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24-2 名伯楽

 金曜の朝。国本厩舎の事務所は、静寂に満ちていた。


 週に一度のミーティング。いつもなら誰かが飛ばす軽口に笑い声が上がるこの時間が、今日に限っては、スタッフたちの硬い表情を蛍光灯の光が無機質に照らし出しているだけだった。


「それでは、今週の出走馬の確認を行う」


 クニモトは、努めていつも通りに、静かだが芯の通った声で告げた。


 二月の最終週。その事実が、事務所の空気を重くしている。名伯楽・国本英雄が、その半生を捧げた厩舎の歴史に幕を下ろす、最後の週末だった。


 サカイが資料を配り、ミーティングは粛々と始まった。土曜の未勝利戦に出る若駒から、条件戦を走る古馬まで。一頭一頭、状態、レースプラン、鞍上への申し送り事項を確認していく。いつもと変わらない手順。クニモトは淡々と、しかし丁寧に進めていく。


 やがて、議題が最後の馬に差し掛かる。クニモトは、一瞬だけ言葉を句切った。


「・・・では、最後だ。日曜、東京11レース、フェブラリーステークス。うちからは、レイヴェンズソングが出走する」


 レイヴェンズソング。六歳牡馬。

 クニモトが最後に預かった世代の一頭。破天荒な天才フッカツノネガイ、大暴君ビションコメコ。

 あまりに個性の強い同期たちとは対照的に、この馬は己の道を黙々と歩んできた。芝で早々の活躍を期待された本馬だったが、ダートに活路を見出し、一戦一戦、砂にまみれながら実績を積み上げ、己の才覚を花開かせた、叩き上げの古豪だ。


「これで、ノゾミたち三頭、全員がG1の舞台に立ったことになるんですね・・・」


 そう誰かが呟いた。全員の顔を見れば何か思うところがあるのか静寂が事務所を包む。


「ああ。だが、出走させるだけで終わりじゃない」


 クニモトは、その感傷的な空気を断ち切るように、そして自分に言い聞かせるように、きっぱりと言った。


「勝ちにいく。そのためのミーティングだ」


 その一言で、緩みかけた部屋の空気が再び引き締まる。その馬にとって最善の結果を追い求める。それがクニモトの流儀である。それだけは揺るがすわけにはいかなかった。その覚悟を込めた視線でスタッフたちを見渡すと、彼らもまた静かに、しかし強く頷き返した。


「ーー他に何かある者は・・・いないな。以上でミーティングを終了する。午後から各自準備してくれ。解散」


 いつも通りの締めくくりの言葉。それを合図に、スタッフたちは事務所を出ていく。

 その背中を見送った後、クニモトは一人、厩舎の外へ出た。吐く息が、冬の空に白く溶ける。


「・・・白いな」


 スタッフが除雪してくれた通路の脇には、まだ雪が壁のように積まれている。


(この見慣れた冬景色も、調教師としては、これが最後か)


「・・・いかんいかん」


 クニモトは軽く首を振り、その考えを追い払った。

 厩舎に戻ると、馬房ではスタッフたちが黙々と作業を進めていた。その中に、開業準備で忙しいはずのイマナミの姿があった。彼はレイヴェンズソングの馬房の前で、サカイと何事か言葉を交わしながら、馬体をじっと見つめている。

 クニモトは、その光景に足を止めた。


(完璧だ・・・)


 クニモトは息を呑んだ。イマナミを中心としたサカイを始めとするスタッフたちの動きには一切の無駄がなく、レイヴェンズソングの様子も、自分がこれまで見てきた中で最高の状態と言っていい。何か気づいたことを進言しようとしても、その全てが既に行われている。自分が口を挟む余地は、どこにもなかった。


「イマナミ、レイヴェンの様子はどうだ?」


 背後からのクニモトの声に、イマナミは振り返った。


「はい、センセー。カイバも完食していますし、気合も程よく乗って、非常に良い状態です。サカイさんとも話していましたが、これ以上ない仕上がりかと」


 そう答えるイマナミの目を見て、クニモトは、既にこのチームを未来へと導く覚悟を決めていることを悟った。


 その成長が誇らしい。


 その気持ちと裏腹に、自分の居場所がゆっくりと足元から消えていくような、どうしようもない寂しさを感じていた。込み上げる複雑な感情を、クニモトは一つ、静かな呼吸と共に飲み込んだ。


「そうか」


 彼はただ、それだけを口にした。だが、その一言と、イマナミをまっすぐに見つめる眼差しには、言葉以上の信頼が宿っていた。


「・・・頼んだぞ」


 最後にそう言って肩を叩くのが、師として、そしてこの場所を去りゆく者として、彼にできる全てだった。


 ーーーーーーーーーー


 静かに、しかしあまりにも確実に時は流れ、土曜日がやってきた。

 この日、国本厩舎からは数頭の馬が、最後の週の勝利を目指してターフへと向かった。スタッフたちの間には、「1勝でも多く」という言葉にはならない静かな気迫が満ちていた。


 だが、ターフの神様は感傷に付き合うほど優しくはない。一つ、また一つとレースが終わるたび、厩舎に持ち帰られるのは勝利の報せではなかった。昼過ぎには、この日の国本厩舎の挑戦はすべて終わりを告げ、午後の陽が長く伸び始める頃には、厩舎にはもう祭りの後のような静けさだけが漂っていた。


 ゲートが開けば、そこにあるのは馬と騎手の力量、そして時の運。長年この世界に身を置いてきたクニモトは、その非情なまでの摂理を骨の髄まで知っている。夕暮れの空を眺めながら、彼はまるで息を吐くように呟いた。


「まぁ、競馬に筋書きなんてあるわけないわな」


 その呟きは、誰に聞かせるためでもない、彼自身の長年の経験から滲み出た真実だった。

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