルト様の記憶とデータベースとの照合の際の符号の一つでしたから・・・」
「いや、オレが言いたいのは、どうしてオレが誰にも言ったことがない『想像上の人物』である『夢のスーパー超人はると』なんて人物を、お前が知っているのかってことだよ!」
ハルトが尋ねたかったのは、なぜリタが『夢のスーパー超人はると』という存在、いや正確には概念かもしれないが、ハルトの夢にしか出てこない人物の名前を知っているのかということであった。
「オレは夢の話なんて他のやつに話したことはないし、まして、その登場人物なんて話すわけがない。『ハルト』と『はると』の違いなんて口で言ったって他人に伝わるもんじゃねぇ。それをどうしてお前が知っているのかということを聞いているんだよ!」
ハルトは声量を上げて身を前に乗り出しながら問いただす。興奮しているのは自分でも分かっている。が、このことはどうしても合点がいかないことなのだ。なぜ、この女は自分の頭の中で考えた中二病をこじらせたような人物の名前を知っているのか。そのことを、確かめずにはいられなかったのだ。先程までとは違うハルトの雰囲気に若干戸惑いながらも、リタはまだ落ち着いて対応している。
「何を仰っているのか分かりかねますが・・・。もしかして、ハルト様は夢の中の人物を別の誰かと勘違いなさっていますか?」
リタは眉を寄せて首を四十五度傾けて尋ねた。いかにも不思議そうだという顔をしている。
「いいですか、ハルト様。夢の中であろうが、起きている間だろうが、あなたはあ・な・たなのですよ。現実にあなたが見ているもの、感じているものと、夢の中で起こっていることは全て同じ、あ・な・たが見て感じて起こしていることなんですよ。そんなことが分からないのですか?」
ハルトは頭を抱えている。現実と夢のできごとが一緒のこと?いや、現実ではできないことが夢の中ではできるではないか。
「もう、本当に理解力がないんですね。しょうがない、もっと分かりやすい説明をしましょう。いいですか、あなたは夕食に何を召し上がりましたか?」
「えっ、なんだよ、急に」
「いいからぁ、答えなさぁい」
「カ、カレーだよ」
ハルトは慌てて答えた。
「では、次にその時の光景を思い浮かべてください。そこでカレーを食べているのは誰ですか?」
「誰って、オレだろ。当たり前じゃ・・・ないですか」
「もう少し丁寧に質問しましょうか。今、あなたの『頭の中で』、カレーを食べているのは誰ですか?」
ハルトは即答しかねた。頭の中でカレーを食べている人物?
「だぁ~も。いいですか。あなたは今、昨日の夕食の場面を想像していますね。その思い出しているイメージの中でカレーを食べている人物は誰なんですか?異世界の魔王ですか、それとも白馬の騎士ですか?違いますよね。あ・な・た、浦上ハルトが間抜けそうな顔で食べているのがイメージされていますよね?」
「間抜けそうって・・・はい、そうです。私がカレーを食べている姿を思い浮かべています」
不必要なことをいってこれ以上リタを怒らせることは危険だとハルトの脳は言っている。
「はい、じゃあ、最後の質問。あなたがイメージしている、つまり、カレーを食べている人物はあなた自身だと言い切れますか?」
「そんなの、当たり前じゃないか。オレがイメージしている人物はオレ、浦上ハルトだ」
昨日のことを思い出しているのだから当然だろうと、ハルトは思っている。
「だったら、夢の中で超人的な活躍をし、皆に慕われている人物はどうしてあ・な・た自身ではないと言い切れるのですか?」
先程からリタは出来の悪い教え子を見る教師のような目をしている。
「そんなのとこれと何の関係があるんだ?別物だろう、まったく」
「いいえ、違います。夢の中の人物はあ・な・たです。考えてみてください。人が夢のことを思い出すのはいつも起きてからですよね?つまり、夢の出来事は過去の経験として後から思い返されるものですよね。それって、今、昨日の夕食を思い出したのと一緒だと思いませんか?」
ハルトは少し頭を使って考えてみた。夢の中の人物、つまり、『夢のスーパー超人はると』が俺だって?いや、そんなことはどう考えてもありえない。なぜなら、俺にあんな活躍が出来るわけがないからだ。
「ほんとに、ホントに、理解力がないんですねぇ。もう、どうしましょう。どうしてカレーを食べていた人物は自分であると言い切れるのに、夢の中の人物が別人だと言いはるんですか?カレーを食べた味も、女の子の柔らかい肌を抱いたいやらしい感覚もどちらも同じような感覚として残っているはずなのに。どうしてあなたはそれぞれ別人だと思い込めるのですか?」
「だって、そんなこと別物だろう。夢は夢なんだから」
たしかに、ハルトは異常にリアルな夢に悩まされてはいたが、夢は夢であると思っている。
「そこです。そこなんです。あなたは夢の世界の人物、『夢のスーパー超人はると』を別人だと思いたいんです。思い込みたいんです!あなたはカレーを食べていたことも告白されたことも、どちらもあなたの経験なさったことなんのですよ。それなのに、一方はそうだと思い込んで、もう一方はちがうと決めつけている。あなたは自分で都合のいい自分を、いや、信じやすい方の自分を選んでしまっているのですよ」
リタは立ち上がり、ハルトを見下ろすような体勢で指をさしながら続ける。
「要するにですね、あなたの考え方ひとつなんですよ。あなたが、あなたを『夢のスーパー超人はると』だと思えば、あなたは夢の人物になれるのですよ」
「う~ん、わからん。分からんが、お前はそのことを伝えるためにここに来たのか?」
抽象的な話ばかりでさすがに疲れてきたハルトは、脱線してしまった話をとりあえず本題に戻すことにした。リタは首を横に振り、そうではないことを告げた。
「あたしは夢の世界と現実の世界を入れ替えるお手伝いをする仕事をしています。普段は内勤なんだけど、今回はちょっと訳ありであなたのもとへ出張してきました」
「それは何か、『話を聞けばあなたも億万長者になれる自己啓発セミナー』とか『あなたの運命を変えるにはこのなんちゃら水を買わないといけません』とかの類なのか」
「やっぱり、人生の夢の島にいってみるぅ?」
ハルトは姿勢を正して拒否する意向を表明するとともに心からのお詫びを申し上げた。
「うぅ~ん。やっぱり、普通の人間には難しい話かもしれないわね。夢の中の自己認識って直観に頼ってしまうところもあるから。でも、そんな屁理屈どうでもよくて、現状に不満足な人とか不幸があって何とか状況を変えたい人なんかは二つ返事で仮契約を結んじゃうものなんだけど。さすがに、普通の高校生の青二才には無茶な相談か」
「・・・ところで、私のところに来た理由教えてもらえないのですか?あと、どうして夢の世界へのお誘いが来たのかとかも」
「なぜ、世界の選択権があなたに与えられたのかは機密レベルが一つ上なので、仮契約を結んでいないあなたには言えないわ。もちろん、今この場で仮契約してくれるならすぐに教えてあげるけど」
ハルトは今すぐ仮契約を結ぶことは断った。そもそも、高校生で契約というものをするのにはどこか気が引けた。
「まぁ、仕方ないか。また、近いうちに会いに来るので。その時はよろしく。ただね、これだけは覚えておいて」
リタは微笑みながら言った。
「夢と現実どちらの世界を生きるのか、あなたに選ばせてあげる。あなたの運命をあたしに預けてみない?」
リタはハルトに向かって歩き始めていた。
「それが今日あなたに伝えること。そして、今回あなたのところに来た理由よ」
「運命?」
ハルトにはその言葉が気になった。リタはハルトの正面まで来ると立ち止まって、膝を軽く曲げながらハルトの顔に自分の童顔を近づける。
「そう、運命。運命を変えることはできないけど、事実を変えることはできる。あなたにはその選択肢があるの。でもね、あたしにできるのはあなたに選ぶ機会を与えることだけ。それだけなのよ。そこんとこは覚えておいてね」
リタはハルトの顔正面を過ぎて左頬に軽く唇をあてた。そして、耳元で囁いた。
「これは急に押しかけしまったことへのお詫び。秘密よ」
リタは人差し指を口元にあてて秘密であることを確認しながら顔をあげた。リタの表情には微笑みがあった。この時ばかりは年上の女性のようにみえた。そして、リタはハルトの横を通り過ぎてドアへ向かう。
「じゃあ、よく考えておいてね。『夢のスーパー超人はると』さん」
リタは手を振りながらドアを開けて廊下に出て行ってしまった。呆気にとられていたハルトが慌てて廊下に出たのは、数秒過ぎた頃だった。そこには誰もいなかった。ただ、廊下の突き当たりの窓が開いていて冷たい風が廊下に吹き込んでいるだけだった。
・・・これは新手の悪夢なのか。
ハルトは冷たい廊下で右頬をひねる。痛い。そして、左頬にはまだやわらかな唇の感触が残っている。
現実の証である痛みとリタの残した感触。相反する二つの感覚にハルトは朝まで悩まされたのである。これは夢なのか現実なのかと。