第7話 起死回生の計算式
その夜。
私は、宿の部屋で震えていた。
寒い。
宿の暖房は貧弱で、部屋は凍えるように冷たい。
毛布を何枚重ねても、寒さが骨まで染み込んでくる。
だが、それ以上に————心が凍えていた。
「……失敗した」
声が、震えている。
完全な失敗だ。
皇帝は、私の話を聞こうともしなかった。
二度と謁見の間には入れない。
そして————
私は、手元の財布を見た。
残り三千ディナール。
献上金は、門前払いにされた上で没収された。
帰りの旅費を引けば、残りは二千五百ディナール。
それでも、ガス事業の運転資金には足りるはずだった。
だが————
コンコン。
扉がノックされた。
「……誰」
扉が開き、セルゲイが入ってきた。
「ヴォロディナ嬢。悪い知らせだ」
「……何」
「ウライアから連絡があった。あなたが帝国に来ている間に、ガスの供給に問題が起きたらしい」
私の心臓が、止まりそうになった。
「……何があったの」
「パイプラインの一部が凍結して破損した。今度は東部の中継地点だ。修理には最低でも千五百ディナールかかる」
千五百ディナール。
私が現地にいれば、自分で直せた。
だが今は帝都————業者に頼むしかない。
残りの資金から、それを払えば————
「……五百ディナールしか残らない」
セルゲイは、無言で頷いた。
「ヴォロディナ嬢。正直に言おう。あなたは詰んでいる」
私は、ベッドに座り込んだ。
五百ディナール。
それでは、ガス事業を回すことすらできない。
従業員への給料も払えない。
暖房費も、コーヒー代も。
「……」
窓の外では、雪が舞い続けている。
帝都の夜は、死ぬほど寒い。
ウライアの王都を思い出す。
煉瓦と木で造られた建物。窓辺には刺繍が飾られ、看板には手書きの文字。
市場では商人たちが値切り合いをしていて、路地裏では犬が吠えていた。
雑然としていて、騒がしくて、でも——どこか温かかった。
帝都にはそれがない。
整然としていて、静かで、そして——骨まで凍えるほど寒い。
私は、膝を抱えて震えた。
前世でも、こういうことはあった。
どれだけ頑張っても、うまくいかないこと。
努力が報われないこと。
でも、あの時は————諦めて、受け入れた。
そして、過労で死んだ。
目の奥が、熱くなる。
涙が、頬を伝った。
悔しい。
せっかく新しい人生をもらったのに。
せっかく「今度こそ」と思ったのに。
結局、また同じなのか。
結局、私は何も変えられないのか。
毛布を握りしめる手が、震えていた。
セルゲイは、何も言わずに立っていた。
彼なりの気遣いなのだろう。
沈黙が、重い。
「……」
今度は、どうする?
諦めて、ウライアに帰る?
国債のことは忘れて、細々とガス事業を続ける?
それとも————
「……待って」
私は、顔を上げた。
涙を拭う。
……しばらく、何も考えられなかった。
ただ、窓の外を見つめていた。
雪が舞い続けている。白い、冷たい、無言の雪。
どれくらいそうしていただろう。
やがて——呼吸が、落ち着いてきた。
まだ、終わりじゃない。
皇帝は、こう言ったはずだ。
『西方戦争の軍費が足りないとでも言いたいのか?』
あれは————嘲笑ではなく、警告だった。
「お前は知りすぎている」という。
つまり、図星だったのだ。
帝国は、軍費に困っている。
西方戦争の長期化で、資金が足りなくなっている。
そして、私は「国債を買いたい」と言った。
だから皇帝は警戒した。
「こいつは帝国の弱みを握ろうとしている」と。
でも————
逆に考えれば?
「……そうか」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「セルゲイ。一つ聞いていい?」
「何だ」
「国債の額面は、いくら?」
セルゲイは、少し考えた。
「……三百万ディナールだ」
三百万ディナール。
それを、誰も回収できないと思っている。
帝国にとっては、帳簿上の重荷だ。
「私の間違いは————『買いたい』と言ったこと」
「……何?」
「考えてみて。帝国は軍費が足りない。でも、回収できない債権を持っている」
セルゲイの目が、わずかに変わった。
「不良債権を——」
「——現金化できるなら、帝国にとっても利益になる」
私は、窓の外を見た。
雪が舞い続けている。
「私は『買いたい』と言った。だから皇帝は警戒した」
「……」
「でも、帝国が『売りたい』なら?」
セルゲイは、しばらく無言だった。
やがて、彼の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……面白い考えだ」
「問題は、どうやって皇帝にそれを悟らせるか」
「それは————」
セルゲイは、顎を撫でた。
「私が、根回しをしよう」
「できるの?」
「財務官僚に知り合いがいる。軍費の問題で頭を抱えているはずだ」
「……なぜ、そこまでしてくれるの?」
セルゲイは、窓の外を見た。
「コステンコ商会には、借りがある。悪い方の借りだ」
彼の声が、低くなった。
「あいつらのせいで、俺の商売仲間が何人も潰れた。ウライアの市場が変わるなら俺も乗らせてもらう」
「……」
「それに、これがバレたら俺も終わりだ。腹をくくってるんだよ」
私は、微笑んだ。
「……ありがとう。でも、交渉は私がやる」
「当然だ。お前さんの取引だからな」
今度は、私から「買う」とは言わない。
帝国に「売りたい」と思わせる。
失敗した。だが、学んだ。
これが、商人の戦い方だ。




