第1話 借金地獄と絶対契約
怒号が聞こえる。屋敷の外から。
目を覚ました私を迎えたのは、借金取りの声と、死ぬほどの寒さだった。
これが私の、新しい人生の始まりだった。
見知らぬ天井。古びた木造の寝室。窓の隙間から雪混じりの風が吹き込み、息が白い。かつては豪華だったのだろう寝台は、今はカビ臭い布団が一枚あるだけ。
頭がぼんやりする。まるで二日酔いのような重さ。いや、それよりもっと根本的な違和感。
前世の記憶が浮かび上がってくる。
三十二歳。総合商社の法務部勤務。毎日終電、週末も出勤、カフェインと暖房だけが心の支え。
そして最期は————過労による心臓発作。
真冬のオフィスで、冷たくなったコーヒーを握りしめたまま倒れたのだ。
「……転生、というやつかしら」
状況を整理しようと身を起こした瞬間、壁にかかった曇った鏡が視界に入った。
そこに映る顔は————見知らぬ少女だった。
薄い茶色の髪が、手入れもされずに肩まで垂れている。痩せこけた頬は青白い。
だが、琥珀色の瞳だけは————どこか、前世の自分に似た強さを宿していた。
見つめ返す暇もなく————
バン!
寝室のドアが蹴破られた。
「おい、ヴォロディナ男爵令嬢! 借金の返済期限だ!」
なだれ込んできたのは、いかにも悪党といった風体の男たち。革のベストに鉄の腕輪、顔には傷跡。この世界の取り立て屋だ。
先頭の男が、羊皮紙を突きつけてきた。
「お前の親父は夜逃げした。連帯保証人のお前が払え。金額は————」
男がにやりと笑う。
「————三千ディナール。利息込みでな」
頭が冴え、今世の記憶がハッキリとしてきた。
ユリアーナ・ヴォロディナ、十七歳。没落寸前の男爵家の一人娘。父は事業に失敗し、莫大な借金を残して失踪。
そして私は、その借金を背負わされた哀れな令嬢————というわけか。
最悪のスタートだ。マイナスからの人生。
「……その契約書、見せてもらえる?」
私は震える手で羊皮紙を受け取った。男たちは鼻で笑う。どうせ読めないと思っているのだろう。
しかし私は、前世で十年間、契約書を読み続けてきた女だ。
目を細めて、細かい文字を追う。
「返済期限は……去年の冬至。利息は月三割。複利計算。遅延損害金は……」
読み進めるうちに、私の唇が緩んでいく。
「————年利換算で四百パーセント超え。これ、違法金利よね」
男たちの顔が強張った。
「な、何を————」
「この国の商法は知らないけど」
私は羊皮紙を突き返した。
「どこの国でも、暴利は契約無効の理由になる。この条項を根拠に訴えれば、元本すら返さなくていい可能性があるわ」
この世界の法律なんて知らない。はったりだ。取り立て屋の顔色が変わった。的を射ていたのだろう。
リーダー格の男が、部下たちを押しのけて前に出てきた。
「……嬢ちゃん、やるじゃねえか」
獰猛な笑み。目は、笑っていない。
「だがな、法廷に訴えるには金がいる。お前にそんな金があるか? それに、判決が出るまで俺たちがおとなしく待ってると思うか?」
男の手が、私の顎を掴む。
「この屋敷を売っぱらって、お前自身も————」
「待って」
吐く息が白い。この部屋も凍えるように寒い。
だが、私は震える体を押さえつけながら、男の目をまっすぐに見返した。
「もっといい取引がある」
男の眉が上がる。
「取引だと?」
「この屋敷を売るより、私に投資しなさい」
私は、前世で何百回と繰り返してきた『交渉』のトーンで続けた。
「父は慌てて逃げた。すべてを持ち出す余裕はなかったはず。この屋敷のどこかに、隠し金庫か、裏帳簿の手がかりが残っているはずよ。私なら、それを探り当てられる」
これもはったりだ。そんなものがあるかどうかすら知らない。
夜逃げした債務者には『何か残している』と思いたがるものだ。
「見つけ次第、倍にして返すわ。三千ディナールを六千ディナールに。悪くない話でしょう?」
男たちが顔を見合わせる。リーダーが、しばらく私を見つめた。
「……面白え」
彼は懐から、別の羊皮紙を取り出した。
「だがな、嬢ちゃん。『口約束』じゃ信用できねえ。この世界じゃ、契約は————」
男の目が、異様な光を帯びる。
「————絶対だからな」
新しい契約書が、私の前に広げられた。
『ユリアーナ・ヴォロディナは、三ヶ月以内に六千ディナールを支払う。支払えない場合、彼女の全財産および人身の所有権は、債権者に移転する』
「払えなきゃな、お前の持ち物全部に【赤タグ】がつく。家も服も、身ぐるみ剥がされて終わりだ」
【赤タグ】——契約魔法による差押えの印だ。所有権が債権者に移転し、タグのついた物は奪われる。
人身の所有権。つまり、奴隷になるということだ。
だが、退路はない。
私は震える手で羽根ペンを取り、契約書にサインした。
その瞬間————
パキンッ! と音がした。同時に、魔力の揺らぎを感じる。
男たちの胸元に、一瞬だけ浮かび上がる【光る鎖】。
淡い金色の光。首から心臓へと走る、目に見えない枷。
それは一瞬で消える。だが、確かに存在した。
男たちは何も気づいていないようだった。彼らにとっては、日常の出来事なのだろう。
この世界の『契約』は魔法的な拘束力を持つ。
文字通り、破れない鎖となって、当事者を縛るのだ。
「三ヶ月だ、嬢ちゃん。楽しみにしてるぜ」
男たちが去っていく。屋敷の外から、他の男たちの声が聞こえる。
私は一人、凍えそうな寝室に取り残された。
窓の外では、雪がちらついている。吐く息が白い。身体の芯まで冷え切っている。
————ああ、寒い。本当に寒い。
前世と同じだ。いつも寒かった。オフィスの冷房が効きすぎていた。冬は暖房が足りなかった。私はいつも震えていた。
温かい部屋が欲しかった。
美味しいコーヒーが飲みたかった。
たったそれだけのことが、いつも手に入らなかった。
「……」
私は、自分の手を見つめた。
細くて白い。華奢な貴族の娘の手。先刻この手で契約書にサインした瞬間、魔法が動いた。
この世界では、契約は『絶対』なのだ。
それはつまり、契約を支配する者がすべてを支配するということ。
「……使えるわ」
寒さに震えながら、私は立ち上がった。
三ヶ月。
六千ディナール。
借金を返すだけじゃない。
この国の『契約』を、すべて握りしめてやる。
そうすれば......
「温かい部屋と、美味しいコーヒーくらいは手に入るでしょう」
窓の外で、雪が舞い続けていた。
三ヶ月。私の命の値段は、たったの六千ディナール。
安いものね。
まずは————この国の「暖かさ」を握る商売から、始めましょうか。
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