巻き戻り7
俺の失敗は、変装スキルを解かずに寝たことだった。
ほとんど休み無くお墓作りをした結果、足は鉛のように重く、目蓋は縫い付けたように開かず、布団は驚くほど居心地が良かった。
当然、寝てしまう。泥のように眠って起きたときには誰かの話し声が聞こえていたような気がする。
薄汚れたドアの隙間から、差し込む朝日は、好奇の目にみちみちた、恥をしらない人間達の姿に切り取られて時折点滅している。それが一人ではないようで複数人が代わる代わるに覗き込む、鉄板をひかれた冒険靴の独特な甲高い音とともにそこにあった。
「誰か、そこにいるのか」俺は恐る恐る身を起こして聞いた。先ほどまで動いていた人影がピタリと動きを止め、真冬の誰もいない湖のような深い静寂が建物を包んだ。
身体がやっとのことでベッドから離れると、鈍い音を立てて毒沼のように醜く変わり果てた、人ならざる異形の腕が床にぶら下がっているところであった。
まずい見られた。と思う頃にはもう遅く、押し寄せた人だかりが部屋のドアを押し破って流れ込むところであった。
目の焦点の合っていない人々達が、まるで飢えた人間のように青い肌に手を伸ばしたかと思うと、いきなりに力ずくで青い手を担いで、アイスキャンディーでもなめるかのごとく、舌先でねぶった。
「何をするんだ!!」起きたばかりの頭で何か考えるよりも先に、頭に浮かんだのは、半分人の姿を、それも半端な状態で、無防備な、普段生きている顔を晒したことへの恐怖心であった。これから先、俺という人間はこの顔を晒して生きていくのが難しく、また、ある時には指名手配されるに違いなかった。
早く逃げなければならない。
次から次に押し寄せた人間は入り口から入ることもできずに、ぎちぎちにつまった人間のさらにその上を乗り越えるようにしてやってくるのだ。
「救いを!!私に救いをお与えください!!!」
恐ろしい身体に変化して、彼らを遠ざけるより他に手段はなかったのである。
巨大に隆起した腹が服を引き裂き、背中から延びた腕が蜘蛛のように身体を支える。大きな黄色い宝石のような目玉が、ギョロリ、とその不気味な一つ目をもって人々を見下ろすと、たちまちに、嗚咽する人間や、泣き出すもの、叫んで逃げ出すものなどがあった。
その代わり、天井がわずかにあがってその隙間から這い出た数千匹の虫達が黒い津波となって押し寄せ、共食いを始める。また不気味なる蠱毒が繰り広げられるなかで、その中でも体の大きい一匹の蛇が、多くの虫達を飲み込もうとする。それをみて、人間達の顔は曇っていった。
その顔には、次は自分達なのではないかという恐怖と、目の前で起きている異常なる現象への恍惚とした感情が渦巻いている。
「なぜそのようなことをご命令なさるのですか?」と女は歯をガタガタとならしながら「あまりにも無情ではありませんか?」と。
「虫は人間よりも状況を理解するのがはやい。全員の願いを叶えるには膨大な時間がかかる。故に、自らの願いのために邪魔物を消そうとしているのだ。人間達よ。お前はどうする?」
暗に、話し合いで解決せよ、と伝えたつもりであったが、腰に下げた短剣に手を伸ばすものがあった。
「よせ。お前の願いはそれほどの価値があるのか。他人の命を奪ってまで欲しいものか?」
「……私の村は、干ばつに苦しみ、食べ物も水もない状況で、そのひもじさから来た病で村人が共食いを始めております。いまここでお力を借りられなければ全員が死に至ることでしょう!助けていただくためならば!この命、捧げても何も惜しくはありません!!」
人間は、抜き出したる半銀の刀身を、頭上高く掲げると、そのまま振り下ろすようにして、自らの命を供物として差し出そうとするので、さすがにそれは止めに入った。
本気で死のうと思ったらしく、短剣を受け止める時には、それ相応の力が必要となったが、実に不思議なことに、指が触れる前に短剣は空中で静止し、切っ先から、赤黒くサビが浮かび上がると、塵へと変わっていった。
「そうだな。助けてやろう。お代はお前の人生。残り100年間辛く厳しい仕事をさせるがそれでもいいか?」と聞いてみた。顔をちかずけ、うなじに指を回して値踏みをするように、だ。お前にその価値があるのかと言わんばかりに。
「はい、もちろんです」と女は答えた。
「よろしい。では彼らもそれに値するか確かめなければな」
村にいた門番が目撃したものは非常なる地獄からの使者であった。
ついに、疫病に飲み込まれた村が直面するその死は、かくも美しく、完璧で甘いものだとは思いもよらなかった。
その死が、人々に手をかざすと、たちどころに明日死ぬのではないかと思われた、骨と、皮ばかりの死人のような有り様だった人間が、ふくよかな、色つやの良い若い肌となって甦った。そればかりか、女は若く美しく、男はりりしく逞しく、まるで奇跡のように姿が変わっていった。
そう、それは、約束された奇跡だった。
村中の住人が回復し終わると、その化物は地面に触れ、ひび割れていた地面に、黒いシミを作ると、そこから水を出現させた。3ヶ月も雨の降らなかった乾いた土地にである。次に木々に手をかざせば、枯れた大木が緑色に輝き、春を思わせるほどに葉を付け、そして、木々に折れんばかりに桃色の果実が実った。人々は我先にと群がるように齧りつくと、溢れた果汁が喉を溢れんばかりにつたうので、それを飲み込み、腹を満たした。
これは奇跡だった。
しかしそれは、追い詰められ、一度死の縁に立たされた人間にとってはあまりにも甘くかぐわしい毒であった。
一人の住人が鎌を手に死神へと切りかかった。
彼は、奇跡が欲しかった。もっと奇跡を。もっと、もっと。
その回復しきった若い腕から振るわれた一撃は、確実にその不気味な青色の手首をとらえていたが、まるで霧を切るようにそれには届かない。確かにそこに手はあるが、降れた瞬間には霧のように消えてまたくっついてしまうのであった。
それを見ていた他の住人も、あの奇跡の腕さえあれば、自分達でも同じ奇跡を起こせると信じた。信じてしまった村人達はこぞって、村中から武器をかき集めて立ち向かった。女も子供も全員参加した。
わずかばかりの時の後で、木々が一斉に揺らめいた。あれだけ実った果実は、強風に吹かれた砂のようにかき消え、木、その物が腐って枯れていく。
水は沸くのをやめ、地面は乾いていった。人々は若さを失い、膝を付き倒れ伏した。
今まで見ていたものは、全て作られた幻覚で、彼らはそれに気がつかず残り少ない体力で、ありもしない幻覚を奪うことに力を使い果たしてしまったのだった。
「お前が命をかけてまで救う価値が本当にあったと思うか?」
「……わかりません」
「俺はこういう神様を……神様のふりをしている人間だ。だから契約なんてしてないし、自由にしていい」
「それもまた、私を試そうとしていらっしゃるのですね……?」
「違うが?」
「私は確かに見た。奇跡は現実だった。不義にしたのは村人の方だった。助けていただいたのにあのような所業、当然の結果でしょう……」
「ふん。そうか。それが分かるか」かっこいいことを言っているが、本当にあれはただの幻覚だった。だが、おそらくそれはあの村人には現実に思えたし、見ていた他の人間にも現実に思えた。その誤解が幻覚を現実にする。
地面に転がった食べかけの果実が風に吹かれて足に当たる。
ひょいとつまみ上げたそれを、住むもののいなくなった家へと投げて、羨望の眼差しを向ける人々を置いて、一人さっさと宿へと帰還した。