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23-3 試練

「さて、明日の準備もオッケーだし・・・」


 今日の調教も終えた昼過ぎの国本厩舎の事務所にて。イマナミはカバンの中身の確認を終え、指を折った。カレンダーは11月19日を指している。その隣、明日20日には、大きな赤い丸がつけられ、『ノゾミ手術日』『イマナミ試験日』と書かれている。


「じゃあ、すいません。明日試験なので早めに失礼します!」

「イマナミくん、待って! これ!」


 手渡されたのは、温かみのある布でできた小さなお守りだった。


「国本厩舎のみんなで応援してるから! 頑張ってね!」


 そう言って、有紗はニコリと笑った。

 その笑顔を皮切りに、他のスタッフからも「頑張ってこいよ!!」「やってやれよ!!」「お前なら行ける!!」と力強い激励が次々と飛んでくる。


「皆さん・・・ありがとうございます!俺頑張ります!!」


 こみ上げてくる熱いものをぐっと堪え、深く頭を下げたイマナミに、腕を組んだサカイが声をかけた。


「イマナミ。俺は、激励とか応援は得意じゃない」

「知ってます」


 イマナミの言葉に笑うスタッフたち。


「だが、これだけは言える。お前は調教師になれる実力は身に着けた。明日はそれを出すことだけに集中しろ」

「はい!!」

「そして、最後にこれは俺の個人的な感情だが、」


 サカイは少しズレた眼鏡のブリッジを押し上げ、軽く咳払いをして、そして真っ直ぐにイマナミを見た。


「俺はお前に調教師になってほしい。そしてお前が作り上げた厩舎で働きたい」


 その、サカイらしからぬ言葉に、厩舎が温かい笑いに包まれた。


「そうだぞ!あと数年でオレも定年だけど、お前の厩舎で働きたいと思っているぞ!」

「ちょっとだけ心配だけどねー」

「俺も働きたいです!!」


 思い思いの言葉がイマナミに響く。


「みなさん・・・」


 そう言うスタッフ達を見渡して、イマナミは言葉を詰まらせる。


「サカイの言う通りだ。イマナミ」


 その空気を、静かだが重みのある声が引き締めた。厩舎の長、クニモトだった。


 クニモトは、他のスタッフから一歩前に出た。


「お前はうちに来てから、真面目に、愚直に馬と向き合ってきた。その姿を、俺も、ここにいる全員がずっと見てきた。調教師に必要なのは、小手先の知識や要領の良さじゃない。馬を愛し、人を信じ、そして何より、己のやってきたことを信じ抜く覚悟だ。お前には、それがもう備わっている」


 クニモトの言葉には、揺るぎない確信があった。


「だから、何も心配するな。気負うな。お前はお前のままで、試験官にその覚悟を見せてこい。結果は後からついてくる。俺が保証する。いや俺たち全員が保証する」


 そして、その大きな手で、イマナミの背中をバシンと力強く叩いた。


「行ってこい!」

「はい! 行ってきます!」


 師と、仲間たちの想いを背に、イマナミは未来へと続く暗闇の中へ、確かな一歩を踏み出した。


 ーーーーーーーーーー


 一方、その頃。場所は変わり、最新鋭の設備が整った馬専門の動物医療センターの一室。緊迫した空気が漂う中、神埼はモニターに映し出されたノゾミの右後脚のレントゲン画像や手術の模式図を指し示しながら、アオキとケイゾーに対して、冷静かつ詳細な説明を続けていた。


「まず、以前の手術創に沿って切開し、骨膜まで展開します。骨に埋設されたボルトは、骨組織との癒着が想定されるため、超音波メスで周囲を慎重に剥離し、スクリュー抜去用鉗子で除去します。その後、術野を十分に洗浄し、ここからが神経外科の領域です」


 神崎は、顕微鏡の画像をモニターに大写しにした。


「手術用顕微鏡を導入し、視野を確保します。損傷した神経は周囲の瘢痕組織と癒着しているため、マイクロメスとマイクロセッシを用いて、神経線維を傷つけないよう慎重に剥離します。


 剥離後、傷ついていていない主要神経を保護し、断裂した末梢神経の断端を特殊な技法で活性化させます。特殊な縫合糸で、神経外膜を縫合。ミリ単位以下の精度で、神経線維の走行がねじれないよう吻合し、すべて繋げれば手術終了です」


 それは、神の領域に踏み込むかのような、精密極まる作業の説明だった。アオキは息を詰め、ケイゾーは静かに、しかしその全てを受け止めるように、深く頷いている。


「術中リスクは、先ほど申し上げた通り、出血、偶発的な神経損傷、そして麻酔管理。術後リスクは、主に二点です。第一に、感染症。第二に、神経機能の回復不全。手術が技術的に成功しても、神経がどこまで再接続し機能を取り戻すかは、

 彼の生命力に委ねられる部分が残ります。もちろん、術後の疼痛管理やリハビリテーションは万全の体制で行いますが」


 神崎は説明を終え、二人を真っ直ぐに見据えた。


「これらのリスクが、ゼロになることはありません。全てをご理解いただいた上で、最終的なご同意をいただけますでしょうか」


 静寂が流れた。それは重いものではなく、全ての可能性を理解し、受け入れた者たちだけが共有する、澄み切った静けさだった。

 先に口を開いたのは、ケイゾーだった。彼の声は低く、しかし力強かった。


「……リスクは承知の上だ。全て、先生にお任せする」


 その言葉に、アオキもまた、涙ではなく、確固たる光を宿した瞳で力強く頷いた。


「あいつは、とっくに覚悟を決めています。俺たちも同じです。どうか、よろしくお願いします」

「はい。お任せください。全身全霊で臨みます」


 神崎は深く頭を下げ、一枚の書類をテーブルの中央に差し出した。手術同意書だ。そして、事務的な、しかし重要な確認を付け加えた。


「手術は明朝8時から、約12時間を想定しています。オーナーには、その間、いつでも連絡が取れる状態でお願いできますか」

「承知した」


 ケイゾーは力強く応えると、迷いなくペンを取った。そのペン先が紙に下ろされる、カリ、という小さな音が、静まり返った部屋に響く。インクが、彼の覚悟をその名として刻んでいく。


 その様子を、アオキは祈るように、しかし固い信頼を込めて見つめている。


 ペンが置かれた時、ノゾミの未来、そして多くの人々の夢を乗せた運命の手術は、動かぬ事実となった。部屋を出るアオキとケイゾーの背中には、困難な未来へと、だが確かな希望と共に立ち向かう、二人の男の覚悟が満ちていた。


 ーーーーーーーーーー


 同時刻、動物医療センターの特別な馬房。全ての音が吸い込まれたような静寂の中、一頭の黒毛の馬が、静かに夜空を見上げていた。その瞳には、冬の冷たい星々が映り込んでいる。


「ブルルッ」


 短く鼻を鳴らす。

 彼は、これから自分の身に起こる全てを、理解しているかのようだった。

 瞳に恐怖の色はない。あるのは、かつてターフを支配した王者の、静謐なまでの闘志。その視線は、もはや過去の栄光ではなく、未来の、ただ一点のゴールだけを見据えている。


 ケイゾーたちと誓いあった、あの夜の咆哮。

 アオキと拳を合わせた、あの魂の熱が、まだ蹄の奥に宿っている。


 遠い厩舎で、自分を信じてくれる仲間たちの顔が、浮かぶようだった。


 やがて、ノゾミはゆっくりと視線を落とし、明日、全ての運命が託される自らの右後脚を、トン、と確かめるように地面に打ち付けた。


「案ずるな」と。

 あるいは、己自身に「行ける」と言い聞かせるように。


 静かに息を吐くと、白い息が月光に照らされて、淡く溶けて消えていく。

 それは、一人の戦士が、決戦の朝を静かに待つ、覚悟の息吹だった。


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