23-1 試練
風が冬の匂いを運び、木々の葉が最後の抵抗のように枝にしがみついている。そんな季節の変わり目に、一つの決断が下されようとしていた。
その日、診察室の空気は、張り詰めながらも、確かな希望の光に満ちていた。神崎、アオキ、そしてケイゾー。三人の視線が、光を放つモニターに映る、ノゾミの右後脚に注がれている。
「まず、朗報です」
神崎は、あえて平静を装った声で切り出した。彼女が指し示したモニターには、ボルトで固定された箇所が、一本の力強い骨として完全に癒合している様子が鮮明に映し出されていた。
「骨は、完全に癒合しました。強度も、レースの負荷に耐えうるレベルに達している。ボルトを抜くための条件は、完璧に整っています。今が、最高のタイミングです。そしてボルトを抜けば関節の可動域も広がり、より歩様も良くなることが考えられます」
その言葉に、アオキの表情が輝き、ケイゾーも深く頷いた。だが、神崎はすぐさま表情を引き締め、続けた。
「しかし、ご存知の通り、問題はもう一つあります。神経の損傷。この枷を外さない限り、たとえボルトを抜いても、コンマ一秒を争う世界で、ノゾミは本当の意味で復活できません」
部屋に、期待と緊張が入り混じった沈黙が落ちる。
「そして、ボルト除去と神経再建手術。二度の手術は、馬体への負担とリスクを倍加させるだけです。ノゾミの回復力を信じるならば、道は一つしかありません」
神崎は、二人の目を真っ直ぐに見据えた。
「骨が完璧に安定している、この最高のタイミングで、回復を妨げている二つの要因を、同時に取り除く。ボルトを抜き、その場で神経の再構築を行う。これこそが、現時点で考えうる最も合理的で、完全復活への最短ルートです」
「同時手術・・・」
ケイゾーが低い声で呟く。
「勝算はあるのか」
「はい」
神崎は即答した。その瞳には、専門家としての冷静な光が宿っていた。
「最新のシミュレーションでは、ボルト抜去後の力学的安定性を確保しながら、神経再構築を行う術野を確保できることが確認されています。もちろん、リスクはあります。術後の回復力は未知数ですし、長時間にわたる麻酔管理は困難を極めるでしょう。前例のない術式であることに、変わりはありません」
神崎は一度言葉を切り、続けた。
「ですが、リスクを上回る勝算があると、私は考えています。これ以上待てば、骨とボルトが癒着し、抜くだけでも時間を要し、同時手術は困難になっていく。骨が安定し、まだ癒着が起こっていない『今』だからこそ、この最善手に賭ける価値があるのです」
その言葉には、揺るぎない説得力があった。ケイゾーは腕を組み、深く思考に沈む。それは、単なる博打に乗るか否かの判断ではなかった。リスクとリターンを冷静に天秤にかけ、勝利への最善手を見極めんとする、勝負師の眼だった。
「アオキ」
ケイゾーが問う。
「結論は出たか」
ケイゾーの問いにアオキは目を瞑って、息を大きく吸って頷いた。
「ノゾミなら、必ずこのチャンスに応えてくれます」
アオキは、確信を込めて答えた。
「あいつの回復力を、あいつの魂を、俺は誰よりも信じています。最短でターフに帰れるこの道こそ、あいつが一番望む道のはずです」
その言葉が、最後のピースだった。ケイゾーは決断した。
「・・・わかった。やろう」
彼は神崎に向き直り、言った。
「最高のタイミングで、最善の手に賭ける。勝負師として、当然の判断だ。先生、全てをあなたに託す。最高のチームで、ノゾミを頼む」
「お任せください」
神崎は深く、力強く頷いた。
「必ず、ターフへ帰します」
「お願いします」
アオキもまた、深く頭を下げた。
三者の思いが一つとなり、ノゾミの未来を切り拓くための、最も合理的で、そして最も困難な道が、ここに拓かれた。
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「え、ノゾミの手術11月20日ですか?」
イマナミの困った声が厩舎に響き渡る
「いえ、大丈夫です。すいません。はい・・・はい。手術の成功を祈っています。はい。失礼します」
イマナミは携帯の通話を切ってため息をついた。
「はぁーその日俺調教師試験の二次試験じゃないかよ・・・どうして大事な日が被るかね・・・」
厩舎に、イマナミの弱々しい声と、携帯電話を置く乾いた音が響いた。ノゾミの手術日。それは彼の調教師二次試験、その当日だった。
自分の将来を左右する大一番と、厩舎の希望を一身に背負う仲間の大手術。心が二つに引き裂かれるような感覚に、イマナミは頭をガシガシと掻きむしった。
「おいイマナミ、一人で何をぶつぶつ言ってるんだ」
背後から、サカイの呆れたような声が飛んだ。
「サカイさん! 聞いてくださいよ、ノゾミの手術、俺の二次試験と同じ日になっちゃったんですよ!」
藁にもすがる思いで訴えるが、返ってきたのは氷のように冷ややかな言葉だった。
「お前の仕事は試験官の前で己の価値を証明することだ。ノゾミのことは、命を預かるプロたちに任せるしかない。お前が今ここでうろたえて、何が変わる。メスが握れるのか? 麻酔の管理ができるのか?」
「で、でも、心配じゃないですか! もし、あの手術が・・・」
「その日のお前の仕事はそれじゃない、と言っているんだ」
サカイはイマナミの言葉を遮った。
「心配なのはわかる。だがお前が中途半端な気持ちでいることが、一番の裏切りだとは思わんか。命懸けでメスを握る者、そして手術台の上で戦う仲間に対して、何より失礼だ」
正論が、ぐさぐさと突き刺さる。押し黙るイマナミと、厳しい表情のサカイ。その間に、落ち着いた声が割って入った。
「どうした、騒がしい」
厩舎の奥から、クニモトがゆっくりと歩いてきた。
「センセー・・・」
イマナミが事情を説明すると、クニモトは黙って聞き、サカイに視線を移した。
「サカイの言う通りだ。お前が今、全神経を集中させるべきは試験だ」
クニモトは静かに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
「だがな、イマナミ。心配するな、という方が無理な話だ。それだけお前がノゾミを想っている証拠でもある」
クニモトはイマナミの肩に、そっと手を置いた。
「しかし、調教師という仕事はな、時に心を鬼にして、自らの戦場で戦わねばならん時が必ず来る。今回のことが、まさにそうだと思え。ノゾミたちは、彼らの戦場で戦っている。だからお前は、お前の戦場で戦え」
クニモトは静かに、だが真っ直ぐにイマナミを見つめた。
「そして、お前がノゾミの手術が成功した時に帰る場所を作ってやれ」
「・・・そうですね。ノゾミのことは信頼できるケイゾーさんやアオキさん、神崎先生に任せて、俺は俺の仕事をします」
それは誰に言うでもない、自分自身に言い聞かせるような、小さな、しかし確かな声だった。
イマナミの表情にクニモトは満足そうに頷いた。
こうして、二つの戦場の火蓋が切って落とされる運命の日、11月20日が、冬の足音と共に、静かに、だが確実に近づいていた。




