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25-2 そして彼は帰ってくる

 夕暮れの美浦トレーニングセンター。空は燃えるような茜色に染まり、厩舎の長い影がアスファルトに伸びている。イマナミは、自らの名を冠した真新しい厩舎の前で、西日を背に受けながら、息を殺してその瞬間を待っていた。


 やがて、一台の馬運車が夕日を背負って到着する。エンジンが停まり、辺りはにわかに静寂を取り戻した。スロープがゆっくりと下ろされ、逆光の中に現れたシルエットに、イマナミは息を呑んだ。


 そのシルエットが、光の中へと一歩踏み出す。夕日に照らされた黒鹿毛は、その輪郭を金色に輝かせていた。


 カツン、と蹄鉄がアスファルトを打つ、硬質で澄んだ音。その一音一音が、夕暮れの空気に響き渡る。記憶の中にいる、やんちゃで荒削りな天才の面影はそこにはない。そこにいたのは、幾多の苦難を乗り越えた者だけが纏う、静謐な威厳と研ぎ澄まされた刃のような風格。王者の器を持った一頭のサラブレッドだった。


 イマナミの視線が、吸い寄せられるように右後脚へと落ちる。かつて砕け散り、彼の未来を、そして自分の夢を奪ったはずの脚。だが、そこに痛々しさの欠片もなかった。むしろ、その過酷な戦いの歴史を誇るかのように、力強い腱が夕日を浴びて浮かび上がっている。


『久しぶりだな、ノゾミ!』


 そう、喉まで出かかった言葉を、イマナミは呑み込んだ。

 軽々しく駆け寄ることなど、到底できなかった。

 昔の自分なら、感情のままにその首に抱きついていただろう。

 だが、今の自分は違う。この奇跡の結晶の未来、その全ての責任を預かる「調教師」なのだ。その誇りと重圧が、両足を地面に縫い付けていた。


 その時、ノゾミがふっと顔を上げた。大きな黒い瞳が、西日の中で微動だにせず、真っ直ぐにイマナミを捉える。まるで、彼の迷いも覚悟も、この二年半の苦闘さえも、すべて見抜いているかのように。 


 ノゾミは誰に促されるでもなく、ゆっくりとイマナミの方へ歩み寄る。そして、その鼻面をイマナミの胸にそっと押し当てた。かつて嗅いだことのある懐かしい匂いと、今は知らない汗の匂いを確かめるように、深く、長く息を吸い込む。それは、言葉を超えた問いかけだった。


『お前もまた、戦ってきたのか』と。


「・・・ああ、戦ってきたさ」


 声にならない声で応え、イマナミは震える手でその逞しい首筋を、祈るように撫でた。そして導かれるように、待ち焦がれた相棒の額に、自らの額をそっと合わせた。伝わってくる、穏やかで力強い生命の鼓動。言葉はいらない。互いが過ごした時間の長さも、乗り越えた苦難の大きさも、この瞬間にすべてが溶け合い、一つの理解となって胸に満ちる。


 調教師と競走馬として、二人は今、ここで新たに出会ったのだ。


 ゆっくりと顔を離し、イマナミは真正面からノゾミの瞳を見つめ、万感の想いを込めて言った。


「おかえり、ノゾミ。よく・・・戻ってきてくれたな」

「ヒンッ」

 ノゾミは応えるように、低く、優しく鼻を鳴らした。

 そして少し遅れてケイゾーとアオキの乗った車が到着した。


「いやーご無沙汰しています。イマナミくん。いや、もうイマナミくんは失礼かな?イマナミセンセー」

「いえ滅相もございません。河合オーナー、アオキさん・・・。本当に、ありがとうございました。言葉になりません。こんな・・・こんな完璧な状態で・・・」


 心の底から湧き上がる感謝を伝えようと、イマナミが深々と頭を下げると、ケイゾーが穏やかだが力強い声でそれを制した。


「頭を上げてください、センセー」


 その声には、確かな敬意が込められていた。


「私がしたのは、この馬の可能性を信じてハンコを押しただけ。神崎先生が未来への執刀をし、このアオキが二人三脚でトレーニングに付き合い、そして何より、ノゾミ自身が諦めなかった。皆の力が繋いだ奇跡ですよ」

「俺も、何も。ただ、ノゾミが自分で走れるようになりたがっていましたから」


 そう言って唇をぐっと噛むアオキの表情には、手塩にかけた愛馬を送り出す誇らしさと、どうしても拭えない寂しさが浮かんでいた。


 彼は意を決したように一歩前に出ると、その手に握られていたノゾミの引き綱を、まっすぐにイマナミへと差し出した。


「俺たちの仕事は、ここまでです」


 その引き綱は、単なるロープではなかった。二年半という歳月の中で、彼らが注ぎ込んできた愛情、苦悩、そして決して消えることのなかった希望、その全てが編み込まれた、魂のバトンだった。


「この馬は、ずっとあなたを待っていました。俺たちが繋いだ未来を、もっと先へ。どうか、よろしくお願いします」

「・・・はい。必ず」


 イマナミは、その言葉の重みを全身で受け止めた。アオキの震える手を、引き綱ごと両手で力強く、そして優しく包み込むように握った。


「・・・はい。必ず。この夢の続きは、今浪厩舎が責任を持って引き受けます・・・」


 固く、熱い握手。

 託す者と、託される者。視線が交差し、男たちの間で言葉にならない誓いが交わされる。


「・・・いい顔になったじゃないか、センセー」


 ケイゾーは満足そうに目を細めると、アオキの肩をポンと叩いた。


「さあ、俺たちはここまでだ。あとは、センセーの仕事だ」

「・・・じゃあな。ノゾミ」

「ブヒ!」


 アオキは改めてノゾミと向き合った。その声は、別れの寂しさを振り払うように、努めて明るかった。


「辛かったリハビリも、苦しいトレーニングも、もう全部終わりだ。もう何もお前を縛るものはない。だからお前は・・・ただ、楽しく走れ。心の底から楽しんでこいよ!」

「ヒンッ!!」


 アオキの願いに応えるように、ノゾミが嬉しそうに嘶く。

 次に、ケイゾーがノゾミに語りかけるように、厳かに言った。


「俺は、お前に何度も驚かされてきた。今回の復帰もそうだ。そして今度は本番の走りも楽しみにしている。・・・想像を超えてみせろノゾミ」

「ヒヒンッ!!」


 ノゾミは天を仰ぎ、今度は力強く、全てを約束するかのように嘶いた。


「フッ・・・最高の返事だ」


 ケイゾーは満足げに頷くと、今度こそ本当に背を向けた。


「さあ、行こうか、アオキ!」

「はい!」


 二人は、全ての想いを託し終えた晴れやかな顔で、もう振り返らずに去っていった。



 やがて厩舎地区には、夕闇が完全に降り、静寂が戻った。ぽつりぽつりと灯り始めた厩舎の明かりの中、イマナミとノゾミだけが残された。手にした引き綱の感触が、未来への責任の重みを、そしてそれ以上の喜びを伝えてくる。イマナミは、隣で静かに佇む相棒の顔を誇らしげに見つめた。


「さあ、行こうか、ノゾミ」


 イマナミは引き綱を優しく引き、一歩踏み出した。そして、静かに、しかし揺るぎない意志を込めて言った。


「俺たちの戦場へ」

「ヒンッ!!」


 若き調教師と、帰ってきた天才。


 二つの魂は一つになり、自らの名を冠した厩舎の灯りに向かって、新たな伝説への第一歩を、共に踏み出した。


 ーーーーーーーーーー


 最後の回診を終え、神埼が美浦から戻ったのは、とっぷりと日が暮れた後だった。後輩の高田が、待っていましたとばかりに迎え入れる。


「先生、お疲れさまでした」

「ん……ただいま。やっぱり河合牧場は遠いわね」


 神埼はそう言って車のキーを放ると、凝り固まった肩を大きく回した。白衣を脱ぎ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に煽る。その喉の動きに、乾きと疲労が色濃く浮かんでいた。


「大丈夫でした?ノゾミくん」

「当たり前でしょ。あとは美浦の獣医に引き継ぎ作るだけ。私の仕事は本当の終わり」


 そう言うと、彼女は休む間もなくデスクのPCを立ち上げ、キーボードを叩き始めた。モニターには、痛々しい手術痕の画像や、複雑なデータシートが次々と表示されていく。

 その妥協なき仕事ぶりに、高田は尊敬と少しの呆れが混じったため息をついた。これこそが、神埼という獣医師なのだ。

 少しの沈黙の後、高田は、ずっと胸の中にあった問いを口にした。


「ノゾミくん勝ちますかねー?2年半のブランクは決して軽いものじゃないと思いますが・・・」


 神埼の指が、一瞬だけ止まった。彼女は画面から目を離さないまま、静かに答える。


「さぁね」


 その声は突き放すようでありながら、どこか温かみがあった。


「医学的に、私たちがすべきことはすべて終わったわ。バトンは、今浪先生と、そしてノゾミ自身に渡されたの」


 彼女はそこで言葉を切り、ふっと口元を緩めた。それは、挑戦者の未来を確信する笑みだった。


「あとはもう、応援するだけ。信じてるわ。あの子なら、私たちが繋いだ未来の、遥かその先まで走ってくれる」

「・・・そうですね」


 神埼の言葉の熱に、高田はただ頷くことしかできなかった。


 その時だった。診察室のドアが勢いよく開き、事務員が血相を変えて飛び込んできた。


「先生! すみません、緊急です! 夜間放牧中の事故で、重度の骨折と・・・!」

「おい、先生は今戻られたばかりだぞ! 少しは休ませて…」


 高田が思わず声を荒らげたが、それを遮ったのは、神埼の静かで鋭い声だった。


「・・・いいわよ。受け入れる」


 彼女は言い終わるか終わらないかのうちに、無造作に伸びていた髪を手早くヘアゴムで一つに束ねる。その瞬間、疲れた顔つきは消え、瞳に鋭い光が宿った。


「高田! オペ室の準備! レントゲンと輸血パック、今すぐ!」

「は、はい!」


 神埼の日常は、こうして続いていく。


 命の瀬戸際という、終わりのない戦場で。


 彼女が嵐のように去っていった後、高田は一人、静まり返った部屋でデスクの上にあるカレンダーに目をやった。


 いくつもの予定が書き込まれたそのカレンダーの、ずっと先。


 12月の、ある日曜日の欄に、鮮やかな赤丸が一つ。


 そして、その横には彼女の小さな、しかし力強い文字で、こう記されていた。


『有馬記念』


 高田は確信した。


 あの赤丸は、神埼が繋いだ奇跡がどこまで届くのかを見届けるための、彼女だけの、静かな「約束の日」なのだと。


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