3-2 快進撃
3月の3週目。阪神競馬場第5レース3歳未勝利戦にノゾミの姿はあった。その姿は競馬専門チャンネルで放送されており、アオキは固唾を飲んで見守っていた。
「まったく・・・ケイゾーさんはいいなー。俺も応援しに行きたかった」
アオキは肩を落としながら呟いた。放牧から戻った馬たちの世話を終え、馬房に取り付けられた小さなテレビでノゾミの応援をしている。
ノゾミがいなくなったからと言って、河合牧場で世話する馬がいなくなるわけではない。かつて河合牧場で生産された馬たちも、生まれ故郷であるこの牧場に放牧のために帰ってくる。現在、河合牧場では2頭が放牧されていた。そして、河合牧場の従業員はアオキただ一人。そのため、すべての世話を彼がしなければならなかった,
「お、パドック始まった・・・ってノゾミ何やってんだ」
テレビに映るノゾミの姿に、アオキは眉をひそめた。テレビに映るノゾミの姿は、ある意味ノゾミらしい光景だった。
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「おい、ノゾミ・・・省エネが過ぎるぞ」
ノゾミの厩務員のイマナミは手綱をグイグイ引っ張る。しかし彼はどこ吹く風で、まったく動く気配は無い。
「ブヒー」
他の馬たちは厩務員に引かれて楕円形のルートを歩いている。しかし、ノゾミは違った。彼はルートの中にある、本来なら調教師や関係者がいる芝生の上で、たたずんでいた。つまり、ほとんど歩いていないのだ。
ここまで、すべては順調だった。懸念していた蹄鉄の打ち替えも何の問題もなく、輸送中も大人しいどころか、馬運車に入ってすぐに寝始めるほどのリラックスぶりだった。クニモトとは「心配しすぎだったな」と笑い合ったほどだった。
そして今である。まさか、パドックでノゾミを引くことがこれほど難しいとは。ノゾミは、馬を引かれることを特に嫌がる馬ではなかった。むしろ、進行方向に人間を引っ張るほど、歩くということに対して好意的だったはずだ。
「あのな、ノゾミ。パドックっていうのはお客さんに向けて調子はどうか、どんな馬なのかお披露目の意味もあるんだよ」
「ブヒ!!」
イマナミの説得をノゾミは無視して、その場で細かく足踏みをする。そんなことをする馬を、イマナミは知らない。その光景はまるで、陸上選手が走る前のウォーミングアップのようだった。
周りを見渡すと、心配そうに見ている同僚たち。そして、珍しいことだと面白がっている観客たち。パドック中継のカメラも、物珍しいためか自分の方を向いている。
「なぁーノゾミ。注目されてるぞ」
「ヒーン」
慣れない視線にアタフタしている自分と違って、ノゾミの態度は堂々たるものだ。
「まぁ、お前がその態度だと俺も落ち着くよ」
イマナミは言い、一刻も早くパドックの終了の号令がされることを祈った。
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パドックが終了し、馬場入りが完了する。ゲート前に未勝利戦を走る18頭が集まり、スタートの時を待っていた。
ノゾミの鞍上には三津康成。
「回ってくるだけでいいって言ってたけど、そんなに言うこと聞かない馬だとは思わないんだけどな」
ノゾミの頭をポンポン撫でながら三津はスタートの時を待つ。三津康成は騎手始めて20年の栗東(滋賀)の中堅騎手である。
そのキャリアの中には勿論言うことを聞かない馬も多数いた。しかし、そういう馬たちは馬場に入るときから制御がかなり難しかった。そんな馬たちと比べてみると比べるとどうだろう。馬場入りも騎手の指示に逆らわず、問題なくできたノゾミは、何ら問題のない馬だ、というのが三津の所感だった。
「東京4Rの模様をお届けいたします。実況はラジオNIKKEI新津アナウンサーです」
『阪神5R3歳未勝利戦1600メートル芝。天気は晴れ芝は良。
ゲートインはスムーズです。断然人気の⑱番ハナマンカイ・・・収まりました。
係員離れて・・・
スタートしました!!
スタートを決めたのは③番フッカツノネガイ!その他も出遅れはありません。
③番フッカツノネガイ。どんどんどん差をつけていきます。その差5馬身。いやもう8馬身はあるでしょうか。三津騎手抑えようとしますが、おっと頭を上げてしまっている。どうらやら折り合いはついていません。そして2番手には断然人気⑱番ハナマンカイ・・・』
(なんだよ!!!この馬!!)
三津は必死なだめようとするが、まったく折り合いがつく気配はない。しょうがないので手綱を思いっきり引くが全く意味がない。
「やばいぞこれ・・・」
冷や汗が頬にツーっと流れる。
ゲートインでは、抵抗することなく、すんなりゲートに入って胸を撫で下ろし、スタートを切った瞬間は胸が躍った。それだけノゾミのスタートはよかった。1頭だけゲートを破ってフライングしたかのようなスタート。スタートだけで2馬身は差がついただろう。
しかしその後が問題だった。ノゾミはまったく三津の指示をまったく聞かなかった。どんどんノゾミは他の馬と差をつけて、遂には大逃げと言う形になってしまった。
ある名騎手は言った。勝とうと思ったら、“逃げる”のが1番数字はついてくると。しかし安易に逃げたことで、そのあと我慢が利かなくなって出世しづらくなる。それも競馬界の常識だ。
三津はなんとかノゾミをコントロールしようと試行錯誤するが効果はない。
そうしている内にノゾミは最終コーナーに差し掛かろうとしていた。
『4コーナーを唯一回ったフッカツノネガイ。差は依然として7馬身!!ハナマンカイが虎視眈々と迫ってきている。
粘れるか?東京の直線は長いぞ!!』
(この馬、コーナリングが上手いぞ!!)
三津はノゾミのコーナリングの巧さに舌を巻く。三津は、少しでもノゾミを抑えようとノゾミと格闘していた。それにノゾミは必死に抵抗していて、その光景は走りというより、どっちが主導権を握るかの戦いのように見えた。
鞍上と喧嘩しながら、コーナーをこんなにも綺麗に回れるとは思っていなかった。あと少し内に寄れれば、内ラチに激突する。それくらいのギリギリを攻めていた美しいコーナリングである。
そんなことを制御不能な馬にされる騎手にとってはたまったもんじゃないわけだが・・・・
直線に入った。後ろをチラッと見る。差はおおよそ7馬身程度。スピードは落ちたが、巧みなコーナリングで差は詰まっていない。
「はぁーしゃーない!!このまま勝ち切るか!!」
そう言って三津はノゾミの手綱を緩め、制止をやめた。教育という意味では大失敗だが、ならばせめて勝ち星はとろう。
三津はノゾミを追い出す、それを見て「やっとか!!」という表情をノゾミは浮かべる。差はどんどん詰まっていく。しかし三津には焦りの表情はもう見られなかった。
『フッカツノネガイ流石に疲れたか!どんどん差が詰まる。残り200メートル!!
すでに差は2馬身!!
さぁーやってきたハナマンカイ!!ハナマンカイ!!いや、フッカツノネガイもう一度加速!!
2頭の叩き合い!!
フッカツノネガイ!ハナマンカイ!フッカツノネガイ!ハナマンカイ!!
2頭まったく並んでゴールイン!!
2頭のマッチレースになりました。わずかにフッカツノネガイか!!
1着は③番フッカツノネガイ。2着入線、⑱番ハナマンカイ。3番手は大きく離れて、①番キーエンスか⑤番アラビキかストップモーションでも・・・うーんこれは微妙です。
電光掲示板は、1着は③番フッカツノネガイ。2着⑱番ハナマンカイ。3着4着写真判定。5着⑭番チャバ
お手持ちの勝ち馬投票権は確定までお捨てにならないようお気をつけください。
勝ったのはJRA初参戦の③番フッカツノネガイ。勝ち時計は1:34:3。上がり3F36.7。三津康成は今日2勝目!!』
「はぁはぁはぁ・・・・」
肺が焼けるように熱く、全身から噴き出す汗が、まるで滝のように流れ落ちる。計量室でノゾミから降り立った三津の足は、生まれたばかりの子鹿のように、ガクガクと震えていた。
「三津。すまねぇーな。お疲れ様」
声をかけたのは国本英夫。ノゾミの調教師だ。その表情はとても複雑そうだ。
「いえ・・・こんな馬は久しぶりです。新人の時を思い出しました」
三津はそう答えると、今にも崩れ落ちそうな体を支えるように、壁に手をついた。
「どうだ、三津。次も乗るか?」
クニモトが冗談交じりに言うと、三津は首を横に振った。
「いやいや、勘弁してくださいよ。命何個あっても足りませんよ」
「そうか。未勝利勝ったはいいが、誰か次乗ってくれるか、頭痛いぜ」
クニモトは、ノゾミを撫でながら、困ったよう眉をひそめた。
「でも、センセー。この馬は、ただの暴れ馬じゃない。内に秘めた、とてつもない可能性を感じます。どうか、大切に育ててあげてください」
「あぁ。それはそうだな」
二人は、言葉を交わしながら、ノゾミの未来に思いを馳せていた。
レースに勝った馬と競馬関係者が一緒に記念写真を撮るときに、馬主ケイゾーからアカペコのように謝られたのは余談である。一方のノゾミは写真撮影の際はレース中の凶暴性は鳴りを潜め、ポーズを決めているようにも見えた。
「お前、そんなに頭いいんだったら、もうちょいレース中も言うこと聞いてくれよー」
三津は、ノゾミの首を撫でながら、そう話しかけた。すると、ノゾミはそっぽを向いてしまう。その仕草に、三津は苦笑いを浮かべた。
「まぁ、俺はこれが最後だけど、これからも頑張れよ・・・」
そう言って三津とノゾミのレースは幕を閉じた。
はずだった。
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「って言ってたのに、どうしてこうなった?」
所変わって2週後の京都7R 3歳馬1勝クラス。
三津はノゾミの鞍上にいた。