氷結の魔女
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夏は日の出の時間が早い。
それを証明するように、うとうととしている意識が、差し込んできているらしい朝日の光を感じている。
(……もう少し、もう少しだけ……)
いつの間にか冷たい床の上でも眠りつけていた薫は、寝起き特有の強い睡魔に逆らえず、たださらなる睡眠を求めて意識を深層へと沈めていこうとする。
「起きなさいっ、このバカ!」
家で愛用していた特大音量目覚まし時計とは比較にならない程の異常音量の声がガンガンと頭に響き渡り、嫌が応でも意識が覚醒してきてしまった。
「……もう少し、だけ……」
それでも、この強い睡魔に身を任せていたくて、薫は耳を塞ぐようにしながら、さらなる睡眠を求めようとしてーー
「起きろっ! そして私の朝ご飯を作りなさいっ!」
「ーーぐふっ」
瞬間、腹部に強烈な衝撃を感じた。
それが何者かの蹴りによるものだと理解するまで、寝起きのぼやけた思考では時間を要した。
それがレフィアの暴挙によるものだと理解し、強制的に飛び起きさせられた薫は目の前に仁王立ちする暴力我儘少女へ抗議の視線を向ける。
「ーーお前っ、何するんだよっ」
「うるさいっ! 私はお腹がへったのっ。だからさっさと起きて作りなさいっ!」
「な、何で俺がそんな事……」
「あら、口答え? いつからあんたはそんなに偉くなったのかしら?」
薄ら笑いを浮かべながら、レフィアは手元を不思議な蒼の光で照らしあげ始める。
それは昨日にも見たもので、とても反抗する気がおきない程、強大な力といっていいもの。
「わかった、わかったから! 朝ご飯くらい作ってやるよ」
「わかったならいいのよ。美味しいもの作ってくれるなら、それを今日の護衛の依頼代にしてあげるわ」
「はいはい、それはどうも」
さすがに昨日の今日で骨身に染みてわかっている薫は渋々とレフィアの指示を受け入れる。
(……料理が出来ないらしいこいつの作ったものを食べるよりはマシだろう)
薫はそう言い聞かして、居間と同じ部屋にある小さなキッチンのような場所に向かった。
ーーーーーー
「……どうだ?」
「…………おいし……じゃなくてっ、まあまあってところよ! ま、あんたにしてはそこそこやるというか……」
レフィアの家に保存されていた、あり合わせの材料で薫は簡単な朝食を作った。
あり合わせといっても、普段料理をしないらしいレフィアの家に大した材料はなく、緑の卵(のような物体)と見た事もないような野草のようなものがいくつかと、何の肉かもわからないミンチ(のような物体)、あとは調味料に見えるものがいくつかある程度だった。
薫はそれぞれの味等を確認しながら、どうにかオムレツ(である事を願う)を作り上げ、実験代わりにレフィアに食べさせてみたが、おおむね好評のようだ。
レフィアにこっそりと毒見をさせた事で安心した薫は椅子に座り、テーブルの上の皿に盛り付けられた自身のオムレツを食べ始める。
すると、薫の皿に自身のフォークとは異なるもう一本が侵入してきた。
「……おい」
そのもう一本の持ち主、レフィアを見ると、そこには表情を赤らめ、俯き気味になりながらそのフォークを必死に伸ばしている姿があった。
小柄な身体だからだろう。ここまで手を伸ばさないと届かないようだ。
また、驚くべきことに、レフィアの皿からはもうオムレツが消えてしまっている。
「……別に、おいしかったわけじゃないわよっ。あんたがどうしても偉大なる私にそれを捧げたいって顔をしてるから、特別にーー」
「捧げません」
瞬間、レフィアのフォークがさらに侵入してきた為、薫は皿を引き寄せ、見事に侵入者を排除した。
「うがーっ!」
「お前は野獣かっ」
レフィアのフォークが薫の皿からはじき出された途端、レフィアが飛びかかって来た為、薫は咄嗟に皿を持って立ち上がり、その強襲をどうにか回避し、一気にオムレツを平らげた。
「……それ、私の……」
「俺のだ」
「うがーっ!」
「またかよっ」
薫は皿を置き、必死で狭い室内を逃げ回る。
捕まったら、何をされるかわかったものではない。
食後の運動としてはいいのかもしれないが、些かハード過ぎるのではなかろうか。
せっかく摂取したカロリーが全て消費されてしまうんじゃないかと思わず危惧してしまう程に。
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異常な程に瞬発力や運動神経といったものがずば抜けているらしいレフィアの追跡を振り切る事が出来るはずもなく、朝から散々に引っ掻き回された薫は、ようやく落ち着いた当の加害者の様子に安堵し、ついに落ち着いた朝の空気を味わう事が出来た。
だが、そんな安息も束の間の事。
レフィアは落ち着いた途端、「じゃあ、さっさと街に向かうわよ。あんたの護衛っていう面倒極まりない仕事を片付けるためにもね」などと言い出し、薫はもうしばらく休憩していたいという気持ちもなんのその、半ば強制的に連れ出されてしまった。
今は、レフィアの家の建つ小高い丘から下り、小道を通り、昨日行ったローザおばさんの家が見えてきたところだ。
「おはようだね。もう行くのかい?」
その庭先の小さな畑(自家菜園?)で世話をしていたらしいローザおばさんが作業の手を止め、昨日と同じ柔和な笑顔を投げかけてきた。
「うん。護衛なんてさっさと片付けたいし、それにギルドの方で確認したい事もあるから」
「……そうかい。気をつけて行くんだよ」
(……なんだろう?)
薫はなんとなく感じた。
柔和な笑顔を浮かべていたローザおばさんの表情が少しだけ、悲しそうな、それでいて申し訳なさそうなものに変わったように。
「……薫さんもお気をつけなさいな。街からはまた護衛を雇うのをわすれちゃいけないよ。レフィアが紹介すれば、きっと無償でもある程度は護衛してくれるはずだから。あと、困った事があればこの村を訪れてくれていいのだからね」
「はい、いろいろとありがとうございます。どうしても困ったら、また来ます」
ローザおばさんの再びの柔和な笑みに暖かみを感じつつ、薫はどうにかやっていけそうな気持ちを抱く。
自分の世界に帰るため、これから未知の街に向かい、情報を収集する。
何も知らない、わからない世界だけれども、共通している事は数多くある。
何よりも、一人じゃない。
助けてくれる人がたくさんいる、
このレフィアという少女だって、なんだかんだ言っても助けてくれている。
きっと、元の世界に帰れる。
そう、実感できた。
「じゃあ行ってくるね」
レフィアとともにローザおばさんに別れを告げ、さらに小道を進んでいく。
森を切り開いて作られたらしいこの村には少数の人々しか住んでいないようで、ローザおばさんの家を通過した先にはさらに数軒の家がちらほらとある程度。
それでも、その家々は多種多様で真新しいものに満たされている。
金色の小麦畑のようなものに包まれた家。
緑の木々に囲まれた家。
見た事もない野菜のような実をつけた畑に囲まれた家。
その全てが新鮮で、薫はどこか高揚感さえ感じていた。
その中心に小道が伸び、すれ違う人々はみんな笑顔を浮かべて挨拶してくれる。
それはどこまでも暖かいもので、薫にとって心の支えとなるものでもあった。
「レフィアちゃん、今日は街に向かうのかい? それに、その子はお友達かい?」
「街には向かうけど、こいつは違うわ。単なる護衛の依頼人よ。ロバートおじさんは今日も畑仕事?」
「まあね。今年は豊作でいい年だよ。街でも評判になりそうな作物がてんこ盛りってもんだ」
「ふふっ、毎年こんな感じだったらいいのにね」
小道の脇のとある一軒の家。
その横に広がる大きな菜園で作業をしていたらしい40代程にみえるおじさんともレフィアは会話を交わし、薫はその都度挨拶していく。
そのおじさんの浮かべる笑顔も暖かみに満ちたもので、この村の雰囲気の良さはこのような人々の表情にも表れているのだと薫は感じた。
おじさんの「気をつけて行くんだよ」という言葉を受けて後、薫とレフィアはさらに小道を進んで行き、家が集まっていた中心地らしき区域を抜け、同時に辺りの平野部が小さくなっていく。
平野部の代わりに淡い緑の葉をつけた木々が周囲に広がり始め、やがて小道の周囲はそれらの木々に満たされ、平野部は見えなくなってしまう。
「ここが、この村の端なのか?」
森を切り開いて作られたらしいこの村の周囲から平野部が消えたという事は、おそらく村の端、未開拓の森に入った事を示しているのだろう。
「端というか、村の入口と出口ね。この小道をずっと辿っていけば、そのうち街に着くわ」
先導して前を歩くレフィアの返答には珍しく毒がなく、どこか上機嫌なようにも感じられた。
朝からの朝食騒動を巡る不機嫌は村の中でいろんな人たちと会話していくうちにどこかへ消え去ってしまったのかもしれない。
「なるほど。ていうか、この辺にはあの、魔物が出たりはしないのか?」
周囲に鬱蒼と生い茂り始めた森は見通しが悪く、何が潜んでいるかもわからない。
昨日のような事態にはなりたくないと感じていた薫は、思わず周囲をキョロキョロと見回してしまう。
「このヘタレ、キョロキョロしないのっ。この辺は魔物避けもあるから滅多に出ないから。それに、もし出たとしても、私が守ってあげるわ」
「それは、ありがたいけど……」
魔物避けがどういったものであるのかは不明だが、効力は名前通りのものだと考えてもいいだろう。
加えて、レフィアの力はすでに目の当たりにし、その実力はわかっているからこそ、確かに頼もしい。
だが、薫は同時にどこか情けなさを感じていた。
男の意地とでも言えるのかもしれないが、こんなに小さな、年端もいかない少女に守られているという事実が、自身を情けないとおもう感情を生み出しているに違いないだろう。
それでも、魔物に対する恐怖感は消えない。
二つの感情が葛藤となって混在している事は、薫自身もはっきりと自覚していた。
だからこそ、周囲に警戒心を振りまいてしまう。
そんな薫の心配が現実となる事がないまま、森の中に伸びる小道を順調に進んでいくと、やがて森が大きく拓け、広大な草原地帯が眼前には広がった。
太陽の暖かく、眩しい光が緑に満ちた草原を輝かしく照らし上げており、まるで草原自体が発光しているかのような美しさがそこにはあった。
「ここは、何なんだ?」
そんな草原の中をくねくねと伸びる小道を通りながら、薫はレフィアに問いかける。
「サスカチュワン草原よ。ここを抜ければ街に着くわ」
「じゃあもう少しってとこか。けっこう近いんだな」
「そうね、一応最寄りの街だから」
さらに歩を進めていく中、薫は足に疲労を感じ始める。
先導して歩くレフィアは歩き慣れているからか、小柄な身体にも関わらず足が非常に速い。
それに対して薫はこんな見知らぬ草原を歩いた事があるはずもなく、気がつけば泥沼で足を滑らせてしまったりと、レフィアのように簡単に歩いていく事ができない。
その都度レフィアは立ち止まってくれてはいるのだが、明らかにその表情は面倒そうなもので、薫はどこか申し訳なさと情けなさをまたも感じてしまう。
その気持ちを抑えようと薫も精一杯歩き、草原の中の小高い丘を登りきったところでレフィアが立ち止まっている事に気付いた。
「……ふう、どうしたんだよ?」
「検問があるみたいなのよ。いつもはこんなところにないはずなのに……」
薫は息を整えながら、丘の頂上から前方を見渡す。
少し先の小道、そこには簡易的な木の門のようなものが設置されており、その周囲には剣と甲冑を装備しているように見える中世の兵士のような人が数人立っている様子が見えた。
あれがレフィアの言う検問であるのだろう。
「あそこ、通れるのか?」
「わからないけど、事情を聞くのが先ね」
少しだけ当惑しているような表情を浮かべていたレフィアは即断して、検問へ向かっていく。
それに従い、薫もその後ろについていく。
「何かあったんですか?」
検問所らしき場所に設置されている、持ち運びが可能に見える簡易的な木の門とその周囲に広がる柵。
その門の前にいる甲冑に身を包んだ兵士らしき人物にレフィアは話しかけていた。
この世界の常識もルールも何も知らない薫は、とりあえずは傍観する。
こうやって見て、聞いて、この世界の事を少しづづ知っていけば、きっと物事はいい方向に進んでいくだろう。
薫はそう感じ、好奇心の赴くままに、レフィアの少し後ろでその会話内容に耳を傾けていた。
「ああ、ヴォルブの群れが現れてな、街道は封鎖中だ。ったく、めんどくせーもんだ」
「……そうですか。どのくらいの規模の群れですか?」
「そこらの一般人に教えるわけにはいかないな。街に向いたいなら、また数日後にしてくれ」
どうやら何らかの群れ(魔物だろうか?)が出現し、この街へと向かう街道を塞いでしまっているらしい。
封鎖期間は数日。
さすがにそんなに待つ事は難しいが、他に抜け道がなければ仕方ないのかもしれない。
「……どうするんだよ? 他に道とかってあるのか?」
「ちゃんとした道があるのはここだけよ。それに、数日は長すぎだわ」
レフィアが堪え性のある性格には見えない。
案の定、レフィアの表情は不満そうで、その表情のまま再び兵士に向き直っていた。
「なんだ? 一般人はさっさと帰るんだな。めんどーだし」
本当に面倒くさそうに言ってくる兵士。
こんな様子で守りが務まるのかと不安にもなるが、今はそんな事を気にしても仕方ない。
「……私は王宮直属遊撃魔導師 ”氷結の魔女”、レフィア・シーランスです。あと、これが証明書です。状況の報告をお願いしたいのですが」
レフィアの述べた言葉。
薫にとって、その意味はよくわからないが、対する兵士の声色が明らかに変化し始めているのは明らかだった。
「な、お、お前が……。ま、まあいい、一応教えてやる。群れは100体規模のデカいもんだ」
「……そうですか」
「前線部隊には撤退命令を出す。あとはせいぜい働け、国の為にな。あと、失敗した場合、責任は一切とらん。それはわかっているな?」
「……わかっています」
「ならさっさと行けっ」
「はい。……あんた、行くわよ」
レフィアが真面目な表情でこちらを見て、薫はよくわからない複雑な心境のまま、レフィアの後ろからついていく。
「一体どういう事だよ? それに、あいつムチャクチャ偉そうだし」
「今は説明する時間がないわ」
レフィアはその一言だけ返すだけで、それ以上は何も話してはくれない。
兵士の手によって開けられた門をくぐり抜け、ただ無言で進むレフィアを薫は追いかける事しか出来ない。
何を聞けばいいのか、よくわからなくなっているのかもしれない。
「先輩、なんスか、あの子?」
声が聞こえた。
それは門の裏側にいたもう一人の兵士が、先程の偉そうな兵士に話しかけている声だと、見てわかった。
「ああ、あいつは”氷結の魔女”って呼ばれてる、国の最強魔導師だ。まあ、国にとっちゃあ、都合良く動いてくれる便利な道具みたいなもんだな」
「なるほどっス。遊撃魔導師なんて、貴族でもない平民の掃き溜めですもんね。道具は道具らしく僕たちの言いなりってわけっスね」
「そういう事だ。これで俺たちもめんどーな役から解放されたわけだし、飲みにでもいかねーか?」
「おおっ、いいっスねー」
(……何言ってるんだよ、あいつら……)
薫はその会話を聞いて、不快しか感じる事が出来なかった。
こんな小さな少女に何もかも押し付けて、自分たちは娯楽に浸ろうとしている。
わからない、何もわからなかった。
どうしてレフィアが何も反論しないのかも。
だからこそ、薫は近くにいた若い兵士に歩み寄り、
そのにへら笑いを浮かべた顔を力のままに殴っていた。
「何しやがるっ!?」
拳に感じる痛み。
若い兵士の怒声。
その声も無視して、薫はただ感情のままに振舞っていた。
「……どうして、どうしてあんたらはそんな風に振舞えるんだよ!? こんな、こんな小さな子に全部押し付けてーーーー」
「このバカっ!!」
瞬間、全身が地面に叩きつけられた。
背後から受けたその攻撃は、明らかにレフィアから受けたもの。
「本当に申し訳ございません。連れが大変失礼な真似を……」
「お前、どうして……」
「いいから黙ってて! これ以上ややこしくしないでっ!!」
心の底から怒っているように感じる、そのレフィアの声と表情。
それは見た事もない程、真剣そのもので、思わず薫は萎縮してしまう。
「……まあいい、今回は”氷結の魔女”の名に免じて許してやる。とっとと魔物を退治してこい」
「……ありがとうございます」
いまだに不快な笑みを浮かべている二人の兵士に対して、頭を下げて謝り、感謝の言葉を言うレフィアの姿。
薫は自身の気持ちもわからなかった。
腹立たしさと困惑。
その二つの感情がぶつかり合って、どうすればいいのかもわからない。
ただ何も言わず、その場に立ちすくむ事しか出来なかった。
ーーーーーー
「……あんたは常識を覚えた方がいいわよ。そんな調子なら、この世界で上手くやって行くことなんてできっこないんだから」
検問所の門を抜け、草原の中に伸びる小道をさらに進んでいく中、薫の前方を早歩き気味に歩くレフィアが不機嫌そうに声色を震わせる。
「……常識って、ああいう偉ぶったやつにただ従うってのが常識なのかよ?」
「そうよ。私だってあいつらにイライラする事はあるけど、反論はできないの。あいつらは貴族、私は平民、平民は貴族に平伏す、それがこの国の常識だからよ」
「……でも、やっぱりそんなのは……」
変だ。
薫はそう思う。
薫にとっての常識では、いくら偉そうな人でも、その人が悪いなら、意見する事は可能であるはずなのだ。
確かにこの世界は、元の世界とは文化も異なり、常識も異なっていて、ある種のカルチャーショックを感じているとも言えるのかもしれない。
それでも、薫はそのレフィアの言う常識は変だと、間違っているものだと感じた。
だから、自身が常識の外にいる存在だとしても、先程のやりとりを傍観する事が出来なかった。
「……話はここまでよ」
突如、レフィアの表情が固くなる。
そのレフィアの視線の先を見ると、地平線の彼方に砂煙が上がり、それが急速に近づいて来ているように見えた。
緑の草原にあるその黄土色は明らかに異質なもので、日常的なものではない事は確かだ。
「……あれが、さっき言ってた……」
「そう、あんたが前に襲われてた魔物”ヴォルブ”の群れよ」
「あれが、全部そうなのか……」
薫は心の底からの震えを感じた。
前方に広がる草原を覆い尽くす砂煙、それが全てあの恐怖の権化である魔物によるものだというのだ。
恐ろしさが心を満たす。
迫り来る砂煙を見ていると、即座に転回して、逃げ出したい衝動に駆られる。
「……あんたは一旦ここで見てなさい」
「……でも、お前1人であんなのに突っ込ませるわけには……」
「突っ込むわけじゃないわ。……”氷結の魔女”としての戦い方、見せてあげる」
レフィアの自信に満ちた表情と声色はどこまでも揺るぎのないものに感じられ、薫はどこか安心感さえ感じてしまっていた。
その当のレフィア本人は迫り来る魔物の群れに目をくれる事もなく、ただ何かに集中するかのように瞳を閉じている。
「……永変の器、”無海”」
レフィアがただ一言言葉を告げた瞬間、その手元に蒼い光が集まり、やがて形を構成していく。
やがて形成されたものは、鋭い切っ先を備えた、全てが蒼に染められた小ぶりの剣。
それは昨日、村でレフィアが魔物を切ったものと全く同じものであった。
「……チェイン・モデル”magic rod”」
続いてレフィアが紡いだ言葉。
それに呼応するかのように、手元に握られていた蒼い剣が再びの光を放ち、新たな形を構成している。
光が消えた時、レフィアの右手に握られていたのは、頂点部が丸みを帯びている、蒼に満たされた杖のようなものだった。
その杖を前方に突き出し、照準を定めるかのように先端を迫り来る魔物の群れに向けたレフィアは再び瞳を閉じる。
「……根源たる力、氷の精霊の力……」
レフィアの紡ぎ出す、どこか不思議な言葉。
それらとともに、レフィアの足元を中心とし、巨大な五芒星状の、蒼色に輝く魔法陣のようなものが現れ、思わず凍えてしまいそうな冷気がその魔方陣を中心として集まっている事が肌で直に感じられる。
(なんだよ、……これ)
薫はただ立ち尽くす事しか出来ない。
それ程に目の前に集まる力は大きく感じられた。
「……仇となる者に、氷結の眠りを与えたまえ。
ーー’フリーズ・エンド’!!」
刹那、魔方陣から放たれた冷気が空気を氷結させながら、向い来る魔物の群れを一瞬で包み込んでしまい、魔物達は動きを鈍らせ、やがて全身を氷に侵食されていく。
やがて、薫の眼前には、膨大な数の魔物の氷像が氷に満たされた草原に立つ光景のみがあった。
レフィアが再度その手に持つ杖を軽く振ると、無数の氷像の全てが体液を残す事もなくバラバラに砕け散り、魔物の残骸と氷原だけの光景が残っているのみだった。
ーーーーーー
「あれが、……魔法ってやつなのか?」
「ええ、そうよ」
さらに草原を進んでいく。
あれ程の事をやってのけたにも関わらず、レフィアの表情には疲れというものは全くみえない。
レフィアはただ、先程までと同じように、どんどん歩を進めていく。
その後ろを歩く薫は、どこかその背中までに大きな距離があるようにも感じていた。
「見えてきたわね。あれがトンプソンの街よ」
小高い丘を越えて、小道が伸びる先、そこには草原の中心にそびえ立つ大きな岸壁を人工的に切り崩し、縦に伸びているようにも見える街らしきものがある。
あれがトンプソンの街らしい。
レフィアが言っていた、情報収集にはうってつけだという話の街。
レフィアに導かれるまま、薫は街へと向かう。
先程の出来事に表れていた、この世界の納得出来ない点に気持ちを巡らせながら。