18-4 ノゾミとオモイ
同日、午後6時。美浦トレーニングセンター内、記者会見場。
広い会見場は、テレビカメラの無数のレンズが冷徹な視線のように並び、壁際までぎっしりと詰めかけた記者たちの熱気で、空気が張り詰めていた。
フラッシュの白い光が容赦なく明滅し、キーボードを打つ音、記者たちがひそやかに交わす言葉が、まるで嵐の前の静けさのような、不気味な緊張感を孕んで会場に満ちている。
その張り詰めた空気が、ナイフで切り裂かれたかのように一変したのは、クニモトが会見場に姿を現した時だった。
深い憔悴の色は隠せないものの、その背筋は鋼のようにまっすぐに伸び、一切の動揺を感じさせない足取りで壇上へと進み、用意された席に着いた。隣には、JRAの広報担当者が、同じく硬い表情で控え、重々しく会見の開始を告げた。
深々と、しかし一切の迷いなく頭を下げた後、クニモトはマイクの前に立った。用意された声明を読み上げるその声は、低く、落ち着いており、会場の隅々にまで響き渡った。僅かな掠れは、むしろ彼の言葉に重みを加えていた。
「この度は、先日のG1レースにおける、フッカツノネガイ号の故障に関しまして、ファンの皆様、馬主様をはじめとする関係者の皆様に、多大なるご心配とご迷惑をおかけいたしましたこと、厩舎を代表し、深くお詫び申し上げます。
誠に申し訳ございませんでした」
クニモトは、深々と頭を下げる。無数のシャッター音が、その静粛な空間に響き渡った。
「フッカツノネガイ号は、レース直後に右後脚の複雑骨折、より正確には開放骨折を発症いたしました。
その後、獣医師団による懸命な治療が続けられており、今朝方、生命の危機に関しては峠を越えたとの報告を受けております。
しかしながら、依然として予断を許さない状況であることに変わりはなく、今後の回復、特に競走能力への影響につきましては、現時点では明確な見通しを申し上げることはできません。極めて重篤な故障であると認識しております。
フッカツノネガイ自身の状態の安定を最優先とし、皆様への正式なご報告がこのタイミングとなりましたことを、重ねてお詫び申し上げます」
声明を読み終えると、待っていたかのように記者たちから質問の集中砲火が始まった。
「レース前の状態に、些細な異変も察知できなかったのでしょうか!? あれだけの名馬です、僅かな兆候も見逃すはずがない、という声も上がっていますが!」
「一部の競馬メディアでは、調教が過酷すぎたのではないかという具体的な指摘も出ていますが、調教師としてのご見解は!?」
「結果責任として、管理ミスではないかという厳しい意見に対して、明確にご説明いただけますか!?」
会場の空気は一気に緊迫し、鋭い言葉がクニモトに向けられる。彼はしかし、その一つ一つの質問の真意を冷静に見極め、時折厳しい視線を質問者へと返しながらも、落ち着いた、しかし力強い口調で答えていった。
「レース前の状態につきましては、獣医師、装蹄師、そして厩舎スタッフ一同、万全を期してチェックを重ねておりましたが、現時点において、故障に直結する明確な予兆を、私自身が把握できていたとは断言できません。私の監督不行き届き、その一点に尽きると考えております」
「調教内容につきましては、G1という最高の舞台で、フッカツノネガイの能力を最大限に発揮させるべく、彼との対話に基づき、最善と判断したものです。しかし、結果として今回の事態を招いた以上、そのプロセスと判断については、現在厳粛に受け止め、徹底的に検証を進めております」
「管理ミスというご指摘は、当然のことと真摯に受け止めます。サラブレッドの管理における最終責任は、全て調教師である私にございます。どのようなご批判も、甘んじて受ける覚悟です。弁解の言葉はございません」
彼の言葉には、微塵の揺らぎも、責任逃れの響きもなかった。ただ、事実を認め、自身の責任を明確にする。その揺るぎない態度は、彼が長年貫いてきたホースマンとしての哲学そのものだった。
だが、さらに厳しい、核心に迫る質問が続く。
「フッカツノネガイの競走生命については、正直なところ、絶望的なのでしょうか? 引退も視野に?」
その問いには、クニモトの表情が一瞬、わずかに険しさを帯びた。しかし、それはすぐにプロフェッショナルな冷静さに覆い隠され、彼は言葉を慎重に、しかし断固として紡いだ。
「現時点では、フッカツノネガイの生命維持と、彼の苦痛を最大限に軽減することに全力を注いでおります。競走復帰の可能性について、憶測でお話しする段階ではございません。
今後の回復状況、獣医師の専門的な見解、そして何よりもフッカツノネガイ自身の状態を最優先に考慮し、オーナーと協議の上、彼にとって最善の道を選択する所存です。引退という言葉も、現時点では私の口から申し上げるべきではないと考えております」
そして、ある記者が、会場の空気をさらに引き締めるような、最もデリケートな質問を投げかけた。
「日本競馬の至宝が、一歩間違えれば命を失うほどの重大なアクシデントに見舞われました。厩舎の責任についてお聞かせいただけますでしょうか。・・・
また、大変申し上げにくいのですが、一部では、国本厩舎が2年後に定年解散を控えているため、最後の栄光を求めて、フッカツノネガイに無理なローテーションを強いたのではないか、という心無い憶測も流れています。これについて、明確なコメントをお願いいたします」
クニモトは一瞬目を伏せ、深く、静かに息を吸い込んだ。そして、顔を上げると、その双眸は射るような、しかしどこか深い悲しみを湛えた鋭い光を放ち、会場の全ての記者たちを、一人一人見渡すように真っ直ぐに見据えた。
「今回の事態の全責任は、繰り返しになりますが、全て私にございます。
その責任の取り方につきましては、まずはフッカツノネガイの回復を祈り、彼が穏やかな時間を取り戻せるよう全力を尽くすこと。そして、ファンの皆様、馬主様をはじめとする関係者の皆様への説明責任を全うすること。
その上で、なぜこのような悲劇が起きてしまったのか、その原因を、全ての可能性を視野に入れ、徹底的に究明し、二度とこのような過ちを繰り返さないための具体的な再発防止策を講じること。これが、今の私に、そして私たち国本厩舎のスタッフに課せられた最低限の、そして最大の責務であると考えております。
そして・・・私の定年と今回の件を結びつけるような憶測についてですが・・・」
クニモトはそこで一度言葉を切り、その表情には、怒りとも、深い悲しみともつかない、しかし断固とした、揺るぎない意志が炎のように浮かんだ。
「そのような事実は、断じてございません。それは、私のホースマンとしての誇り、この仕事に人生の全てを捧げてきた者としての矜持にかけて、断じて受け入れられるものではありません。また、日夜、馬の事を第一に考え、一頭一頭に深い愛情を注いでいる厩舎スタッフたちの名誉にかけても、明確に、そして断固として否定させていただきます」
彼の言葉は、静かだが、有無を言わせぬほどの凄まじい力強さで会場を支配した。それは、魂からの叫びにも似ていた。
「我々の知識や技術が、常に完璧であるとは申しません。だからこそ、日々研鑽を積み、一頭一頭の馬と真摯に向き合い続ける。それしか、私たちに道はありません。しかし・・・」
クニモトは、込み上げる感情を抑えるように、再び深く息を吸った。
「私たち国本厩舎のスタッフ一同は、いや、この厳しい競馬の世界に携わる全てのホースマンは、競走馬を単なる駒ではなく、夢を共有し、共に戦うかけがえのないパートナーとして、家族同然に考えております。
今回も、厩舎スタッフ、オーナー、生産者の方々、全ての関係者が、フッカツノネガイの類まれな能力を信じ、彼の馬生がより輝かしいものとなるよう、全身全霊でサポートしてまいりました。そして、あの事故が起きた瞬間から、彼の無事を誰よりも強く、深く祈っておりました。
その純粋な思いと日々の献身だけは・・・どうか、根拠のない憶測で汚されることのないよう、この場を借りて、切にお願い申し上げます」
クニモトの言葉は、鉄のような意志と、馬と仲間への深い愛情、そしてプロフェッショナルとしての矜持に貫かれていた。それは、非難の嵐の中で、彼が守り抜こうとするものの表明だった。
記者会見は1時間以上に及んだが、彼は最後まで冷静かつ真摯な態度を崩さず、時に厳しい表情を見せながらも、全ての質問に正面から向き合い、自らの言葉で答えた。
会見が終わり、再び深々と頭を下げて会場を後にするクニモトの背中は、多くのものを背負いながらも、その芯は少しも揺らいでいないように見えた。
憔悴の中にも、この試練から目を背けず、ホースマンとして再び立ち上がろうとする、不屈の魂の輝きが、確かにそこにはあった。




