陛下の治める地
「我が君、間もなく都に君を捕らえようという悪鬼たちが押し寄せてまいります。ですがこの尼がいますから、何の心配もありません。尼と共に一緒に心安んずる事のできる地へと参りましょう」
あの時、家の者たちに「木曾勢は野蛮故、ここにいたら何をされるかわからない」「尼は下衆な兵たちの慰み物になりたいのか」と脅され、そう言って陛下を説得して、三種の神器を持ち出して、京の御所を脱出した。
そして何日も何日も船に揺られ、酷い船酔いに苦しみ、長い船旅の果てに太宰府へ到着した。
あの時の選択は本当に正しかったのか。今でも何度も自問する。
本当は我が身可愛さで陛下を盾にしてしまったのではないか。単に懐いてくれている孫と離れ離れになるのが嫌だっただけではないのか。そんな醜い自分の心が煤けて見えるようで自己嫌悪に陥る。
いえ、あの時は、すぐに家の者たちが京に平穏を取り戻してくれると思っていた。一時的な事だから、陛下を安全な場所に避難させるだけだからという気持ちはちゃんとあった。
あの人の築いた「平家」という権勢ならば、あのような単なる信濃の山奥やら関東の反乱なぞ、例え一時は勢いに押されても、すぐに押し返せる。そう思っていた……
陛下の話相手になっていた所に、息子の知盛が「相談事がある」と言ってやって来た。
「母上、次の戦は大戦となる。そこに大将として陛下をお連れいただきたい」
「何を馬鹿な事を。知盛殿、あなたはご自分が何を言ってるのかわかっているのですか?」
「陛下が御出陣あそばしたとなれば、我が軍の士気は否応無しに上がるのです。次の戦は水上の戦いとなりましょう。水上は我ら平家の庭。ここで鎌倉軍を徹底的に叩いて反撃の狼煙とするのです。その為には陛下の帯同が必要なのです」
「あなた方は陛下を何だと思っておいでなのです? その辺の六歳の子供とは違うのですよ。神武天皇より脈々と続く、高貴なる血筋、その現世の君なのですよ?」
渾身の説得だというに、この馬鹿息子は右耳を指でほじって。だから何だというこの不遜な態度。これだからこの家はダメになったのでは無いのだろうか。この家はあまりにも増長しすぎしてしまったのよ……
「で、母上、指示に従っていただけるのですか? 従えないというのであれば、母上をここに一人残し、徳子に連れ出すように言うだけですが」
「建礼門院様とおっしゃい!」
「はいはい。じゃあ、言い直しますよ。建礼門院に連れ出すように命じるだけです。ただ、その時は剣戟を突き付けて無理やりという形になるでしょう。で、母上、どうされるのです?」
「……わかりました。説得してみます」
口元を歪め、ふんと鼻を鳴らす知盛。その鎌倉軍に屋島で敗れて逃げて来たくせに、なんでそんなに威勢を張っていられるのやら。
「母上、勝つためです。母上とて、一日も早く京に戻りたいとお思いでしょう? 陛下を京に戻したいとお考えでしょう? ならば文句を言わずに我らの指示に従っていただきたいですな」
何たる不遜な態度だろう。くるりと背を向けた知盛に怒りが沸いた。こんな家などもう滅びてしまえば良い。そんな考えすら浮かんでしまった。
◇◇◇
「尼、少し外の様子を見てもよろしいか? 船が揺れて、少々気分が悪うなりました」
「それは大変。では尼の膝を枕に横におなりになってくだされ。少しは揺れを気にせずともよくなるはずです。外は危のうございますれば、ここで尼と一緒に我が家の戦勝を祈ってくだされ」
戦が始まってから、どれだけの時間が経ったであろうか。
確かに今日は随分と船が揺れる。
陛下の顔色が優れない。恐らくはかなり船酔いが酷くなっているのだろう。ここまでかなり我慢をして、もうどうにもならぬと申し出てくれたのだろう。本当に芯の強いお子だ。世が世であれば、さぞかし良い君におなりあそばせたであろうに……
「母上、戦はどうなっておるのでしょうか?」
娘の建礼門院がそうたずねた瞬間、一本の矢が御簾を突き破って飛んで来た。幸い勢いは弱く、御簾を抜けてすぐに床に落ちたが。
「「「キャア!!」」」
女官たちが一斉に叫び声をあげた。単に床に落ちただけの矢に驚き、一斉に距離を取ろうとする。
「何ですか、その体たらくは! 狼狽えるんではありません! 陛下の御前ですよ!」
殊更大声で叱責した事で、女官たちはすぐに我を取り戻し、陛下に向かって平伏した。
「は、母上!?」
「あなたも何を狼狽えているのです? それでも平家の女ですか! 陛下の御心が乱れてしまうではありませんか。大丈夫です。平家の一門の底力と、厳島神社の女神の加護を信じましょう。必ずや我らに勝利をもたらしてくれるはずです」
「ですが、矢が――」
「ここは戦場なのですよ。流れ矢の一本くらいは飛んできますよ。その程度にいちいち驚いてどうするのです」
ここは私が落ち着いてみせねば。私が落ち着けば皆は安心するはず。負けるはずがない、そう思わせねば。
その瞬間、船がガタっと大きく揺れた。
先ほどから船楼の壁に小さな衝撃が何度も来ている。恐らく船楼の外には何本も矢が刺さっているのだろう。
気のせいだろうか。外の兵たちの叫び声や断末魔の声が大きくなった気がする。この船は隊列として中央やや後ろに配置されているはず。それがこんなにも兵の声が聞こえてくるという事は……そろそろ覚悟しなければならないかもしれない。
ふいに船楼の御簾が開き、一人の男が入って来た。
「姉上、ちょっとよろしいか?」
そう言って弟の時忠が小さく手招きをした。密談がしたいらしく、陛下の枕は侍女に代わってもらい、船楼から出た。
「どうしたのです?」
「ずっと戦況を見ていたのだが、途中から完全に風向きが変わってしまった。恐らくダメだと思う」
「そうですか……で、あなたはどうするのです?」
「……捕虜になるくらいなら身を投げようと思う」
自害を口にした弟の顔はもう完全に覚悟は決まったという感じであった。という事は、そうとう戦況が悪いのだろう。
「姉上、三種の神器だけは奴らに渡してはならない。何があってもあれだけは守り通してくれ。あれがなければ、ずっと陛下が君でいられるのだから」
「……あなたも、陛下よりも神器が大切だと言うのですね。可哀そうな陛下……増長しすぎなのですよ、この家は。だからこのような事になったのですよ。反省なさい!」
「次の世でたっぷりと反省させていただきますよ。姉上、次の世で再会できる事を楽しみにしております」
儚い笑顔を向け、時忠は去って行った。
あの頃、夫の清盛が生きていた頃の屋敷は本当に賑やかだった。夫が世を去ってからというもの、まるで櫛の歯が欠けるように、一人また一人と私の前から去って行った。そしてついに時忠まで。
「尼、どうかされたのか?」
背後から弱々しい陛下の声が聞こえた。いったい何と言えば良いのだろう。
「我が君。どうやらここはもうすぐ安全では無くなるようなのです」
「今度はどこに旅に出るのです?」
「この世は辛く厭わしいですからね、極楽浄土のような所へ行こうと思うのです」
「ほう、そのようなところに行けるのなら、最初からそこに行っておればよかったな」
陛下はそう言うとそっと両手を合わせた。
極楽浄土が死後の世界だという事に気付いてしまったらしい。その上で涙を流すでもなく、泣き叫ぶでもなく、恐れおののくでもなく、こうして手を合わせて心を安寧に保とうとする。本当にできた方だ。
「さあ、尼と一緒に参りましょう」
陛下の手を取り、船楼から外に出る。鎌倉軍はもうすぐそこで平家軍と命のやり取りをしている。早くしなければ捕虜にされてしまうだろう。
このまま入水しても衣服が浮いてしまう。ちょうど良いところに錨がある、あれを抱いて入水しよう。
「我が君、この波の下にも都はございます。竜宮城という立派な城もございますよ。さすがにそこまでは敵も攻めては来れませぬ」
「竜宮城は朕も聞いた事があるぞ。ではすぐに参ろうぞ」
陛下は両目を閉じて両手を合わせた。
清盛様、今そちらにまいりますね……
よろしければ、下の☆で応援いただけると嬉しいです。




