23-2 試練
「──以上で合同カンファレンスを終わります。ほかに何か意見がある人はいらっしゃるでしょうか」
進行役の声が、静まり返った大講堂に響く。誰一人として、手を挙げる者はいない。
神崎が提示した術式は、解剖学的にも力学的にも、そして再生医療の見地からも、非の打ち所がなかった。誰もがその理論の完璧さに感嘆し、反論の言葉を見つけられない。まさに、賛成せざるを得ないものだった。
しかし、だからこそ誰もが口を噤んだのだ。その完璧すぎる理論と、生身の馬を相手にする臨床現場との間にある、底なしの深い溝を、プロフェッショナルである彼らは痛いほど理解していたからだ。
「では、フッカツノネガイ号、ボルト除去およびエーリッヒ式神経再建手術の最終カンファレンスを終了します。ありがとうございました」
その言葉を合図に、全国各地から集まった獣医師たちが、堰を切ったようにざわめきながら席を立つ。
「今日のカンファレンス、JRAの理事や、あの大手の牧場長まで来ていたらしいぞ」
「これほどの注目を集める手術、前代未聞だな・・・」
「しかし、あの術式・・・。一歩間違えば・・・。正直、執刀医の腕にすべてを委ねる部分が大きすぎる。それもとんでもない技量が求められる術式だぞ」
「あの神崎先生だから誰も何も言えなかったが、俺なら絶対にやらない」
「執刀医が『神の手』を持つ神崎だからこそだろ。我々凡人には、彼女が見ている頂が、見えんよ」
遠巻きの賞賛と嫉妬が渦巻く中、当の本人は、彼らの声など耳に入らないかのように、カンファレンスで出たわずかな疑義やデータを冷静に見直していた。その肩を、ぽんと叩く者がいる。
「よぉー神崎」
「・・・三崎先生帰ってきたんですか?」
「おぉ。1週間前にな。アメリカから帰ってきた」
そこにいたのは、神崎の恩師であり、日本の獣医外科を牽引してきた三崎その人だった。彼は自販機のコーヒーを二つ買うと、一つを無言で神崎に差し出した。
「また、無茶な手術をしようとしているな」
「無茶・・・でしょうか」
「あぁ。無茶だ」
三崎は資料に目を落としたまま、こともなげに言い切った。
「執刀医がお前じゃなければ、確実に反対されている手術だよ。」
三崎は資料を読みながらそう言い切った。
「勝算は十分にあります。シミュレーションも・・・」
「理論や数字の話をしているんじゃない。確かに獣医師目線で見れば、神崎ほどの腕があれば反対はしない」
三崎は神崎の言葉を遮ると、カバンに資料をしまい、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「だが俺は、お前のかつて指導医として言う。
この手術はやめとけ。お前の積み上げたキャリアが崩れ落ちる危険性がある。」
「・・・っ!?」
「お前がいつも挑んでいるのは、救えぬ命を『救う』奇跡だ。だが今回は違う。一度は奇跡で救われた命を、再び死の淵に立たせる行為だ。
そこで失敗したとき・・・世間からの非難は、お前が思うよりずっと重い」
彼は一歩前に出て、声を潜めた。
「今ならまだ間に合う。なんせ元がこんな術式だ、直前で『万全を期せない』と言ったところで、誰も責めんよ」
その言葉は、神崎の心を抉るように響く。彼女は唇を噛み、握りしめた拳が微かに震えた。
「先生、それでも私は・・・!」
悲鳴にも似た声が、雑踏にかき消されずに三崎の耳に届く。
しかし、三崎はすぐには応えなかった。ただ静かに、射抜くような視線で、かつての教え子を見据えている。神崎の言葉は続かなかった。だが、その瞳だけは決して折れることなく、燃えるような意志の色を宿して、真っ直ぐに師を見つめ返していた。
しばらくの沈黙が、二人の間に流れる。
やがて、三崎の厳しい表情が、ふっと諦めたように、しかしどこか誇らしげに緩んだ。
「・・・お前のそういう目は、昔から変わらんな」
ぽつりと呟くと、彼は緊張を解くように、わざと軽い口調で言った。
「・・・なんてな。年寄りの戯言だ。気に病むな」
三崎はそう言って、会話を打ち切るように彼女に背を向け、雑踏の中へと歩き出す。だが、数歩進んだところで足を止め、振り返らぬまま、確かな声で言った。
「・・・神崎。どんな道を選ぼうと、俺がお前の師であることだけは、変わらん。・・・だから何かあったら連絡してこい」
その背中は、弟子の未来を案じる苦悩と、それでもその才能を信じる深い愛情を、雄弁に物語っていた。
ーーーーーーーーーー
深夜の動物病院。主のいない診察室は静まり返り、自室に戻った神崎を、無数の論文と資料の山が出迎えた。まるで、終わりのない戦場だ。彼女は深く息を吐き出すと、白衣を脱ぎ捨て、洗面所の鏡の前に立った。
蛍光灯に照らし出された自分の顔を見て、思わず自虐的な笑みが漏れた。
「・・・本当に、ひどい顔」
深い隈、こわばった口元。数週間前、「心躍る挑戦」だと高揚していた自分の姿はどこにもない。そこにいるのは、世間という巨大なプレッシャーと、競馬界を背負う重圧に、押し潰されかけている女の顔だった。
デスクに戻っても、彼女の戦いは終わらない。モニターにはノゾミの右後脚の3Dモデルが表示され、その周囲には整形外科、再生医療、そして神経外科に関する国内外の論文が雪崩のように積まれている。
「無謀、なのかしら・・・」
ふと、心の堰が切れたように弱音が口をつく。
顕微鏡下で、髪の毛より細い神経線維を一本一本繋ぎ合わせる・・・成功例もある。シミュレーションも何百回もしてきた。
だが、生きている巨大な競走馬の体内で、それを完璧に再現できる保証はどこにもない。
ましてや、ノゾミはただの馬ではない。その血は、父から、母から、日本競馬の歴史を紡いできた至宝そのものだ。引退後は、その優秀な遺伝子を後世に伝え、未来のターフを創るという、極めて重要な使命を担っている。
この手で未だ未踏の地に踏み込み、もし失敗すれば、ノゾミの 再起不能なダメージを負わせるだけでは済まない。未来へ繋がるはずだった偉大な血統を、自分の判断で永遠に失わせてしまうかもしれないのだ。
そのプレッシャーは、夜が更けるほどに鉛のように重く彼女の肩にのしかかる。淹れたはずのコーヒーはとうに冷え切っていた。
「はぁー。少し気分転換が必要かしら」
息が詰まるような閉塞感に、彼女は一度席を立ち、気分転換に廊下へ出た。
ひんやりとした空気が、火照った頭を少しだけ冷やしてくれる。
「・・・うん?」
静まり返った廊下を漫然と歩いていると、普段なら消えているはずの資料室のドアの隙間から、明かりが漏れているのに気づいた。
(消し忘れ・・・?)
不審に思い、音を立てずにそっとドアを開ける。
そこにいたのは、後輩の高田だった。
彼は、山のように積まれた資料に囲まれ、必死の形相で分厚い専門書にかじりついていた。
「はぁ?つまりどういうことだ?くそ・・・この本もっとちゃんと図式にしといてくれよ・・・」
ぶつぶつの文句を言いながら、専門書にかじりつく高田。壁には神経系の複雑な解剖図が貼られ、手元のノートには、難解なドイツ語の単語を一つ一つ調べたような跡が無数に残っている。高田は唸りながら頭を掻きむしり、それでも食らいつくようにペンを走らせていた。
「高田くん」
静かな声に、高田の肩がびくりと跳ねた。
「せ、先生!お疲れ様です!」
彼は慌てて立ち上がり、椅子を倒しかけた。
「勉強熱心なのは何よりだけど、しっかり睡眠は取るようにしなさい」
神崎の口からこぼれたのは、苦笑混じりの言葉だった。
「いえ!先生の無茶振りで寝不足になるのは、いつものことですから!」
「まったく・・・とにかく無理は禁物よ。あなたが倒れたら、私の助手が一人減ってしまうわ」
軽口に、高田は苦笑いで応じながらも、すぐに真剣な眼差しで神崎を見つめた。
「先生。・・・今日のカンファレンス、お疲れ様でした。でも、先生らしくなかったです」
「らしくない?」
「はい。以前、僕にこの手術の話をしてくださった時の先生は、もっと・・・目が輝いていましたから。誰も解けないパズルに挑むみたいに。でも、今の先生は、何かに怯えているように見えます」
その真っ直ぐすぎる指摘に、神崎は不意を突かれた。自嘲するように、彼女は呟く。
「そうかもしれないわね。この手術がこんなに注目を浴びるなんて考えてなかった。競馬界からそして世間から。
このプレッシャーは、さすがに堪えるわ」
神崎は、あっさりと認めた。しかし、その瞳の奥の光は、決して揺らいではいなかった。
「でもね、高田くん。私は、もうこの手術をすると決めたの。河合オーナーが、アオキさんが、そしてノゾミ自身が、私に全てを託してくれた。
そのバトンを、私は受け取った。・・・ただ、そのあまりの重さに、少しだけ、手が震えているだけよ」
それは、弱さの告白ではなかった。全てを受け止め、そのうえで乗り越えようとしている者だった。
高田は、その言葉に、安易な励ましなどできないことを悟った。彼はただ、畏敬の念を込めて、しかし、いつもの少し飾らない口調で、彼自身の想いを告げた。
「・・・先生。俺、この手術が終わったら、やりたいことがあるんです」
「・・・やりたいこと?」
「はい。競馬場に行って、また走ってるノゾミくんの姿を見たい。イマナミさんたちが仕上げて、レースに出て・・・。
先生が今握ってるバトンは、そういう未来に繋がってるんだなって、そう思ったら、なんだか俺までワクワクしてきちゃって」
高田は少し照れくさそうに笑った。
「先生の手が震えるのは、それだけ重いものを背負っている証拠じゃないですか。でも、そのバトンの先には、俺みたいな凡人でも夢見ちゃうような、とんでもない未来が待ってるんです。そのための震えなら、俺は、最高の震えだと思います」
高田の、あまりにも素朴で、希望に満ちた言葉。
そうだ。自分が背負っているものは、単なる重圧ではない。
この震える手の先には、彼ら全員の、新しい物語の始まりがあるのだ。
「・・・ふっ」
神崎の口から、まるで憑き物が落ちたかのような、穏やかな笑みが漏れた。
「そうね。最高の未来を、この手で繋がないとね」
最悪の展開から回避した未来へ。そして最高の未来へと自分が持っていくのだ。
「先生・・・?」
目を伏せたまま笑みを浮かべる神崎に声を掛ける高田。
「ありがとう、高田くん。あなたのおかげで、覚悟が決まったわ」
彼女は高田に向き直った。その顔にはもう、疲弊の色はなかった。プロフェッショナルとしての、誇り高い輝きが戻っていた。
「さて、私は研究室に戻るわ」
神崎はそう言って、立ち上がる。
「また一つ、教科書を書き換えるわよ。高田くんもしっかりついてきなさい」
「・・・はいっ!」
高田は、いつもの「無茶ぶり」が始まったことを悟り、嬉しそうに、そして力強く頷いた。
神崎は自室に戻る。その足取りは、驚くほど軽かった。
デスクに向かい、彼女は静かに呟いた。
「やってやろうじゃないの」
彼女は呟くと、一瞬の逡巡の後、スマートフォンを手に取った。
履歴から「三崎先生」の名前を探し出し、発信ボタンを押す。数回のコールの後、少し眠そうな、しかし気遣わしげな声が聞こえた。
『・・・どうした、こんな時間に。まさか、手術をやめる気になったか』
その、わざと軽口を叩くような恩師の声に、神崎は静かに、しかしはっきりと答えた。
「いいえ、先生。逆です」
電話の向こうで、三崎が息を呑む気配がした。
「先程は、ご心配をおかけしました。ですが、私の迷いはもうありません。私は、やります。必ず、成功させてみせます」
一瞬の沈黙。そして、電話の向こうから聞こえてきたのは、安堵と、確かな誇りが入り混じった、深みのある声だった。
『・・・そうか。お前らしい判断だな』
三崎の声は、もう心配する保護者のものではなかった。
『ならばもう何も言うまい。ただしやるからには成功させろ。そのための知識と技量そして覚悟がお前にはあるはずだ』
「はい!」
短く、しかし力のこもった返事と共に、神崎は電話を切った。窓の外では、夜の闇が少しずつ白み始めている。決戦の朝が、もうすぐそこまで来ていた。
彼女はもう一度、鏡に映る自分を見た。そこにいたのは、仲間と恩師の想いを背負い、不可能に挑む覚悟を決めた、一人の獣医師の顔だった。




