24-3 名伯楽
このシーンを書きたくて、ここまで書いてきました。よろしくお願いします。
日曜日、2月26日。フェブラリーステークス当日。
夜明け前の栗東トレーニングセンターは、深い静寂と、全てを凍らせるような寒気に包まれていた。
クニモトは誰よりも早く厩舎に現れた。それが長年、体に染み付いた習慣だった。最後となるその朝も、彼はいつも通りに、しかし、いつも以上にゆっくりと時間をかけ、一頭一頭の馬房を巡る。その指先が、愛馬たちの温かい鼻面を確かめるように撫でていく。万感の思いが喉元までせり上がるが、彼はそれを奥歯で噛み砕き、表情を変えることはない。調教師・国本英雄としての、最後の矜持だった。
やがて、闇を切り裂くようにヘッドライトの光跡が幾筋も現れ、スタッフたちの車が次々と到着する。
「おはようございます。センセー。今日も早いですね」
二番手にやってきたサカイの声。その変わらない響きに、クニモトは張り詰めていた息を、気づかれぬよう細く吐き出した。
「おはよう。当たり前だ。俺は、こいつらの命を預かる調教師だからな」
クニモトはそう言ってほんの少しだけ口の端を上げた。最後まで、師として、強くあろうと決めていた。
スタッフが揃うと、厩舎は一気に戦場へと姿を変えた。馬たちの荒い息遣い、蹄が地面を掻く音、スタッフたちの慌ただしい指示。日常が、最後の戦場へと変貌していく。当日輸送の馬が次々と馬運車に収まっていく。
そして最後の、レイヴェンズソングが乗せられ、ゆっくりと東京競馬場へ向かっていった。
ゆっくりと闇に溶けていくテールランプの赤い光を、クニモトは、いつもより長く、ただじっと見送っていた。
「センセー、我々もそろそろ」
サカイが声をかける。
「あぁ。そうだな」
クニモトは静かに頷き、イマナミ、そして数名のスタッフと共に、決戦の地、東京競馬場へと向かう車に乗り込んだ。
長い道のりを経て、一行はついに東京競馬場に到着した。車を降りた瞬間、肌を刺すような首都の冷たい空気と共に、大一番を前にした独特の喧騒と緊張感が、彼らを包み込んだ。
クニモトは、慣れ親しんだ競馬場の土を、最後にもう一度、強く踏みしめた。
「さぁ、今日も1日頑張ろうか」
「「はい!!」」
その言葉にサカイとイマナミをはじめとした、スタッフ一同は頷いた。
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土曜から続く重苦しい空気の中、勝利の女神は微笑まぬまま、運命のフェブラリーステークス、そのパドックの時間が訪れた。レイヴェンズソングを引くのはイマナミとサカイ。クニモトはそれを円周パドックの中心で見守るだけだ。
「いやー。センセーどうも!!」
そこに現れたのはレイヴェンズソングの馬主の萩原隆だった。服装はスーツでビッシリ決めており、初めてのG1の舞台に浮足立っているようだった。
「ご無沙汰しております。萩原オーナー。ご多忙の中、駆けつけてくださったのですね」
「いやいや、もうなんとかね!!さっき仕事抜け出したところだよ!!」
そう言って萩原は、額の汗を拭った。そして萩原を愛馬を見つめて呟いた。
「いやーレイヴェンズ。やっとG1か・・・感慨深いものだな・・・」
「萩原オーナーには早々にダートに路線変更して、オーナーのクラシックという、たった一度の夢を、この手で絶ってしまったこと、今でも申し訳なく思っております」
その言葉に、萩原はパッとクニモトに顔を向けた。そして、周回する愛馬に視線を戻すと、まるで昔を懐かしむように、穏やかに首を振った。
「先生、俺はあの時のことは、今でも覚えてるよ」
萩原は続けた。
「新馬を快勝してから、どうにも伸び悩んでいた時だった。先生は言った。『この馬の才能は芝の上にはない。この逞しい筋肉は、砂を力強く掴むためにあるんだ』ってな。レイヴェンズは母も父も芝血統。まだクラシックを狙える時期だったから、正直、耳を疑ったよ」
萩原は懐かしそうに続ける。
「でもね、名伯楽・国本英雄がそこまで言うなら、一度信じてみようと思った。
そして、それが正解だった。あの判断がなければ、今この場所にこの子はいない。だから俺は、先生に感謝してるんだぜ?」
「・・・レイヴェンズ自身の力が、道を拓いただけです。私は、その手伝いをしたに過ぎません」
その謙虚な言葉に、萩原は「また始まった」とでも言うように、悪戯っぽく笑った。
「そういうことにしとくか。それに、この子が先生の最後のレースになるんだよな?」
「・・・はい。この後のレースには出走馬がいませんので」
「そりゃあ、レイヴェンズには頑張ってもらわないと! 先生の去り際がカッコ悪かったら、末代まで恥だからな!」
「いえ、私はただのしがない調教師ですよ」
そう言った瞬間、萩原は心底呆れたように、しかしどこか嬉しそうに大きなため息をつき、国本の肩を強く叩いた。
「先生、あんたって人は・・・。自分のことだけは、昔から客観的に見られない。俺がこの子を先生に預かってもらえると決まった時、どれだけ嬉しかったか。
そして、周りの馬主仲間が、どれだけ羨ましがったか、知らないでしょう?」
萩原は懐かしむように笑った。
「・・・そうだったのですか」
「あぁ。それだけ、センセーは俺たち馬主から、心の底から信頼され、尊敬されているってことだ・・・そして、その想いは、俺たち馬主だけじゃない」
萩原の声のトーンが変わった。
「見ろよ。センセー」
指さされた先、大観衆で埋め尽くされたスタンドの一角。最初、クニモトにはただの人垣にしか見えなかった。しかし、目を凝らすと、その人波の向こうに、見慣れた、しかし今はあるはずのない、一枚の横断幕がぼんやりと浮かび上がっていた。そして、その文字が目に飛び込んできた。
『名伯楽・国本英雄に感謝を』
「あれは・・・。横断幕は、今は禁止のはずでは・・・」
「ええ。でも、どうしても今日だけはと、ファンの方々が掛け合って、特例でJRAが認めたそうだ。これが、ただの調教師に許されることか?」
クニモトは、言葉を失った。スタンドの喧騒が、完全に消える。横断幕を掲げる人々の誇らしげな顔、その周りで頷く人々、遠くからこちらに手を振る誰か。その一人ひとりの名もなきファンの想いが、巨大なうねりとなって彼の胸に突き刺さった。ルールを曲げてまで・・・?自分のために・・・?
「あんたは馬のこととなると、あれだけ自信満々に語るのに、自分のことになると直ぐに卑下する。それを駄目なところとは言わない」
萩原は「ただ今日だけは」と続けた。
「あんたの姿を。名伯楽の姿を見たいっていう人が大勢来てるんだよ。
だから、胸を張ってくれよ。
胸を張って、俺たちに名伯楽・国本英雄の生き様を見せてくれよ」
萩原の表情は真剣そのものだった。その真剣な眼差しに、クニモトはただ頷くことしかできなかった。腹の底から、熱いものがこみ上げてくる。
そして拳を強く握りしめ、萩原の目を見て、あえて強い言葉で宣言した。
「・・・レイヴェンズソングは絶対勝たせてみせます」
「・・・あぁ。。それでこそ、俺たちの先生だ」
クニモトの言葉に満足気に頷き、萩原はくるりと身を翻した。
「今日のあんたを俺一人が独占するのは勿体ない。じゃあウィナーズサークルでまた会おう」
萩原はそう言って人混みの中へと消えていった。
萩原の言葉が、まだ胸の中で熱く燃えている。その直後だった。大観衆の喧騒を突き破るように、ポケットの携帯が鋭く震えた。画面には、小倉競馬場にいるはずのスタッフ、只野の名。胸騒ぎを覚えながら、国本は通話ボタンを押した。
「国本だ。どうした、何かあったか」
パドックのざわめきを遮るように、声を張る。電話の向こうは、一瞬の沈黙の後、爆発した。
『センセーっ・・・! 勝ちました! 今、ゴールしました! 小倉のメインレース、勝ちましたっ!』
それは、単なる歓喜の報告ではなかった。息を切らし、絞り出すような、魂の叫びだった。
「そうか! やったな!」
クニモトの口元が、思わず緩む。だが、電話の向こうから聞こえてきたのは、喜びと共に、堰を切ったような嗚咽だった。
『はいっ・・・! よかった・・・本当によかったです、センセー・・・!』
「只野? なんで泣いてるんだ。嬉しい場面だろうが」
そうクニモトは問いかけた。
『すいません・・・でも、涙が止まらなくて・・・! 土曜日からずっと、勝てなくて・・・このまま、センセーの最後の週を、勝ち星なしで終わらせるわけにはいかないって、みんなで・・・でも、焦れば焦るほど空回りして・・・本当に、怖かったんです・・・!』
只野の声は、プレッシャーから解放された安堵で震えていた。
『俺たち、センセーここまで育ててもらって・・・最後の最後に、何も恩返しできないまま終わるのが、何より悔しくて・・・!
だから、本当に・・・本当に嬉しいんです! やっと、センセーに、胸を張って『お疲れ様でした』って言える気がして・・・!』
国本は、目を閉じた。遠い小倉の空の下、必死に戦ってくれた仲間たちの顔が、一人ひとり浮かんでくる。彼らが背負っていた重圧、そして自分への想い。その全てが、受話器を通して、痛いほど伝わってきた。
「・・・只野」
クニモトは、万感の想いを込めて、その名を呼んだ。
「お前たちが勝ち取った勝利だ。よくやった。胸を張れ」
『・・・はいっ!』
只野は少し息を整えて、言った。
『センセー! 俺たちの意地は、この一勝に全部込めました。これで、バトンは渡せました。あとは、東京にいるセンセーたちに、全て託します!』
それは、エールだった。遠く離れた仲間からの、魂のバトン。
『国本厩舎の、最高の花道を飾ってきてください!』
「・・・ああ。任せろ!」
国本は力強く応え、バトンを確かに受け取った。
「とまーーーれ!!」
パドック周回が終わる。そしてそこにイマナミとサカイ。
そして鞍上は三津康生。
必要な情報交換の後に三津はレイヴェンズソングに乗り込む。
「三津。頼んだぞ。」
「はい。センセーの最後のレース。絶対に勝ってみせますよ」
そう言う三津の瞳には燃えるものが宿っていた。
鞍上の三津と、未来を託したイマナミが、地下馬道へと続く暗がりに消えていく。その背中を見送り、クニモトはサカイと共に、その後を追った。
一歩、足を踏み入れる。地上の華やかな喧騒と光が嘘のように遠ざかり、ひんやりとした空気が肌を撫でた。等間隔に並ぶ頼りない照明が、二人の長い影をコンクリートの壁に映し出す。聞こえるのは、自分たちの歩く靴音と、その先にいるであろう愛馬の蹄の音、そして静かな息遣いだけ。まるで、時間の流れから切り離されたような、静謐な空間だった。
クニモトは、必死に前だけを見て歩いた。ここで感傷に浸れば、全てが崩れてしまう。いつも通り。最後の最後まで、いつも通りに。そう、心に何度も言い聞かせた。
その時だった。隣を歩いていたサカイが、ふと足を止め、深く、深く息を吸い込んだ。まるで、ずっと胸に仕舞い込んでいた重い言葉を、ようやく吐き出す覚悟を決めたかのように。
「・・・いよいよ、最後ですね」
普段の彼からは想像もできないほど、静かで、しかし芯の通った声だった。
クニモトが必死に蓋をしてきた、その言葉。一番信頼する男の口から、何のてらいもなく放たれたその一言に、心の壁に、最初の亀裂が入った。
「・・・ああ。お前たちの前では、平気なふりをしていたがな。・・・やっぱり、意識しちまうもんだな」
彼は、自嘲気味にそう呟いた。初めて見せた師の弱さに、サカイは少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに力強く頷いた。
「当たり前ですよ。俺たちだって、この一週間、ずっとそうでした。ただのレースじゃない。センセーの、最後のレースなんですから。
昨日、勝てなかった時、正直、みんな焦りました。このまま終わらせるわけにはいかないって・・・」
「・・・サカイ。お前には苦労を、かけたな」
クニモトの少し早い労いの言葉に、サカイはかぶりを振った。
「苦労だなんて、思ったこと一度もありませんよ」
サカイは一度言葉を切り、壁に寄りかかると、まるで遠い昔を思い出すかのように続けた。
「覚えていますか?センセー。昔、俺がプライベートで色々あって、仕事もボロボロだった時のこと。誰にも言えなかったのに、先生だけは気づいて、『馬の顔を見りゃ、世話してる人間の顔も見えるもんだ。何かあったんだろ』って、声をかけてくれた。
そして、『いいか、サカイ。馬を育てるのは人だ。お前たちが元気でなきゃ、いい仕事はできん。俺にできることがあるなら、何でも言え』って・・・。あの時、俺は、国本厩舎っていうチームの一員なんだって、心から思えたんです」
サカイはそう言った。
「馬が好きでこの世界に入った俺たちだけど、いつからか、センセーの元で、この仲間たちと仕事ができることが、俺の誇りになってました」
サカイの視線が、再び国本に向けられる。その瞳は、尊敬と、そして深い愛情に満ちていた。
「勝ちたい。絶対に勝ちたいんです。無様な負け方で、あんたを終わらせるわけにはいかない。それが、ここにいない奴らも含めた、俺たちみんなの、たった一つの想いです」
クニモトは、言葉が見つからなかった。ただ、サカイの横顔を見つめる。その瞳の奥に、今日まで彼らが抱えてきたプレッシャーの大きさと、自分への深い感謝が見えて、胸が締め付けられた。
「俺たち、馬も当然好きですけど・・・」
サカイは、初めて真っ直ぐにクニモトの目を見て、言った。その声は、少しだけ震えていた。
「センセー。あなたのことが好きだから、ここまでついてきたんです」
ただ目の前のことで必死になって解決しようとしてきた調教師人生だった。その背中を、この男たちは、そんな風に見ていてくれたのか。
長年、心の奥底にしまい込み、固く閉ざしていた感情のダムが、その一言で、一気に決壊するのを感じた。
「・・・サカイ。俺は・・・」
国本の声が、震える。
「俺は、お前たちにとって、いい師匠だっただろうか」
これまで決して見せたことのない、師の弱さ。その問いかけに、サカイは間髪入れずに、しかし、どこまでも優しい声で答えた。
「最高の師ですよ。厳しくて、時に頑固で、時に不器用で・・・でも、誰よりも馬と、俺たちと、真剣に向き合ってくれた。俺たちにとって、世界で一番の師匠です」
そして、サカイは一歩前に出ると、力強く言った。
「だから、最後まで、世界で一番カッコいい調教師でいてください。見届けましょう。国本厩舎の、最後のレースを。みんなが、見てます。みんなが、祈ってます。センセーの、勝利を」
「・・・あぁ、そうだな」
ようやく絞り出したその声は、自分のものではないように聞こえた。




