日常
その季節は芽吹きを終え、何もかもが映える。
桜は華やかな時を終え、葉桜となった季節。失敗した自己紹介のことをまだ引きずっている奴もいる時期。
そんな季節にベッドに寝そべり、幸せそうな顔をしている至って平々凡々な男子高校生――雨霧 薫がいた。
他の人と違う所は一人暮らしであり、両親がいないって事程度。
父親はものごころつかぬうちに亡くしたらしく、母親も数年前から行方不明となっている。
それでも薫という少年は‘日常’に暮らしていた。
朝、目覚ましが一つの小さな部屋で、耳障りな音色を鳴り響かせている。
やがて、目覚ましはなかなか起きない部屋の主に向かい音量をさらにヒートアップさせる。
「あーっ!うるせぇ!」
目覚ましに理不尽なる拳の鉄槌。不幸なそれは気の毒にも部屋の主に殴られ、床に落下し、動きを止めた。また一つ、尊い目覚ましの命が失われた。
部屋の主……雨霧薫は床に落ち、動きを止めた目覚ましを拾い上げる。
「また潰れた……てか時間……やべっ!」
薫は時間を見ると、慌ててベッドから跳ね起きた。そのまま部屋のクローゼットから素早く制服を取り出し、階段を駆け降りる。
「朝飯は……時間ないな、今日は抜きだ」
薫は時間から素早く適切だと思える判断を下すと、寝間着を脱ぎ、ズボン、Tシャツ、カッターシャツを身につけ、玄関に向かう。
「行ってきます……」
返事は決して返ってこない。一人暮らしなので当然なのだが、やはり淋しさが漂ってしまう。
薫は何度思っても慣れない気持ちを抱えながら玄関横に掛けてある学生鞄を手に取り、家を飛び出していった。
空は晴天。雲一つ無し。
「ハアハアハアっ!」
薫は息を切らしながら走りまくり、一気に市立河風高校の校門を駆け抜ける。
そして高校の時計台の時刻を見た時……
「はいぃ!?」
がっくりと薫はうなだれた。まだ時刻は八時、始業にはまだ三十分は余裕があったからである。
「あのクソ目覚まし!最初から狂ってたのかよ!何の恨みがあってこんなサミットを起こしやがったんだぁぁ!」
理不尽な怒りによって引き起こされた混乱により言葉が少々乱れに乱れまくる。
そのまま薫は歩きながら教室へと入っていった。
「おはよー、薫」
イライラしている時に絡まなくてもいいやつが絡んできた。薫の高校からの友達、西森健司だ。
「薫よ~、お前はいつもつまんなそうな顔してんな、少しは俺を見習え!」
健治はそう言って気持ち悪い程のにやけ面を見せつけてきた。
はっきり言って気持ち悪い。他に例を上げようとすれば、一日中かかってしまいそうな程の気持ち悪さだ。
「薫よ……この健司様を無視すると全国百万のファンの方々が暴徒と化すぞ」
健司は朗々と言い放つが、いかんせん迫力がない。
元々迫力や気迫等とは最も遠い奴でもあるが。
「ふっ……嘘を付け。貴様のファンクラブ等はとうの昔に襲撃してやったわ!」
ノリだけは誰もが認める才能を持つ薫は、単純な程ノリにノリまくる。
「くっ貴様……よくも我が民を!」
「うん、バカな事言ってないで早く着席すればどうだい?先生方に迷惑だろう?」
「うわっ、そっちから振ってきといてノリ悪っ!しかもクールキャラ気持ち悪っ!」
朝の低体温の皆様に克を入れる、もとい怒りを買う無駄にデカい叫び声を聞きながらも、薫はクールっぽく断固無視、
「おーい、おーい、おーい!寂しくなるだろうがぁぁ!」
無視無視無視。
しまいには健司は発狂してしまい、顎の長いクラスメイトAの手により怒りの鉄拳を浴びせられているのが横目に見えたが、いつもの事だ。何も気にする事はない。
「そんな顔をしてるとバカに見えるぞ」
薫がそう言うと健司はにやけ面をやめて、悲しそうに今は昔のとあるコマーシャルのチワワのようなうるうるした瞳でこっちをみてきたが、薫は断固無視した。
そんな雌雄を決する大決闘を終えた後、薫はホームルームまで暇な為、何か面白い事でも起きないかと、窓から外をぼんやりと眺めていた。
そんな自己満足ご満悦タイムを快適に過ごしている中、薫の瞳にはいつもとは違うものが映し出された。
それはさも当然なように教室に入り込んでいる少女。
(あれ、あんなやつこの学校にいたっけ?)
そう思いつつもまだ入学して二ヶ月ほどしか経っていないので、薫はそんなに目立たない子なんだろう、と思い、あまり気にしなかった。
その為、彼女が薫を窺うようにしてちらちらと視線を向けていた事に気付けなかった。
「サンちゃん、今日は遅かったじゃん、何してたの?」
これぞまさに世界の異変と言えようか。腹立たしくもすさまじき事かな、健司があの少女に馴れ馴れしく話しかけていた。
(なんだあいつ?、あの女の子のこと知ってるのか)
薫は健司の思わぬ大胆行動に脳髄から足元まで貫かれたような衝撃を受け、堂々巡りの思考を数回繰り返す。
(……いや、まさか健司の彼女とか?、いやいや、健司が俺より早く彼女をつくるなんてありえねぇ!!いや、だがほんとに彼女だったら……どうする!どうする俺!?)
などと薫は自身に問い掛けつつ、同時に健司に対する一方的な苛立ちを募らせつつ、ちらちらと緊迫している現場情勢を見つめる。
「うるさい!話しけないで」
そんな薫の心の砂漠に恵みの雨を、そして癒やしのオアシスを作り出してくれたのは少女のその鶴の一声、ならぬ天使の一声であった。
対象的に砂漠化が極端に進行した地域も存在したようだ。所謂、健司砂漠と呼ばれる地域は砂嵐が吹き荒れ、今にも地盤沈下でも起こしてしまいそうである。
それを見て薫は心からの安堵の溜め息を零すと共に、世の中上手く出来ているのだと信じてもいない神様に感謝したりもした。
(ふ~、確かによくよーく考えれば健司に彼女なんて、今宇宙でビックバンが起こるぐらいありえねぇ)
薫はそう思い、表向きは健司を慰めに、裏では彼を嘲笑い、そして傷心に塩を振るかの如く、見覚えのないあの少女の詳細を聞く為に彼に歩み寄っていく。
「えっと、健司。ご愁傷のところ悪いけど、お前ってあのサンって子のこと知ってるのか?」
薫が自身の机で俯き、燃え尽き、石化している健司の気持ちを考えるといった蛇足的な事をせず、単刀直入に聞くと、健司は力無く顔を上げ、訝しげな視線を薫に向ける。
「ほぇ~、薫君、頭ボケちゃったの~」
燃え滓と化した健司はどうやら脳内の中枢神経まで先程の少女の強大なる精神攻撃にやられてしまったらしい。
薫はそんな友を労る事なんてしない。彼ならきっと自分で立ち直ってくれる、自分で本当の自分を見つけ出してくれる、そう信じているから――もとい、一々気にかけるのが面倒だから。
「そんな訳ないだろ。ていうかきしょいからやめてくれ、その口調。全世界住民に誓ってもいい、お前がやってもきしょいだけ。それよりまず質問に答えろ」
薫は寧ろ健司の傷心をさらに広げるように振る舞いながら、自身の聞きたい事を聞き出そうとする。
「ほぇ~。サンたんは最初から同じクラスだよぉ~。ばっかじゃないのぉ~」
殺戮衝動というものをご存知であろうか。
人は計画的にそれを抱く事もあれば、衝動的にそれを抱く事もあるそうだ。
薫の抱くそれは間違い無く後者であった。
「ウソは止めようね、健司君。早く本当の事言って東京湾に沈もうね。そういう風に先生に教わったよね」
「ほぇ~。ほぇ~。ほぇ~。」
どうやら完全に壊れてしまったらしい。
これ以上燃え滓に話しかけていても、得る物は何もないと判断した薫は奇声を発する健司に刹那の瞬間だけ合掌すると、彼に背を向けた。
(……どうなってるんだよ?こんな燃え滓よりも他の奴にも聞いてみるか、ゆかりなら真面目に答えそうだな)
ゆかりとは薫の幼なじみであり、小学校からずっと同じクラス――所謂腐れ縁である。
ちょうど今ゆかりは学校に来たようで、薫はいざ聞き出さんとして、ゆかりに歩み寄る。
「えっと、ゆかり。学校に来て早々に一つお前に質問があるんだけど」
ゆかりは寝起きが悪い。
長年感じてきた事ではあるのだが、朝彼女に話しかけるという危険度の高いミッションを遂行中である以上、細心の注意を払わずにはいられない。
下手な事を言うと拳が飛ぶ。不快な事を言うと蹴りが飛ぶ。機嫌を損なうとあまりに危険過ぎるのだ。
「……何、朝から。朝からあんたのつまらない顔を見るのも疲れるんだけど。周りの人に掛ける迷惑も考えてよね」
間違い無く本日の朝の危険度はSクラスだ。
この上なく機嫌が悪い。
目覚ましに起こしてもらえなかったのか、朝食が気に入らなかったのか、登校中に黒猫の大群を見たのかは知らないが、とにかく薫の脳内には危険を知らせるアラームが鳴り響いている。
(……だが、後には退けんっ!!)
薫はここで退いては全てに敗北しているような心地がして、なんとかゆかりの神経を逆撫でしないような言葉を精選しながら言葉を紡ぐ。
「……えっと、とりあえず少しだけ聞いてくれませんか。幼なじみたるこの俺に免じて」
薫の懇願を大きな欠伸をしながら聞いていたゆかりは自身の机に荷物を置くと、渋々といった様子で薫を見る。これは一応話を聞いてくれるという合図なのだ。
ゆかりの整った顔立ちに映える大きな瞳がそれを訴えかけてくる。
それを長年の付き合いから察した薫は、自身の席であるらしい所に座っているサンという少女を指差しながら言う。
「お前って、あいつのこと知ってる?」
「当然じゃない、あんたまだクラスの子の顔と名前覚えてないの」
その言葉に薫は少しむっとしながら言い返す。
「いや何となくは覚えているよ、だけど俺はあんな子は見たことない気がするんだけど」
「ついに頭ボケた?あんた、席が隣だからって仲良く話とかもしてたくせに~」
ゆかりは目を細め、何やら健司とよく似た訝しげな視線を薫に浴びせる。
(どういう事だよ……)
流石にゆかりが薫をからかったり、嘘をついているようには見えない。
だがそれこそがさらに薫の抱く違和感を強めていく。
最近、記憶喪失になった覚えはない。それ故、日常の中に入り混じった違和感は明らかなものであった。
「とにかくあの子…サンちゃんの事でしょ。まあ確かに変わった名前してるけど同じクラス!あんたの隣!わかった!?」
ゆかりはどうにも煮え切らない薫の態度と朝の不機嫌さとが相まって、苛立ちが募り始めたようで、声を荒立てて言った。
「……わかったよ」
これ以上朝のゆかりの機嫌を損ねる事はこの上なく危険な行為である為、薫はやむなく聞き出す事を断念し、同時に最も有効な手段を思い付く。
(本人に聞くのが一番……だよな)
薫が最も根本的な手段を実行しようかと考えているうちに、ゆかりはぷいと後ろを向いて教室の外へと歩き去ってしまった。
薫が後で何か埋め合わせをしなくてはならないと心に肝に銘じた事は言うまでもない。
そうしなければ後が怖い。それは長年の経験から察しているつもりだ。
そのような幼なじみの機嫌を如何にして戻すかという事に思考を巡らせつつも、足はあの謎の少女……サンのもとへ向かっていた。
もちろん、単刀直入に‘お前は誰なのか?’と聞く為である。
もしもこの違和感が単なる徒労に過ぎないのなら、サンという少女に対して失礼な物言いであろう。
だが、薫にはこの違和感は明らかにはっきりとしたものであり、とても徒労で済むような事には思えなかったのだ。
その少女――サンは何の感情も表していない、ただ無表情とは違う、そんな曖昧なモノを浮かばせた表情で一人で椅子に座り込んでいた。
彼女は河風高校の制服は着ているのだが、それにも些細な違和感を感じる。
茶色のセミロングの髪から覗く少しつり上がった瞳には誰も寄せ付けないと言っているような鋭い眼光が宿り、整った目鼻立ちは更にそれを強めているようにも思えた。
そんな異様な雰囲気を醸し出す少女がこの平凡な学校に、日常のクラスにいるというのに、誰も気にかけようとはしない。
確かにその少女はそこに居場所を持っていた。
「……少しいいか?話があるんだけど」
薫にとっては初対面である少女に慎重に話しかける。
これほどまでにクールと言える雰囲気を身に纏っている少女である。もしかすると無視されるのではないかという懸念もあった。
だがその懸念は思い過ごしであり、少女は刺々しいという印象を一番に感じさせる瞳だけを薫に向ける。
「……お前が聞きたいのは私の事?」
予想の斜め上を行く返答が、腕を組み、一見退屈そうな少女の口から放たれた。
「えっと、なぜそれを?」
「私は無駄話は嫌い。お前の指輪、その事を教えるなら多少の無駄話はするかも」
どういう事であろうか。頭の情報処理能力が追いつかない。元来成績の悪い薫にとっては仕方がない事なのかもしれない。
ただ、直感的に不思議な少女の話を聞きたがっている自己に薫は気付いた。
それは単なる純粋な好奇心の為すものであったのか、詳しくはわからない。
ただ聞いてみたい。それだけだったのだ。
「……母さんにもらった物だよ。常に外すなって言われてる。それだけだよ」
「無駄話ね。お前は何度も読んだ絵本を読んで楽しいのかしら?」
「はい?」
薫の思考回路がもはや通行止めとなりかけている中、少女は立ち上がり、薫に背を向けてしまった。
「ちょっ、お前は何か話してくれないのかよ!?」
「所詮、無駄話よ。早退するから、先生とやらに言っといて」
何という傍若無人。
騙された上、収穫はなし。謎は深まっても、探偵じゃないのだから全く嬉しくはない。
そんな薫の気持ちもよそ吹く風、その少女は無言のまま廊下に出て、視界から消えてしまった。
(俺って、バカですか)
薫が途方に暮れ、と同時に必ず真実を突き止めてやろうと決心したのは好奇心が由来した、当然の事であった。
薫は気付いていなかった。
その不思議な少女の関心は‘無駄’ではなかった事に。
たった一つの物に関心を寄せていた事に。
薫の人差し指には指輪があった。
鮮やかな赤の石が十字架型にカッティングされ、周りを銀にコーティングされた物。
それは綺麗な綺麗な指輪。
薫の人差し指には綺麗な指輪があった。
その後学校の授業が始まった。ちなみに薫の学力はクラスの四天王に入るほどである。
四天王…学力順位最下位から数えて四人目までの者に与えられる栄誉ある称号である。
薫は四天王No.3だ、すなわち最下位から三番目である。ついでに健司は四天王No.1だ。つまりクラスのバカ達の救いの存在である。
誰だって下に誰かいるのを願っているからである。
四天王No.3君が先生に問題を当てられた時、
「X=3X+6Y+9の答えは!?はい雨霧君!」
↓
「アウストラロピテクス!!」
↓
クラス全員がコンパスをだす
↓
集団リンチ(先生有り)
これが黄金パターンである。
薫は今日は幸いにも先生からの嫌がらせに近い御指名を受ける事はなく、平穏にに過ごすことができた。
その後のいつも以上に厳しくも、楽しく感じたバスケ(薫は中学生の頃からやっている)の部活も終わり、疲れた薫はさっさと着替えて帰ることにした。
「薫~バイバーイ」
「また明日な~」
部室に留まっていた何人かの部活の友達が手を振り、薫も手を振り返した。
(あれ?何だ、みんなの手が……霞んでる)
薫の瞳にはどこか儚げに、涙を通したかのように朧気に見える友達の姿があった。
(……疲れてるのかな?)
視力は良く、この歳でまさか老眼はあるまいと思った薫は瞳を手で擦る。するとそこにはいつも通りに笑顔で、親しみ深い友達の姿があった。
「おう、バイバイ」
薫はそれを確認すると、挨拶を返して帰途につき始める。
(やっぱ疲れてるみたいだな……。というか健司はもうかえったのか)
薫は高校に入ってから途中まで帰り道が同じなのでよく健司と一緒に帰っている。
(仕方ないな、今日は一人で帰ろう。夕飯の材料も買わないとな)
親戚の迷惑になるのも嫌だったので、残っている父親の遺産を切り崩しながら一人暮らしを余儀なくされている薫は、もちろん炊事洗濯全てを自分でやらなければならない。
当然の如く、食料の買い出しもその一部であり、幸か不幸か、薫はスーパーの値引き時間やタイムサービス、在庫処分の時間等、あらゆる主婦的知識をその容量の少ない頭に詰め込んでいた。
今日もその生活必需知識を存分に発揮するべく、校門を出て、人通りの少ないスーパーへの近道を通る。
道は暗かった。
寿命が近い点滅する街灯。
白く光っては消え、不気味に白く光っては、消える。
道は暗かった。
遠くから聞こえる虫の声。
遠くから聞こえるだけ。
道は暗かった。
誰もいなかった。
まるで世界に人が一人しかいないよう。
街灯が切れた。
さらに暗くなった。
闇に塗りつぶされた電信柱に人が一人だけいる。
胸騒ぎ。
そいつを見た時、日暮れが訪れた。