巻き戻り9
面白いことに、この邪神を一番信仰していたのは人間ではなかった。
虫、特に言葉を持たぬ者達の信仰は凄まじく、ただ側にいる権利のためだけに、日々蠱毒をやっている。
「お前達、いい加減にしなさい」
言われれば言葉が分かっているのか、しゅんとして静まり返るのだが、それも一時のことで、すぐにまた喧嘩になる。身体が小さいものが多く、喧嘩はそれほど凄まじくは無いのだが、部屋の中でやられると気の毒であった。
この神は、助けを必要とする生き物を皆平等に扱うような所があって、むしろ、人ばかりを毛嫌いしているところがあった。集会などはその最たるもので、本人の希望で全く顔を出さないということが何日も続いた。
これは性格というより、本人のもって生まれた特性であり、誰かと一緒にいるよりも、一人でいる方が落ち着くというような人物であったためである。簡単にいえば、人と一緒にいるとストレスが溜まるのだった。
邪神のこのところの心配は、使った幻覚の後始末である。
幻覚。使われた人は外部からの刺激がない限り、鮮明で質量のある、実質をもつ知覚を得る。
昨日幻覚として出現させた金は、市場の鑑定士をもってしても本物の金と判断した。その実はただの石や砂であったが、鑑定士がそれを本物と判断したために、その黄金の幻は本物の黄金の価値を持ち、現実へと成り果てた。幻覚によってただの石ころは、こうして本物となったのである。
問題は、それが山ほどあるということで、国の経済を簡単に転覆させられるだけの量がそこにあることだった。元は石や砂のため、小高い丘の全てが黄金に輝いているのだった。すぐに噂が流れ、砂糖菓子に集まるアリの群れのごとく人が集まりはじめた。
地面を一掴みもすれば、数年間、遊んで暮らせるとあって、人間達の間で金をめぐって争いが起きた。最初は喧嘩であったが、投石を行い、怪我人が出ると次第に争いは大きくなっていった。
商人たちはその争いの中でなんとか金をかき集めることに苦心した。抱えるほどにも大きな金の塊を胸に抱いて、転がるようにして駆け出すと、それを追いかけるようにして盗っ人が追従する。
その横で、若さを取り戻す水は大変な人気で、川の中に一日中顔を浸すものや、逆に小便をして汚すものなどがあった。これより下流の村が同じ幸福にありつかないようにという、人間の浅ましさの現れである。
そうしている内に、西の空が陰り、血のように赤い夕日が空を染め上げた。
この世の幸福が全部消えたような、冷たい風が吹き抜け、化物達は地面にひれ伏した。あの方が来る。
その空の下には、黒より黒い暗黒を背負いし異形の神が降臨し、財宝を奪い合う人々をただ黙って見ていた。そして、ついっと、指をあげて
「お前達はなぜ争うのか」
話しかけられた人間は否応なしに答えた。
「皆で幸福を分合いと考えておりましたが、些細なことから喧嘩になりました。神聖なる真子にこのような……」邪神は信徒の口を手でふさいだ。
「お前達の幸福は金で手に入るものなのか?」
「……は?」
「では金のためにお前の命を差し出すのか?」異形の神は長い指先を信徒の首に走らせた。青く毒沼のような指には命など簡単に刈り取る力が渦を巻いている。声をかけられた信徒はその言葉の中に人間に対する確かな怒りを感じて息を飲んでいた。そして、嬉しくも思った。自分達を気にかけてくれるそのさまに、慈愛すら感じた。
同時に感じる深い死への恐怖に、人間の喉は羽虫のように振動を繰り返す。息が止まる。
「……」
「本当に大事なものを見失いたくはないものだな」
そういうと、醜い夜の王は手をかざして世界から色を奪った。
それは、山のような黄金に終わりが来た瞬間であった。商人たちは必死に逃げたが、気がつくと胸に抱えていた黄金はただの灰色の丸石に変わり、川底で何年も放置されたようなヘドロに手を滑らせて地面に取り落としてしまった。また、ポケットにはち切れんばかりに詰め込んだ砂金は土や砂に変わり、ざらざらと音を立てて落ちるばかり。
女がその様子を見、血相を変えて水筒になみなみと注いだ水を飲もうと口を付けると、奇跡の水はヘドロと汚泥に変わっていた。
そればかりか、なくなったはずの怪我も、巻き戻っていた年月も全てがもとに戻っているのではないか。
それらを楽しんでいた人間達の狂いようは表現のしようがない。
誰かが、まだ無事な砂金を持っていると噂すればそれをめぐって殴り合い、また、わずかに残った奇跡の水を争っては、結局は泥だらけの足で踏み潰すに至る。
「ああ、神よ!なぜこのような酷いことを!」
「酷いか。むしろ争って血を流すことのなんと酷いことか。ならば、このようなものは無い方が良いではないか」
信徒達は、言葉に耳を傾け頭を下げる。一言も聞き逃すつもりはないという強い気持ちの現れであった。
「地獄を天国に変えるのも、天国を地獄に変えるのもその人次第だ」
神は歩き始めた。どこが足か分からぬような姿であり、とても目で見るのは憚られる、そのようなお姿であったが、人々の側によっては、一人ひとつの石を金に変え、一人一口の水を奇跡の水へと変えていった。
「市場に売れば、必ずや出所を聞かれ、そなたらの家族は拷問にあうだろう。それをめぐって殺しあえばまた等しく石へと変わるだろう。賢く使いなさい」
この日より信徒達はその目印として砂金の大粒に糸を通した首飾りをするようになった。人目に触れて奪われないように、墨と膠でもって黒く染め上げた首飾りこそが彼らのよりどころとなった日のことである。
信徒の中には弟子を名乗る者も現れはじめた。邪神様の教えを世界にといて回りたいという事であったが、その実は、もう一度あの天国に行きたいというような気持ちがあったのかもしれない。
その信仰を一心に受ける神はというと、相変わらず四畳半ほどの小さな宿屋に身を置いていた。
一度大きな部屋へ移ったが、結局落ち着かないという理由でこの部屋に戻ってきていたし、神様がこんなところにいないだろうというイメージが自分を守ってくれるような気がしていた。
その実は、面会途絶となっている神を崇拝する信徒が宿の外を何重にも取り囲んで拝んでいるのだが、経典すら存在しない宗教のため、祈りの声は届かず、本人は何もしらないで毎日なんとなく時間がすぎるばかりであった。
一方で、犬猫に異常に好かれるのも感じていた。視線を感じてそちらを見ればいつでも目が合うのだった。そればかりか、廊下を歩けば足に絡み付いてスリスリと匂い付けをされ、まっすぐ歩けないほどであるし、息抜きに少し外に出れば街にいた野犬という野犬が走り出してきて追いかけてくるのだった。
これにはたまらず駆け出すと、神は信徒達の祈りに遭遇する。
信徒の9割は神が人の姿をもっているがどんな人相なのかはしらずに祈っていた。ゆえに、その本人が目の前に来ているというのに何も分からず誰もいない宿屋の方に祈り続けているのだった。
「おばさん達何してんの?」
「なんだい。あんた知らんのかい」
「何を?」
「教えることは何もないさね。さっさと帰んな」
誠に不憫なことであった。祈るその人に気がつかない。
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