21-1 待つ者・共に歩む者
風によって、乾いた音を立てて一枚のスポーツ新聞を路上に転がっていく。泥に汚れ、隅の破れた紙面には、かつてターフを席巻した漆黒の馬体が印刷されていた。しかし、その上を人々は気にも留めずに通り過ぎ、新たなレースの喧騒へと足を速める。
競馬の世界は、あまりにも流れが速い。
毎週のように生まれるスター候補、G1の栄冠、彗星のごとく現れる新星。その眩い光に、世間の耳目は容赦なく移ろいでいく。
一時はSNSのトレンドを独占したフッカツノネガイ。
あの日、ターフで倒れた彼の名もまた、時代の喧騒に押し流され、遠い記憶の彼方へと追いやられようとしていた。
だが、どれだけ時間が流れ、話題が移ろい、忘れ去られようとも――決して忘れぬ者たちがいた。その漆黒の馬体がもたらした震えるほどの感動と、その魂が放つ不屈の輝きを、今もなお胸の奥で静かな炎のように灯し続ける人々が、確かにいた。
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河合牧場にて、ケイゾーが汗だくになりながら、ノゾミの馬房の寝藁を交換していた。怪我をした脚に負担がかからないよう、通常よりもずっと多くの、そして上質な寝藁を、毎日欠かさず入れ替える。地味で、骨の折れる作業だ。
「よー、ケイゾー! 頼まれてたもん、持ってきてやったぞー」
軽トラックの軽快なエンジン音と共に、野太い声が響いた。声の主は、商店街で八百屋を営む耕作だ。
「おう、耕作、 いつもすまねえな。なかなか牧場から手も離せなくて、本当に助かるよ」
ケイゾーは額の汗を腕で拭いながら、感謝の言葉を述べた。耕作は、ケイゾーに代わって、ノゾミのための特別な飼料を買いつけに行ってくれていたのだ。
「ほらよ、これがオーツ麦な」
「ありがとう。支払いは、また月末に頼む」
「おう。・・・あと、これもだ」
そう言って耕作が荷台から降ろしたのは、頼んだ覚えのない、ずっしりと重い麻袋だった。中からは、甘く瑞々しい香りが漂ってくる。
「ん? これは?」
「見てわかんねえか? りんごとニンジンだよ。ノゾミの好物だったろ?」
麻袋の中には、艶やかな光を放つ、見ただけで極上とわかるリンゴとニンジンが、これでもかと詰め込まれていた。
「ああ、そりゃあ、ありがたいが・・・これも一緒に、月末にまとめて・・・」
「いらねえよ、そんなもん!」
耕作は、ケイゾーの言葉を遮るように、豪快に笑った。
「これはな、街の商店街のみんなからのプレゼントだ。俺のとこだけじゃねえぞ」
「いや、しかし、そういうわけにはいかんだろう・・・」
「いいから受け取っとけって。この街を、あいつがどれだけ元気にさせてくれたと思ってやがる。その、ほんのお礼だ」
耕作はグイグイと麻袋を押し付ける。
「そんなこと言ったって・・・今は牧場見学も全部断ってるし、この街に貢献は、何もできてないんだがな」
ケイゾーは、申し訳なさそうに俯いた。
すると、耕作は、ケイゾーの肩をバンと強く叩いた。
「そういう、目に見えるもんの話をしてるんじゃねえんだよ、ケイゾー」
耕作の目は、いつになく真剣だった。
「あの震災から、この街全体が、ずっとどこか下を向いちまってたじゃねえか。復興だなんだって言ったって、心のどこかでは『行政が、国が、誰かが何とかしてくれる』って、ただ助けを待ってるだけだったんだ。それどころか、『何とかしてくれ』って、自分じゃ動かずに文句ばっかり言ってな。
自分たちで何かを変えよう、もう一度立ち上がろうって気力すら、瓦礫の下に置き忘れてきちまったみたいだった。
そんな時に、お前のとこのノゾミが、あの走りを見せてくれたんだよ」
耕作の声が、熱を帯びる。
「あいつは、誰かに助けてもらうのを待ってたか? 違うだろ。あいつは、ただひたすらに、自分の意志で、自分の力で、前へ前へと走ってた。
その姿を見て、みんな気づかされたんだよ。『ああ、そうだった。俺たちも、いつまでも下を向いて誰かの助けを待ってる場合じゃねえ。自分たちの足で立って、自分たちの力でこの街をもう一度動かさなきゃならねえんだ』ってな。」
「耕作・・・」
ケイゾーは唇を噛み締めた。ありがたい、という言葉だけでは足りなかった。熱い何かが、乾いた喉の奥からせり上がってくる。
「だからよ、これは俺たちからの激励であり、感謝の印だ。こんなもんじゃ、全然足りねえけどな」
耕作は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「・・・ありがとな。本当に、ありがたく受け取らせてもらうよ」
ケイゾーは笑顔で頷いた。
「おうよ!」
耕作は、ニカッと笑うと、軽トラにひらりと乗り込み、エンジンをかけた。そして、窓から顔を出して、力強く言った。
「俺たちは、いつまでも応援してるからな。お前のことも、そして、フッカツノネガイ、ノゾミのこともよ!」
そう言って、耕作は土埃を上げて元気に走り去っていった。
一人残されたケイゾーは、手に残されたリンゴとニンジンの入った袋の、ずっしりとした温かい重みを感じていた。それは、街のみんなの、声なきエールそのものだった。
彼は、袋の中の真っ赤なリンゴを一つ取り出すと、天高く掲げた。
(フッカツノネガイ・・・復活の、願いか)
その名に込められた、二重の意味。怪我からの復活、そして、震災からの復興。その重みを、ケイゾーは今、改めて噛み締めていた。
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絵の具とテレピン油の匂いが満ちる部屋で、少女は一心不乱にキャンバスに向かっていた。外の世界の音は、まるで彼女には届いていない。その瞳に映り、その筆が生み出す世界の中心には、ただ一頭の馬しか存在しなかった。
「里奈。SNSに、ノゾミの牧場での様子が上がってたわよ。・・・元気そうに見える」
母親が、スマートフォンの画面を遠慮がちに見せながら、静かに声をかける。
「・・・うん、知ってる」
里奈と呼ばれた少女は、絵筆の動きを止めぬまま、短く答えた。その目は、キャンバスに塗り重ねた漆黒の馬体に釘付けになっている。彼女が描いているのは、あの運命の日、最後の直線で鬼気迫る形相を見せた大阪杯でのノゾミ。
あの日、あの瞬間は、目を抉られるような悪夢だった。彼の苦悶に満ちた姿が瞼に焼き付き、何度も目を背けた。しかし、時間が経ち、恐る恐る、何度もあのレースを見返すうちに、里奈は気づいたのだ。
(一番、きれいだったのは、あの時だったんだ・・・)
極限まで研ぎ澄まされ、勝利への執念という名の炎だけでその身を燃やし尽くすかのようにターフを駆ける姿。
それは、悲劇として記憶するにはあまりにも美しく、そして神々しいまでの輝きを放っていた。この絵を、いつかノゾミに。それは独りよがりな願いかもしれない。
だが、砕け散った彼の誇りを、もう一度繋ぎ合わせるための、彼女なりの心からの祈りだった。
「その絵が描けたら、河合牧場に、ノゾミに会いに行く? お母さん、ケイゾーさんに連絡を入れてみましょうか?」
「ううん、いい」
里奈は、きっぱりと首を横に振った。その動きには、一片の迷いもない。
「この絵は、ノゾミがターフに戻ってきた時に、渡すって決めてるから」
「ノゾミ・・・本当に、戻ってこられるのかしら・・・」
母親の声に、娘の純粋さを傷つけまいとする躊躇と、隠しきれない不安が滲む。だが、里奈は顔を上げ、母親の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「大丈夫。絶対に戻ってくるよ。だって、ノゾミは走ってる時が一番かっこいいんだもん。ノゾミ自身が、それを一番よく分かってるはずだから」
その表情には、一点の曇りもない、絶対的な確信が宿っていた。
「だから、今は行かない。牧場の人たちも、今はノゾミの治療に集中したいだろうし、私たちファンが見学に行くのは、きっと迷惑になるだけ。だから私は、待つよ」
里奈は一度、力強く絵筆を握りしめ、そして窓の外に広がる、どこまでも高い青空を見上げて、宣言した。
「最高の舞台で、彼が帰ってくるのを。――競馬場で!!




