イセカイ
そこは暗闇に満ちた空間だ。
それは、この部屋に窓がないという事だけが原因ではないだろう。
この場所に立ち込める暗い感情がそれを生み出してしまっているようにも感じられる。
そう、ここは大国‘シンフォール帝国’の首都に位置する巨大城の一室。
以前は兵士の詰め所として活用され、今は異能の者たちの溜まり場と化してしまっている。
「……仕事よ」
階段を降り、その部屋に入る少女――サントは早々かつ端的に告げた。
「サントちゃん、また仕事はだるいっスよ」
溜まり場にいる複数の人物。
そのうちの一人――闇の中でも一際目立つ金色の短髪を持つ青年が軽薄な声で言う。
「そういうな、ライン。生きがいと思えばいい」
「そうはいってもさ、ミストさんは疲れてないんスか?」
年季の入った声の持ち主、ミストと呼ばれた男は顔にマフラーのような布で巻いており、その素顔を見ることはできない。
だが、そのどこか深みのある声色は何時聞いても、特徴的なものだ。
「私は別に。君はもっと根気強くなるべきだな」
ミストは鼻をフンッとならしながらけなすような態度をとる。
「仕事、ヒト、殺セル、殺セル!」
獰猛な獣の如く荒々しく、不快感さえも感じてしまう声の持ち主――彼は右の瞳を眼帯で覆い、ただ無差別に殺気を撒き散らしている。
「あまり殺すなどといわないでください。死人など出ないにこしたことはないのです」
ラインとは異なり少々の年季を感じさせる、落ち着きに満ちた男の声。
「五月蝿イ。猫カブリ、ウォー! 人殺ス、勝手」
「――何ですと! いくらあなたといえど、命を弄ぶ者は許しませんよ!」
傍目から見ると、水と油の如く交わりのない性格らしい。
そんな二人が至近で睨み合い、あたかも互いの動きを牽制するような雰囲気である。
「――まったく、相変わらずなのね」
サントはそんな彼らの様子を眺め、苛立ちを込めた言葉を零す。
「とにかく、クロウはどこ?」
「……僕ならここにいるよ」
威圧感を帯びた声。
その持ち主が、部屋の奥に備え付けられた階段から下りてくる。
魔力をひしひしと肌に感じる。
刺々しく、寒々しい、思わず悪寒を感じる魔力。
下りてきた少年と呼べる人物、彼こそがクロウ・アーティス。
サントにとって、最も憎く、――殺意を感じずにはいられない人物。
彼は容姿は珍しい銀髪に、10代後半程度の整った顔立ちをしているのだが、その表情全てに嫌らしさが満ちている。
「で、今回の任務は?」
「イジスにいると思われる少年の捜索。特徴は……ミリアクロスを付けているからわかるでしょ」
「なんだ、そんなことか。見つけたら、殺すの?」
「判断は任せる。ところで、人数が足りないみたいだけど?」
正確には、二人足りない。
帝国の主要戦力、帝国精鋭魔導部隊、通称‘エリム’を統括する存在となってしまっているセブンスカーズ。
そのセブンスカーズという強大で、その他の帝国の機関から独立した組織は、七人の大魔導師で構成されており、その力は計り知れないものである。
そんな七人のうち、今、この場には五人しかいない。
おそらく、何らかの任務についてるのだと思われるが、こちらにそれが明らかにされる事はない。
それが、現状。
だから、少し聞き出す。
「ああ、あの二人は任務中だよ。まあ、それくらいの仕事なら、僕が一人で行くよ」
サントは、その二人の任務の詳細を知らない。
決して知らされる事はない。
これが、現状。
クロウはそんなサントの思いには気付いているのだろう。
嘲笑うかのような笑みを浮かべ、身を翻し、歩き始めた事は、その証拠だ。
「待テ、クロウ! オレモ人、殺シタイ!!」
先程から、殺気に満ちた、胸糞の悪い声色を出している眼帯の男は、キルドラン。
加虐趣味に満ちた、歪みきった思考を持つ彼は、新たな娯楽を確保する為、クロウに詰め寄っているのだろう。
「五月蠅いな。
――殺すよ」
サントに背を向けていたクロウが振り返り、その表情に僅かな亀裂が生まれた刹那、キルドランを遥かに圧倒する殺気、むしろ殺意の波動とも言えるものが部屋を包み込む。
これは、知っている。
クロウは機嫌を損ねた時、このような状態になる。
ひしひしと感じる悪寒。
不幸な事に、それを正面から受けてしまったらしいキルドランの表情はくしゃくしゃに歪み、身体は床へと崩れ落ちる。
全身が痙攣しているかのように、ぴくぴくと震えている。
これが、セブンスカーズのリーダーであるクロウの力の片鱗であると言えるだろう。
「――ス、マン、クロウ……」
殺気が消え失せ、怯えに満ちた声色。
これが、キルドランという男。
要するに、弱者を虐げる事のみに悦びを覚える、最低の男だ。
その存在は、セブンスカーズの中でも異質なのか、他のメンバー達もどこか冷ややかな視線をキルドランに浴びせているように感じられる。
「わかってくれるのならいいさ。それじゃあ、任務に就くとするよ」
クロウが部屋の奥で姿を消した時、ようやく部屋に満ちていた殺意の空気が消える。
おかげで、サントには思考を巡らせる余裕が出来た。
(……クロウ。私がお前を、利用してやるっ)
エレメントを統べる男、クロウ・アーティス。
彼を利用する。
今、サントはそれだけを思っていた。
「ふふっ、あはははっ!」
サントは笑う。
ただ、無機質に。
――――
頭の中がが真っ白になる。何も考える事が出来ない。茫然自失といった言葉はこのような状態の時に適応されるのであろう。
再びの不協和音を奏でる言葉達。それらが正面から突き刺さってくる中、とても正常な心地ではいられない。
「……な、なんだよ、それ? ”シギラス”? こ、こんなのおとぎ話の中のものだろ!」
だからこそ、心地を乱し、ただただ混沌のみを齎す言葉をどうにか否定しようと、震え切った言葉だけが溢れてくる。
否定。
そんな事をしたところで事態が好転するわけでもない。そんな心地を、先程出会ったばかりのレフィアが察してくれる筈もない。
その表情は明らかに、ただ何か可笑しなものを眺めているような、怪訝なものでしかない。
「本当に大丈夫? 頭とか強く打った?」
「おかしいのはそっちだろ! ありえないだろ、こんなの」
「いったいどうしてって……――――って、それっ!」
薫は表情を変える事が出来ない状態だというのに、レフィアの表情はめまぐるしく、多彩に変化する。
先程までは怪訝な表情であったものが、今度はなにやら驚きに満ちた表情に。そしてやがて、何かに得心がいったような、確信に満ちた勝気な表情に。
それは人間らしさを感じるものであり、今の薫にとっては、些細ではあるが、気休めにはなる。
「ど、どうしたんだよ?」
「それよそれ! あんたの指先のやつ!」
レフィアの視線を追ってみると、そこにあったのは、赤の煌めく石が埋め込まれた十字の指輪。
同時にそれは薫に現実と化してしまった非現実を思い出させるもの。
先程、自身の現実で起きたサントの襲撃。
思い出すと、今でも命が脅かされた危機感と、気持ちの悪い悪寒が蘇る。
サントが指輪を欲する情景と今の状況を重ねてしまったからであろうか。
身体が震える。悪寒が走る。
「こ、これは渡さないからなっ!」
レフィアはサントとは違う。先程は助けられ、人のいそうな集落までの案内もしてくれた。
薫はそれはわかっていた。だが、警戒心を抱かずにはいられない。あれほどの危機に直面したのだから、それは仕方のない事だろうと、薫は心の内に言い聞かせる。
「いらないわよ。ちょっと見せてほしいだけ。情けない顔して何言ってるんだか」
「ならいいけど。あと、情けない顔なんてしてない! たぶん」
「鏡見てきたら? あまりの情けなさに逆に吹き出すかもね」
このレフィアという少女、小柄で非常に可愛らしい容姿とは裏腹に、その性格はどこか勝気で、その発言にはどこか刺々しいものがある。
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、その毒を含んだ言葉を叩きつけてくるその様子は、まさにその性格を表しているように思えた。
そんな薫の些細な思案も他所吹く風。
レフィアの興味は薫の指先の指輪へとすっかり移り変わっているらしく、まじまじとそれを見つめ、再びの表情変化でまたも確信に満ちた表情へと変化した。
「あんた、この世界の事、全く知らないのよね?」
「……当たり前だろ」
「……なるほどね。じゃあ、おそらくあんたはこの世界のヒトじゃない……。……――――別の世界から来たヒトよ!」
目の前が真っ白になった。再びの思考停止。その言葉を反芻しようと心がけても、ただただその強い印象だけが心に焼きつく。
奏でられる不協和音。わかっていた。この世界は根本的な何かが違うと。現実と化してしまった非現実だと。
思えば、サントと遭遇した時から、この現実からの乖離は始まっていた。
それでも、認めたくなかった。
認めてしまえば、自己の価値観が崩壊する。
心が揺さぶられ、折れそうになる。
どす黒い感情が生まれてきてしまう。
帰れるのか?
――――生きれるのか?
「あんたにとってこの事実は大変な事なのかもそれない。だけど、受け入れなさい。これが、現実よ」
聞きたくない。
聞きたくない。
認めたくない。
レフィアの諭すような言葉、それがあまりにも怖い。
心が希望と絶望に二分されていく。
「とにかく、まず、あんたがこっちの世界に入り込んだ原因だけど――――」
言葉が聞こえなくなった。
絶望が希望を侵食し始めた瞬間、心が全てを拒否した。
それを感じた時、薫は駈け出していた。
家を飛び出し、草原を駆け抜けた。
背後から、レフィアの声が聞こえた気がする。
だが、聞こえなかった。聞きたくなかった。