巻き戻り3
「邪神様は人間などゴミか塵くらいにしか思っていないのでしょう。私たちの願いを叶えてくださるのは本当に慈悲深いからで、私達がそれを喜んでいることをこうしてお伝えできるほどの幸せが他にあるでしょうか」
残念ながら俺は邪神ではない。そのため、何を言っているのかまるっきり分からなかった。何を信仰するかは個人の自由であるが、それを人に押し付けようとするのは違うのではないか。それかもうちょっとオブラートでつつんでほしい。ゴミとか塵とか言わないでほしい。
「人間はもっと邪神様の加護を受けていることを知るべきなのです」
彼女の赤い目を見つめる。星を砕いて散りばめたようなキラキラと輝く光彩は実に美しいが、その目は信仰という名の元に他のものは一切見えなくなっていた。
でもやはり、この世界で生きるには問題は大きくて、彼女の本職の方の力を利用し、ギルドに登録した情報を一度抹消することにした。ギルドでは俺が受付嬢をさらったことになっていたためである。口裏を合わせて、俺はここを既に出たことにした。
そしてリンさんは当然のようにその働きの報酬になにか寄越せと言ってきた。
というか、遠回しに姿を見せろと言ってきた。
人の姿ではなく、邪神の姿を見せろと言うことだろう。
姿を変えることは、できる。一応。でも俺は本当に人間で、変装のスキルを有しているためにそれができると言うだけなのである。まあ、なんだ、体の変化にともなって服が破けるので一応脱いでおく。
首と手首の骨をポキポキならしてそれっぽい雰囲気を作る。とても大切なことだ。焦らすのも忘れてはいけない。あくまでもそれっぽく。ただし、やりすぎないように。人は親しくなった人のことをもっと知りたがるが、知らなくて良いこともあるのは周知の事実だ。
ふーっと息を吹くのに合わせて喉元から色が変わっていく。毒沼を思わせる深い紫の皮膚に黒々とした斑点が浮かび上がり、背中からは、羊膜を突き破るようにして腕が四本出現する。首は延び、顔は人の形ではなくなっていく。
目の前で起きていることを固唾を飲んで見つめる赤い瞳に異形の姿が写る。
コウモリの羽のように腕の間には幕が張っていてその表面にはどす黒い血管が脈打っていた。
顔面はぐるりと後ろを向いて巨大な一つ目が顔全体を覆う形となった。体からは黒い湯気が立ち上って舐めるように体を包む。
お腹は蛇のように長くしなやかで足は確認できない。筋肉質の身体は固い鱗に覆われており、まるでドラゴンの表皮のようである。
その異形の存在に宿屋の部屋の空気が軋む。
部屋を照らす蝋燭の火が天井付近まで延びるような錯覚を起こした。
部屋全体が歪み、全てがどす黒く染まっていく。彼女の息は白く雲のように停滞した。まるで彼女だけが別の世界の住人みたいだ。
部屋に潜んでいた虫と言う虫が一斉に這い出してきてのたうち回る。
そして、共食いを始める。
その存在がいるというだけの威圧。
生きなければならないという本能的な行動。食事。
「くぅ……………………」
頭を下げて床しか見なくなったリンさん。何を願ったのか自分でも忘れてしまったような彼女は、その存在という重圧を前に嗚咽すら吐きながら悶え、転がっていた。
ちょっとからかおうと後ろに回って肩を叩く。俺の移動スピードは普段は抑制しているために、彼女にはまるで瞬間移動してきたかのように感じたことだろう。
濃密な死。自分を殺そうとする敵の口の匂いを嗅いだことはあるか。彼女は今、それを嗅ぐ。
「金がほしいか? それとも力か?」
6つの手のひら一杯に石ころと同じくらいの大きさの黄金を生み出して見せ(全て偽物だが)わざと溢して床に転がす。金は転がる度に1つが2つ、2つが4つに分裂し瞬く間に床を埋め尽くす。それが彼女の目に飛び込むのだ。
リンさんの目が一杯に開かれ、ガタガタと全身が震える。そして最後には意識が途切れた。
本物と区別のつかない偽物とは、つまり本物と同じ価値があるのだ。そんな言葉を思い出した。
人の姿に戻るのにものすごく大変な思いをしたことを追記しておく。
翌朝になって眠そうに目を擦りながら上半身を起こしたリンさんのため精一杯のごちそうを振る舞う。
お金がないので贅沢はできないが、麦に牛乳をぶっかけて煮た麦粥を作り進呈した。少なくとも、怖がりる存在でありながらも、言葉の通じる相手であろうと思う。
普通の、ギルドでの生活を望んだ俺にもたらされたのは大いなる誤解と嘘だった。
少なくとも、嘘を前提としたギルドの生活とはそれほどかけはなれたものではなかったし、こうしてパーティーメンバーのようなものにも恵まれた。
匙で粥を少しだけすくってリンさんの唇に当てる。
少し熱かっただろうか。一度フーフーと息を当ててもう一度当てる。
食べないので口に突っ込む。ガキじゃないんだから自分で食べてほしいという意思表示だったが、好みを聞くのを忘れていた。もう少し一緒に生活するならば聞いておくべきだろう。
器を彼女に持たせながら、部屋を見渡す。昨日の変身の結果、まだ片付けが終わっておらず、膠に墨汁を混ぜたような体液が壁や天井に糸を引いていて、まるで、化物の住み処のような有り様だった。
「見たものは忘れるように」目をまっすぐに見て、言い聞かせるように記憶に蓋をする。
掃除用具入れから雑巾でもとってきて部屋の掃除をするかなと思い立って床に立つ。
薄い板製の床が軋みをあげて体重を支えると、その歪んだ隙間から一匹の虫が躍り出た。
「うわ!」
傍らには無数の虫の遺骸(中身が全て食べられたペラペラの外甲のみ)が転がり落ち、それを蹴散らすように小さな虫が転がるようにして踊って見せた。
顔面に飛び付いて来るかもしれない、という恐怖から俺は思わず一歩飛び退いた。俺は虫が嫌いだ。外で野宿をしてきた人間が何を言うかと言われそうだが、その世界の虫は大変に強力な毒を持つものがいる。
中には矢じりに使い、人を殺すために乱獲された虫まで存在する。虫とはそういう生き物なのだ。
それが、足元をちょろちょろとしているのである。今にも、あの油っぽい羽を広げて飛んでくるのではないか。あるいは、足を這い上がって来るのではないか。そういう想像が止めどなく溢れ続ける。
そしてその虫公は想像のとおりに、足先にちょこんと触れてきた。
巨大な神の石像に触れる信徒がごとく、恭しく触れたその羽虫は、殺虫剤をぶっかけて殺してしまいたいが愛護団体がうるさそうなのでそれもできない。
その小さな頭のどこにつまっているのか、知性と呼ぶべき鱗片をその真っ黒な瞳のなかに見受けられる。
おそらく、昨日の生き残りだろう。あの、虫達の蠱毒で生き残りし強者。
「褒美を使わすぞ」とまあ、仰々しく言って、リンさんの持っていた乳粥から1掬い。ぼとりと目の前に落とすや否や、全身で飛び込んで食べる。お、なんか可愛いかも。よしよし。
それを見ていたリンさんはいきなり顔色を変えて「わたしんだからぁ!!」と床についた粥を指でこ削ぎとって口に運んでいる。浅ましい。これにつきる。
「リンさん。貴女はまだたくさん持っているではないか。分け与えなさい」
「でも!!!」
「分け合えば余る、奪い合えば足らず」
それっぽいことを宣えば、それすなわち、宗教における聖典となる。微笑も忘れずに。
昨日は恐ろしい姿をみて失禁失神のダブルコンボをかました彼女も今日は元気そうだった。外が騒がしいのでそろそろ出ていかなければいけなくなりそうだ。なにしろここは彼女の宿。行方不明となればここも捜索対象となるだろう。
意気揚々と信徒をつれて宿の扉を開けると、開かなかった。
開けようとするのだが開かない。鍵がかかっていないことを3度も確認して、ほんのちょっぴりと力を込めて扉を押すと、雪崩を起こす音が聞こえた。
なぜ。急いでドアを閉めて、それでも転がり込んできた銀食器の小皿を見る。良く磨かれ、そしてずっしりと重い。おそらく、イミテーションではなく、本物の銀。一瞬の静寂を永遠にするべく頭をフル回転させると一つの疑問に行き着いた。
この町の人口は?ざっと3万人。
そして、人口における2大宗教の邪教信徒が占める割合は? ―約3割。しかし、迫害された過去があることから無回答とした人も多いだろう。実際の信徒の数はそのデータとはかけはなれた物と思われる。もっと多いのだ。
邪教が他の宗教と違うのは、神様が本当にいて、貢ぎ物に応じて願いを叶えてくれること。そう。この宗教には絶対に夢を叶えてくれる神様がいるのだ。ただし、見た目がすこぶる悪い。みれば分かる。
さらに、昨日、部屋の窓に備え付けのカーテンを閉めていなかった。まさか覗き等するひともいないだろうという油断。邪教を信仰する人もそれほどいないという油断があった。
彼女は言ったではないか。『私達がそれを喜んでいることをこうしてお伝えできるほどの幸せが他にあるでしょうか』私ではない。私達と言ったのだ。複数形だ。
そして彼女はギルドで顔役となる受付嬢である。公的な組織の根幹にまで食い込んだ信徒がいるという状況。他にもっとたくさんの信徒がいるのは必然だった。
そして、一晩のうちに積み上げられ雪崩を起こしたのは貢ぎ物だろう。予想では、もっとあれが増えていく。人の口には戸を立てられず、人から人に噂は伝播する。それはまさに疫病のように。
やばい。本当に邪神にされるぞ。
冷たい汗が背中を伝った。