第8話 国債という武器
セルゲイの根回しは、予想以上に早く進んだ。
三日後。
私の宿に、一通の書簡が届いた。
『帝国財務局より。非公式の会談を希望する。明日、財務局長官私邸にて』
「……来たわね」
私は、書簡を握りしめた。
財務局。軍費の調達を担当する部署だ。
皇帝の側近中の側近。
セルゲイが言っていた通り、軍費問題で頭を抱えているらしい。
◇
翌日。
私は、財務局長官の私邸を訪れた。
豪華な屋敷。だが、暖房が弱い。
帝国の財政難を、肌で感じる。
応接室で待っていたのは、白髪の老人だった。
財務局長官、アレクセイ・ペトロヴィッチ。
「ヴォロディナ嬢。よく来てくれた」
「お招きいただき、光栄です」
私は、深く頭を下げた。
「……さっそくだが、本題に入ろう」
アレクセイ財務局長官は、机の上に書類を広げた。
「ウライア王国の国債。三百万ディナール。利息を含めれば、四百万を超える」
「存じております」
「だが、回収の見込みはない。ウライアの評議会は腐敗しきっている」
老人の目が、私を射抜いた。
「君は、これを買い取りたいと言う。なぜだ」
「私はウライアの商人です。ウライアの政治を、変えたいのです」
「変える?」
「国債を握れば、評議会に対する交渉カードになります。返済を迫れば、彼らは従わざるを得ない」
アレクセイ長官は、しばらく沈黙した。
「一つ聞こう。なぜ帝国が自分で回収しないと思う?」
「債権回収のためにウライア王国に領土の割譲や、租借地の要求……それらをすれば、西方諸国を刺激するからですね」
老人の唇が、かすかに動いた。
「そうだ。ウライアは西方との緩衝地帯だ。領土を削り取って帝国領にすれば、我々が西側とさらに対峙することになる。それは避けたい」
「でも、私なら——経済の力で回収できます」
「……面白い考えだ。だが、我ら帝国にとってのメリットは何だ?」
ここだ。
私は、身を乗り出した。
「帝国は今、西方戦争で軍費に困っているはずです」
老人の目が、わずかに動いた。
「三百万ディナールの債権。帳簿上は資産だが、実際には回収できない。つまり、不良債権です」
「……」
「不良債権を抱えていては、新しい借り入れもできない。軍費の調達が滞る」
私は、テーブルの上に革袋を置いた。
「私が、この債権を買い取ります。現金で」
「現金? 三百万ディナールを?」
「いいえ。額面の一割で」
老人が、目を見開いた。
「三十万ディナールを、現金で支払います。帝国にとっては、回収不能の債権が即座に現金化される。悪い話ではないはずです」
沈黙が落ちた。
アレクセイは、しばらく私を見つめていた。
老人の目は、鋭い。
商人を何人も見てきた目だ。騙そうとすれば、すぐに見抜かれる。
「……ヴォロディナ嬢」
彼は、ゆっくりと言った。
「帝国の弱みを握って、何をするつもりだ?」
「弱みではありません」
私は、首を振った。
「取引です。帝国は不良債権を現金化できる。私は政治的なカードを手に入れる。双方にメリットがある」
「だが、お前は帝国の財政難を知っている。それを外部に漏らされては困る」
老人の声が、低くなった。
「お前をこのまま帰すわけにはいかないかもしれない」
脅しだ。
だが、私は動じなかった。
「私が消えれば、ウライアへのガス供給が止まります」
「……」
「帝国にとって、ウライアは緩衝地帯。凍死者が出れば、西方諸国に批判の口実を与える」
私は、老人の目を見つめ返した。
「私を消すコストは、取引するコストより高いはずです」
沈黙が、長く続いた。
老人の喉が、低く震えた。笑いだ。
「……三十万ディナール。若い娘が、そんな大金を持っているのか」
「今は持っていません」
「何?」
「ですが、調達できます」
私は、懐から別の書類を取り出した。
「ウライア王国における『竜の血』の独占供給権。これを担保に、帝国の銀行から融資を受けます」
アレクセイの目が、鋭くなった。
「ガス事業を担保に……」
「はい。ガス事業の年間利益は、約五万ディナール。六年で元が取れます」
「……」
「帝国にとって、リスクはありません。私が返済できなければ、ガス供給権が担保として帝国のものになる」
老人は、しばらく書類を眺めていた。
書類を置き、老人は静かに息をついた。
「……陛下に、進言しよう」
◇
一週間後。
私は再び、帝国宮殿の謁見の間に立っていた。
前回とは違う。
今回は、財務局長官が私の隣にいる。
玉座の皇帝が、私を見下ろした。
「また来たか、ウライアの小娘」
「はい、陛下」
私は、深く頭を下げた。
「前回の無礼をお詫びいたします」
「無礼? あれは侮辱だ」
皇帝の声は、相変わらず冷たい。
「だが————」
彼は、チラリとアレクセイを見た。
「財務局長が、話を聞く価値があるという」
「恐れ入ります」
「言え。何を持ってきた」
私は、顔を上げた。
「陛下。私は『買いたい』とは申しません」
「ほう?」
「帝国が『売りたい』のではないかと、お伺いに参りました」
皇帝の眉が、わずかに上がった。
「ウライア国債。三百万ディナール。帳簿上は資産ですが、実際には回収できない不良債権」
「……」
「西方戦争の長期化で、軍費は逼迫している。新しい借り入れが必要だが、不良債権が財務を圧迫している」
私は、一歩前に出た。
「私が、この債権を現金化いたします。額面の一割。三十万ディナール」
皇帝は、しばらく無言だった。
廷臣たちがざわめく。
「……小娘」
皇帝が、低く言った。
「お前は、帝国の内情をよく知っているな」
「商人は、情報が命です」
「そして、その情報で帝国を脅すつもりか」
「いいえ」
私は、首を振った。
「取引を、ご提案しているだけです」
沈黙が落ちた。
皇帝は、しばらく私を見つめていた。
やがて————
彼の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……面白い」
私の心臓が跳ねる。
「気に入った、小娘。いや————ヴォロディナ嬢」
皇帝は、アレクセイに視線を向けた。
「この取引を進めよ。三十万ディナールで、ウライア国債を譲渡する」
「御意」
アレクセイが、頭を下げた。
私も、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、陛下」
「礼は要らん」
皇帝は、玉座の肘掛けに頬杖をついた。
「お前がウライアで何をするか、見届けてやる」
皇帝の目は、獰猛な好奇心に満ちていた。
「————期待しているぞ」
私は、深く頭を下げた。
取引は成立した。
だが、これで安心ではない。
帝国という虎の背に乗っただけだ。
ウライアに帰ろう。
次のステップを踏み出そう。
国債だけでは足りない。
今の評議会の支配を崩すには————次期国王の対立候補が必要だ。
ウライアは、評議会が王を選ぶ選挙王政。
現国王の任期満了に伴い、国王選挙が一ヶ月後に迫っている。
私の言いなりになる操り人形では、民衆はついてこない。
かといって、野心家では私が困る。
清廉潔白で、人気があって、金と権力には縁がない人。
貧乏くじを引かされている人。
ふと、ある名前が浮かんだ。
ウライア王国騎士団長。ユーゼフ・セヴェリン。




