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21-2 待つ者・共に歩む者

 鉄の匂いと、アスリートたちの熱気が満ちる騎手用トレーニングジム。その一角、鏡張りの壁の前で、三津は人体の限界を試すかのような深いストレッチを行っていた。流れ落ちる汗が、彼が作り変えた肉体の輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、床のマットに染みを作っていく。


「いい身体になったな、三津」


 その静寂を破ったのは、背後の鏡に映り込んだ、一つの影だった。振り向くと、そこにいたのは、武谷だった。彼はトレーニングウェア姿で、腕を組みながら静かに立っていた。


「武谷さん。ご無沙汰しています」

「ああ。だが、その身体はご無沙汰どころじゃない。まるで別人だ」


 武谷の視線が、鏡の中の三津と、目の前の実像とを行き来し、その変化をミリ単位で計測しているかのようだった。


「筋肉の質がまるで別人だ。特に、下半身と体の芯。以前のお前は、瞬発力に特化した、まさに鋼のような肉体だった。

 だが今はもっと・・・柳のようにしなやかで、持久力のある柔らかい筋肉に変わっている」

「・・・よくわかりますね」

「当たりか」


 そう言って武谷はニヤリと笑い、近くのベンチに腰を下ろした。そして、何気ない口調で、核心を突く。


「どうやらフッカツノネガイは、ようやく動き出したらしいな」

「・・・どこでそれを?」


 まだ公になっていない情報を、こともなげに口にする武谷に、三津は驚きを隠せない。


「この世界は狭い。どこからでも噂は転がってくるものさ」


 武谷はそう言うと、面白がるような目を三津に向けた。


「最近の騎乗も見ているよ。面白いことを始めたみたいだな」

「えぇ。新しいことを始めようと思いまして」


 武谷の言葉に頷く三津。だが、武谷の言葉はこれだけで終わらなかった。


「だが、そのための『代償』が、どれほど高くつくか分かっているんだろうな?」


 その声は、プロとして修羅場をくぐり抜けてきた男の、冷たい厳しさを宿していた。


「その乗り方を完成させるまで、お前は勝てなくなる。ファンは手のひらを返し、馬主と調教師は離れていく。

 それに、その肉体はもう元には戻らん。以前のお前が持っていた、あの剃刀のような瞬発力は失われる。もし新しいスタイルが合わなかった時、お前には何も残らん。最悪の場合・・・たとえノゾミが戻ってきても、お前には声すらかからんかもしれんぞ」


 それは、情け容赦のない、しかし紛れもない現実だった。

 三津はゆっくりと姿勢を解き、滴る汗も拭わず、武谷と真っ直ぐに向き合った。


「はい。すべて、覚悟の上です」

「・・・ほう。そこまで信じられるのか。その新しい乗り方が、以前のお前の乗り方より優れていると」


 武谷の問いに、三津は静かに首を横に振った。


「いえ。正直に言えば・・・分かりません」

「・・・なんだと?」


 予想外の答えに、武谷がわずかに目を見開く。


「俺がやっていることは、ただの独りよがりかもしれない。この乗り方が、以前の乗り方より優れているという保証はどこにもありません。もしかしたら、あいつの力を・・・殺すだけの、ただの改悪かもしれない。どちらが正しいかなんて、俺には分からないんです」

「・・・分からない、だと? 分からないことに、騎手生命の全てを賭けるというのか、お前は」


 武谷の声に、純粋な困惑が滲む。三津は、遠い目をして続けた。


「ええ。フッカツノネガイという馬の、本当の走りを見たくなったからです」

「あの事故のあと・・・・・・脚が砕ける、あの絶望的な状況ですら、あいつはターフを見据えていました。俺は見たんです。その眼の奥にある生命そのものが燃え盛るような、凄まじいまでの『走りへの渇望』を。

 同時に思い知らされた。俺がこれまで引き出してきた力は、あいつの持つ本当の力の、ほんの上澄みに過ぎなかった。あいつの魂の要求に、俺の肉体も技術も、全く追いついていなかったんです」


 三津は一度、言葉を切った。その瞳には、苦悩と、それ以上の決意が宿っていた。


「どちらが勝てるか、どちらが優れているかはわかりません。俺はただ・・・あの日見た、あいつの魂の叫びに、応えたい。ただ、それだけなんです。


 あいつが持つ100パーセントの力を、100パーセント引き出し、完璧にシンクロして、これまで誰も見たことのない走りをする。その可能性があるなら、俺はそっちに賭けたい。ただ、それだけです」


 その言葉を聞いた瞬間、武谷は息を呑んだ。

 三津を突き動かしているのは、感傷や罪悪感ではない。ただ純粋に、一頭の馬の計り知れない可能性を信じ、それに応えるために自分自身を最適化しようとしている、究極のアスリートとしての探求心なのだ


「・・・そうか」


 武谷は、深く、長い息を吐いた。

 その声には、呆れと、嫉妬と、そして最大限の敬意が入り混じっていた。


「三津。ならばもう、俺がとやかく言うことは何もない。答えがお前の中にすらないのなら、進んだ道が答えになるだけだ」


 武谷はそう言って、ベンチから立ち上がり、続けて言った。


「その走りが答えがどんなものになるか、楽しみにさせてもらう。・・・邪魔をしたな」

「お疲れ様です」


 三津は、武谷に頭を下げると、再び鏡に向き直り、何事もなかったかのように自らのトレーニングを再開した。その姿は、一点に極限まで集中する、プロフェッショナルのそれだった。

 その場を立ち去る武谷は、一人ジムを出て、周りで若い騎手たちが勝利という分かりやすい栄光を夢見て汗を流す喧騒を背に、ゆっくりと自分の掌を見つめた。


「・・・・・・ふっ」


 思わず、乾いた笑いが漏れた。


「とんでもない領域に足を踏み入れたな、あの馬鹿は」


 騎手は勝ち負けのさらに先にある、最高のパフォーマンスという名の荒野。そこに挑もうとしている。

 あとは、もう一頭の天才が、どれだけの時間をかけてターフに戻ってくるか。それは半年先か、一年先か、あるいはもっと果てしなく長い道のりになるのかもしれない。

 だが、それでも。

 だいつか来るその日に、再びターフに並び立つあの二人が、一体どんな「答え」を我々に見せてくれるのか。それを想像するだけで、武谷は自らの内に、久しく忘れていた静かで熱い闘志が込み上げてくるのを感じていた。


「ああ、たまらない。まだまだ、引退なんてしていられるかよ」


 自らの戦場に戻るべく、武谷は静かに踵を返した。



 ーーーーーーーーーー


 クニモトに決意を告げ、厩舎全体でのサポート体制が整えられた翌日から、イマナミの日々は新たな局面を迎えていた。担当していた馬たちは宮下と只野に引き継がれ、イマナミは調教師試験の勉強時間を確保しつつ、サカイの下で調教助手としての実践的な経験を積むことになったのだ。


「イマナミ、ただ手綱を握ってるだけじゃダメだ。馬の呼吸、筋肉の動き、耳の向き、全てから情報を読み取れ。特にあの癖馬を担当してたお前なら、細かい変化に気づく目は持ってるはずだ」


 調教中、隣を並走するサカイから鋭い指示が飛ぶ。クニモトの、より大局的な視点での指導とはまた違い、サカイの指導は具体的で実践的だった。


「今日の馬場状態なら、どのラインを通るのがベストか? なぜそう判断した?」

「はい! 内側の水分が多いので、少し外目を・・・」

「理由はそれだけか? 他の馬との兼ね合いは? 馬の脚への負担は計算したか?4コーナーで馬群がどう動くか、お前の頭の中では何パターン見えている?常に二手三手先を読め。想像力で、現実を追い越せ」


 サカイは、イマナミがこれまで培ってきた経験を認めつつも、その上に、調教師として不可欠な技術と思考を徹底的に叩き込んでいく。厳しい言葉の裏側に、不器用な兄が弟弟子を導くような、熱い眼差しが隠れているのをイマナミは感じていた。




「はぁー・・・疲れた」


 調教が終わり、厩舎に太陽の光が差し込み始める頃。ひとり息を吐きながらイマナミは、仲間たちのいる馬房へ向かった。


「お疲れ様です」


 藁の匂いと、馬たちの穏やかな息遣いが満ちる空間で、宮下が振り返った。


「おー!イマナミ、おつかれ!サカイさんにしごかれてるか?勉強時間は取れてるか?こっちの馬のことは心配いらねえぞ」


 ブラッシングの手を休めず、ニカッと笑いかける。


「はい、ありがとうございます!宮下さん、只野さん、皆さんのおかげです」

「気にすんなって。俺たちも昔、先生にそうやって育ててもらったんだからな」


 隣で馬の脚を洗っていた只野も、柔らかな笑顔で応える。

 支えられているなと思う。

 厩舎スタッフとすれ違うと絶対に声をかけてくれる。激励の言葉をくれる。夜、誰もいなくなった厩舎で一人今日一日で学んだことと向き合っていると、厩舎スタッフから差し入れをもらうこともあった。


 チーム全体が、イマナミの挑戦を心から応援してくれている。そのことが、イマナミにとって何よりの力となっていた。


 そして、深夜。厩舎での実践的な学びを終え家に帰っても休みはしない。自室に戻ると、イマナミは再び机に向かう。サカイから指摘された課題、クニモトから時折投げかけられる本質的な問い、それらを反芻しながら、参考書や専門書を開く。

 昼間の疲労と戦いながら、蛍光ペンでラインを引き、ノートに要点を書き込んでいく。実践で学んだことと、そして筆記試験に向けた勉強もしていかなければならない


(きつい・・・でも、一人じゃない)


 睡魔に襲われそうになるたび、イマナミは思う。クニモトの期待、サカイの熱心な指導、そして宮下や只野、佳奈をはじめとするスタッフ皆の支え。その全てが、この険しい道を歩む原動力になっている。


(皆が、応援してくれている。俺の可能性を信じてくれている。それに応えたい。応えなきゃならない)


 壁に貼られた、フッカツノネガイの栗毛の写真を見上げる。あの馬が帰ってくるべき場所を、最高の形で守るために。そして、この温かい「チーム」の信頼に応えるために。

 イマナミは、ペンを強く握り直した。


「よっしゃ!続き!やるか!!」


 忙しくも、確かな手応えを感じられる日々。イマナミの調教師への道は、厩舎全体の温かい後押しを受けて、着実に続いていた。

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