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26-2 待ち続けた者

「センセー。次の調教計画、こんな感じで立ててみたんだが、どう思う?」


 調教助手であるサカイが「センセー」と呼ぶのは、この今浪厩舎を率いる若き調教師、イマナミだ。


「・・・完璧です。俺なんかが口を挟む余地は、どこにもありません。流石ですね、サカイさん」


 手渡された書類に目を通したイマナミは、感嘆のため息を吐き出した。緻密に計算され尽くしたメニュー。それは経験と慧眼が編み上げた、芸術品にすら見えた。


「じゃあ、このまま進めるぞ」

「はい!いつも本当にありがとうございます。俺も、自分なりに考えてはみるんですが・・・」


 そう言って、今浪はデスクの隅に置かれた自身の計画書に目を落とし、力なく笑った。サカイのそれと比べれば、まるで精密な設計図の横に置かれた、子供の拙い迷路のようだ。


「はは、向き不向きってもんがある。センセーには、俺にはないもんがあるからな」


 サカイはこともなげに言うと、イマナミの計画書を一瞥し、その意図を汲んで柔和に目を細めた。


「俺も、サカイさんに頼りすぎないように頑張らないと・・・!!

 それで、サカイさん。少し、ご相談したいことが・・・」

「おーい!センセー!ちょっと馬体を見てほしいんですが!」


 イマナミの言葉を遮り、事務所のドアが勢いよく開いた。ひょっこりと顔を覗かせた厩務員の、切羽詰まった声が飛ぶ。


「はい、今行きます!すみませんサカイさん、後でまた、時間をください!」


 そう言って駆け出していくイマナミの背中は、いつも通り活気に満ちていた。その表情には、一点の曇りもない笑顔が浮かんでいる。


(・・・たいした男だよ、まったく)


 サカイは、冷めかけたコーヒーをすすりながら、改めて舌を巻いた。


 イマナミにあって自分にないもの。

 それは技術や経験といった、積み重ねれば手に入る類のものではない。もっと根源的な、魂の在り方そのものだ。


 誰からも好かれる、太陽のような人柄。その引力に引かれるように優秀なスタッフが集まり、厩舎を開いてわずか半年で、見事に軌道に乗せてみせた。


 来週には、今浪厩舎にとって初となるG1、マイルチャンピオンシップが控えている。送り出すビジョンコメコは、マイル戦の実績が乏しいにもかかわらず、1番人気。その重圧は、常人には想像もつかないはずだ。それなのに、あの笑顔。


 とんでもない鉄の心臓を持つのか、それとも、ただの天性の楽天家か。


「サカイさん!お待たせしました!すみません!」


 そんなことを考えている内に、息を切らしながら、イマナミが戻ってくる。


「おう、お疲れ。で、話ってのは何だ?」

「はい。実は・・・ノゾミのことで、ご相談が」


 そう切り出したイマナミの表情から、ふっと笑顔が消えた。瞳の奥に、プロフェッショナルとしての深い苦悩の色が浮かぶ。


「あいつの復帰戦なんですが・・・どうにも、決めかねていまして」

「復帰戦、か・・・」


 サカイは腕を組んだ。2年半という、競走馬にとっては絶望的とも言える長いブランク。常識的に考えれば、答えは限られている。


「使えるとしたら、自己条件のオープン特別かリステッド。有馬記念までの重賞で適性がありそうなアルゼンチン共和国杯や福島記念はハンデ戦で、長期休養馬は規定で弾かれる・・・。


 それ以外に道はないはずだ。だが、お前のその目は、その『ないはずの道』を見ている目だ。


 ・・・まさか、センセー。考えているのか。ぶっつけ本番を」


 探るようなサカイの視線に、イマナミはこくりと頷いた。


「・・・はい。有馬記念へ、直行することを考えています」

「・・・正気か。確かに、今の番組編成じゃ、使えるレースはない。だが、それでも2年半だぞ。一度レースを使って息を作ってやるのが、定石だろうが」


 サカイの言葉の歯切れは悪かった。常識論を口にしながらも、脳裏には別の光景が焼き付いていたからだ。


「菊花賞の時、痛感したんです。前哨戦の神戸新聞杯で、あいつを消耗させないように、ピークアウトしないように、僕らは細心の注意を払った。

 それでも、あいつは・・・あいつは本番の菊花賞で、あと一歩のところで脚が上がってしまった」

「・・・ああ。それは、確かその通りだった。だが、だからといって・・・」


 サカイの言葉が途切れる。目の前の若き調教師の瞳の奥に、途方もない賭けに挑もうとする男の、静かな覚悟が見えたからだ。だが、それと同時に、その覚悟がまだ一縷の不安によって揺らいでいるようにも見えた


「・・・イマナミ」


 サカイは、かつてのように彼の名を呼び捨てにした。その声は、真剣だった。


「常識を覆すってのは、口で言うほど簡単なことじゃない。世間の批判も、失敗したときのリスクも、全部お前一人が背負うことになるんだぞ」


 その問いに、イマナミは一度だけ強く目を閉じ、そして開いた。


「調教師を目指した時点で、覚悟はできています」


 彼の声は、静かだが揺るぎなかった。


「僕たちにとって、レースはただの『次』へのステップかもしれません。

 でも、ノゾミにとって、レースは『戦い』そのものなんです。調整や叩き台じゃない。一度ゲートに入れば、あいつは自分の命が燃え尽きるまで戦ってしまう。ならば、中途半端な戦場に送り出すことこそ、あいつに対する最大の裏切りじゃないでしょうか」


 イマナミは、握りしめた拳に力を込めた。


「俺たちがやるべきなのは、レースを使って馬を『仕上げる』ことじゃない。この厩舎で、この俺たちの手で、心身ともに完璧な状態に『創り上げて』、決戦の舞台に送り出すことです。2年半という時間は、ただのブランクじゃない。

 あいつがもう一度最高の走りをするために、力を蓄える時間だったんだと・・・俺が、証明します」

「イマナミ・・・」


 その剥き出しの覚悟を受け止め、サカイはフッと息を吐いて、静かに頷いた。


 ──そうだ、これだ。


 ノゾミをステップレースを使わずに有馬記念へ直行させる。そんな荒唐無稽なプラン、自分だって一度は頭をよぎった。だが、即座に「ありえない」と否定した。常識が、経験が、それを許さなかった。


 しかし、この男は違った。その「ありえない」プランを正面から検証し、リスクとリターンを天秤にかけ、そして、すべての責任を負う覚悟で「前に出る」ことを選んだ。


 この一歩前に出る勇気。常識を疑い、時に逆らう胆力。


 その姿が、サカイの脳裏に焼き付いている、あの男の姿と重なった。かつての師であり、ターフに数々の伝説を刻んだ名伯楽・国本英雄に。


「・・・なるほどな。わかった。だが、オーナーに説明する際には、感情論だけじゃ通らん。有馬記念から逆算した、完璧な戦略プランが必要になる。・・・俺も手伝う」


 それは、最大の賛辞であり、最強の援護だった。


「サカイさん・・・!すみません、本当に・・・ありがとうございます!」


 イマナミが深く頭を下げる。その肩を、サカイは力強く、しかし優しく叩いた。


「礼なんかいらねえよ。決断するのがお前の仕事だ。その無茶な決断を『正解』に変えるのが、俺たちの仕事だ」


 サカイはニヤリと笑う。その顔には、苦難を楽しむかのような、闘う男の獰猛さが浮かんでいた。


「面白くなってきたな。世界中を、アッと言わせてやろうぜ。──センセー」

「はい!!」


 西日が差し込む事務所で、常識に挑む二人の「共犯者」の影が、長く一つに重なっていた。



 ーーーーーーーーーー


 カリフォルニアの乾いた太陽が、デルマー競馬場のターフを眩しく照らし出す。海を渡ってきた熱気が、世界中から集まったホースマンたちの興奮と混じり合い、決戦の時を待っていた。


 その中に、一頭、次元の違うオーラを放つ日本の牝馬がいた。世界が畏敬を込めて呼ぶ名は――“The Empress”、女傑。


「Giddy-up!!HANAMANKAI!! (よしいくぞ!!ハナマンカイ!!)」

「ブヒ!!」


 鞍上の檄に応え、ハナマンカイは嘶いた。


 彼女は4歳時、海外G1で香港とオーストラリアのG1を3勝。5歳ではドバイ、そして競馬の聖地イギリスでキングジョージを含むG1を3連勝。日本生産馬として、前人未到の領域に君臨した。


 現役を続行した6歳。春には香港のG1を2年ぶりに制覇。そして、悲願であった凱旋門賞では、ハナ差の2着に泣いた。


 そしてこれが最後の海外遠征。舞台は、アメリカのブリーダーズカップターフ。


『さて、ブリーダーズカップターフスタート時が近づいてまいりました。さて板山さん。有力馬はじめそして日本馬から挑戦するハナマンカイの解説をお願いします』


「はい。まずは①番ヴァリアントハートです。イギリス生産馬です。7月のパリ大賞に続いて、アークトライアルデーのニエル賞も快勝。凱旋門賞こそ出遅れに泣き5着になりましたが、巻き返しが期待されます。


 そして④番アイルランドの3歳馬を代表しての参戦となるのが、エイダン・サイダイン厩舎のシルヴァーストリームです。愛ダービーの勝ち馬で、距離不足かと思われた9月の愛チャンピオンSでも、勝ち馬から差のない5着。地力の高さを見せつけました。


 そして迎え撃つ米国勢の中心となるのは、⑩番クリムゾンデュークです。牡馬の一線級を撃破した去年と一昨年のジョーハーシュターフクラシックを含めて重賞7勝という実力馬です。去年はブリーダーズカップターフに挑みましたが、半馬身差の2着に敗戦。今年のリベンジに燃えます。


 そして何より我が日本生産馬⑥番女傑ハナマンカイです。この馬に関しては説明する必要もないでしょう。一昨年去年と海外G1を総ナメ。そして今年の凱旋門賞もハナ差の2着。現地オッズも1.8倍。まさに断然の主役です。彼女の最後の海外遠征、その目に焼き付けましょう」

『ありがとうございます。それではブリーダーズカップターフスタートです。

 レースの実況はラジスポ、雷太アナウンサーです』


 一国の覇者たるにふさわしい猛者たちがそろったレース。

 だが、ハナマンカイの心は凪いでいた。


 海外のG1を制覇するたびに降り注ぐ賞賛の言葉。その甘美な響きを聞くたび、彼女の胸には、いつも一本の小さな棘が刺さるのだ。

 世界の王座という玉座に座りながら、その足元には決して抜くことのできない、鋭い棘が。


 一昨年、そしてその前の年と、彼女を打ち負かしたホワイトフォース。

 あの白い稲妻には、去年の有馬記念で、ハナ差の雪辱を果たした。


 けれど、どうしても勝てない相手が、もう一頭。

 たった一度しか勝てていない、のではない。一度も、勝てていないのだ。

 デビュー戦で彼女のプライドを打ち砕き、暮れの有馬では完膚なきまでに叩きのめされた。そして、あの日を最後に、彼はターフから姿を消した。


 フッカツノネガイ。その名を彼女は忘れることはなかった。


『芝2400メートルブリーダーズカップターフ。枠入りは既に始まっています。ハナマンカイはすでに、枠入りを完了しております。出走メンバー12頭。

 最後の枠入りドバイから参戦⑫番デザートミラージュ・・・勢いをつけて・・・おっと後ずさり。もう一度一歩一歩・・・なんとか入りました。


 ゲートイン完了・・・


 スタートしました!!ブリーダーズカップターフ!!


 先頭はクリムゾンデューク逃げます!!そして2番手デザートミラージュ、ファルコンデュゴン。そして3番手以降シルヴァーストリーム。ルナケルティックそして最後方にハナマンカイです。』


 ゲートが開く。


 彼女はいつものように、慌てず、騒がず、集団の最後方へ。眼前に広がる11頭の背中を、冷静に見据える。


 悶々とした競走馬生活だった。 


 世界中を旅し、どんな強敵をも捻じ伏せてきた。それでも、心のどこかで満たされない渇きがあった。あのエリート気取りの馬に勝てていない、という事実が、彼女の蹄にまとわりつく。


『さて、3コーナーを曲がります。先頭は依然としてクリムゾンデューク!デザートミラージュが並びかけます。シルヴァーストリーム、ヴィランアンズハートも上がってきたぞ!そしてハナマンカイは依然として最後方です。』


 引退


 そんな二文字がちらつき始めた、去年の冬。風の噂が、彼女の耳に届いた。


「――あいつが、帰ってくる」


 その瞬間、凍てついていたはずの血が、マグマのように沸騰した。

 もう再戦は叶わないと諦めていた。彼女の競走生活で、唯一の汚点として残るはずだった屈辱。それを雪ぐ、最後のチャンスが訪れる。


 いいだろう。待ってやろう。


 このブリーダーズカップも、通過点に過ぎない。圧倒的な戦績と、円熟の証を手土産に、アイツの前に立つ。

 自分が今なお「挑戦者」でいられる、アイツの復帰を、心の底から歓迎しよう。


『さあ、第4コーナー!先頭のクリムゾンデュークに各馬が並びかける!大外から!大外から来た!ハナマンカイ!次元が違う!まるで他の馬が止まって見える!


 一気に捲り切った!あっという間に先頭だ!これが世界女王の走り!』


 直線に入る。視界の先には、もう誰もいない。聞こえるのは風の音と、はるか後方で聞こえる絶望の蹄音だけ。

 ゴール板が迫る。だが、彼女の瞳が見据えるのは、デルマーのゴールではない。


『直線に入りました!!周りには誰もいない!周りには誰もいない!周りには誰もいない!これは強い!!

 ハナマンカイ、貫禄のゴールイン!ブリーダーズカップターフ、完勝です!海外遠征を有終の美で終えました!!』


 完璧な勝利。だが、彼女の心は満たされない。


 この脚で、この力で、叩き潰したい相手は、こんなところにはいない。


 クールダウンをしながら、西の空を見つめる。その遥か先、東の果ての、暮れの中山。


 待ってろよ、フッカツノネガイ。


 女傑が最強の挑戦者として、彼の前に、帰ってくる。

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