27-1 そして最終決戦へ
冬の澄んだ空気が、決戦の地である中山競馬場の空気を引き締める。有馬記念を1週間後に控えたトレセンは、独特の緊張と熱気に包まれていた。その理由は、『ビジョンコメコ』、『ハナマンカイ』『ホワイトフォース』といった競馬戦線を引っ張ってきた数々の名馬が、この一戦を最後に引退を宣言しているからである。
そして、二年半の沈黙を破り、あの“天才”がターフに戻ってくる。『フッカツノネガイ』。その名が、今年のグランプリをより一層、特別なものにしていた。
「お疲れさん、イマナミ」
「高柳先生。お疲れ様です」
隣厩舎の主である高柳が、白い湯気の立つカップを片手に話しかけてきた。彼の厩舎は今年の有馬記念に出走馬がいない。だからこそ、イマナミも気を許せる数少ない相手だった。
「どうなんだ、おたくの二頭は。世間様は大騒ぎだぞ」
「2頭ともいい感じですよ」
「そりゃコメコは、ノゾミがいりゃ絶好調だろうよ。復帰戦になるノゾミの方はどうなんだ?」
高柳は探るような目で、しかし悪戯っぽく笑いながら問いかけた。
「あんな大怪我の後ですから、慎重に、本当に慎重に立ち上げるつもりでした。でも・・・」
イマナミは一度言葉を切り、夜の冷気ごと、決意を飲み込んだ。
「・・・やめました。前哨戦は使わない。ぶっつけ本番。それでも本気で勝ちにいきます」
その瞳に揺らめいたのは、覚悟という名の炎だった。高柳はその炎に一瞬だけ目を細めたが、すぐに破顔し、力強く頷いた。
「そうか・・・いいんじゃねぇーの?」
「・・・それだけ、ですか?」
イマナミの声には、確かな覚悟とは裏腹に、拭いきれない不安が滲んでいた。
「ハッ、何か言ってほしかったのか?」
高柳は、若き調教師の気負いを見透かしたように笑った。
「いえ、他の調教師の方々に、影ではどう言われているのかな・・・と少し」
その言葉に、高柳はカップの湯気を見つめながら、静かに、しかし真剣な声で言った。
「・・・どう言われてるか、か。正直に言えば、みんな心配してるさ。お前のことも、馬のこともな」
「心配・・・ですか?」
「当たり前だ。二年半ぶりだぞ?しかも、あの有馬記念に、前哨戦もなしで。俺だって、話を聞いたときは耳を疑った。
そりゃ、表向きは『無謀だ』とか『若造が調子に乗ってる』とか、好き勝手言うヤツもいる。
だがな、そう言ってるヤツも、お前の前代未聞の勝負を固唾を飲んで見守っているよ」
高柳は、そこで一度言葉を切り、まっすぐにイマナミの目を見て続けた。
「だから、そんな周りの声を、気にしなくていい。俺たち調教師ってのはな、結果を出せばそれが正義になる、分かりやすい世界だ。お前の信じた道を突っ走れ。それで負けたら、胸を張って頭を下げろ。『次』は、そっからだ」
そして、高柳の声のトーンが、少しだけ優しくなる。
「いいか、イマナミ。お前はまだ一年目だ。完璧なんて目指すな。お前にはクニモトが遺した“人”と“知恵”がある。まずはそれを存分に頼って、お前の厩舎を創りゃいい」
その重みのある言葉に、イマナミは少しだけ複雑そうな表情を見せた。
「はい、・・・まだまだセンセーの遺産に、頼り切りですね」
その言葉に、高柳はまた笑った。
「当たり前だ。俺らも伊達に年食ってるわけじゃねえ。一年坊主に、そう簡単に超えられてたまるかよ」
高柳は水を一口飲み、「それに」と続けた
「助けてもらえるのはな、助けたいと思われるだけの器がある証拠だ。上々のスタートじゃねぇーか」
「・・・そうですかね」
実感がないのかイマナミは首をひねった。
「ああ。そうだ、クニモトも有馬に来るらしいな?」
「え!?そうなんですか!?」
何気ない高柳の言葉にイマナミは驚きの声を上げる
「クニモト、アイツ言ってなかったのか・・・」
「そうですよ・・・言ってくれれば良いのに・・・」
イマナミはそう言って眉を下げた。
そんなことを話している内にある男が2人に近づいてきた。
「イマナミセンセー!お話中すいません!!」
後ろから声をかけられる。
声に振り向けば、かつて、師であるクニモトと懇意にしていた、古参の新聞記者・佐藤だった。
「どうしました?佐藤さん」
「すいません。有馬記念についてコメントもらってほしいって上から言われて」
「囲み取材は答えたはずですけど」
佐藤と呼ばれた新聞記者はゴソゴソとボイスレコーダーとメモ帳を取り出しながら言う。
「いやーそれがですね。普通の質問してくんな!フッカツノネガイとかに対する思いとか聞いてこい!って言われて戻ってきました」
佐藤記者はそう言って、エヘヘと笑った。
「・・・なるほど」
イマナミはそう言って苦笑いを浮かべた。
ノゾミに対する思い。二年半の歳月。元担当厩務員が、師の意志を継ぎ、調教師として共にグランプリへ挑む。それがメディアにとって、非常にキャッチーな話題に思えるらしい。しかし、そんな裏事情を調教師本人に素直に言ってしまう佐藤は、相変わらず記者らしくない。
イマナミは高柳に断りを入れ、席を外してもらう。最後に「頑張れよ」と言って、彼は自身の厩舎に戻っていった。
「で、質問はなんですか?特に急ぎの用事はないですけど、なるべく早くお願いしますよ」
イマナミは厩舎の端っこにある椅子に腰を下ろし、目の前の佐藤に視線を向けた。
その姿に、佐藤は一瞬、目を瞬かせた。
「・・・思い出すな。クニモトセンセーもそうやって僕の取材を受けてくださっていました」
「センセーもですか?」
「はい。それに、佇まいというか、雰囲気が・・・。やはり、同じ釜の飯を食った方は似るんでしょうか」
佐藤は感慨深そうに呟くと、「すみません、本題に入りますね」と咳払いをした。プロの記者としての、鋭い目に変わる。
「フッカツノネガイが、二年半ぶりにターフへ帰ってきます。今、調教師としてのお気持ちをお聞かせください」
イマナミは一度、目を閉じた。そして、ゆっくりと口を開く。その声は、驚くほど冷静で、客観的だった。
「やるべきことは全てやりました。馬の状態も、我々の想定通りです。ブランクはありますが、彼ならきっと、ファンの期待に応えてくれると信じています」
その淡々とした、まるで教科書のような答え。佐藤は、またクニモトの影を見た。そうだ、あの人もいつもこうだった。レース前は決して本心を明かさず、プロフェッショナルな言葉で煙に巻く。
だが、今日の自分は、この奥にあるものを聞きに来たのだ。佐藤は、踏み込んだ。
「あなたとフッカツノネガイには、非常に数奇な縁を感じます。あの子がターフを去ってから、あなたは調教師の道を歩み始めた。・・・センセー。あなたにとって、フッカツノネガイとは、一体どういう馬なんですか?」
その言葉に、イマナミは、どこか遠くを見るような目をしていた。
「僕にとって、あの子は『フッカツノネガイ』じゃない。ただの、ノゾミなんです。僕が、厩務員時代からずっと見てきた、ただ一頭の、大切な馬です」
その瞬間、イマナミの空気が変わった。
「二年半、誰もがあの子はもう終わったと言いました。でも、僕は一度も諦めなかった。そして、ノゾミも諦めなかった。だから、この有馬記念はノゾミと僕が、二人で持ち続けた希望が、決して間違いじゃなかったんだって・・・それを、証明するためのレースなんです」
佐藤は、熱を帯びた言葉に思わず息を呑んだ。
目の前の青年は、確かに国本英雄の面影を宿している。冷静な分析眼、馬を第一に置く姿勢・・・全てが、あの人譲りだ。
(・・・ああ、やはりこの男は、国本英雄の正統な後継者だ。だが・・・)
佐藤には、イマナミの瞳の奥に師のクニモトとは違う、別の光を見えた。
しかしそれが一体何なのかがわからなかった。
「ーー以上で取材を終わります。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
佐藤はそっとボイスレコーダーのスイッチを切ると、深く頭を下げ、今浪厩舎を後にした。
「うーん。結局、イマナミ先生の核心が掴みきれなかったな。クニモト先生が基礎になっているのは分かったが、それだけじゃない、何かがある・・・」
そんなことを考えながら歩いていると、ふとポケットにメモ帳がないことに気づいた。
「やばい!!イマナミセンセーのとこに置きっぱなしか!!」
佐藤は大急ぎで厩舎へと引き返した。
「すいませーん!ちょっと忘れ物を・・・あれ?」
厩舎の入り口で、佐藤はふと足を止めた。
中から聞こえてきたのは、活気に満ちた声と、時折混じる笑い声。
時計を見ると既に夕方の6時。夕闇が迫るトレセンは、一日の仕事を終え、静けさを取り戻し始めている。だが、今浪厩舎だけが、まるで祝祭前夜のような、明るく、それでいて熱い空気を放っていた。
佐藤は、吸い寄せられるように、厩舎の中へと視線を送った。
「サカイさん、見てくださいよ!コメコのこの毛ヅヤ!俺の仕上げ、完璧じゃないですか?有馬のパドック、間違いなくコメコが一番ですよ!」
若い厩務員の自慢げな声に、ノゾミの脚をチェックしていたサカイが顔を上げる。
「いやいや、ノゾミのこの一週間の気配を見とけよ。こいつは自分で仕上げてきやがる、本物の怪物だ」
「えー?本当ですか?馬が勝手に仕上げるとか聞いたことはありますけど・・・」
別のスタッフが、飼料の配合をしながら、ひょっこりと顔を出して会話に加わる。
そのやり取りに、厩舎内に明るい笑いが響く。だが、誰一人の手も止まっていない。彼らの目に宿るのは、G1前の気負いや悲壮感ではなく、自らの仕事に対する、職人のような誇りと、この途方もない挑戦を心の底から楽しんでいる、最高の高揚感だった。
佐藤は、長年の記者生活で、数多の厩舎を見てきた。
特に、国本厩舎は、完璧に計算され、寸分の狂いもなく動く、精密機械のようだった。そこにあったのは、絶対的な信頼と、心地よいまでの緊張感。
だが、ここは違う。
この厩舎は、一つの生き物だ。
熱狂し、笑い、そして燃え盛っている。
その炎の中心に、イマナミがいた。
彼はスタッフの輪の中心で、彼らの冗談に笑いながらも、その瞳は、ノゾミとコメコの二頭から片時も離れていない。馬と人が、言葉なくして、何かを確かめ合っている。
その光景を見て、佐藤は全てを理解した。
(・・・ああ、そういうことか、センセー)
佐藤は、今はターフを去った名伯楽の顔を思い浮かべていた。
(あなたがこの若者に、全てを託した理由が、今、ようやく分かりました)
クニモトは、圧倒的なカリスマで頂点に立ち、駒を率いる「王」だった。
だが、この男は違う。
彼は王ではない。ただ、その輪の中心にいて、進むべき道を示し、自らが誰よりも熱く燃える。相手の心に、直接火を灯し、その熱を伝播させる力がある。そして、その熱に浮かされた者たちは、恐怖を忘れ、自らの意志で、彼と共に燃え上がるのだ。
佐藤は落ちていたメモ帳を拾い上げると、踵を返し、編集部へと歩き始めた。もう彼の足取りに、迷いはない。
彼は携帯を取り出し、デスクに電話をかける。
「あ、どうも佐藤です。すみません、明日の朝刊の一面、大見出しを差し替えたいんですが」
もう彼の頭の中には、レイアウトが、そして、グランプリを飾るにふさわしい、ただ一つの言葉が思い浮かんでいた。
『常識を燃やせ。新生・今浪厩舎、グランプリへ』




