25-1 そして彼は帰ってくる
残暑が厳しい、河合牧場。カレンダーの日付は、奇しくも三年前、フッカツノネガイが世代の頂点を目指し、神戸新聞杯を戦った日と重なっていた。
そして今、この朝は、いつもの穏やかな空気の中に、全く新しい、それでいてどこか懐かしい特別な日の予感が静かに満ちていた。
広大な芝生に、一頭の黒毛が姿を現す。
二度の手術から約半年。リハビリを経て、その馬体には円熟した厚みが加わっていた。一度は失われたはずの肉が、長い時間をかけて再びその骨格を包み込み、しなやかな丘陵のように盛り上がっている。研ぎ澄まされた鋼のごとき筋肉が朝日を浴びて艶めかしく光り、その瞳の奥には、消えることのなかった闘志の炎が静かに宿っていた。
「さて、行くか。ノゾミ」
「ブヒッ!」
鞍上のアオキが軽く促すと、ノゾミは応えるように短く鳴き、大地を踏みしめた。
静かな発進。しかし、かつて砕けたはずの右後脚が、今や大地を鷲掴みにするほどの力強いバネとなり、その巨体を前へ、前へと押し出していく。
一完歩、また一完歩と加速するたび、走りのフォームは淀みない流線形を描き、より美しく、より力強く変貌していく。もはやそれは、慎重なリハビリの走りではなかった。走るという本能的な喜びに身を委ね、風と一体になることの歓びを全身で表現する、魂の躍動そのものだった。
「よし、オーケーだ!」
走り終えたノゾミからアオキが飛び降りる。
「・・・文句なしだ。最高の走りだよ」
柵の外から見守っていたケイゾーが、惚れ惚れとした表情で頷いた。
「完璧、だと思います」
アオキも、確信を込めて応じる。
二年半という、あまりに長い時を経て、ノゾミの走りが完全に還ってきた。
「いやあ・・・長かったですね。やっとここまで・・・」
アオキが感慨深げに呟く。
「お前が『走りの左右のバランスがコンマ1ミリずれてる』なんて、神様みたいなこと言い出さなきゃ、もっと早かったかもな」
ケイゾーの軽口に、アオキも笑って返す。
「ケイゾーさんこそ、事あるごとに『俺の知ってるノゾミはこんなもんじゃなかった』って言うから、こっちも意地になるんですよ!」
からりとした二人の笑い声が、高く澄んだ秋空に吸い込まれていく。そして、どちらからともなく視線を交わし、深く頷き合った。
言葉はいらない。約束の舞台は、整った。
あとは、最後の審判を待つだけだ。
その日の午後。
牧場の馬房に、神埼がいた。
最終チェックを終え、クールダウンしたノゾミの体を、入念に調べている。超音波診断装置のモニターに映し出される映像。一本一本の腱や筋肉の張りを確かめる、指先の触診。
アオキとケイゾーは、ただその様子を見守っていた。
長い、長い沈黙の後、神埼はふっと表情を緩め、器具を置いた。そして、笑顔でその場にいる全員を見回した。
「・・・いいですね」
その静かな一言に、張り詰めていた空気が一気に爆ぜる。
「じゃあ、レースは・・・」
アオキが恐る恐る声で尋ねる。神埼は力強く頷いた。
「ええ。まず、私の獣医師としての公式な見解から申し上げます。骨の癒合状態、再生した筋肉の強度、そして神経の伝達速度・・・。全ての検査項目において、彼の右後脚は、レースへの出走に全く支障がないレベルにまで、完全に回復しています」
彼女はそこで一度言葉を切り、確信に満ちた声で続ける。
「医学的な障壁はもはや何もありません。獣医師として、フッカツノネガイのレース復帰に、一点の曇りもなく、太鼓判を押します」
そして、厳しい医療者の顔から、共に戦った戦友の穏やかな笑顔へと表情を和らげ、言葉を紡いだ。
「・・・これは私の個人的な感想ですが、あの日、私たちは医学の知識と技術で未来への細い糸を繋いだに過ぎません。その糸を、これほど強く、輝かしい奇跡の綱へと鍛え上げたのは、ノゾミ自身の『走りたい』と叫ぶ魂と、皆さんの揺るぎない愛情です。私の想像など、遥かに超えていました。
本当に、素晴らしいものを見せていただきました」
そして、彼女はケイゾーとアオキに向き直り、力強く宣言した。
「これで獣医師として、フッカツノネガイのターフ復帰に向けた、最終的なメディカルチェックの完了を報告します。お疲れ様でした」
その言葉が、全ての始まりを告げる号砲だった。
「よっしゃあ!」
「ブヒぃぃ!!!」
ケイゾーとアオキ、そしてノゾミは神崎の宣言に歓喜の声を上げる
アオキは、そのうれしさそのままにスマートフォンを取り出し、一件の番号をタップした。
「・・・俺です。アオキです・・・ええ、今、神埼先生の診察が終わりました」
言葉を区切り、天を仰ぐ。
「・・・・ええ、そうです。・・・完璧です。・・・先生の、お墨付きです」
電話の向こうで、息を呑む気配が伝わってくる。
「えぇ。予定通り今日の夕方。馬運車とともに私と河合も伺います・・・はい。よろしくお願いします」
そう言ってアオキは携帯を切った。もう既にノゾミの居場所はもうここじゃない。
「では、私はこれで、引き継ぎの書類は美浦の方の獣医師に渡しておくので、ご心配なく、また何かありましたらいつでも連絡してください」
神崎は荷物をまとめ立ち上がった。
「本当にお世話になりました」
「いえいえ、私も競走馬についてかなり勉強させて頂きました。・・・それでは失礼します」
そう言って神崎は頭を下げ、河合牧場を去ろうとする。しかしそれを押し留めようとするものが一人。
「・・・ブヒッ」
ノゾミだった。その大きな瞳でじっと神埼を見つめ、名残を惜しむように彼女の上着の端をはむっと噛んでいる。
「こら! ノゾミ、やめろ!」
アオキが慌てて駆け寄ろうとするが、神埼は静かに手を上げてそれを制した。
「いえ、大丈夫です」
彼女は驚きながらも、その優しい歯ごたえから、言葉にならない想いが伝わってくるのを感じていた。単なるじゃれつきではない。感謝と、寂しさと、そして「見ていてくれ」という誇り高い決意が。
神埼はゆっくりと屈み、ノゾミの目線に自らの顔を合わせた。夕暮れの光が、二人の間を神々しく照らし出す。彼女はそっと、その賢そうな額を撫でた。あの日、手術室で未来を託された命が、今、力強く目の前で息づいている。込み上げてくる愛おしさに、彼女の瞳が潤んだ。
「その右後脚は、もう私が治す脚じゃない。あなたが未来を掴むための脚よ」
神埼はノゾミの額に自らの額を寄せ、ほとんど吐息のような、二人だけの秘密を打ち明ける声で囁く。
「・・・私とあなたの物語は、これで終わり。」
そして、ゆっくりと顔を離し、未来を見据える瞳で、しかし声はどこまでも優しかった。
「さあ、行ってらっしゃい。
そして私に見せてほしいの。私たちが繋いだこの未来がどこに繋がっているのか。あなたの走った行く末を」
「ヒンッ!!」
ノゾミが応えた。それは別れを惜しむ悲しい声ではなかった。それは、己の復活と、未来への旅立ちを宣言だった。
その返事に神埼は満足そうに微笑むと、今度こそ本当に背を向け、歩き出した。
ターフを駆ける天才と、その命を未来へ繋いだもう一人の天才。
二人が紡いだ奇跡の物語は、この瞬間、静かに幕を下ろした。
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同日、美浦トレーニングセンター。
かつて国本厩舎があった場所に、今は真新しい看板が掛かっている。そこに、一人の男が立っていた。
「センセー。ノゾミ帰ってくるんだろ。寝藁用意しといたぞ」
「すいませんサカイさん。ありがとうございます」
調教助手のサカイに深々と頭を下げると、男は一人、これから相棒が入る馬房へと足を踏み入れた。ふわりと、真新しい寝藁の乾いた匂いが鼻腔をくすぐる。それは、始まりの匂いだった。
まとわりつく残暑の汗を手の甲で拭い、どこまでも広がる茜色の空を見上げる。しかし、その瞳には穏やかな夕空ではなく、鮮やかな緑のターフと、地鳴りのような大観衆の熱狂がはっきりと映っていた。
「・・・ついに戻ってくるか、ノゾミ」
ほとんど吐息のような、しかし誰よりも待ち侘びた言葉が、彼の口から零れた。
長かった二年半。その道のりを噛みしめるように、彼は口元をギュッと引き締める。
「また一緒に走ろうぜ。ノゾミ」
そう言って彼は口の端を上げた。
彼、『今浪耕平』は待っている。自らの名を冠した『今浪厩舎』で、ただ一頭の天才の帰りを。




