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19-1 ノゾミの願い

 あの悪夢の事故から、季節はひと月巡った。


 河合牧場は、初夏の気配を纏い始めた木々の緑とは裏腹に、どこか張り詰めたような静けさと、それでいて独特の慌ただしさの中にあった。

 理由はただ一つ。絶対王者フッカツノネガイ――いや、ノゾミが、今日この場所へ、長い闘いを経て帰ってくるからだ。


「いいか、アオキ。神崎先生からの指示は、まず最初の1ヶ月、馬房内で絶対安静。運動はやっても1日30分の引き運動のみだ。走るなよ。絶対に、だぞ」


 ケイゾーは牧場の主として普段より強めに注意点を確認した。


「はい、分かっています。万全を期します」


 その言葉にアオキも、緊張した面持ちで力強く頷く。


「それにしても、もう一ヶ月か・・・本当に、嵐のような1ヶ月だったな」


 ケイゾーは、遠い目をして呟き、この怒涛の日々を脳裏に蘇らせる。目の下に刻まれた隈が、その苦闘を物語っていた。


「事務やってるミクさんが一番大変そうでしたね。なんせ一日中電話鳴り響いているんですもん」


 ノゾミがレース中に重度の骨折を負ったという衝撃的なニュースは、瞬く間に日本中を駆け巡った。SNSはノゾミを心配する声で溢れ、牧場の電話は昼夜を問わず鳴り続けた。中には、「治療費の足しに」と義援金を送りたいと申し出る熱心なファンまでいたほどだ。


「でも、そう言えば最近電話落ち着いていますね」

「うーんまぁ、仕方ないんじゃないかー?」


 ケイゾーは、どこか諦観を滲ませた声で言った。


「競馬の話題は、毎週新しいスターが生まれ、そして忘れられていく。あと1ヶ月もすれば、ノゾミのことも、大部分の人間は記憶の片隅に追いやるかもしれんな」

「・・・そんなもの、なんでしょうかね」


 アオキの声には、割り切れない寂しさが滲んでいた。

 二人が言葉少なにノゾミの帰りを待っていると、一台の馬運車が、牧場の入り口からゆっくりと姿を現した。静かに進み、所定の位置で停止する。運転手がケイゾーに深々と頭を下げた後、馬運車の後部扉に手をかけた。


 観音開きの扉が、ギィ、と錆びた蝶番が軋むような重々しい音を立てて開かれる。息を詰めるような静寂が、その場の空気を支配した。


 すると、薄暗い馬運車の奥に、息を潜めるように静かに佇む、漆黒のシルエットが浮かび上がった。月光を吸い込んだ夜の湖面のような、深い黒。


 ノゾミである。


「よぉーノゾミ。長旅、疲れただろう」


 ケイゾーは鼻を撫でながらノゾミに話しかける。ノゾミは僅かに耳を動かし、そして、か細く、しかし確かに鼻を鳴らした。


「ブヒッ・・・」


 それは、いつもの覇気に満ちたものではなく、痛みに耐え、長い輸送に疲弊した様子だった。


「ノゾミっ!」


 アオキは、駆け寄りそうな衝動を全身で抑えつけ、ゆっくりと近づいた笑顔で頷いた。かつての、鋼の彫刻と見紛うばかりだった大阪杯での馬体とは似ても似つかないほど、ノゾミの体は削げ落ち、肋骨の形すら微かに見て取れる。

 それでも、アオキは震える声と精一杯の笑顔で一人怪我に打ち勝ったノゾミを称えた。


「よく・・・本当によく帰ってきた!」

「ヒンッ!」


 ノゾミは、アオキの心からの歓迎に応えるように、しっかりした声で鳴いた。

 アオキはゆっくりとノゾミに近づき、その手綱を、優しく、しかし確かに握る。そして、一歩一歩、ノゾミの呼吸に合わせて慎重に、河合牧場の柔らかな土の上へと導いた。


「ノゾミ、いいか、最初の1ヶ月は絶対に無理するなよ。運動はダメだ。分かったな。」

「ヒンヒンッ」


 アオキが、まるで幼子に言い聞かせるように囁くと、ノゾミは「はいはい」と言わんばかりに返事をする。

 歩様は、幸いにも目に見えて引きずるようなことはない。だが、アオキもケイゾーも、その僅かな脚の運びのぎこちなさ、痛みを庇うための不自然なバランスなことに気づき眉をひそめた。

 用意された、普段よりも広く、そして柔らかい寝藁が敷き詰められた馬房に入れられたノゾミは、横になる


「餌持ってくるから、それまでゆっくり休んでろよ」

「ヒンッ」


 ノゾミは、アオキの言葉に応えるように、尻尾を小さく、しかし確かに左右に振った。


「・・・思った以上に、落ち着いていて・・・元気そうで、本当に安心しました」


 馬房の扉を閉めたアオキが、ケイゾーに振り返って、絞り出すように言った。


「ああ。神崎先生も驚いていたよ。ノゾミの持っている生命力と回復力は、まさに驚異的だと。」

「そうですか・・・

 あーあ・・・なんか、ノゾミの顔を見たら、どっと疲れが出ました。でも、良かった・・・本当に、良かった・・・」


 そう言うと、アオキはまるで魂が抜けたように、その場にゆっくりとうずくまった。ケイゾーが黙って見守っていると、アオキの肩が微かに震えているのが見えた。


「アオキも、この一ヶ月よく頑張ったな・・・」


 ケイゾーはそれ以上言葉を続けず、ただ黙ってアオキの肩に、労るようにポンと手を置いた。

 初夏の風が、二人の間をそっと吹き抜けていった。


 ーーーーーーーーーーーーー


 あるG2レースの日の調整ルーム。昼休憩に入り、騎手たちが少しだけ緊張を解き、思い思いに過ごしている時間だった。

 栗東のリーディングジョッキーである戸中啓太郎は、自販機で買った缶コーヒーを啜りながら、レースVTRをぼんやりと眺めていた。


「戸中さん、ちょっといいスか?」


 声をかけてきたのは、デビュー三年目の若手騎手だった。まだあどけなさの残る顔に、少しだけ遠慮がちな表情を浮かべている。


「ん? ああ、どうした?」


 戸中は気さくに応じた。


「あの・・・三津さんなんですけど、最近なんか、雰囲気変わったっていうか・・・やっぱり、フッカツノネガイの事故のこと、引きずってるんスかね? 成績も、前みたいにガンガン勝ってる感じじゃないいし・・・」


 若手騎手は、周囲を気にするように声を潜めながら尋ねた。

 戸中は、缶コーヒーから口を離し、ふう、と息を吐いた。


「三津、か。まあ、そうだな・・・変わったと言えば、変わったな」

「やっぱり、そうなんですね。あれだけの馬で、あんなことになっちゃったら・・・一流の騎手でも、さすがに落ち込むもんなんスかね・・・」

「いや」


 戸中は、若手騎手の言葉を静かに遮った。


「落ち込んでるのとは、少し違うと思うぞ」

「え、違うんスか?」


 若手騎手は戸中の意外な答えに目を丸くした。


「ああ。アイツは誰よりも挫折というものの味を、その苦さを知っている男だ。こんなことで簡単に折れるようなヤワな男じゃない」


 戸中は、レースVTRの三津を指差して言った。


「あれはな・・・もっと深く、もっと苦しい場所で、自分と戦ってるんだよ。より強く、より確かになるために、自分の騎乗スタイルを、それこそゼロから見直そうとしてる。俺にはそう見えるね」

「ゼロから・・・ですか? あの三津さんが? マジっスか・・・すごいな・・・」


 若手騎手は、信じられないというように目を見開いた。日本競馬を代表するトップジョッキーが、自身の築き上げてきたものを一度壊し、再構築しようとしている。その意味の重さと困難さは、若手騎手にも想像がついた。それは、例えるなら、熟練の剣士が己の剣を折り、再び打ち直すようなものだ。


「ああ、本当だよ。だから、今のあいつは、ある意味一番怖いかもしれん」


 戸中は、どこか面白がるような、それでいてライバルとしての敬意を込めた口調で言った。


「巨大な壁に真正面からぶち当たって、血反吐を吐くようにもがき苦しんで、それでも何かを掴み取ろうとしている。アイツはそうやって、まるで不死鳥が灰の中から蘇るように、何度も絶望の淵から這い上がり、その度にひと回りもふた回りも大きく、そして強く成長してきた。

 正直、俺もうかうかしてられないって、本気で背筋が寒くなる思いだよ」


 戸中の言葉には、単なる先輩騎手への評価だけでなく、同じ勝負の世界に生きる者としての、静かで熱い闘志が確かに感じられた。


 その頃、調整ルームの片隅。他の騎手たちの喧騒から少し離れた場所で、三津は一人、次の騎乗レースに向けて静かに準備を進めていた。

 その雰囲気はどこか近寄りがたいほどの集中力を漂わせている。顔には微かな疲労の色が見えるものの、その双眸は、深く、そして揺るぎない光を湛えていた。


 彼は黙々とプロテクターの紐を締め、ヘルメットを手に取る。脳裏をよぎるのは、今も鮮明に残る、あの日のノゾミの悲痛な姿と、砕け散ったガラスのような甲高い骨折の音。そして、何もできなかった自分の無力さ。


(・・・まだ、何も諦めちゃいない。終わっていない。俺も、そしてノゾミもな)


 心の中で呟く三津。

 失った信頼、周囲から囁かれる心無い憶測や同情。そして何よりも、守れなかった、あの絶対的な信頼を寄せてくれたパートナーへの、償いきれないほどの罪悪感。それら全てをその細い肩に、まるで鉛の十字架のように背負い、それでも彼はターフに立ち続けなければならない。いや、心の底から、魂の底から、立ち続けたいのだ。


 ノゾミは、必ず帰ってくる。奇跡でも何でもなく、あいつは必ず。


 新馬戦から、ずっと、その背に揺られ、あの絶望的な瞬間まで、この地球上で誰よりも近くにいた自分だからこそわかる。


 あの瞬間のノゾミの姿が、瞼の裏に焼き付いて、決して離れない。


 脚が砕ける激痛に苦悶の表情を浮かべながらも、それでもなお、前を、ターフを見つめていたあのノゾミを。

 その瞳の奥に、消えることなく、いや、むしろより一層激しく燃え盛っていた、純粋で、獰猛で、そしてどうしようもなく美しい、ただひたすらに走ることへの渇望の炎を。それは、絶望という名の暗黒の深淵の中でもなお、燦然と輝きを失わない、生命そのものの、痛切なまでの叫びだった。


「ノゾミ。俺はもっと強くなるぞ」


 三津はそう呟き、ヘルメットをしっかりと被った。そして、傍らに置いてあった愛用のステッキを手に取る。


 三津は、その革の感触を確かめるように、一度、二度と強く握りしめた。そして、もう一度、今度は全ての覚悟と、未来への祈りを込めるように、力強く、ステッキを握り直した。


「俺は、さらに腕を磨いて、お前を待つ」


 その呟きは誰にも聞こえなかったが、ただ目の前の一戦に、そしてその先にあるはずの光に、真っ直ぐに向き合おうとする、一人の騎手の不退転の決意が、静かに、しかし確かに宿っていた。

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