24-1 名伯楽
手術から一ヶ月。冬の柔らかな陽光が降り注ぐ河合牧場に、ノゾミは帰ってきた。
アオキとケイゾーが見守る中、放牧地のゲートが開かれる。ノゾミは一歩、また一歩と慎重に土の感触を確かめるように歩き出す。だが、それも束の間だった。
「ブヒヒヒヒヒィィッ!!」
次の瞬間、空気を切り裂くような甲高い嘶きと共に、その黒い巨体が弾けた。まるで圧縮されたバネが解き放たれたかのように、視界の端を黒い弾丸がかすめていく。
「おい!?ノゾミっ!? 」
思わず叫んだアオキだったが、すぐに自嘲気味に息を吐いた。目の前で躍動する生命力そのもののような走りは、問いかけるまでもなく答えを示している。
「って、そうか。お前はもう、大丈夫なんだな・・・」
アオキはそう言って、思いっきり走るノゾミを見て目を細めた。
「はい。骨はもう問題ありません。傷口も完全に塞がり、感染症の心配もないでしょう」
いつの間にか隣に立っていた神埼が、満足そうに頷く。
「これからは、こうして動くことが何よりのリハビリになります。走れば走るほど、神経は刺激を受け、症状は改善されていきます。最短で来年の秋ごろに復帰できると私は見ています」
「わかりました」
元気に走るノゾミを見て神崎は微笑み、そして改めて2人の方を見た。
「レース復帰への道は続きますが、これでフッカツノネガイ号の右後脚粉砕骨折における私の治療は、全て終了となります。ご協力、ありがとうございました」
そう言って神崎は深く頭を下げた。
「いえいえ!!お礼を言うのは俺たちの方ですよ!!」
「アオキの言う通りだ。今回の手術も前回の手術も誰もができる手術じゃなかった。神崎先生じゃなかったら、今ノゾミがここにいることはなかっただろう」
ケイゾーはそう言って、改めて神崎を見た。
「出会った先生があなたで本当によかった。私たちの最大の幸運はあなたに会えたことだったと思う
ノゾミのことを諦めないでくれて本当にありがとう・・・」
ケイゾーとアオキが深く頭を下げると、神埼は穏やかに微笑んだ。
「私の方こそ、ノゾミに出会えてよかったです。もう足元を見る必要はありません。前だけを見てください」
再びターフへ。その一点だけを見据え、友の復活を支える者たちと、奇跡を成し遂げた女神、そして己の足で未来を掴み取った天才は、ターフへ帰ってくる。
ーーーーーーーーーー
「イマナミ、今日はもう上がれ」
「・・・え?」
サカイの唐突な言葉に、馬房の手入れをしていたイマナミは思わず顔を上げた。
「頑張ってるのはわかるが、流石に今日は集中を欠いてる。上の空だ」
「・・・すいません!」
慌てて謝罪の言葉を口にしたが、サカイの表情に険しさはない。むしろ、その奥には心配の色が滲んでいる。
「無理もないさ。今日は二次試験の発表の日だもんな。文字通り人生の分岐点だ。俺なんぞには、どんなプレッシャーか想像もつかん」
「・・・」
言葉が見つからず、イマナミはただ俯いた。心臓が、普段よりも早く、そして大きく鼓動していた。
「だから、今日はもういい。厩舎のことは俺たちに任せとけ。ただし・・・結果は、ちゃんと教えろよ」
「・・・はい。ありがとうございます」
イマナミは深く頭を下げると、国本厩舎の事務所へと歩き出した。踏みしめる雪が、キュッと悲鳴のような音を立てる。吹き抜ける風が身を凍えさせる、美浦の厳しい冬だった。
「お疲れ様です」
イマナミは国本厩舎の事務所の扉を開ける。
「あら、イマナミくん、お疲れ様。どうしたの、早いじゃない」
事務所の隅で帳簿をつけていた有紗が、顔を上げた。
「サカイさんから、もう上がれと・・・。あの、もしご迷惑でなければ、ここで結果を待たせていただいても?」
イマナミは、自分の声が少し震えているのに気づいた。
「もちろんいいわよ。みんなまだ仕事中だし、気にしないで」
事務の有紗に礼を言い、イマナミは使い古されたソファに深く身を沈めた。
後悔はない、と言えば嘘になる。
面接での受け答えは、本当にあれで良かったのか。もっと熱意を伝えるべきだったのではないか。もっと、面接官に響くような言葉を選べたのではないか・・・。
そんな考えが、頭の中を何度も行きつ戻りつする。まるで、終わりのない迷路に迷い込んだようだ。
だが、最後に自分の魂を偽らず、ありのままの言葉で想いを伝えたことだけは、確信を持って言える。
ふと、窓の外に目をやると、白い雪がしんしんと降り積もっている。その静かで単調な光景を見つめていると、心が少し落ち着くような気がした。
「そういえば今日、ノゾミが放牧が解禁するだったか・・・」
遠い牧場の景色を想像する。怪我から回復し、再び大地を踏みしめているだろうか。元気な嘶きを上げているだろうか。
自分の運命を大きく変えるきっかけとなった、特別な馬。その存在が、今は遠く離れた場所にいるにも関わらず、心の支えとなっている。気にならないわけがなかった。
そんなことを考えながら、時を待つ。時計の針が、異様にゆっくりと進むように感じられた。一分一秒が、まるで永遠のように長く、そして重い。イマナミは何度もスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。その度に、高鳴る胸を抑えることができなかった。
そしてついに、運命の時刻が訪れる。
深呼吸を一つ。震える指で、恐る恐るスマートフォンの画面をタップし、WEBサイトを開いた。
合格者は5人。探すまでもなかった。
「・・・あった」
見つけた瞬間、全身から力が抜け、安堵と喜びが同時に押し寄せてきた。
絞り出すような呟きが、静かな事務所に吸い込まれる。世界が一瞬、無音になったように感じた。そして次の瞬間、抑えきれない熱いものがこみ上げ、イマナミは勢いよく立ち上がった。
一番に、この喜びを伝えるべき人たちのもとへ。
事務所を飛び出し、雪を蹴立てて、イマナミは走り出した。
「サカイさんっ!!」
「イマナミ! 結果は・・・って、聞くまでもねえか、その顔は」
少しだけ緊張した面持ちで振り向いたサカイは、イマナミの表情を見て、くしゃりと顔を綻ばせた。
「合格、おめでとう。イマナミ。・・・いや、イマナミ先生」
「サカイさんのおかげです!!」
「よせよせ。俺は何もしてねえ。お前が自分で選んで、努力して、掴み取ったもんだ。胸を張れ」
「イマナミくーん! おめでとーっ!!」
どこから聞きつけたのか、有紗も駆けつけてくる。それを皮切りに、ぞろぞろと厩舎のスタッフたちが集まってきた。皆、気になって仕事が手につかず、この時間を待っていたのだ。
「うおぉぉ! イマナミ、やったな!!」
「すげぇじゃねえか!!」
「皆さん・・・! 本当に、ありがとうございました!!」
祝福の嵐の中、サカイがぽんとイマナミの肩を叩いた。
「俺たちへの報告も嬉しいが、一番に報告しなきゃならん人がいるだろ?」
「・・・はい。センセーのところに」
「おう、行ってこい! きっと誰よりもソワソワして待ってるはずだ!」
イマナミはもう一度皆に頭を下げると、尊敬する師のもとへと、再び走り出した。
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「・・・はい、ええ。何卒、イマナミをよろしくお願いいたします。・・・はい、失礼します」
事務所のドアを開けると、ちょうど電話を切ったクニモトが、穏やかな顔で振り返った。
「先生、今の電話って・・・」
「おお、イマナミか。まずは、合格おめでとう」
「あ、ご存知でしたか」
「当然だ。一番に確認したさ」
クニモトはスマホをポケットにしまうと、イマナミを手招きした。
「イマナミ。ついてきてくれ」
二人がたどり着いたのは、更衣室の奥にある、クニモト専用のロッカーだった。錆びついた鍵を開けると、中から分厚いファイルを一つ、取り出した。
「先生、これは・・・?」
「これは、俺が調教師になってから、考えたことやったことをまとめたファイルだ。これをお前に託す」
そう言って、ファイルをイマナミに渡した。
恐る恐るファイルを開くと、そこにはびっしりと書き込まれた文字や表、そして何枚もの馬の写真が挟まれていた。厩舎運営のノウハウ、調教パターン、飼葉の配合記録、馬体の見方・・・国本正雄という調教師の、血と汗の結晶そのものだった。
ノゾミに関するページは特に分厚い。だが、イマナミの目を引いたのは、それ以上にページが割かれた、ある項目だった。
「人」について。
長年苦楽を共にしたスタッフ一人ひとりの性格、長所と短所、育成論。付き合いのある馬主たちの嗜好や交渉術。信頼できる獣医師や装蹄師のリストと、その連携のポイント。
メディアとの付き合い方、ファンへの感謝の示し方まで。それは、国本が厩舎を取り巻く「全ての人々」とどう向き合い、どう関係を築いてきたかの、生々しいまでの記録だった。
「センセー・・・こんなものを・・・。馬のことだけではなく、ここまで・・・」
イマナミはファイルをページをめくりながら感嘆の声を上げた。
「馬を育てるのは人だ、イマナミ。どんな名馬がいても、それを扱う人間、支える人間がいなければ、宝の持ち腐れだ」
クニモトは静かに言った。
「良いスタッフを育て、馬主さんや専門家たちと信頼を築く。
人と繋がる。
結局は、それが良い厩舎を作る一番の近道で、一番難しいことでもある。俺のやり方が全て正しいとは思わん。だが、迷った時の道標くらいにはなるだろう」
国本はふと、窓の外に視線を移す。雪は、まだ静かに降り続いていた。
「さっきの電話だがな、懇意にしていただいている馬主さんからだ。お前の合格を伝えたら、是非とも新しい厩舎に期待の若駒を預けたい、と。お前が思う以上に、周りはお前に期待してるんだぞ。それは、お前がこれまで馬だけでなく、人にも真摯に向き合ってきた証拠だ」
「そんな・・・俺なんかに・・・」
「謙遜するな。胸を張れ」
クニモトは向き直ると、その肩を強く叩いた。
「いいか、イマナミ。これからお前が進む道は、俺が歩んだ道より、もっと険しいかもしれん。だがな」
クニモトの目に、力がこもる。
「お前ならできる。このファイルにあるのは、俺の経験の一部だ。これからはお前自身が、多くの人と出会い、学び、お前自身の『人の輪』を築いていくんだ。
そして、いつか・・・俺を超えてみろ。勝ち星だけじゃない。人として、調教師として、全ての面でだ。それが、俺にとって最高の恩返しになる」
師から弟子へ託される、厳しくも愛情に満ちた魂のエール。
ずっしりと重いファイルを、イマナミは胸に抱きしめた。それは、師の努力と信頼、そして未来への期待が込められた、人生の重みだった。
「センセー・・・! ありがとうございます・・・! 俺、必ず・・・必ずセンセーの期待に応えてみせます! そしていつか、センセーを超えてみせます! 馬を育てることでも、人を大切にすることでも・・・!」
込み上げる熱いものを抑えきれず、イマナミは深く、深く頭を下げた。
国本は満足そうに頷き、イマナミの背中をもう一度、今度は優しく叩いた。
「ああ、楽しみにしているぞ。・・・さあ、冷えてきた。事務所に戻って、みんなで祝杯でもあげるか」
「はいっ!」
師弟の間に、もう多くの言葉は必要なかった。
外はまだ厳しい冬景色だったが、イマナミの胸の中には、未来を照らす確かな灯火が、力強く燃え始めていた。




