24-4 名伯楽
観客席の定位置に、クニモトはひとり腰を下ろした。
「ふぅー」
地下馬道で流した涙の痕跡を誰にも悟られぬよう、彼は再び「名伯楽・国本英雄」という名の、分厚い仮面を被る。だが、その仮面の下で、心は嵐のように荒れていた。
「・・・あと5分か」
時計を見ながらそう呟いた。
この時間が昔から嫌いだった。ターフに解き放たれた我が子を、ただ天に祈ることしかできない無力な時間。
だがそれも、これが最後だ。緊張か、期待か、寂寥か。もはや自分でも判別のつかない感情の渦が、腹の底でとぐろを巻いていた。
周りに誰も話しかける者はいない。サカイもイマナミも、少し離れた場所から、師の背中を固唾をのんで見守っている。それは、踏み込んではならない神聖な領域だと、誰もが理解していた。
「始まるぞ!!」
遠くから、誰かの声が聞こえてくる。
すると間もなくスターターがモニターに映り、始まりを告げるファンファーレが鳴り響く。地を揺るがすような情熱的な手拍子が、クニモトの心臓を直接叩くように響いた。
ファンファーレが終わり、万を超える観衆の絶叫が地鳴りとなって響く中、クニモトは身じろぎもせず双眼鏡を構えていた。レンズを支える指先が、かすかに震えているのを、彼自身だけが知っていた。
一頭、また一頭と、馬たちがゲートという名の檻に収まっていく。その度に、クニモトの眉間の皺はわずかに深くなり、固く結ばれた唇は一文字を描いていた。呼吸も忘れ、レンズの先のレイヴェンズソングに全ての神経を集中させている。
やがて、最後の馬が収まり、嘘のような静寂が東京競馬場を支配した。その瞬間、クニモトは一度だけ、ゆっくりと目を閉じた。まるで、瞼の裏にこの張り詰めた空気と、これから失われる光景を焼き付けるかのように。そして再び目を開けた時には、その瞳にはもう迷いはなかった。
ガチャンッ!
その乾いた炸裂音に、彼の肩が微かに揺れる。白いゲートが弾けるように開いた。
クニモトは、思わず目を細めた。
直後、場内のどよめきが一瞬にして悲鳴にも似たため息に変わる。⑤番、レイヴェンズソング。痛恨の出遅れ。G1の舞台では、それだけで勝負の権利すら失いかねない、致命的なロスだった。
双眼鏡を持つ手に、無意識に血が滲むほど力が入る。だが、クニモトの表情は石のように動かなかった。もう、信じるしかない。三津の手腕を。そして、レイヴェンズソング自身の、底知れぬ魂を。
先頭は⑧番ソウルコネクトが軽快に飛ばし、有力馬たちが砂塵を巻き上げながら淀みないペースを刻んでいく。レイヴェンズソングは、やはり後方からの競馬を強いられた。
しかし、鞍上の三津は慌てない。馬群から少し離れた内ラチ沿いを、まるで最後の爆発に備える獣のように、じっと息を潜めて追走している。
(それでいい・・・まだだ、まだ慌てるな・・・)
クニモトは心の中で呟いた。長年連れ添った相棒のような、この無力感。そして、それでも胸の奥で消えることのない、熾火のような期待。それが、調教師という仕事の、甘くも過酷な本質だった。
スタンドの歓声が遠のき、また近づいてくる。レースは勝負所の3コーナー。ここで動かなければ、前は捕まえられない。場内のボルテージが、沸点に向かって駆け上がっていく。
その時だった。
レイヴェンズソングの鞍上の手が、わずかに動いた。それを合図に、馬群と馬群の隙間を縫うように、⑤番の勝負服が、まるで幻影のようにポジションを上げていく。
(行け・・・!)
声にならぬ叫びが、喉を焼いた。
4コーナー。各馬が最後の直線に向けて雪崩を打つ。その混沌の中心を、レイヴェンズソングは馬場のど真ん中を切り裂くようにして、最後の戦場へと躍り出た。
『さあ最後の直線!先頭は粘るサンショクダンゴ!外からダークモカ!3番手は少し手応え怪しいかソウルコネクト!
そして大外から、一気に脚を伸ばしてきたのは・・・来たぞ、国本厩舎のレイヴェンズソングだ!出遅れをものともせず、まとめて交わしにかかる!』
実況アナウンサーの声が裏返る。
東京競馬場の、果てしなく長い直線。残り400メートル。
次の瞬間、クニモトは長年の相棒であった双眼鏡を、衝動的に手から放した。レンズ越しに見ていた冷静な世界との決別だった。裸の眼で、ただひたすらに、緑の海を駆ける一点の栗毛だけを追う。一完歩ごとに、絶望的だった差が、燃えるような軌跡となって縮まっていく。
そうだ、レイヴェンズ。気性の激しい「問題児」たちの派手な活躍に隠れていたが、お前は誰よりも愚直だった。厩舎の隅で、ただひたすらに己を磨き続けた。その一歩一歩の積み重ねが今、ターフの上で、何よりも雄弁な言葉となって花開こうとしている。
心臓が肋骨を内側から激しく叩く。
だが、彼の口は固く結ばれ、声を発することはなかった。
いつからだろうか。レース中に声を張り上げることをしなくなったのは。
叫んだところで馬の脚が速くなるわけではない。ターフの上で戦うのは馬と騎手。送り出した自分にできるのは、ただ彼らを信じ、冷静に戦況の全てを見届けること。それが、数多のレースを経てクニモトの体に染み付いた、一つのスタイルだった。熱狂の渦の中心にいながら、常に醒めた目で物事の本質を見極める。そうやって、彼は数々の勝利を掴んできた。
双眼鏡のレンズの向こうで、栗毛の馬体が躍動する。一完歩ごとに、絶望的な差が縮まっていく。
(行け・・・! 届け・・・!)
声にならぬ祈りが、心の中で熱を帯びる。いつものように、ただ静かに、その奇跡を待っていた。
その時だった。
地鳴りのような歓声の中に、ひときわ大きく、そして切実な声がいくつも混じっていることに気づいた。
ふと視線を横にずらす。
「差せ!差してくれ!!レイヴェンズ!!!」
そこには、顔をぐしゃぐしゃに歪め、涙もそのままに絶叫するイマナミの姿があった。
「届け!!届けよ!!!」
その後ろでは、サカイが普段の冷静さをかなぐり捨て、子供のように拳を握りしめて愛馬の名を叫んでいる。
他のスタッフたちも皆、一様に立ち上がり、それぞれの形で、ただひたすらに想いを声に乗せていた。
彼らの、理屈ではない、剥き出しの魂の叫び。
そうだ、競馬とは本来、こんなにも熱く、純粋な、魂のぶつかり合いだった。
その瞬間、何十年もかけて身につけた冷静という名の鎧が、仲間たちの熱によって、いとも容易く溶かされていくのを感じた。長年染み付いたスタイルも、百も承知の理屈も、この瞬間だけはどこかへ消し飛んでいた。
頭で考えるより先に、腹の底から熱い塊が突き上げてくる。
柄にもない。
そう理性が囁いた時には、もう遅かった。
「行けぇぇえぇっ!!レイヴェンズソングッ!!」
自分でも驚くほど、自然に声がほとばしった。
それは、冷静な調教師・国本英雄ではなく、ただ一頭の馬を愛し、仲間を信じる男の、心の底からの叫びだった。
「そのままっ!!行けぇーっ!!差しきれぇぇーーっ!!」
自分の声が、仲間たちの声と溶け合い、一つの巨大な祈りとなる。
残り200。
粘る先頭馬の外から、厩舎全員の魂を乗せたレイヴェンズソングが、ただ一頭、違う次元の脚で飛んでくる。
その叫びに導かれるように、前を行く馬たちを刹那に飲み込み
――先頭に躍り出た。
その瞬間、世界から音が消えた。
ただ、レイヴェンズソングの荒い息遣いと、大地を蹴る蹄の音だけが、スローモーションの鼓動のように響く。そして、その音に導かれるように、国本の脳裏に、幾つもの鮮やかな光景が弾けるように駆け巡った。
まだ線の細かったサカイが、汗だくで厩舎の門を叩いた、あの夏の日の眩しい陽射し。
期待のあまり、無理をさせてしまった若駒のそばで、藁と薬の匂いに塗れながら、無力さを噛み締めた、眠れない夜。
大きなレースに勝った後でも、負けた後でも、他愛ないことでスタッフたちと笑い合ったあの日々。
これが最後のチャンスだと覚悟して挑み、府中の長い直線を先頭で駆け抜けた、あのダービー制覇の瞬間の、天を揺るがすような大歓声。
そして、自分の引退を前に、真っ直ぐな瞳で調教師を目指すと宣言した、あの日のイマナミの覚悟に満ちた表情。
何十年もの月日が、この一瞬に凝縮されていく。
喜びも、苦しみも、栄光も、日常も、そして未来への希望も。この馬の、最後の一完歩、一完歩に、彼の人生の全てが乗っていた。
『強い!強い!出遅れもなんのその!これが名伯楽・国本英雄の、最後の傑作だ!』
割れんばかりの大歓声が、世界を揺るがす。
そして――レイヴェンズソングが、全ての想いを乗せて、先頭でゴール板を駆け抜けた。
永遠が、その一瞬に凝縮された。
G1の電光掲示板に灯る、紛れもない「1着」の数字。その光が、クニモトの網膜に焼き付いていく。
「やった・・・やったぞぉぉぉぉっ!!」
すぐそばで、イマナミとサカイが、抱き合って泣き崩れている。スタッフたちの、歓喜と嗚咽が入り混じった叫び声が響く。
クニモトは、その歓喜の輪を、少し離れた場所から、目を細めて見ていた。
最初に訪れたのは、驚くほど純粋な、子供のような歓喜だった。だが、その波が引くと、まるで決壊したダムのように、あらゆる感情が奔流となって押し寄せた。
肩の荷がすとんと下りるような、深い安堵。
最後まで走り切ってくれたレイヴェンズソングと、導いてくれた騎手へのリスペクト。
そして何より、この自分を信じ、最後までついてきてくれた、愛すべき仲間たちへの、言葉にならない感謝。
関わってくれた全ての人の顔が、次から次へと思い浮かび、胸が熱くなる。
そして、これで、本当に終わりなのだという、どうしようもない寂寥感。
だが、泣きじゃくるイマナミと、それを支えながら同じように涙を流すサカイの姿を見た瞬間、その寂しさは、温かい何かに溶けていった。
そうだ、自分の物語は終わる。だが、国本厩舎の魂は、あいつらが未来へと繋いでくれるのだ。
そう思った瞬間、込み上げてくるものを、彼は涙ではなく、一つの深い、満足げな笑みに変えた。
もう、思い残すことは、何もない。
その表情は、驚くほど穏やかで、一点の曇りもなく晴れやかだった。
「・・・ありがとうな、みんな。」
誰に言うともなく呟いたその声は、春の兆しを運ぶ風のように、どこまでも澄み切った空に溶けていった。
ターフの向こうでは、誇らしげに引き上げてくる栗毛の英雄と、高々と拳を突き上げる騎手の姿が見える。
クニモトは、もう一度、その光景を目に焼き付けた。
これが、我が人生そのものだった。
彼は、ウィナーズサークルへと向かう仲間たちの背中に向かって、誰にも見せることのない、最高の笑顔を向けた。
名伯楽の長い旅は、今、この上ないほどの喝采と、晴れやかな笑顔の中、燦然と輝きながら、その幕を下ろした。




