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19-3 ノゾミの願い

 夜更けの静寂が、再び辺りを支配する頃、四人はアルコールの苦い匂いを纏い、しかしその心はグラスを重ねても少しも晴れぬまま、重い足取りで河合牧場に戻ってきた。酔いは、彼らの胸の奥に深く巣食う絶望を一時的に麻痺させるだけで、決して消し去ってはくれなかった。


「いやー、飲んだ飲んだ・・・ちくしょう、何飲んでも砂を噛むような味しかしねえや。・・・さぁーて、もう無理だ、寝るぞ、俺は寝る!」


 ケイゾーが、わざと大きな声で虚勢を張る。だが、その声は力なく掠れ、誰の耳にもその奥にある深い疲労と諦めが届いていた。


「その前に、ノゾミを馬房に戻しますよ。ケイゾーさん、一体どれだけ飲んだんですか。あぁ、もう、足元がふらついてるじゃないですか・・・しっかりしてください」


 アオキが、呆れたような、それでいて心配そうな声で言った。


「へへ・・・大丈夫だって、アオキ。この俺が、俺がノゾミを・・・うっぷ」


 と言いながらも、その体は大きく揺れ、言葉も途切れがちだった。ケイゾーを家の玄関に座らせると、アオキは立ち上がって言った。


「俺、ノゾミを馬房に戻してきます。いくら骨は大丈夫って神崎先生は言いましたけど、今のあの体で夜通し放牧地ってのは、しんどいと思うので」


 アオキの言葉にクニモトは頷いた。


「そうですね。それがいいでしょう。おいイマナミ、手伝うぞ」

「分かりました」


 クニモトの言葉にイマナミは頷く。

 三人が馬房へ向かおうとした時、不意に玄関に座り込んでいたケイゾーが、むくりと立ち上がった。その動きは、先程までの酩酊が嘘のようにしっかりとしていた。


「・・・いや、俺も行く。ノゾミのことは、・・・俺たち全員で見届けなきゃならんだろう」


その瞳には、酔いとは違う、何か別の、射るような光が揺らめいていた。


「・・・じゃあ、4人で行きましょうか」


アオキは、ケイゾーのその変化に戸惑いながらも、頷いた。


 酔いを無理やり気合で押し込め、四人は夜の牧場へと歩き出す。

 夢と現実の境界が曖昧なまま、月を見上げるとかなり明るい。そして酔いを醒ます夜風が、今日はやけに冷たく肌を刺す。

 ショートカットのために馬房の脇を通り過ぎようとすると、馬房の藁の香りが鼻腔に染み渡る。その扉の蝶番が、キィィ・・・と、まるで悲鳴を上げるように、夜の静寂に長く、不気味に響いた。


(・・・この光景、この音・・・どこかで・・・いや、確かに知っている・・・)


 ケイゾーの脳裏に、不意に過去の記憶が蘇る。


 そしてすぐに理解した。


 そうだ、あの時に、あまりにも、あまりにも似ているのだ。ノゾミの底知れぬ才能を感じ取り、無謀とも思えるダービー挑戦を決意した、あの運命の夜の光景に。

 あの時も、こんな風に月が静かに馬房を照らしていた・・・。




 4人が、まるで何かに導かれるようにして、放牧地にたどり着く。

 静寂と暗黒に包まれたはずの夜の放牧地の奥、その闇の中で、一頭の馬がいた。その馬はまるで内側から蒼白い燐光を発するかのように、神々しいまでの特別なオーラを放っていた。

 月光をその身に浴びて、漆黒のシルエットがぼんやりと、しかし圧倒的な存在感を持って浮かび上がっている。


 あの時のような、驚きの声は出ない。ただ、静かに、まるで自分の心臓の鼓動を確かめるように、その名を呟いた。


「・・・・・・ノゾミ」


 疑う余地もなかった。


 彼の筋肉は、月光を生命の輝きに変えるかのように、しなやかに、そして力強く躍動し、大地を叩くリズムは、まるで古の戦士が戦場へ赴く前の凱歌のように、力強いリズムで大地をしっかりと踏みしめている。

 長く優雅な、しかし今はどこか悲壮な決意を秘めた首は天高く掲げられ、まるで夜空に散らばる無数の星々に、己の不屈を誓うかのように、その双眸は遥か彼方の、誰も見ることのできない一点の未来だけを、焼き尽くさんばかりに見据えていた。


 それは、昼間見た、痛々しく衰えた姿とは全く違う、見る者を畏怖させるほどの生命力に満ち溢れた、神々しいまでの光景だった。まるで、絶望の淵から蘇った不死鳥のように。


 四人は、息を呑むことすら忘れ、まるで金縛りにあったかのようにその場に立ち尽くし、そして、何かに導かれるようにゆっくりとノゾミに近づき、放牧地の扉をそっと開けた。


「よー、ノゾミ。・・・こんな夜更けに、あんまり無茶するなよ。お前の体は、まだ・・・」


 ケイゾーは、努めて穏やかな声でノゾミに話しかける。


「ヒューッ・・・ヒューッ・・・ハァッ・・・」


 ノゾミの呼吸は、荒かった。

 激しく上下する脇腹、全身から立ち昇る湯気。その表情には、尋常ではない、限界まで己を追い込んだ者だけが見せる、鬼気迫る、凄絶なまでの気迫が漲っていた。


 ケイゾーは、そんなノゾミの、まるで内側から燃え盛る炎を宿したかのような瞳を真っ直ぐに見つめ返し、そして、言わなければならない。あまりにも酷な言葉を、一言一言、ゆっくりと紡いだ。


「・・・前にも、あったな。こんなことが。お前が、誰にも知られずに、夜中に一人で走ってたことが。あの時、俺は、お前の可能性を信じた。そして、お前はそれに応えてくれた」


 ケイゾーの声は、夜の静寂に吸い込まれるように、か細く震えていた。


「だがな、ノゾミ。・・・今日は、あの時とは違うんだ。俺は・・・俺たちは、お前に、はっきりと言わきゃいけないことがある。お前の・・・お前の競走馬としての時間は・・・もう、終わりなんだ。

 お前には、これから、その血を次に繋ぐという大切な役割が待っているんだ」


 そう言うケイゾーの声は、万感の思いと、どうしようもない葛藤で、聞くに堪えないほど微かに震えていた。

 その顔は、愛惜と苦渋に歪み、まるで自分自身に刃を突き立てているかのようだった。

 それを、ノゾミはただ黙って、しかしその瞳の奥の炎は少しも揺らぐことなく、全てを理解しているかのように、あるいは全てを拒絶しているかのように聞いていた。


「お前は・・・お前は、俺たちに、本当に十分すぎるほどの夢を、奇跡を見せてくれた。クニモト先生の、何十年という長年の悲願も、お前が叶えてくれた。

 イマナミやアオキを、そして、あの三津騎手をも、一流のホースマンへと成長させてくれた。

 この小さな牧場も、この寂れた田舎町も、お前のおかげで、どれだけ元気をもらったか・・・。お前は、みんなの、俺たちの、希望の光だったんだ。こんな凄い馬を、俺は、後にも先にも知らないだろう」


 ケイゾーは一度言葉を切り、溢れそうになる涙を必死に堪えた。


「だからもう・・・もう、いいんだ。もう、走らなくて良いんだよ、ノゾミ。これ以上、お前を危険な目に遭わせたくない。お前を・・・お前を、もう二度と、失いたくないんだ・・・!!」


 それが、ケイゾーの偽らざる本心であり、そしてそれは、クニモトも、アオキも、イマナミも、心の奥底から、血を吐くような思いで共有している思いだった。



 しかし、ノゾミは、まるでその痛切な言葉を、その悲痛なまでの優しさを、断固として拒絶するかのように、ふいと激しく顔を背けた。その瞳は、怒りに燃えているかのようにも見えた。


そして――大地を揺るがす雷鳴のような蹄音と共に、再び力強く大地を蹴った。

 夜の闇を切り裂く黒い稲妻。フッカツノネガイは、全ての絶望を、全ての諦観を、その蹄で蹴散らすかのように、再び走り出した。

 その姿は、もはや昼間の痛々しさや衰えを微塵も感じさせない、絶対者の風格を漂わせていた。

蹄が地面を蹴り上げるたびに、夜の静寂が力強く震え牧場に響き渡る。


「ノゾミっ・・・! やめろ! もういいんだ!!」


 ケイゾーは思わず、悲痛な叫びを上げた。


 その声は、夜の静けさの中に虚しく吸い込まれていく。

 走るノゾミの瞳は、まるで夜空の全ての星々をその奥に閉じ込めたかのように爛々と、狂おしいほどに輝いていた。そして、その奥には、何ものにも屈しない、決して消えることのない、燃え盛る不滅の炎のような闘志が宿っていた。

 ノゾミの走りは、単なる運動ではなかった。それは、生きることへの渇望そのものであり、運命への挑戦であり、そして、決して諦めることのない未来への、血の滲むような祈りを、その全身全霊で体現しているかのようだった。風を切り裂く音、大地を揺るがす力強い蹄の音。


 それら全てが、フッカツノネガイという名の魂がまだここに生きている、まだ終わることを拒み、まだ戦おうとしている、何よりも雄弁な、そして痛切な証だったのである。


「・・・そうだった。お前は、昔からずっと、ただひたすらに、誰よりも速く、走るのが・・・走ることだけが、好きだったもんな・・・」


 アオキは、堰を切ったように溢れ出す涙を隠そうともせず、嗚咽混じりの声でそう呟いた。その脳裏には、初めて出会った頃から変わらない、ノゾミが見せてきた、ただ純粋な、一点の曇りもない疾走への喜びと渇望が、走馬灯のように鮮やかに蘇っていた。


 他の何よりも、走ることそのものが、この馬の生きる意味なのだと。


「このまま・・・もし、万が一、本当に奇跡的に復帰できたとしても、G1で、あの頃のようにお前が、世界の強豪たちと渡り合って戦えるかどうかは、誰にも分からない。

 いや、神崎先生の言葉を借りれば、おそらくもう・・・もう二度と、あの頂点では戦えないだろう。

 ・・・それでも、それでもお前は、走りたいと、そう言うのか? ノゾミッ!」


 ケイゾーが、魂を振り絞って問いかける。


「ヒンッ!!!! ブルルルルッ!!!!」


 夜空を切り裂き、星々を震わせるかのような、魂の雄叫び。ノゾミは、燃えるような瞳でケイゾーたちを真正面から見据え、全身全霊で、そう答えた。


 その瞳には、一切の迷いも、恐怖も、そして諦めもなかった。「まだだ。俺はまだ、終わっていない。俺はまだ、負けてなどいないのだ」と、その全身が、その魂が、雷鳴のように訴えかけていた。


 そのあまりにも純粋で、あまりにも強靭で、そしてあまりにも悲痛な意志を前にして、四人は、ただ立ち尽くすしかなかった。人間の浅はかな理屈や常識では到底計り知ることのできない、崇高で、絶対的な何かが、そこには確かに存在していた。それは、生命そのものの根源的な輝きだった。



「・・・・・・わかったよ、ノゾミ。もう、何も言うな。お前の気持ちは、痛いほど伝わった」


 永遠とも思えるような、重い、重い沈黙の後、最初に口を開いたのはケイゾーだった。その声は、まるで全ての迷いを振り払い、悟りを開いたかのように、不思議なほど穏やかで、それでいて深く、どこまでも温かい慈愛に満ちた響きを持っていた。


 そして、静かにアオキ、クニモト、イマナミの方を、一人一人の目をしっかりと見て言った。


「皆さん。フッカツノネガイの馬主として、そして何より、あいつの走りに魅入られた者として、皆さんに心からお願いがあります。

 どうか、もう一度、このフッカツノネガイを、あのターフに、あいつが最も輝けるはずの場所に、復帰させてはいただけないでしょうか」


 彼の声は、懇願でありながら、どこか確信に満ちていた。


「医学的には、奇跡を願うしかないのかもしれません。いや、無謀な挑戦だと、きっと誰もが笑うでしょう。

 しかし、ノゾミがあの瞳で諦めない限り、ノゾミがあの走りで、あの場所への復帰を、あれほどまでに強く望む限り、私は、あいつの現役続行という、途方もない夢を、もう一度だけ、本気で目指したいんです。

 どうか、どうかこの馬鹿な男の、最後の、そして最大の夢に、皆さんの力を貸していただけないでしょうか。心から、お願いします!!」


 ケイゾーはそう言って、三人の前で深く、深く頭を下げた。その肩は、抑えきれない熱い感情で震えていた。


「ケイゾーさん、頭を上げてください!」


 アオキが、涙に濡れた顔を上げて、しかし力強い声で言った。


「ノゾミが走ることを何よりも好きだって、そんな当たり前の事を、俺は、忘れてしまっていました。

 俺からもお願いします。ノゾミの現役続行を、この身の全てを賭けて、全力でサポートさせてください!」


 アオキはそう宣言した。


「俺は・・・厩務員として、取り返しのつかないミスを犯したのかもしれません。ノゾミの怪我は、俺の責任だと、今でもそう思っています」


 イマナミは、真っ直ぐな、揺るぎない瞳でそう訴えた。


「もし、ノゾミがまだ走りたいと、あれほどまでに強く願っているのなら、俺は、この命に代えてでも、それを支えたいです!」


 そして、最後にクニモトが、静かに、しかしハッキリとした声で言った。


「・・・分かりました、ケイゾーさん。馬主の意向を最大限に尊重し、それを実現するのが、我々調教師の仕事ですから。

 ですが、それだけじゃありません。私も、この年になって、心の底から、もう一度フッカツノネガイのあの走りが見たくなりました。

 何としてでも、彼を再びターフに立たせる道を探りましょう。どんな困難が待ち受けていようとも」


 四人は、互いの顔を見合わせ、力強く、そして深く頷きあった。その瞳には、同じ熱い決意の炎が燃え盛っていた。


 ケイゾーは、再びノゾミの方にゆっくりと向き直って、万感の思いを込めて、そして未来への確かな希望を込めて言った。


「お前は、本当に・・・本当に、俺たちに数えきれないほどのものを与えてくれた。夢を、希望を、そして、決して諦めないことの尊さを。


 だからもう、俺たちが、お前に何かを背負わせるのは、もうやめにしよう。これからは、誰のためでもない。ファンのためでも、俺たちのためでもない。


 ただ、お前自身の魂が、その心の奥底から叫ぶままに、お前が望む限り、お前の炎が燃え尽きるまで、思うがままに走りきってくれ。


 それが、どんな結果になろうとも、俺たちは、何があろうとも、お前を最後まで見届ける。それが、俺たちにできる、唯一のことだ」


 ケイゾーはそう言って、一呼吸深く吸い込み、そして、夜空に向かって、あのダービー挑戦を決めた時と同じ、いや、それ以上の熱い思いを込めて、魂の底から高らかに宣言した。


「一緒に走るぞ、ノゾミ!! そして、必ず勝つぞ!!!!」

「ヒヒィィィィィィンッ!!!!!」


 フッカツノネガイは、天に届け、いや、天を突き抜けろとばかりに、もう一度、今度はまるで幼子のような純粋な喜びを込めて、高らかに、そしてどこまでも高らかにいなないた。


 それは、自らの運命を、その不屈の意志で再びその手に掴み取り、そして仲間たちと共に未来を切り拓くことを許された、一頭の孤高の魂の、新たな夜明けを告げる、歓喜の咆哮だった。

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