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26-1 待ち続けた者

 追い切りの朝。三津とイマナミは並んで厩舎エリアを歩いていた。


「三津さん、今日はよろしくお願いします。アイツの今の背中を知ってほしくて」

「こちらこそ。二年もすれば、馬も人も変わる。どんな乗り心地になっているか、楽しみですよ」


 三津は静かに応じたが、その声には懐かしさとは少し違う、どこか厳かな響きがあった。

 ノゾミの馬房の前で、イマナミがふと足を止める。


「ノゾミとは、あの大阪杯以来でしたか。ずいぶん、久しぶりですね」


 イマナミは記憶の糸をたぐるように言った。

 そう。三津はあの大阪杯以来ノゾミと一度も会っていなかった。


「・・・ええ。でも、俺とノゾミはこんな関係でいいんだと思います」


 三津は短く答えた。

 薄情だと思われるかもしれない。だが、自分とノゾミが再会する場所は、戦いに臨むためのこの場所か、ターフの上だけ。言葉なくとも、魂で通じ合うべき「戦友」。それが、自分とノゾミが築き上げてきた関係なのだから。


「よぉ、ノゾミ。久しぶりだな」

「ブヒー・・・ブヒ?」


 馬房に入ってきた相棒に、ノゾミは顔を向けた。だが、すぐに喜びの声を上げることはなく、ただじっとその姿を見つめる。その瞳に、知っているはずの男の姿が、記憶と重ならないことへの戸惑いが浮かんでいた。


 記憶の中の三津は、馬と力で渡り合うための、鎧のような筋肉に身を固めた『剛』の騎手だった。しかし今、目の前に立つ彼は、不必要な肉がすべて削ぎ落とされ、一見すると華奢にさえ見える、しなやかな『柔』の体つきへと変貌していたからだ。


 ノゾミはゆっくりと首を伸ばし、三津の細くなった腕や肩のあたりを、クンクンと執拗に嗅ぎ始めた。かつて感じた、岩のような力強い匂いがしない。


「ヒーン?」


 あまりにも軽くなった相棒の気配に、まるで「大丈夫なのか?」とでも言うように、その大きな頭を三津の胸にそっとこすりつける。慰めるような、確かめるような、優しい仕草だった。


 その行動の意味を瞬時に理解した三津は、照れくさそうに頭をかいた。


「おいおい、マジかよ。お前にまで心配されるとか、どんだけ頼りなく見えるんだ、俺」


 彼は苦笑すると、ノゾミの顔を両手でぐいっと引き寄せ、真正面からその賢い瞳を見つめ返した。


「心配すんな。昔とは乗り方を変えたんだ。この体なら、お前の気持ちごと、ゴールまで連れていってやれる」


 三津はそこで一度言葉を切り、どこか誇らしげに、しかし少しだけ苦しさを滲ませて続けた。


「この乗り方で、最近やっと勝てるようになってきたんだ。・・・だから、信じろよ、相棒。もう一度、俺にお前を託してくれ」。


 懇願にも似た、真剣な眼差し。その瞳の奥にある、揺るぎない覚悟と熱を、ノゾミは感じ取っていた。彼の瞳から、ゆっくりと戸惑いの色が消えていく。


「ヒンッ!!」


 元気の良い返事に、三津はニッと挑戦的に笑い、そのたくましい首筋を力強く叩いた。


「約束、果たしに来たぜ。また走ろう、ノゾミ!」


 朝の光が差し込み始め、二人の戦友の影を、長く、そして一つに結んでいた。


 ーーーーーーーーーー


 所変わって、まだ夏の残滓がアスファルトを燻らせる東京競馬場。幾多の伝説が生まれ、そして散っていった府中の杜に、十万を超える観衆の熱気が巨大な生き物のように渦を巻いていた。日本の精鋭たちが、伝統の盾を懸けて覇を競う、天皇賞・秋。

 その喧騒の只中にあって、一頭の古強者がただ静かに、内なる闘志の炎を揺らめかせていた。


「・・・いい顔してるじゃないか」


 パドックで相棒の首筋を撫でながら、鞍上の武谷は独りごちた。


 その名は、サンショクダンゴ。


 6歳、G1の勝ち星はいまだ無し。

 ダート、芝、長距離、マイル。あらゆる戦場で善戦を続けながら、あと一歩で栄光に届かない。「最強世代の、最強の脇役」。


 彼の世代は、競馬史に残る「最強世代」と呼ばれた。だがそれは、三頭の怪物がいたからに他ならない。


 フッカツノネガイ、ホワイトフォース、ハナマンカイ。


 絶対的な能力で、常に時代の中心に君臨した三つの巨星。


 そして、さらに惨めなことに、その3頭がいないレースでさえ、勝ち切れない。あと一歩が、どうしても届かない。


 勝つためだけにもがき、芝からダートへ、そしてまた芝へ。その姿は「迷走」と揶揄され、ファンを困惑させた。そして今日、一年ぶりに府中の芝へと帰ってきた。


 メンバーは揃っている。今年の皐月賞馬、若き才能『ヴィヴィッドフレッシュ』。昨年の女王であり、現役最強牝馬の呼び声高い『アロマエッセンス』。誰もが認める一線級との戦いだ。


 戦いの時を告げるファンファーレが、地を震わす。


「4番人気、か・・・」


 武谷はオッズ掲示板の数字を見ながら、乾いた唇の端を歪めた。勝ち切れず、路線もブレて、迷走しているのは誰の目にも明らか。にもかかわらず、4番人気。

 普通なら、それでも応援してくれるファンの温かさを感じるべきだろ。


 だが、彼の胸に去来したのは、それとは真逆の、黒い感情だった。


「・・・舐められたものだな」


 この馬は、こんな評価で終わる器じゃない。積み重ねてきた修羅場が違う。最強世代の怪物たちと鎬を削ってきた誇りが、勝利を追い求めた果てにできた無数の傷跡が、この体には深く刻まれているのだ。

 武谷は相棒の瞳を見つめ、静かに、しかし確かな意志を込めて告げた。


「さぁ、東京競馬場中を驚かせるぞ」

「ブヒっ!!!」


 武谷の言葉にサンショクダンゴは鼻息荒く返事をした。


『さて、ファンファーレをお聞きいただきました。今年も天皇賞・秋は素晴らしいメンバーが揃いました。


 昨年のエリザベス女王杯覇者、春のG1も好走した⑧番アロマエッセンス。そして3歳から参戦皐月賞馬③番ヴィヴィッドフレッシュ、重賞三連勝中⑪番アズールゲイルなど役者は揃っています。秋の盾を手に入れるのは誰でしょうか。


 ゲートインは順調です。

 最後に、1年ぶり芝参戦⑮番サンショクダンゴ・・・


 収まりました。


 ゲートイン完了・・・


 スタートしました!!


 揃った綺麗なスタート。さて誰が行くか。

 牽制し合う中押し出されるように、サンショクダンゴ前に行きます。レース巧者の馬と騎手が天皇賞・秋を引っ張ります!!そして2番手に外にアロマエッセンス、内にソードレッスン。そしてそこから馬群は固まっています。皐月賞馬ヴィヴィッドフレッシュは中団。アズールゲイルはなんと後方2番手にいます。先頭からおしまいまで10馬身という短い隊列。どのようなレースをみせるのでしょうか!?』


 ほぼ揃った綺麗なスタート。しかし、誰も行こうとしない。

 それもそのはずだ。長雨と台風の影響で、今年の府中のターフは例年になく荒れ、時計もかかる。走るだけでスタミナと底力が要求されるこの馬場で、先頭に立つことはあまりにもリスクが高い。各陣営が互いを牽制し合い、淀んだ空気がターフを支配しようとしていた。


「・・・行くか」


 武谷はその空気を断ち切るように、腹を括った。プランには無かった逃げ。だが、彼の心に迷いは微塵もなかった。この疑心暗鬼の集団から抜け出し、この馬が最も心地よく走れるリズムを刻む。それこそが、勝利への、そして過去との決別への唯一の道だと、確信していた。


『1000mを通過、1分1秒ジャスト!武谷この馬場としては平均ペースです。後続はいつ動くか』


 手綱を通じて伝わる、力強い心音とリズム。武谷の心は、不思議なほどに凪いでいた。


(・・・いける)


 大逃げも、スローに落とす奇策も必要ない。小細工に頼るのは、絶対的な力が足りない馬の、あと一歩を捻り出すためのものだ。サンショクダンゴに、それは必要ない。

 彼こそが、今のこのターフの中で一番強い。


『第4コーナーをカーブして、最後の直線!長い直線!!!

 先頭は依然、サンショクダンゴ!

 後続には、アズールゲイル、ヴィヴィッドフレッシュ!!!差し切ることができるのか!?!?』


 ターフを揺るがす地鳴りのような蹄音が、背後から迫る。

 脳裏に、忌まわしい過去の記憶が、黒い亡霊となって蘇る。視界の端に、フッカツノネガイの幻影がちらつく。背後から、ホワイトフォースの鬼脚の気配がする。すぐ横に、ハナマンカイの執念が並びかけてくるような錯覚。

 あの三つの幻影を、今、この脚で振り払うのだ。


(もうお前たちの背中は見ない!)


 武谷の右腕が、力強く動いた。


 行け、と。


「ヒィィィンッッッ!!」


 その瞬間、サンショクダンゴは最後のギアを入れた。呪われた世代の記憶に、今、終止符が打たれる。


『突き放す!サンショクダンゴ、強い!これは、もう誰にも止められない!

 ターフに刻んだ無数の傷跡が、今、栄光への道となる!


 サンショクダンゴ!


 3年分の想いを込めて、栄光のゴールイン!!


 もう脇役とは言わせない!最強世代の忘れ形見が、今、府中の主役となりました!!』


 シルバーコレクターの汚名返上。6歳にして掴んだ、初めての栄光だった。

 レース後のウィナーズサークル。無数のフラッシュを浴びながら、武谷はマイクを向けられた。


『今の気持ちは』

「・・・最高です。サンショクダンゴの世代は最強と呼ばれましたが、俺とこいつはずっと、その蚊帳の外でした。今日は、その悔しさをすべて晴らせたと思います」


 穏やかに、しかし力強く答えた武谷。


『そして気になるのは、次のレースです。芝で続戦でしょうか?それともダートでしょうか?』


 彼は不敵な笑みを浮かべた。その視線は、レンズの奥、いるはずのない”宿敵たち”を捉えていた。


「次は、暮れのグランプリ、有馬記念です」


 場内がどよめく。


「あの馬たちに一度にリベンジするチャンスがあるのはあのレースだけだと思うので。あの馬達がいない間に自分たちが掴んだこの王座が、まぐれじゃないってことを証明してしたいですね」

『・・・では有馬記念に向けての意気込みを教えてください』


 武谷は一瞬、天を仰ぎ、そして決然とした表情でマイクに向き直った。


「勝ちますよ。ホワイトフォースにもハナマンカイにも。

 そしてフッカツノネガイにも」


 最強の挑戦者が、高らかに、三つの名を告げた。

 ノゾミの物語は、もはや彼一人のものではなくなった。日本中の競馬ファンを巻き込む、壮大な世代間戦争の序章が、今、切って落とされたのだ。

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