23-4 試練
冷たい金属の匂いが満ちる手術室の前で、アオキはノゾミの瞳を覗き込んだ。
「ノゾミ、がんばれよ」
その言葉に、ノゾミは艶やかな黒い鼻面をふるわせ、じろりと彼を見返した。不安など微塵も感じさせない、力強い眼差し。
「ヒンッ!!」
任せておけ、とでも言うような元気な嘶きが、無機質な空間に響いた。
「帰ってきたら、とっておきのニンジン用意しといてやるからなー」
ケイゾーはそう明るくノゾミに笑いかけた。
「ブヒィ・・・」
しかし、ケイゾーの言葉にノゾミは、少しだけ不満そうな、低い喉鳴らした。そしてゆらりゆらりとケイゾーに、にじり寄る。
「わかった、わかった。ニンジンじゃなくて、リンゴな。蜜がたっぷり入った、一番美味いやつだ」
「ブヒヒヒッ!」
リンゴと言った途端に喜びに満ちた、弾むような鳴き声。その単純さが、今はたまらなく愛おしい。張り詰めた空気を和ませるようなやり取りに、束の間の笑みがこぼれた。
「――時間となりましたので、手術室に移動します」
獣医師、神埼の凛とした声が、無機質な廊下に響いた。その声には一切の私情が乗っていなかったが、それが逆に、これから始まる戦いの壮絶さを物語っている。場に、清冽な緊張が走った。
「はい。わかりました」
「ブヒッ!」
ケイゾーとアオキが頷く。それに応えるように、ノゾミもまた、神埼を見つめ、短く一声鳴いた。
そしてやがて準備が終わり、ノゾミはゆっくりと手術室に誘導されていく
「 神崎先生あとは頼みました。よろしくお願いします」
ケイゾーとアオキが、揃って深く頭を下げた。その祈るような姿に、神埼は静かに、しかしその瞳の奥に揺るぎない覚悟の炎を宿して言った。
「ええ。――必ず、未来へ繋ぎます」
神崎はそう言って笑みを浮かべた。こうしてバトンは神崎に繋がれた。
「フッカツノネガイ号の全身麻酔、四肢の固定、完了しました」
「ありがとう」
神埼は助手の報告に短く応えると、改めて手術室全体を見渡した。最新鋭の機材が整然と並び、モニターにはノゾミの安定したバイタルサインが緑色の波形を描いている。集まったスタッフは、皆、この無謀とも思える挑戦のために集ったスペシャリストたちだ。彼らの顔には、極度の緊張と、歴史を創るという強い意志が刻まれている。
教科書には、この先の領域は空白として記されている。競走馬の重度の神経損傷からの完全復帰。それは獣医療における、神の領域とされてきた。
だが、関係者たちのひたむきな情熱と、ターフへの復帰を願うノゾミ自身の瞳が、神埼をこの場所へ立たせたのだ。
誰も見たことのない未来を、この手で切り拓く。
神埼は深く息を吸い込むと、メスを手に取った。
「それでは、フッカツノネガイ号のボルト抜去およびエーリッヒ式神経再建手術を開始します。皆さんよろしくお願いします」
その声と共に、動物医療の限界を超える挑戦の幕が、静かに上がった。
ーーーーーーーーーー
その頃、全く別の戦場に、今浪耕平はいた。
しんと静まり返った試験会場の待合室で、イマナミはひとり、深く息を吐いた。
周りを見渡せば、誰もが知る一流ジョッキー、メディアでも名の知れた有名な調教助手たちが、厳しい顔つきで自分の番を待っている。誰もが、輝かしい実績と揺るぎない自信をその身にまとっているように見えた。
それに比べて自分はどうだ。一年前、急遽この道を目指した。何の変哲もない、ただの厩務員。場違いな場所に迷い込んでしまったような感覚に、手のひらがじっとりと汗ばむ。
――お前に、調教師の器があるのか?
―ー身の程を知れ。
心の奥底から、幻聴のような声が囁きかけてくる。思わず俯きかけた時、握りしめた拳の中に、固い感触があった。国本厩舎の皆から手渡されたお守り。その温もりが、冷え切った心に微かな熱を灯す。
『大丈夫』
声には出さず、唇だけでそう呟いた。
「――今浪耕平さん。どうぞお入りください」
呼ばれた名前に、イマナミは弾かれたように顔を上げた。宿していたはずの不安は、いつの間にか霧散していた。代わりにその瞳の奥に燃えていたのは、揺るぎない覚悟の炎。
これからの一時間は、あまりにも短い。だが、間違いなく、彼の人生の全てを懸けた分水嶺となる。
ーーーーーーーーーー
神埼の的確な指示が飛び交っていた。モニターにはノゾミのバイタルサインが安定して表示されている。
「ボルト残り1本です」
「了解です」
オペ看の言葉に頷く神崎。
彼女は手元の一点に全神経を集中させている。かつてノゾミの脚を繋ぎとめた金属製のボルトが、今、その役目を終えようとしていた。
繊細な作業が続き、極度の緊張感の中、ついに最後の一本が、鈍い音を立てて金属トレーに置かれた。
「・・・ボルト全抜去完了。洗浄に入ってください。5分後に神経再建手術するので顕微鏡やマイクロ鉗子などの準備もお願いします。高田先生もよろしくね」
「はい。了解です」
高田は深く頷き、神埼の右腕として、彼女の隣に立った。神埼が右翼なら、高田は左翼。二人が揃って初めて、この前人未到の手術は成立する。
顕微鏡、マイクロ鉗子、そして蜘蛛の糸よりも細い縫合糸。そしてドイツから輸入した特殊な薬品。
神の領域に挑むための武器が、静かに神埼の眼前に揃えられていく。
ーーーーーーーーーー
「・・・というわけで、私は調教の中心に坂路コースを取り入れ、馬の心肺機能と基礎体力の向上を徹底したいと考えております」
「なるほど。今浪さん、よく勉強されていますね」
面接が始まって、およそ四十分が経過していた。競馬に関する知識、馬の管理や調教に関する専門知識、さらには厩舎経営に至るまで、矢継ぎ早に飛んでくる質問に、イマナミはよどみなく答えていた。一年間、寝る間も惜しんで叩き込んだ知識と、現場で培ってきた経験が、彼を支えていた。
「それでは、ここからはあなたの知識ではなく、調教師としての資質、その適性を見せていただきたいと思います」
それまで柔和だった面接官の表情が、わずかに鋭さを帯びる。
「まず、根本的な質問から。なぜ、あなたは調教師になろうと決意したのですか?」
鋭く、それでいてどこか温かみのある視線が、イマナミに注がれる。彼は一度ゆっくりと息を吸い込むと、真っ直ぐに前を向いて、自分の心を解き放つように語り始めた。
「はい。私が長年お世話になってまいりました国本厩舎の国本先生が、来年、定年を迎えられます。その現実が、私にとっての最初の、そして最大のきっかけとなりました。国本厩舎は、私にとってただの職場ではございません。家族のように温かく、社会人として、ホースマンとしての全てを教えていただいた、恩ある場所です」
言葉と共に、厩舎での日々が脳裏に蘇る。
「そして、その厩舎には、私がデビュー前から担当させていただき、共に泣き、共に笑い、成長してきたフッカツノネガイという、私にとって一頭の、特別な馬がいます。彼が不慮の事故でターフを離れ、その復帰を待つ中で、私の想いは確信に変わりました。」
一呼吸置いてイマナミは続けた。
「フッカツノネガイが帰ってくる場所を守りたい。
素晴らしいスタッフと共に、馬たちと真摯に向き合ってきたあの日々こそが、私の誇りです。その全てを守り、継いでいきたい。その一心で、私はここにおります」
イマナミの言葉には、叩き込んだ知識ではない、彼の魂そのものが込められていた。面接官たちは静かに頷き、ペンを走らせている。
「なるほど・・・国本厩舎とあの馬への強い想いが、あなたの原動力なのですね」
「はい。私の全てです」
今浪の表情に、一片の曇りもなかった。
ーーーーーーーーーー
「マイクロ鉗子、変えてください」
「はい」
「ありがとう。あと糸も用意していてね」
神崎は新品の鉗子に顕微鏡を覗き込む。
顕微鏡下のミクロの世界で、無数に引き千切れた神経の断端が、光を失った生命の残骸のように横たわっている。
「高田先生、薬剤を」
「はい」
神埼の静かな指示に、高田が応える。
「滴下します」
彼の指先から薬剤が一滴、光を失った神経の断端へと正確に滴下する。
その直後、神埼のマイクロ鉗子が動く。蜘蛛の糸よりも細い生体縫合糸が、薬剤に潤された断端同士を寸分の狂いもなく引き寄せ、結び合わせる。それはもはや手術というより、髪の毛の断面に彫刻を施すような神業だった。
すると、どうだろう。繋がれたばかりの神経線維が、まるで意思を取り戻したかのように、微かに脈動したのだ。
「・・・次」
だが、感動に浸る暇はない。無数の断線した回路が、まだ眼前に広がっている。この神業を、あと何十回、何百回と繰り返さなければならない。滴る汗がマスクの内側を濡らし、集中力の維持はもはや意志の力だけで成り立っていた。
ーーーーーーーーーー
「ーーイマナミさんの熱意はよく伝わってきました。それでは最後の質問です」
面接官は、イマナミの目を見据えて言った。
「もし、あなたが調教師になった暁には・・・最後は、どんな厩舎を築き上げていきたいとお考えですか?」
それは、イマナミがこの一年、何度も自問自答し、そして心に描き続けてきた未来の姿だった。
「はい」
イマナミは、一度目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。その瞳には、確かな光が宿っている。
「私が目指す厩舎の理想像は、私の師である国本先生の厩舎そのものです。先生が長年培ってこられた、馬一頭一頭への深い愛情と鋭い観察眼。決して妥協しない調教姿勢。そして何よりもスタッフを家族のように大切にし、全員が一丸となって馬を育てるという『クニモトイズム』とも呼ぶべきその全てを、まずはこの身に深く刻み込み、しっかりと受け継ぎたいと考えております」
イマナミは、尊敬する師の姿を思い浮かべるように、一度言葉を区切った。
「その上で、それぞれの馬が持つ個性と能力を最大限に引き出し、心身ともに最高の状態でターフに送り出すこと。
そのために、日々の観察を怠らず、馬との対話を何よりも大切にし、スタッフ全員が情報を共有し、それぞれの専門性を活かしながら、最高のチームワークで馬を支える。そんな厩舎を目指します。
スタッフ一人ひとりが、誇りとやりがいを持って仕事に取り組める環境を作ることが、結果として馬たちの能力を最大限に引き出すことに繋がると信じています」
イマナミは、面接官たちの目を一人ずつ見つめ、はっきりとした口調で言い切った。
「ただ、私……いえ私たちの仕事は、師が築かれたものを受け継ぐだけであってはならない、と。私が目指す最終的な目標は、師である国本正雄を『超える』ことです」
面接室の空気が、一瞬引き締まったように感じられた。
「ほぉー超えるとはどういうことですか?」
面接官の一人が柔らかく質問してくる。しかし、表情はとても鋭かった。イマナミは一息ついて決然と言い放った。
「それは、単に勝ち星の数といった成績だけではありません。馬を見る目、調教技術、厩舎の経営手腕、スタッフを育成する力、そして何よりも調教師として、人としての器。あらゆる面において、いつか国本先生を超えることが、私にとって最大の恩返しであり、揺るがぬ目標であります。そのために、日々研鑽を積み、全身全霊で取り組む所存です」
イマナミの言葉は、淀みなく、そして確固たる決意に満ちていた。その情熱は、面接官たちにも確かに伝わったようだった。
面接官の一人が、静かに頷きながら言った。
「・・・よく分かりました。あなたの馬への愛情、そして厩舎運営への真摯な考え、そしてその大きな目標、確かに受け取りました」
そして、面接官が口を開いた。
「時間となりました。本日はありがとうございました、イマナミさん。結果については、後日改めてご連絡いたします」
「はい。本日は、貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございました!」
イマナミは深く一礼し、緊張感と、そして今度こそはっきりと感じられる手応えを胸に、面接室を後にした。
外に出ると、張り詰めていたものがふっと解け、どっと疲労感が押し寄せてきたが、同時に、自分の全てを出し切ったという清々しさと、未来への強い意志が全身を貫いていた。
ーーーーーーーーーー
「ハァッ・・・ハァッ・・・ハァ・・・」
「先生、お顔の色が・・・。酷い汗です。どうか、一度手を止めて休憩なさってください」
顕微鏡を覗き込む神埼の背中に、高田が切実な声をかけた。尊敬する先輩が、暗闇の中に一本の糸を通し続けるような、常軌を逸した精神力で未知の領域に挑み続けている。その姿は、神々しくすらあった。
「大丈夫・・・。これ以上ノゾミの身体に負担をかけるわけにはいかないわ・・・それより高田先生、集中して」
神埼は答える代わりに、神経の断端を繋ぎ合わせるその一点に、さらに意識を深く潜らせた。髪の毛よりも細い糸が、前例のない術式に則って結ばれていく。
「南さん、吸引」
「はい!」
神埼の指示に、オペ看の女が寸分の狂いもなくわずかな出血を吸引し、視界を良くする
「高田先生薬剤」
「薬剤滴下しました」
「わかったわ」
神埼と高田。二人の神業のような連携が、永劫にも思える時間、繰り返される。人類の獣医療の歴史に、新たな一ページを刻む音が、静かな手術室に響いていた。
時計の針は、とうに夜の七時を回っている。
その時、神埼はふと天井を見上げた。
「・・・この1本で終わります。高田先生、最後の薬品滴下の後、閉創の準備、お願いできますか」
「はい! わかりました!!」
永劫にも思えた時間の果てに、神埼はついに顔を上げた。その声は掠れていたが、歴史をこじ開けた者の、確かな達成感を滲ませていた。




