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21-3 待つ者・共に歩む者

 10月の乾いた空気が、夜明け前の静寂を一層深くしていた。


 広大な河合牧場を包む深い緑は露に濡れ、澄んだ蹄音だけが規則正しく響き渡る。トッ、トッ、と柔らかな土を踏みしめるその音は、何かを確かめるように慎重で、それでいて揺るぎない意志の鼓動を宿していた。


 ノゾミのリハビリが始まって4ヶ月。あの大阪杯から、季節は半周していた。


 アオキに曳かれ、朝の光が差し始めた緑の絨毯へと歩みを進めるノゾミ。


 その脚には痛々しい手術の痕が古い地図のように残り、歩様には専門家だけが気づくであろう微かな硬さが燻っている。並の競馬関係者ならば、同情的な溜息と共に、迷わず「終わり」を宣告するだろう。

 その姿を見るたび、アオキの胸の奥深くで、氷の棘のような不安が疼いた。。


「さあ、ノゾミ、今日も行くか!!」


 アオキは、自らの不安を振り払うように、努めて明るい声を張り上げた。それに答えるかのように、ノゾミは空気を切り裂くような高い声で「ヒンッ!」と鳴く。

 その足取りは、わずか1ヶ月前とは比較にならないほど確かで、まるで約束の地へ向かう巡礼者のように力強い。放牧地に着き、アオキが手綱を緩めた瞬間、ノゾミは解き放たれた矢のように緑の大地へと駆け出していった。


「よっしゃー、行って来い!」

「ヒンッ!!」


 その姿を見送るアオキの心は、喜びと不安がせめぎ合う。

 ふとした瞬間に、あの悪夢のような痛みがぶり返しはしないか。ボルトで繋がれた骨が、躍動する筋肉の力に耐えきれるのか。

 神経は、剃刀の刃の上を歩くように常に張り詰めている。


(本当に・・・本当に、楽しそうに走るな)


 だが、そんな恐怖を塗りつぶすように、目の前の光景がアオキの心を揺さぶった。ノゾミが、ただ純粋に「走る」という生命の歓びを全身で謳歌している。

 事故の後、見る影もなく萎縮していた筋肉が、再びしなやかな躍動を取り戻し、失いかけていた漆黒の毛艶が、朝露を弾いて宝石のようにきらめく。

 そして何より、彼の瞳に宿るのは苦痛の記憶ではなく、未来へ向かう強い光だった。


 不安が消えたわけではない。だが、ノゾミがこれほどまでに望む時間を、もっと近くにいる自分が否定してどうする。アオキは、静かに拳を握りしめた。

 自分は、何があろうとノゾミの一番の味方でいる。

 そう、心に誓ったのだ。


 週に1回訪れる神崎も、その評価は回を追うごとに変化していた。最初は医学的な見地から慎重な姿勢を崩さなかった彼女も、今ではノゾミの驚異的な回復力に、専門家としての強い探求心を隠さない。

 先日も、入念な触診と歩様チェックを終えた後、彼女はカルテから顔を上げてこう言った。


「データが、彼に追いついていません。アオキさん、普通なら考えられない速度で歩様が良化しています。正直、私のこれまでの経験則を超えている。・・・これは、本当にすごい馬ですね」


 その声には、単なる感嘆ではなく、未知の現象に対する獣医師としての興奮がこもっていた。

 トレーニング後のケアの時間。心地よい疲労感と共に、どこか満足げな表情を浮かべるノゾミの体を、アオキは丁寧にマッサージしていく。汗ばんだ首筋に触れ、力強く張りを取り戻した筋肉の感触を確かめる。


「よっしゃー!!明日もこの調子で頑張ろうぜ!!」

「ブヒヒヒヒヒ!!」


 アオキはそう囁くと、ノゾミは応えるように鳴いてみせた。

 厳しい現実は変わらない。不可能への挑戦であることも分かっている。それでも、ノゾミは今日も生きる喜びを全身で示し、アオキはその一番の理解者として、彼の意志を支える。

 風に乗って響く楽しげな蹄の音は、理屈を超えた生命の輝きそのものだった。それは、奇跡への序章のように、朝の牧場に清々しく響き渡っていた。


 ーーーーーーーーーー


 数日後、動物病院の診察室は、深夜になっても煌々と明かりが灯っていた。後輩の獣医師・高田が、呆れたような、しかし心底心配そうな顔でコーヒーのマグカップを二つ手に、神崎の元へやってきた。


「先生、またフッカツノネガイ号のデータですか? 月に何度も牧場まで足を運んで、夜はこうしてデータ分析・・・いくら先生とも言えど、本当に体が持ちませんよ。せめて牧場でのチェックは、私に任せていただけませんか」


 高田の現実的な心配に対し、神崎はモニターに映し出されたノゾミの筋電図の波形から目を離さずに、静かに答えた。


「気持ちはありがたいわ、高田君。でも、これは私がやらなければならないの」


 その声のトーンは普段と変わらず冷静だったが、有無を言わせぬ響きがあった。


「ですが先生、あの症例は・・・。骨折の予後もさることながら、問題は神経へのダメージです。あれだけの損傷です、完全に機能が戻るとは、僕には到底・・・。正直、先生がなぜそこまで固執されるのか・・・」


 その言葉に、神崎はようやく顔を上げ、高田を真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥には、常の冷静さを突き破るほどの、燃えるような強い光が宿っていた。


「あなたは、どう思う? 獣医師として、あらゆる知識と技術を駆使しても、常識的には『不可能』と断じるしかない症例に直面したら」


 声のトーンは普段と変わらず冷静だが、有無を言わせぬ響きが空気を震わせた。高田はなおも食い下がる。


「それは・・・もちろん、最善は尽くします。ですが、どこかで見切りをつけるのも、我々の務めかと・・・」

「そうね。それも、一つの正解よ」


 高田の答えに神崎は静かに頷いた。


「でも、ノゾミは走っている。走ることを諦めず、現にこうして、教科書の記述を、私たちの常識を、一日一日覆そうとしているのよ」


 神崎はゆっくりと言葉を続けた。その声は低く、しかし確信に満ちていた。


「これは単なる治療じゃない。獣医学の限界に対する、私たちの挑戦よ。

 オーナーの狂気ともいえる情熱、彼の帰りを待つ人々の祈り、そして何より、馬自身の走りたいという意志・・・

 その全てが、今、この症例に集まっている。こんなに心躍る挑戦、他の誰にも譲るつもりはないわ」


 高田は、神崎の言葉と、その瞳に宿る静かだが強烈な情熱に気圧され、ただ頷くことしかできなかった。


「それに・・・」と、神崎は別のモニターに表示された、患部の3Dモデルに視線を移した。


「骨が完全に癒着した後の事も考えないといけないしね」

「癒着した後というと・・・ボルトの除去ですか?たしかにリスクありますが、それなら当院でも実績はあります」

「ええ。でも、本当の核心はそこじゃない」


 神崎はモデルを拡大し、骨の周囲を走る、幾筋もの損傷した神経の束を指し示した。


「問題は、これ。砕けた骨片によって断裂、あるいは圧迫された神経を、どうやって再び繋ぐか。どうやって、脳からの指令を、再び脚の末端まで完璧に届かせるかよ」

「・・・小規模な神経縫合ならともかく、これほど広範囲の損傷を再構築するとなると・・・不可能と言わざるをおえません。」

「そう。不可能だと“言われていた”わ・・・最近までね」


 高田は息を呑んだ。彼の脳裏に、数ヶ月前に参加した国際学会の光景がよぎる。


「先生、まさか・・・前のドイツの学会で発表されたばかりの、神経再構築術を・・・? あれはまだ大型動物での臨床例もほとんどない、実験段階の・・・!」


 神崎は、初めて挑戦的な笑みを浮かべた。その目は、遥か先の、誰も見たことのない景色を見据えていた。


「まだ、検討している段階。メスを入れるのは常に最後の手段。特に、前例のない術式ならなおさらよ。

 それに何より、ノゾミ自身の回復力が私の予測を遥かに上回っている。このまま、あの子の生命力だけでどこまで奇跡を見せてくれるか・・・まずはそれを見極めるのが筋だわ」


「でも・・・」神崎は再び高田に視線を戻した。「可能性がゼロでない限り、備えはしておくべきよ」


「しかし、前例が・・・」

「前例がないなら、私たちが最初の症例になるだけよ」

「そりゃー。言うのは簡単ですけど」


 高田は、そう言って、肩をすくめる。彼の頭の中では、術式の膨大なリスクが渦巻いている。


「僕たちは医者であって、博徒じゃない。未確立の術式に賭けるのは・・・」

「大丈夫」


 神崎は高田の言葉を遮った。その声は静かだったが、絶対的な確信がこもっていた。


「勝算のない賭けはしないわ。だから今から勉強と研究を重ねるよ。

 高田君。奇跡というものがあるのなら、この手で起こしてみたいじゃない?」


 神崎を笑みを浮かべながらそういった。


「はぁー・・・」


 高田はもう、降参の溜息しか出なかった。


「まったくこの人は・・・体壊さないでくださいね」


 高田が、その圧倒的な熱量から逃れるように静かに踵を返した。


「高田君」


 背後から、静かだが鋭い声が飛んだ。高田が振り返ると、神崎はモニターから目を離さないまま、言葉を続けた。


「あなたも、関連論文には目を通しておきなさい。いざという時に、話が通じないと困るから」

「え!?俺もですか!?」


 思わぬ命令に体をのけぞらせる高田。


「当然でしょ。どうせあなたが助手になるんだから。」


 高田は、神崎の意図を正確に理解した。恐怖と、それを上回る緊張感が、背筋を駆け上がる。


「・・・了解です」


 絞り出した声は短かったが、了承する高田。

 神崎は、その返事を聞くと、満足したようにかすかに頷いた。そして、それ以上何も言わずに、再びモニターへと向き直る。彼女の指が、再びキーボードの上を激しく踊り始めた。


「はぁー・・・やっぱりすげぇーな」


 目の前の上司は、単なるエース獣医師ではない。自らの全てを懸け、不可能の壁に挑むことに歓びを見出す、孤高の挑戦者なのだ。

 高田は、その背中に畏敬の念を抱きながら、静かに診察室を後にした。

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