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19-2 ノゾミの願い

 神崎は、ノゾミの右後脚をレントゲンや触診など様々な角度から慎重に検査し終えると、河合牧場の事務所でケイゾー、アオキ、そして美浦から駆けつけたクニモトとイマナミの4人に向き直った。

 その表情は、プロフェッショナルとしての冷静さを保ちつつも、どこか厳粛な色を帯びていた。


「・・・骨の癒合状態、炎症反応、腱の回復具合、これらを総合的に判断し、ひとまず馬房から出しての放牧は問題ないでしょう」


 凛とした、しかしどこか硬質な彼女の声に、まずアオキが「よかった・・・本当に・・・」と、か細い安堵の声を漏らした。ケイゾーもこわばっていた表情をわずかに緩め、深く頷く。

 クニモトとイマナミも、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだかのように、かすかに表情を和らげた。それは、長く続いた嵐の中、ほんの一瞬だけ雲間から差し込んだ陽光のような、はかない安堵だった。


 しかし、神崎はそこで言葉を切らなかった。彼女の声は、先程よりもさらに一段と低く、そして重く、まるで宣告を下すかのように静まり返った事務所に響いた。


「ですが、残念ながら神経組織の損傷が完治しませんでした。

 これが意味するところは・・・現役競走馬として、以前のようなトップパフォーマンスを取り戻すことは極めて難しい、ということです。仮に奇跡的にターフに戻れたとしても、G1レベルの走り、あのフッカツノネガイの走りを見せることは・・・おそらく。

 獣医師として、非常に心苦しいのですが、競走能力は、喪失したと判断せざるを得ません」


 分かっていた。誰もが薄々、いや、はっきりと理解していたはずだった。

 だが、改めて専門家である彼女の口から、揺るぎない事実として「競走能力喪失」という残酷な宣告を突きつけられ、事務所の空気はまるで鉛を流し込まれたかのように重く、深く沈み込んだ。

 四人の顔から表情というものが削げ落ち、まるで時間が凍り付いたかのように、誰もが言葉を失う。


 ノゾミの、あの誰もが夢見た輝かしい未来が、美しいガラス細工のように目の前で粉々に砕け散り、音を立てて崩れ落ちたかのような、底なしの絶望感が彼らを容赦なく包み込んだ。


「・・・それでは、何かご不明な点、ご心配なことがありましたら、遠慮なくいつでもお電話ください。私も、できる限りのサポートはさせていただきます。・・・それでは、失礼いたします」


 神崎は、診断結果に関する事務的な内容をケイゾーやクニモトに、そして放牧する際の細かな注意点をアオキに、丁寧に伝えた後に、深く一礼し、重苦しい雰囲気の事務所を静かに後にした。


 パタン、と閉まったドアの音が、まるで彼らの心に打ち付けられた楔のように、いつまでも重く響いた。


「はぁー・・・」


 長い検査の緊張と、非情な宣告。イマナミは肩の力が抜けたように、ソファに深く身を沈めた。クニモトは窓の外を眺めたまま動かず、アオキは俯いて唇を噛み締めている。


「・・・と、とりあえず、放牧できるまで回復したのは、想定通りというか・・・いや、本当に、良かった! なあ?」


 息苦しいほどの沈黙を破ったのはケイゾーだった。無理に絞り出した明るい声が、空虚に、そして痛々しく響く。


「・・・そう、ですね。ノゾミが、広い空の下にまた出られるんですから・・・。それだけでも、今は・・・」


 アオキは、かろうじて顔を上げ、震える声で応じた。無理に作った笑顔は、泣き顔よりも痛々しい。


「・・・とりあえず、先生の許可も出たことだし、ノゾミを放牧に出しませんか? きっと、あいつもそれを待ってますよ」


 イマナミが、か細い声でそう提案すると、「・・・そうだな」と、四人はまるで重い枷を引きずるように、ゆっくりと腰を上げた。


 ーーーーーーーーーー


 4人が、馬房の前に立つと、ノゾミは彼らの纏う重苦しい気配を敏感に察したのか、あるいは待ちくたびれたのか、静かに、しかしどこか咎めるように力強く鼻を鳴らした。


「よー、ノゾミ。待ちくたびれたか? いよいよ外だぞ。お前の大好きな、広い場所だ」


 ケイゾーが声をかけると、「ヒンッ」と、少しだけ焦れたような、しかしどこか誇らしげな声が返ってきた。


「ノゾミ・・・こんなに・・・こんなに馬体が、萎んじまって・・・」


 怪我をして以来、初めてノゾミの全身を陽光の下で間近に見たイマナミは、思わず息を呑み、言葉を失った。


「ブヒッ。フンッ」


 ノゾミは、「なんだよ、失礼なやつだな」とでも言いたげに、不機嫌そうに鼻を鳴らし、前掻きをしてイマナミを威嚇するように軽く後脚を上げる仕草を見せた。


「わ、悪い悪い!!ノゾミ、落ち着けって!!お前は変わらず格好いいよ!」


 イマナミは慌てて両手を上げ、全力でノゾミに詫びを入れる。

 そんな、少しも変わらぬその気位の高さと、ふとした瞬間に見せる愛嬌に、四人の強張っていた口元が、ほんのわずかに、本当にわずかに緩んだ。


「さて、行きますか。ノゾミ」


 アオキとイマナミが、細心の注意を払いながら手綱を取り、ゆっくりと、本当にゆっくりと放牧地へと歩き始めた。


 いつもなら、彼らが小走りにならなければ追いつけないほどの、弾むような、大地を掴んで進む力強い歩様を見せるノゾミが、今は一歩一歩、まるで初めて地面を踏む子馬のように確かめるように、ゆっくりと進む。

 その歩幅は痛々しいほどに狭く、以前の、見る者を魅了した躍動感はどこにもなかった。


 ケイゾーは、そんな姿を見て、ふと呟いた。


「・・・なんか、あいつが震災からウチに戻ってきた直後の・・・一昨年のノゾミを思い出すな。あの頃も、こんな風に頼りなかったよな」


「えー?・・・まあ、でも・・・確かに、そう言われれば・・・あの頃も、ガリガリだったもんなぁ・・・」


 反論しようとしたアオキも、改めてノゾミの変わり果てた、しかしどこか懐かしい馬体を見つめ、ケイゾーの言葉に頷かざるを得なかった。


 そう、今のノゾミの姿は、まるでデビュー前の、まだ磨かれる前の原石だった頃に逆戻りしてしまったかのようだった。

 圧倒的な力強さとしなやかさを兼ね備えていたはずの筋肉は、今は見る者の心を抉るほどに頼りなく、芸術的とまで称賛された漆黒の馬体は、その内なる輝きを失ってしまって、くすんで見えた。

 唯一、あの頃と違うのは、痛々しく毛の生え揃わない右後脚に、メスを入れた生々しい傷跡が刻まれていることだけだった。


「本当に、あの頃を思い出しますわ。あの時は四肢も細くて、ちゃんと走れるようになるのか、不安になったもんです」


 クニモトもまた、遠い目をして静かに頷いた。その脳裏には、まだ幼いノゾミの姿が去来しているのだろう。


「えっ? セ、センセー・・・まさか、この状態のノゾミを見て、引き取るって決めたんですか・・・?」


 競走馬として一目置かれているノゾミしか知らなかった、イマナミは驚きの声を上げる。

 その純粋な驚きに、クニモトはほんの少しだけ口元を緩め、悪戯っぽく頷いてみせた。


「見る目あるだろ?」


 クニモトはそう言って、力なくではあったが、しかし誇らしげに親指を突き立てた。

 そんな、どこか現実逃避のような思い出話に、ほんの少しだけ場の重苦しい空気が和らいだ頃、一行は広大な放牧地に辿り着いた。


 ケイゾーとクニモトが放牧地の扉を開け、アオキとイマナミはノゾミを優しく中に導く。ノゾミは、一瞬新しい環境に戸惑うような素振りを見せたが、すぐに青草の匂いに誘われるように、ゆっくりと足を踏み入れた。


 アオキとイマナミがノゾミの手綱を離す。


「ヒン!!」


 ノゾミは、まずその場で静かに周囲を見渡し、そして、自分の脚の状態を確かめるかのように、ゆっくりと一歩を踏み出した。そして、並足から、徐々に速足へ。


「・・・動きは、悪くないな」


 クニモトは、鋭い目でノゾミの一挙手一投足を固唾を飲んで観察しながら、絞り出すように言った。

 放牧も問題ないことを確認したケイゾーは、それでもなお重い心を引きずりながら、クニモトにノゾミの今後について、切り出さねばならない言葉を話し始めた。


「すいません、センセー。今後のことなんですが・・・引退式の話とか、できるだけ早くに段取りをしないといけないと・・・」

「ケイゾーさん」


 クニモトは、ケイゾーの苦渋に満ちた言葉を、静かに、しかしはっきりと遮った。


「今後の話は、明日からにしましょう。今日は、ノゾミがこうして、自分の脚で再び牧場の土を踏めたんです。

 どんな形であれ、ここまで回復してくれた。今日だけは、そのことを素直に喜びましょうや」

「・・・・・・そうですね。センセーの言う通りだ」


 クニモトの、絞り出すような、しかし心の底からの温かい言葉に、ケイゾーの強張っていた表情がふっと和らぎ、諦観と、それでも消えることのない深い愛情が入り混じったような、複雑な、しかし穏やかな笑みが浮かべた。

 4人は、ノゾミのささやかな、しかし彼らにとっては奇跡にも等しい大きな一歩を祝うため、そして、それぞれの胸に渦巻き、言葉にできない様々な思いを、せめて今宵一夜だけでも酒で洗い流すために、ネオンが灯り始めた夜の街へと繰り出した。


 その足取りは、来た時よりも少しだけ軽くなっていたが、それでもまだ、鉛のような重さが纏わりついていた。

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