結婚?
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十月十五日。夏木は祖父に激昂していた。
祖父はリビングの高級なソファに深く腰掛け堂々と足を組んで、夏木の怒声を軽く聞き流している。夏木はそんな祖父の態度になおさら苛々した。
「どうして私がソープで働かなくちゃいけないのよ。私は大学に行きたいのよ」
祖父は呆れたように溜息をついた。
「お前のようなアホに学費なんか払うかよ。ちょうどうちのソープが人手不足でな。お前にはキャバクラなんて無理だし、いいから言うことを聞け」
どうしてよ、どうしてよと駄々をこねても祖父は聞く耳を貸さない。夏木は耐えられなくなって家を飛び出した。
路地裏を歩いていた。夜の十時とあって人気なんてなかった。
行く先なんて決めてない。ただ放浪するだけだ。そうして気持ちの整理を付けようとする。
すると後ろからヘッドライトの灯りが近づいてくる。夏木は道路の隅に寄って、車両が通り過ぎるのを待つ。
だがそのバイクは消えることはなく、夏木の側で止まった。そのバイクは見慣れた改造車だった。乗っているのは北川で、夏木を見てしばし凝固していた。
「何暗い顔してんだよ」
「うるさい、放っておいてよ」
しっしっ、と手を振った。そしたら北川は溜息をついて、
「後ろに乗れよ」
「あんた、話聞いてた? 消えろと言ってるのよ」
北川は陰鬱な表情の夏木と対照的な笑みを見せて、馬鹿だなと言った。
「落ち込んでる女を見捨てるほど俺は腐っちゃいねーよ」
「あんたいつからそんなキザなセリフを吐く二枚目になったのよ。この四枚目が」
「四枚目って、どんだけ俺ブサイクなんだよ」
それから押し問答を繰り返し、根負けした夏木はバイクに跨った。北川が楽々とアクセルを回した。
「あんた、飲酒運転じゃないわよね。怖いんだけど」
「いいから黙っとけ」
三十分ほど走ると県道に入った。そこから峠道を抜けて森林の側でバイクが止まった。エンジンが切られる。
夏木はいぶかしんだ。「どこよここ」
「近くに綺麗な場所があるから、もうちょっと我慢してくれ」
そう言った北川はどこか楽しそうだった。
北川の後ろをついていくと、橋を渡ってから見え始めた絶景に感動した。
それは池だった。幻想的な池で、絵本にでも出てきそうな風景だった。月が池に反射していて、そこから天使が生まれるみたいに、神聖な場所だった。
「綺麗だろ?」
煙草をくわえながら言った北川。夏木は、こんな場所と北川は似つかわしくないなと感じた。北川が発する暴力の気配と池の神聖さは相反する。
「どうしてこんなところ知っているの?」
「地方遠征の時に先輩から教えてもらったんだよ」
その先輩が結構ロマンチストでさ、と屈託なく笑う。夏木はいつの間にか安心していることに気付く。
夏木は北川と共に近くのベンチに座り、目の前に雄大に広がる池を見つめた。
「なんか嫌なことがあったのか?」
夏木は祖父から言われたことを話した。すると北川は「そりゃ、酷い話だな」と苦々しく言った。
「今でも健二のことが好きか?」
唐突な質問に少し驚くも、夏木は正直に胸の内を話した。
「前まではね。でも今は違うかな。自分じゃ一ノ宮には勝てないと思うし」
北川が息をはいてから、
「じゃあ俺と結婚するか?」
夏木は驚いて北川の顔を見る。深刻な表情だ。だから冗談ではなく本気ということがわかった。
「何言ってんの? あんた私のこと嫌いでしょ」
「大川という男に見覚えがあるよな」
夏木は黙った。答えられないからだ。
「お前が健二に亜東の情報を渡すために『滝川会』の幹部の大川に体を売って情報を集めたんだろ。元『赤木』の『滝川会』の奴が教えてくれたよ。夏木が裕次郎の孫だと組関係者は全員知ってるから容易に情報を聞き出せなかった。それで体を売るしかなかったわけだ。それを知って織田はすごいなって思ったよ」
「私は……健二に頼まれたから……」
「好きな奴のために体張れる人が俺は好きなんだ。俺じゃあ駄目か」
夏木は口ごもる。告白されたことは始めてだ。でも嬉しいのか嫌なのかはっきりとしない感情が綯い交ぜになっている。今まで健二のことを想い続けていて、でもそれは実らなくて、夏木じゃ無理なのだと思った。
「俺は中卒で、工場勤務の安月給だ。お前の家のような金持ちじゃない。だけどそれでもお前のことを幸せにしたいって考えてる。幸せの価値はお金じゃないからな。それに風俗なんかでお前を働かせたくないんだ。俺の妻になってくれ」
「それでなんで結婚なのよ。普通は交際から始めるでしょ」
「家を出たいんだろ。それに付き合うとかよくわかんなくてさ。だから頼むよ」
そう言って北川は笑った。夏木はそれを見て苦笑いした。
「わかったわ。結婚してあげる」
一生の誓いを簡単に交わした二人。欺瞞の愛を確かめ合っていた健二の時とは違う。北川も明確には夏木に好意を持ってはいないだろう。けれど北川には健二と違って、そこに不自然な愛など、夏木は抱かなかった。だから救われた気持ちになった。今まで他人を虐げることを強要されてきた人生で、その生き方をしてきた夏木を肯定してくれる存在。北川はその役目を担おうとしてくれるのだ——。
***
しばらく経って十月二十日。レッスン終わりの十時、事務所近くの喫茶店で柚島と談笑していた。
「私さ、来年の四月にデビューすることになったんだよね」
柚島からの報告に私は驚きそして喜んだ。
「よかったじゃないですか」
焼肉のあとからこうして話すことが増えていって、今では友人と言えるだろう。
段々見せてくれるようになった柚島の柔らかな表情に、気分が穏やかになる。
でも話す相手はいつも私ばかりで、レッスン生の中で相変わらず孤立していた。
どうして私にだけ話しかけてくるのだろうと疑問に思っていたが、それを聞くのは野暮な気がしていた。
すると数人の女性が柚島の横に立つと、手に持っていたコーヒーを柚島の頭からかけた。私は咄嗟のことに反応が出来なかった。
「あんたが悪いんだからね」
憎悪が混じった声と視線。攻撃的な態度にただ柚島は俯いて耐えていた。
「いつも私たちを見下して。これで目が覚めた?」
せいぜい頑張ってね、と皮肉ぎみな台詞を残して去っていった女性たち。私は慌ててハンカチで柚島の体を拭いた。きっとあの女性たちはレッスン生だ。嫌なやり方だと思う。こうすることでしか意見を言えないのだから。
とても傷ついている柚島を見ると、とてもいたたまれなくなって、外に出ましょうと言った。
柚島の手を引いて、すたすたと人の間を縫うように進む。
「どこへ向かっているの」
柚島の質問を無視して、数十分歩いて着いた場所が銭湯だった。
「久しぶりだな、銭湯。柚島さんも冷たくなった体、温かくなりますよ」
そう言って私は銭湯に入ろうとすると、柚島が「ちょっと待って」と照れたように言った。
「私は……遠慮しておく」
「そんなこと言ってないで、ほら早く行きますよ」
柚島の手を掴んで暖簾をくぐった。二人で千円の代金を支払って、女湯へ入る。手早く服を脱いで浴室のドアを開ける。夜ということもあってか人が少なかった。ゆっくり体を洗ってそれから浴槽へとっぷりと浸かる。柚島はというと俯いて、なるべく私の体を見ないようにしている。そんなに気を使わなくていいのに。
「柚島さん、このあと星でも見に行きませんか」
「星? 綺麗に見える場所があるの?」
「そうなんですよ。楽しみにしておいてください」
それからしばらくして銭湯から出て、駅の方面へと向かいそして電車に乗り込んだ。車両の中はくたびれたサラリーマンがいびきを立てながら眠っていた。三駅隣に降りて、それから丘の方へと歩く。
かつて花火大会の時に来た児童公園に着いて、ベンチに並んで座った。空には満点の星空が広大に広がっている。
その情景はとても豊かで、人の心を写し取るようだった。
柚島は俯いて、ただ黙っていた。空を見ることなく、”何か”を待っているように。
「ねえ、私さ——女の子が好きなんだよね」
柚島は、この変哲もない場所で二人の間で共有するには重すぎる話を唐突にカミングアウトした。
私はしばし言葉を失っていたが、口を開いてようやく出たのが、「そうなんですね」という淡白な言葉だった。それしか返しようがなかった。




