非日常
夕闇から宵闇へ――光が失われていき、徐々に辺りが闇に覆われていく時。
草木も眠る丑三つ時が最も怖いのだと言う人は数多くいるが、この移り変わりの時はいつも不穏な空気を漂わせているように思える。
それこそが眠り始める時、そして、目覚め始める時。
そんな奇妙な時に出くわした人物。
知らない人ではない。ただ、親しい人でもない。
だが、無視する事は出来なかった。この衝動が好奇心によるものなのか、それとも何か別の要因が働いたものなのかはさっぱりわからない。
ただ普通に、日常を生きる者としてのありふれた行動として‘彼女’に話しかけたのだと。
そう、思い込んだ。
「……こんなとこでなにやってるんだよ、お前」
‘彼女’は確かに見覚えがあった。艶やかな茶色の髪が涼しげな風に乗せられ、ゆらゆらと不規則に揺れる。
整った顔立ちに映える綺麗な瞳が薫の言葉を受けた後――否、受ける前から薫を捉えていた。
そう、薫の日常にいつの間にか入り込んでいた違和感――サンという少女がそこにいる。
彼女自身の居場所を維持したまま、サンはそこに立っている。
「……御機嫌よう、雨霧薫。朝からの疑問は解けたのかしら?」
サンは人をからかうようにクスクスと笑いながら、日常的に言う。
「サン……だったか。解ける訳ないだろ。もし良かったら疑問を解く手伝いをしてほしいけどな」
「残念ながらそれは無理な相談。でも、一つだけ言っておく。私はサンじゃない、サント・レイドール、それが本名だから」
「えっと、何ソレ。どういう事だよ?」
「だから、サンは偽名って事。お前の世界でやっていくにはこの方が何かと都合がいいの」
人の頭に疑問ばかり詰め込んでも、何の意味も持たないだろう。
だが、今の薫の頭には疑問が所狭しと陣取っている。
サン――いや、サントの言う事を理解しようとしてみても、何度も試行錯誤してみても、何の成果も上げてはくれない。
‘偽名’‘世界’‘正体不明の少女’‘日常の違和感’……、様々な言葉が不協和音を奏でている。
だからこそ、嫌な予感が、そして胸騒ぎが強まったのかもしれない。
だからこそ、この少女から離れなければならないと感じたのかもしれない。
「ゴメン、俺はスーパーに買い出しに行かないと駄目なんだよ」
簡単な言い訳を盾にして、何よりも優先して先に向かおうとした。
だがその刹那、サントが霧の如く一瞬で消え、光の如く一瞬で薫の目の前に現れ、逃げ道を塞いでいた。
「えっと、これは夢だな、夢なんだ!」
胸騒ぎ、強まる違和感、湧き上がる恐怖、そして現実逃避。
薫は新たな逃げ道を作り出し、どうにかしてそこに向かおうとする。
だがその思索を巡らす前に、サントはその行動を封じるが如く、言葉を紡ぎ出していた。
「……渡しなさい」
「……えっ?」
薫はあまりに動揺していた為にその言葉を精確に聞き取る事が出来ない。
そんな薫にサントは若干呆れたような表情を浮かべ、そして先程よりも語気を強めてその言葉を言い放つ。
「……お前の手の指輪を渡しなさい」
それは、まるでもはや逃げられないのだと、薫に許された選択肢はほんの僅かな、非力なものなのだと突き付けているようであった。
それを避ける事は出来ない。ただ、受け止める事も出来ない薫は動揺のままに心を乱す。
「な、なんでだよ!?」
「お前に知る権利があると思っているの。さっさと渡した方がいい」
「ちょ、ちょっと待てよ!なんで理由もなく!それに昼間に話しただろ、これはいつも離すなって言われてるって!」
「おめでたい奴。そんなの私には一切関係ない。ただのお前の個人的な都合に過ぎない。ただ、あの人が欲しがっているものを私は奪い取る」
強まっていく語気。
膨れ上がっていく不安。
同じくらいの歳とは思えない迫力を宿したその仮初めの制服を纏った存在は、薫の反論を一切受け付けない、寧ろ何かを言う隙も無く畳み掛けてくる。
「……あの人って?」
それ故、薫には自分でも情けないか細い声で、手前にあった言葉を何の造作も加える事無く放つ事で精一杯だった。
「知る権利はないと言った」
サントはその言葉の中身の無さに気付いてしまったのか、冷たく、ただ無情にあしらってしまう。
静まれ。
命じても、心は落ち着かない。
止まれ。
命じても、震え始めた足は戻らない。
「とにかくさっさと渡しなさい。殺すことは禁じられているけど死なない程度ならどんなこともできるのよ」
薫はその言葉に、初めての死の恐怖により少し青ざめたが、何とか僅かに残る冷静さを掘り出そうとする。
「……手荒なことはできないはずだろ、いくら夕方とはいえ、周りに人がいるはず……」
薫の言葉はそこで止まった。
否、止めさせられた。
サントが何やら小さく言葉を紡いだ瞬間、彼女の手には柄から剣先まで淡い白で統一された剣が収まり、その切っ先を薫の首に突き付けていたからである。
当然の如く、銃刀法が制定されているこの日本という国では、薫は剣などといった物騒な代物を突き付けられた経験は無く、首筋からは恐怖感の膨張を表す鮮血が零れ始めた。
「……なっ、一体何なんだよっ!絶対これって犯罪だろ!き、きっとすぐに人が来てくれるはず……」
日常では経験する筈のない暴挙に苛立ちと、それに勝る恐怖を胸に抱きながら零す声は、心なしか力強さが宿らず、ただ臆病に震える。
「ふふっ。それは残念。叶うことのない願いね」
対して、サントはあくまでも冷静沈着な態度を貫き通し、まるで嘲笑っているようにも思える。
それだけで、その少女は危険な存在だと身体の全ての神経が伝えてくる。
そんないつの間にか恐怖の権化と化していた少女は口元にだけ笑みを浮かべると、その人差し指を空に向ける。
「……空遮壁」
刹那、空気が変わった。
サントの指先から放たれる白い光の雫が辺りを包み込み、やがて青白いドーム状の空間と化していた。
それは非常に巨大で、宵闇の空を消し去り、神秘的な空間を作り出している。
まるで、自分一人だけが孤立してしまったような感覚をそれは生み出していた。
「な、なんだよこれ」
サントはうっすらと笑みを浮かべ、その中に潜む余裕と絶対の自信からか、嘲るが如く薫の首から切っ先をひいた。
「これは空遮壁、私のエレメントの力、一定空間を世界と孤立させることができるの、お前の世界の言葉で言うと結界てやつに近いかな、つまり今周りには誰もいないってこと」
(……はい?エレメント?結界?)
薫の頭は数多くの疑問符に満たされていき、繋がらない言葉が思考を乱してしまう。
「わかる?手荒なまねだっていくらでもできるの」
サントは先程の真っ白な剣をもう一度構えた。
そしてまた一瞬で消えた刹那、薫は押し倒され首に切っ先を突き付けられる。
「渡す気はない?」
サントの平坦な声色が妙な威圧感を与えてくる中、薫は恐怖に身体を震わせながらも、決意したような声で答える。
「……これは大事なもの、いなくなった母さんに繋がっているものなんだよ!それに俺は殺せないんだろ、なら他にどんなことをされてもこれは渡さない」
少し力の戻った薫の言葉。
だが、それを聞いてもサントの表情に変化はなく、ただ冷たい視線だけを薫に向けている。
「母さんか……ふふふふ、あはははは!」
サントが表情を緩ませる事なく、馬鹿にしたような笑い声だけを響かせる。
「何が可笑しいんだよ」
「いや、お前があまりにね……同情に近い気持ちよ」
薫はその嘲るような声色の言葉に僅かな憤りを感じながらも言う。
「俺はお前に同情される要素なんて1ミクロンもないぞ」
「無知っていうのはいいことね。まあいい、話を戻すよ」
薫は納得できない、という気持ちを強く抱いたが、サントはそのまま続けた。
「あなたがどうしてもその指輪を渡さないというなら私にも考えがあるのよ、確かに私はあなたを殺せない、でもあなた以外の人間の殺害は許可されてる、どういうことかわかる?」
薫は真っ先にゆかりや健司のことが頭に浮かんだが、二人はすでに家に帰っているはずなので安心する。
「他の人を殺そうたって今この空間には人はいないってお前自身が言ったじゃないか」
サントはそこでフフッと笑い、薫から少し距離をとる。
瞬間、地面にゲーム等で見たような白色に輝く五亡星状の魔法陣が現れ、そこから溢れる眩い光が周囲を照らす。
薫が思わず手で目を覆う中、その光が収束し始めた時、サントは握りしめている真っ白な剣を何かに突きつけていた。
「なっ、ゆかり!」
薄ら笑いを浮かべたサントに剣を突き付けられていたのは、とっくに学校から帰った筈のゆかりだった。
「なっ、何!? どうなってんの! 家にいたはずなのに」
異常としか思えない状況に対し、ゆかりは気が動転しているようで、早口で口走った。
動転のままに叫び散らかした後、ようやくゆかりは薫とサントの姿に気が付いたようだ。
ただ、同時にに剣を突き付けられている自分に気付いてしまった。
「えと、あんたら何やってんの!? ていうか私、どうなってんの!?」
ゆかりの発言には混乱が入り混じり、半ばパニック状態にも見える。言っていることが無茶苦茶になりつつあるのだ。
「……ちょっと黙っといてね、ゆかりちゃん」
サントは薄気味悪い笑みをそのままにして、冷え切った声色で告げると、確かな鋭い切っ先を持つ真っ白な剣をゆかりの首へと近付けた。
「えっ! えっ! これって……本物?」
ゆかりの浮き沈みする声に対して、サントは小さく頷き、ただせせら笑うような仕草を見せる。
「…………」
恐怖に感情が支配されてしまったのか、意識が混濁してしまったのか、ゆかりは黙り込んでしまった。
ただ、その身体は小刻みに震えていた。
「わかる? これも私の力。とにかくね、早くその指輪渡さないとゆかりちゃん……殺しちゃうよ」
日常でたまに聞くような冗談混じりではない、はっきりとした冷酷な響きを持つその言葉は薫の背筋をさらに冷やす。
その言葉が精神的にも冗談ではない事に加え、サントは視覚的にもそれを示すように、刃をゆかりの細い首に触れさせた。
少し力がこもったのだろう。真っ白なその剣に一際目立つ赤の道筋が刻まれ、静かに垂れ落ちた。
だが、ゆかりは受ける痛みを覆い隠す程の恐怖感からか、顔を蒼白にしながらも、ただ無言だった。
「――やめろよ」
「ふふっ、何と言った? もう一度言ってちょうだい」
サントは人を傷つけているというのに消えない胸糞悪い笑みを浮かべたまま刃を近づけ、剣に流れる赤が一層目立ち始める。
「や、やめろって言ってんだ! ゆかりを離せって言ってるんだよっ!!」
「なら、さっさと指輪を渡せばいいの。あははっ、それともまだ人質が必要? それなら連れてくるよ。例えば、健司君とか? それともあなたの両親でもおもしろいかもね。いっそみんな殺しちゃおうか?」
「ふ、ふざけるなよ! そんなことしたら絶対許さないからなっ!」
「許す、許さないはそっちの勝手。そうね、まずはゆかりちゃんを殺してあげる。
……だらだらとウザイし」
ゆかりの瞳には弱々しく煌めくものが浮かぶ。ただ、それを落とさないようにと我慢しているように見える。
そんなゆかりに対し、サントが剣を握る手に力を込めたのがはっきりと瞳に映った。
――瞬間。
「やめろーっ!!」
薫がゆかりを守るように前に出した右手――そこから突然煌めきを帯びた光が溢れる。
「なっ! これはまさか……キャアアッ!」
光は一点に集束し、レーザー砲のようにサントを貫き吹き飛ばした。
光の色は――銀。
サントは視認するのが難しい程遠くで痛々しい音を立てながら地面に俯けに倒れる。
起き上がる様子はない。
ゆかりはサントから離れたことによって糸が切れたように地面にヘタリと座り込んだ。
薫の右手からの光は穏やかに消えていく。
だが薫の体からは銀色の光が放たれ、大気をびりびりと振動させている。
「なっ! どうなってるんだよ、これは!?」
声を荒げ、気付いた。
糸が切れたように座り込み、震えるゆかりの姿に。
何とか気の動転を静めようと努め、慌ててゆかりのもとに駆け寄る間に、体の銀色の光は穏やかに消えていった。
「おい! ゆかり、大丈夫か?」
駆け寄り、見つめたゆかりの首からは未だに赤の雫が零れ落ちていたが、命に関わる程ではないだろう。
薫の身体を安堵が満たすと同時に、ゆかりも恐怖からの解放されたらしく、柄にもなく薫に抱き着いてきた。
「怖かった、怖かったよぉ……。もう、大丈夫だよね」
ゆかりは抱き付く腕に力を込めて、むせび泣きながら言う。
日常ではどこまでも強く、逞しく見えていた彼女の脆さに、薫は同じ日常の者として共感し、どこまでも身近に思えた。
「もう、大丈夫だ。とにかく病院に行こう」
そんなゆかりの脆さを壊してしまわないように、優しく言う。
そして、このドーム状の空間からの逃げ道を探すために立ち上がった時、遠くでふらふらと立ち上がる人影を見てしまった。
(ま、まじかよ……)
今や恐怖の権化と成り果てた存在――サントだった。
だが、足取りはふらふらとしていて、先程貫いた腹部からはどくどくと血が流れ落ちている。
それでも、この身体の震えを抑えてくれる特効薬には決してならない。
先程にも増して突き刺さる威圧感が全ての動きを奪っているようにも感じた。
それは日常の者であるゆかりにとっても例外ではないのだろう。
彼女もサントの存在に気付いてしまい、再び表情を凍らせて震える。
その中で、サントがゆっくりと歩みを進め、薫の側にまでにじりよってきた。
「……雨霧、薫。お前が、こんなところに……紛れ込んで……いた、なんてね。凄く、哀れな奴……」
先程までの薄気味悪い笑みはなく、ただ絶え絶えとなったその声色はただ恐ろしかった。
「でも、これで……お前を、いたぶる理由ができた……」
無情な表情を纏ったサントは、両手で剣を振り上げる。
薫は何とか逃れようとするが、足が動かない。
それどころかその場に座り込んでしまった。
「どうやら……さっきの魔力の放出で、体が限界に達したよう……ね」
サントも声を枯らし、限界に近い声で言う。
「……さよなら」
剣閃を光らせ、真っ直ぐに剣を振り下ろす。
満ちているのは、恐怖だけ。
(動け! 動いてくれよ、俺の体!)
薫の言葉にならない感情は無情にもどこにも伝わらず、剣閃がその必死の感情さえも切り裂いてしまう――
――刹那。
響き渡る甲高い音。
同時に弾かれていた迫り来る剣。
気付いた事は、薫の周囲を何やら暖かな赤色を帯びた煌めく物質が包み込んでいるという事。
「なっ! まさか……邪魔を、されるというの――」
サントのその言葉が最後まで薫の耳に届く事はなかった。
もはや、薫からもサントの姿は見えない。
ただ、周りを包み込む赤色の物質が色濃く包み込み、やがてその暖かくて心地良い空間に身を委ねるかのように、薫の意識は遠退いていった。
サントが悔しそうに舌を鳴らした瞬間には、薫の姿はどこにもなかった。
残っているのは、未だに煌めく赤色の光の残滓のみ。
「あちらへ、行ったの……。なら、早く追いかけ……ないと。あの、哀れな奴を……」
その呟きが終わった瞬間、サントの姿も白銀の光に包まれ、消える。
同時に場を包み込み、異質な空間を作り出していた不可思議な障壁――空遮壁も消え去った。
騒動の跡形を何一つ残さず、日常に戻ったその空間には日没後の穏やかな闇だけがあった。
そこには、人影が一つだけ。
「――かお、る……」
ゆかりが呟く。その声には一切の感情はなく、ただあっさりと暗闇に溶けてしまった。