第10話 インフラの聖女
私の言葉に、ユーゼフは何も答えなかった。
ユーゼフは、窓の外を見た。
「……俺が望んでいること、か」
「ええ」
「民を守りたい。それだけだ」
彼の声は、静かだった。
「五年前、俺は仲間を見殺しにした。援軍は来なかった。評議会が握り潰したからだ」
「……」
「生き残った俺にできることは、もう戦うことだけだと思っていた。だが——」
彼は、拳を握った。
「俺には金がない。派閥もない。力がなければ、何も変えられない」
私は、黙って聞いていた。
これが、彼の本音だ。
民を守りたいのに、力がない。その無力感が、彼を蝕んでいる。
「……なら、私が力を貸すわ」
私は、懐から羊皮紙を取り出した。
「これは雇用契約書よ」
ユーゼフが、眉をひそめた。
「雇用?」
「私があなたを王にする。あなたは私に、国の経営を任せる」
私は、契約書をテーブルに置いた。
「正直に言うわ。この契約には、裏がある」
ユーゼフの目が、鋭くなった。
「裏?」
「人事権と予算権は、私が握る。あなたは民のための象徴として、私の暴走を止める拒否権だけを持つ」
私は、彼の目をまっすぐ見た。
「つまり、王冠は飾りになる。実権は私が持つ。それでも、受け入れる?」
沈黙が落ちた。
ユーゼフは、しばらく私を見つめていた。
「一つ、聞いていいか」
「何?」
「なぜ、正直に言った」
私は、少し考えた。
「あなたを騙して手に入れた王冠に、価値はないから」
「……」
「あなたが、民を守った人だから。五年前、燃える橋の上で戦った人だから」
私は、ユーゼフの目を見た。
「そういう人を、騙したくなかった」
ユーゼフは、しばらく無言だった。
ユーゼフの喉から、低い笑いが漏れた。
「……面白い女だ」
「よく言われるわ」
「民のためなら、王冠など飾りでいい」
彼は、羽根ペンを取った。
「この国を変えられる人間に、すべてを託す」
ペン先が、羊皮紙に向かう。
——そこで、一瞬、手が止まった。
私は、何も言わなかった。
彼が何を考えているのか、分かる気がした。
やがて——ペン先が、羊皮紙の上を走る。
パキンッ!
空気が震えた。
契約の鎖が、私たちを繋ぐ。
これは束縛ではない。
究極の信頼だ。
「……契約成立ね」
私は、手を差し出した。
ユーゼフは、しばらく私を見つめていた。
彼の手が、仮面にかかる。そして——外した。
火傷の跡がさらされる。
だが今回は、挑戦ではない。
信頼の証だ。
「よろしく頼む……主殿」
「主殿?」
「違ったか? 雇い主だろう」
私は、首を振った。
「私はあなたの雇い主じゃない。パートナーよ」
ユーゼフの唇が、かすかに動いた。
それが笑みだと気づくまで、少し時間がかかった。
◇
契約を結んでから、一週間。
その間に、私は選挙に向けてもう一つの手を打っていた。
評議会への利息請求。滞納していた国債の利息、五万ディナール。
払わなければ、貴族へのガス供給を止める。それだけで十分だった。
そして今、私は王都の商業地区を歩いていた。
丘の上の貴族街と、城壁沿いの貧民街の間。石畳の大通りに、煉瓦造りの店が軒を連ねている。
商人たちが行き交い、馬車が荷物を運んでいく。
だが、以前の私とは、見た目が違う。
薄茶色の髪は、黄金に染められている。
三つ編みに結い上げ、琥珀色のリボンで留めている。
これは、農村の女性たちが祭りの日にする髪型。
「私はあなたたちの仲間よ」というメッセージ。
没落貴族でも、商人でもない。
民衆の代弁者。それが、私の新しい役割。
服装も変えた。
商人の地味な服から、白と金の優雅なドレスへ。
これは————ブランディングだ。
「インフラの聖女」。
それが、私の新しい肩書き。
ガス事業で庶民を救う女性。
貴族に搾取されていた人々を、暖かい冬に導く救世主。
もちろん、全部演出だ。
だが、演出も戦略のうちだ。
「ヴォロディナ様!」
道行く商人が、頭を下げる。
「いつもガスをありがとうございます!」
「こちらこそ」
私は、微笑んで手を振った。
商人たちには、適正な価格でガスを売っている。
貴族のような法外な値段ではないし、貧民街のようにカイロを配る必要もない。
彼らは自力で暖を取れる。その商売を支えているのは、私のガスだ。
すると、周りの人々も頭を下げ始めた。
「聖女様だ!」
「本当だ、聖女様だ!」
道行く人々が、次々と集まってくる。
私を一目見ようと、人垣ができていく。
「聖女様のおかげで、うちも暖房が使えるようになりました!」
「子供たちが、今年の冬は風邪をひかなくなったんです!」
声が、あちこちから飛んでくる。
私は、一人一人に微笑みかけた。
これは演技だ。
でも、彼らの感謝は本物だ。
民衆の支持。
これこそが、選挙で勝つための武器だ。
◇
貧民街。
王都の端、城壁沿いに広がる薄汚れた一角だ。
木造の長屋が所狭しと並び、路地は泥と雪で覆われている。
煙突からは煙が細々と上がるだけ——暖房どころか、煮炊きの火すら満足にないのだろう。
洗濯物が凍りついたまま、軒先からぶら下がっていた。
ここに住む人々は、冬になるとガス代が払えずに凍えていた。
だが、今年は違う。
「ヴォロディナ様! 聖女様だ!」
子供たちが駆け寄ってくる。
「今日も配ってくれるの?」
「もちろんよ」
私は、荷車から小さな石を取り出した。
琥珀色に光る魔石。
暖かさを発する、携帯用のカイロだ。
「これを持っていれば、寒くないわ」
「わぁ!」
子供たちが、歓声を上げる。
「聖女様、ありがとう!」
私は、微笑んだ。
これは慈善事業ではない。
投資だ。
貴族からは法外なガス代を取り、その金で貧民街にはカイロを無償配布する。
結果として、民衆の支持が私に集まる。
「ヤノフ様は何もしてくれねえのに……」
「聖女様だけだ、俺たちのことを考えてくれるのは」
そんな声が、あちこちで聞こえる。
計画通りだ。
◇
その夜。
私は、執務室でユーゼフと向かい合っていた。
「選挙まで、あと一ヶ月」
私は、地図を広げた。
「民衆の支持は十分よ。問題は、貴族票をどう切り崩すか」
「貴族は金で動く」
ユーゼフが、腕を組んだ。
「だが、俺には金がない」
「私にはあるわ」
私は、帳簿を見せた。
「ガス事業と国債の利息収入。これを使って、中立派の貴族を味方につける」
「国債の利息? 評議会が払っているのか」
「先週から取り立てを始めたわ。月五千ディナール」
ユーゼフの眉が上がった。
「ヤノフがおとなしく払うとは思えんが」
「払わなければ、デフォルト宣言して国を差し押さえるだけよ」
「……お前は本当に、容赦がないな」
「商人だもの」
私は、帳簿を閉じた。
ミハイロ配送のペトロからも、順調だと報告が来ている。
末端の配送網は盤石だ。
「貴族への働きかけは、単なる買収じゃない。取引よ。彼らにもメリットがある形で」
ユーゼフは、しばらく考えていた。
「……民のためになるなら、異論はない」
「ありがとう」
私は、立ち上がった。
「一ヶ月後、あなたが王になる。そのための準備を始めましょう」
◇
それから、一ヶ月が過ぎた。
楽な一ヶ月ではなかった。
ヤノフは必死だった。税務調査、風評被害、取引先への圧力——あらゆる妨害工作が続いた。
だが、私は負けなかった。
民衆の支持は、日に日に高まっていった。
そして今日。
選挙まで、あと三日。
私は、貧民街での配布活動を終えて、屋敷に戻ろうとしていた。
子供たちに手を振りながら、馬車に向かう。
今日も順調だ。民衆の支持は、日に日に高まっている。
その時だった。
「ユリアーナ・ヴォロディナ!」
馬蹄の音。
大勢の兵士が、私を取り囲む。
子供たちが悲鸣を上げて逃げていく。
民衆が、遠巻きにこちらを見ている。
「評議会の命により、お前を拘束する」
リーダー格の男が、羊皮紙を広げる。
「容疑は————国家反逆罪」
国家反逆罪。
最高刑は、死刑だ。
民衆がざわめく。
「聖女様が」「なぜ」という声が聞こえる。
私は、微笑んだ。
「……ようやく来たわね」




