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死と彼を想う瀬戸際に  作者: 彼方夢
第三章 歌手を目指して。

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歌手デビューへ目指して

 それから半年以上が経って——二〇一四年、四月の中旬。


 大学の進学を目標に勉強している傍ら、歌の練習も励んでいた。


 少しは上達して、音痴もマシになったかもしれない。

 そんなことを考えながら英文法をノートに走らせていると、携帯の着信が鳴った。画面を見るとメールだということがわかる。メッセージは希からだった。


『今から会えない? 歌のことで話があって』


 そのメッセージに私は苦笑した。


『またラブホテルは嫌ですからね』


 と送信した。今の時刻は午後十一時。また前みたいに悪ノリでつれられたらたまったもんじゃない。


 急いで勉強道具を片付けて、母に出かける旨を伝えてから待ち合わせのファストフード店へと向かった。三十分ほどで着いて店内に入り、周囲を見渡す。入口近い席に希はいた。私は少しお腹が減っていたのでポテトのLとエスプレッソのコーヒーを注文し、それが乗ったトレイを持って希の席に座った。


「こんな時間にそんなもの食べると太るよ」と希が余計なことを言ってきた。

「放っておいてくださいよ」


 そしたら希はけらけらと笑って、「ごめんごめん」と全く悪びれもせず言った。


「聖斗と仲良くしてくれてるんだって? ありがと。あのバカ弟は喧嘩ばっかりする頭の悪い子でね。浮いた話がなかったから」

「いや、私の方が彼に遊んでもらっているんです」


 すると希はにやにやと、

「やっぱかわいいなあ。うちの妹にしたいなあ」

「何を言ってるんですか! 恥ずかしい」


 希はひょいと私のポテトをつまんで食べた。


「だって江美ちゃんと接してると、なんかうさぎを愛でてる気分になるんだよね。愛くるしいなあって」


 やばい、この人恥ずかしいことを平然と言ってのける人だ。苦手すぎる。


「そんな耳まで赤くならなくても。恥ずかしかった? 今からやっぱりホテルに行く?」

「行きませんよ。これ以上馬鹿にしないでください」


 希が少年のような笑い声を上げた。この人、以前のラブホの時といい、今といい全く反省してないな。私をからかってばかり。そんな苦言を呈すると、


「だって江美ちゃんの反応が面白いしかわいいんだもん」

 私はもう何も言うまいと溜息をつき、話題を変えた。


「で、話ってなんですか」

「ああ、そうそう。『AKATUKI』っていう池袋にある音楽バーで働いてみる気はない?」

「え、ウェイター?」

「うーん、ウェイターだけど人前で歌ったりすることもあるかな」


 私は首を振った。


「そんなの無理ですよ。私に接客業なんて。しかも歌うとか……」

「歌手になりたいんでしょ? これも経験だって。音楽事務所のプロデューサーとかもよく来る店だし、スカウトされるチャンスがあるよ。ねえ、悪い話じゃないと思わない?」

「う、うーん」

「店は私が前に働いていたところだし、店長もいい人だから安心していいよ」

 そう押し切られ、私は首肯していた。


  ***


『AKATUKI』店内にて。

 広めの部屋とこぢんまりとしたステージに、六つほど並べられたテーブル。ここには著名な音楽作家やプロデューサーがこぞって来店するらしい。

 北川は緊張しながら、隣にいる夏木に話しかけた。


「あと十分で一ノ宮が歌うんだよな。なんか緊張するな」

 席の前のスタンドステージには、様々な音楽機材やマイクがある。けれど、ここであの江美が歌うというのは上手く想像が出来ない。


「うるさいわね。静かにしてよ。私も不安なんだから」

 夏木の前に座っている——ちなみに三人は一つの円卓を取り囲んでいる——希がくすくすと笑って、


「大丈夫だよ。きっとあの子は成長しているだろうし。働き始めてから二カ月が経つし、客の前で歌うのは三回目だしね。上手くなっているんじゃないかな」


 今日は六月三十日。北川と夏木は希の誘いを受けて来たはいいものの、江美のよほどの音痴は知っているので、客から罵声を浴びせられないかと心配しているのだ。

 北川がウェイターを呼んで酒を注文しようとすると、


「あんたまだ未成年でしょ。あっ、リンゴジュースでいいです。聖斗はまだ子供なんだから」

 希がリンゴジュースを勝手に注文し、北川を微笑みながら馬鹿にした。

 そんな行動に苛々としながらも、運ばれてきたリンゴジュースを口に含む。舌にまとわりつくような甘さに思わず顔を顰める。


「あの人、橘さんだ……」

 隅のテーブルにいる無精ひげを生やした五十代ぐらいの男性を希は指差した。誰だと思ってしばらく眺めていると、記憶の片隅から呼び起こされた情報とその人物が合致する。


「ああ、昔姉ちゃんをスカウトした人か」

「どういうこと?」

 夏木が食いついてきたので説明してやる。


「姉ちゃん、一時期歌手になろうとしてたんだよ。その実力がすごくて色んなレーベルからスカウトが来てた。橘さんはその中の一人」

「えっ、すごい。あんたと違って希さんって才能あったんだ。あんたと違って」

「おい、織田。二言も余計だぞ。わざわざ繰り返すなよ」

 夏木が嘲笑いながら、

「だって事実じゃない。あんたには才能がないんだから」


 この女、と北川は夏木に掴みかかった。


「才能がない、才能がないって、じゃあお前はなんの才能があるんだよ。人を子馬鹿にする話術か?」


 なおも夏木は嘲り笑っている。こいつ、女じゃなかったら殴ってたところだぞ。

 すると、北川と夏木のやり取りを見ていた希はくすっと笑って、

「なんかお似合いだねぇ二人とも。もしかして付き合ってる?」

「いや、違いますよ」

「そうだよ。まだ付き合ってねーよ」


 夏木がいぶかしんだ目で北川を睨んだ。「まだってどういう意味?」と、その声には多少の怒気も含まれていた。


 やばい、怒らせたかと狼狽える北川と詰め寄る夏木の姿。それを見て希は満足したみたく息をついた。

 スタンドにぞろぞろ楽器を持った男たちと江美が現れる。空気が静まった。

 江美は少し俯いてマイクを手に取り、挨拶を始めた。わずかな声をマイクが拾って部屋中に拡散する。


「初めまして。一ノ宮江美です。今回も精一杯歌わせてもらいますのでよろしくお願いします」


 そして——ベースの低い唸りが室内に響いた。それから江美は“絶望”のブレスをさも行って、観客を不安に陥れた。歌声は音痴を感じさせるものではなかったし、半年以上でこれほどまで上達したのかと感服するほどだった。この不安な歌声に聴き惚れてしまう。

 曲が終わると、わずかな拍手が響いた。

 視線を巡らすと、橘が顎に手を置いて何かを考えているように見えた。


「江美ちゃんにこんな才能があっただなんて。ねえ、聖斗。彼女はどんな生き方をしてきたの?」

「えっと……健二が言うには、小学生の頃から周りになじめなくていじめられてきたらしい」

「だからか……」


 一人納得する希に夏木が「どういうことです」と訊ねた。


「歌に江美ちゃんの心の闇が露われているのよ。色んな人に虐げられてきた過去があるからこそそう歌えるのね。夏木ちゃんも聞いていて不安を感じたでしょ。絶望の歌なのよ。でも、その裏に潜む微かな希望も感じられる。だからもし彼女にレーベルと、作家が付けば彼女の歌はきっと売れる」


 もしそうならすごいと北川は思った。それも江美の才能だろう。彼女の生き方が類を見ない歌声に変容してそれが売れるのならば、彼女も報われるのかもしれない。

 しばらくして裏から江美が現れた。こちらに小走りで向かってくる。


「来てくれたんですね。ありがとうございます」

「すごかったわよ。江美ちゃん、あなた才能あるよ」


 希から褒められて嬉しかったのか江美は微笑んだ。

「確かにすごかった」

 太い男性の声。声のした方を見ると橘が立っていた。


「えっと……」


 突然のことに困惑している江美。すると橘は希を見つけて驚いた。


「君は希ちゃんじゃないか。まさか二人はご友人?」

「ええ、そうです。橘プロデューサー」

 江美は目を見開いた。プロデューサーに話しかけられている意味を察してだろう。緊張しているのか呆けている。

 橘が江美の方に向き、名刺を差し出した。


「君には歌の才能がある。もし歌手になりたかったらここにある番号に電話して」そして去っていった。


 江美は名刺をまじまじと見つめてもうまく状況が呑み込めていないのか、あわわと声が漏れている。

彼女はこうして、一歩ずつ前進していくのだろうなと北川は予感した。

 

*****


 事務所に所属して一カ月が経とうとしていた。七月三日。

 昼間は学校に行き、夕方から夜十時にかけてレッスン。それから受験に向けて夜中の三時まで勉強する日々が続いた。

 はっきり言って寝不足だ。授業中やレッスン中に思わずあくびしてしまうことも増えた。


 鏡に映る自分の顔の隈を見て憂鬱な気分になる。

 今からレッスンに行くので、見た目を気にしてメイクで隈を隠す。


 それからリビングにいる母に出かける旨を伝えようとすると、高弘に話しかけられた。


「お姉ちゃんがんばってるね。羨ましいなあ。俺なんて才能がないから」


 するとそんな羨望の眼差しを向けている高弘に、母の顔が歪んだ。


「あんたは中学も卒業したくせに、進学するわけでもなく、ただ家で引き籠ってばかり。人の才能を羨むぐらいなら働きなさい」

 そんな苦言に高弘は鬱陶しそうに頭を掻いた。


「母さんは働け働けってうるさいな。俺だってちゃんと考えてんだよ」

 そう言って高弘は部屋を出て行った。母は疲れた顔で溜息をついた。


「どうしてあんな風に育ったんだろう……。小さい頃は優秀だったのに」


 もしかすると母は昔の高弘に縋っているのだろう。今の高弘は昔に比べて母の思うような子供にはなっていない。母は自身の理想を相手に押し付け、それを超えることを求めてくる。それに応えてきた私たち姉弟は、いつしか顔色ばかり窺うようになった。そんな母に弟は嫌気が刺したのだろう。そして段々と周囲となじめなくなって不登校になった。今では「親」と「環境」のせいにして高弘は生きている。


 高弘の気持ちは痛いほどわかる。親の期待は鉛のように重たい。

 私は出かけることを伝えてから家を出た。


 電車とバスに乗り継ぎ、事務所の前に着く。大手音楽事務所『O・T』は有名歌手を多数抱える人気事務所で、ここでデビュー出来たらCMなどの楽曲にタイアップされ大々的に売り出される。

 レッスン場に入ると、もうちらほらと人がいた。


 部屋は広めで、大きなグラウンドピアノがあるのと前面鏡張りで、ここでボーカルとダンスの練習をする。

 私は隅の方に体育座りをして、講師が来るのを待つ。


 時間が経つほどに人が集まりだした。ボーカルを目指すレッスン生の男女比の割合は二対八だ。たとえ、女性が多くても私は友人を作れずにいた。皆明るくて陽気な性格で、私とはあまり合わないと思っていたからだ。


 部屋に入ってきた長身の女性を、皆が注目した。その女性の名前は柚島花蓮。とても美人で見入ってしまう容姿を持っていた。だが、柚島は話しかけられても素っ気なく返答し、そんな態度を取っているから自然と孤立していった。歌の才能はレッスン生の中で一番あって、噂によると特待生らしい。そんな孤高の柚島を気に入らない者も多い。だからか、彼女に聞こえるように陰口を叩くなど陰湿な嫌がらせもあった。


 部屋に入ってきた四十代ぐらいの講師が、グラウンドピアノの前に座り早速ボーカルレッスンを始める。音階に声を合わせる基礎練習だ。


 それが終わると次に事務所で抱えている有名女性シンガーの曲を歌わされる。それを講師が一人一人採点を行って評価を付ける。こうした評価が優れている者にデビューさせるのだ。だから自然と歌う時に緊張する。


「今日も柚島さんはすごかったです。皆さんも彼女を手本にして頑張ってください」


 講師の誉め言葉にも柚島は涼しい顔だ。それを見た女性たちが嫌な顔をする。

 今日のレッスンが終わり、講師から呼び出されて課題を出された。


「一ノ宮さんは誰にも歌えない個性的な歌唱があるけど、尖りすぎてるから普遍性を追求してみてはどうかな」

「はあ、わかりました」


 その普遍性がよくわからないでいるまま、帰り支度をしていると声をかけられた。見ると柚島が立っている。

「ねえ、このあと一緒にご飯に行かない?」

「は」と素っ頓狂な声を上げてしまった。


 孤高の柚島が私と食事?

「嫌ならいいんだけど」

「いや、大丈夫ですよ。行きましょう」

 ちょっとびっくりしただけで、と笑う私を見て不思議そうに首を傾げる柚島。

 するとこのやり取りを見ていた、柚島を嫌う女性グループが何かを言い合っているが、まあ気にしないでおこう。


 事務所を共に出て、柚島が「近くの焼肉でいい?」と訊いてきたので私は頷いた。レッスン終わりの十時に開いている店は少ないだろう。だから特に異論はなかった。


 柚島に案内された場所はチェーン店の焼肉食べ放題だった。

 意外だった。柚島は華奢な体で、少食だと勝手に思っていた。すると、それを察したのか、


「私、大食いなのよ。だからこうして外食するときは食べ放題の店を選ぶんだ」

 入店すると店員が愛想良く席に案内してくれた。その後店員が火を点けて調節してくれる。

 柚島が早速机の隅に置かれたタッチパネルで注文し始める。それから私もそれを受け取り白米とロースを注文する。

 私は誰かと外食したことが少ないし、しかもあの柚島だ。自然と緊張してしまう。それを悟ったのか柚島は微笑んだ。「緊張しなくてもいいよ」そんな表情を見るのは初めてで、こんな顔も出来るのだと感じた。いつも無表情だから冷たい印象を持っていたが、本当は優しい人なのかもしれない。


「えっと……どうして私を誘ってくれたんですか?」

 ウェイターがジョッキビールを運んできた。それを柚島が少し飲んでから、


「あなたに興味があったから、かな」

 意味深な笑みを浮かべて言った。私はその意味がわからず首を傾げる。

「あなた、かわいいから」

「へ?」


 すると柚島が頬を染めて、「えっと、今の忘れて。すごく恥ずかしい」と言った。

 確かに急にかわいいなんて言われたらこっちも照れるけど、でも女性同士ならその言葉はなんでもないような意味だ。だがさっきのニュアンスには別の意味が含まれているように思えた。けれどそれが何なのか考えてもわからない。

 上カルビが三つ置かれた。それを網の上でこんがりと焼き始める。


「ここの上カルビ、おすすめなの。あなたも食べる?」

「はい」


 柚島が慣れた手つきで焼かれた上カルビを皿の上に乗っけた。私はまるで焼肉奉行だな、と思った。

 そういえばまだ私が幼少期の頃、焼き肉店に来た時に父親が率先して肉を焼いてくれた。

 両親はもう離婚しているのだが、父の存在の代わりを高弘が担おうとして、母に「気持ち悪いことしないで」と拒絶された。高弘なりに家族のことを思って行動したのに、だ。もしかしたら今もその言葉が高弘を苦しめているのではないか。


 そんなことを考えながら肉を食べると、程よい弾力と甘辛いタレを堪能した。「美味しいです」と言うと柚島が、「でしょ」と笑いかけた。


「一ノ宮さんって歌上手いよね」


 驚いた。同じレッスン生、しかも特待生の柚島から褒められたことに。湧き上がるように喜びの感情を感じる。興奮交じりに、

「特にどこがですか?」


 と訊くと柚島が困惑した表情をした。やってしまった。上手いという言葉は建前だろう。それなのに自分は喜んでしまって……。柚島への申し訳なさから気分が下がる。


「……すみません」

 と謝ると柚島が慌てて、

「違うのよ。言いたいことがいっぱいあって考えただけなのよ。お願い、勘違いしないで」

 柚島に気を使わせてしまった。私はどんどん項垂れてしまう。本当、申し訳ない。


「いや、ね。一ノ宮さんの歌は落ち込んでいる人に寄り添うことが出来るものなんじゃないかなって思うんだ。それってすごいんだよ」

「人に寄り添う?」

「そんな歌手はほとんどいないよ。才能があると思う。羨ましいなあって感じてるんだいつも」

「いやいや、そんな。柚島さんの方がすごいですよ。歌唱力もあって」

「私なんてデビュー出来たとしてもすぐに埋もれるよ。魅力がないし私にしかない武器なんてないからさ」


 そう謙遜する柚島はどこか悲しげであった。私はそんな彼女にどうして人と距離を取るのかと訊いてみた。すると柚島はじっとジョッキを見つめて、


「私は、病気なんだ」


 しまった、個人的なことを訊いてしまった。すぐに謝ると、柚島は手を振って大丈夫だよ、と笑ってくれた。


「でも、あなたにだけはいつか話すから。病気のことを」

「どうしてです?」


 なぜここまで信用されているのだろうと疑問に思った。まだ話し始めて三時間も経っていない。

「あなたと私の病気はとても関係しているからよ」


 その言葉の意味が、あまりわからなかった。


 退店してから奢ってもらったお礼を伝える。「また行こうね」と微笑んでくれた。

 去っていく柚島の背中を見つめながら、意外な一面を知れたと嬉しくなった。



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