18-2 ノゾミとオモイ
診療を終えて、どこか張り詰めた空気の余韻を残した表情で診療室から出てきた神埼は、待合室で固唾をのんで待つクニモトとケイゾーに向けて、静かに、しかし安堵を促すような優しい眼差しで口を開いた。
「ひとまず、危機的状況は脱しました。ノゾミくん自身の驚くべき頑張りもあって、今夜が山だと思っていましたが・・・峠は越えたと言っていいでしょう」
その言葉に、大阪杯の悪夢から二日間、眠れぬ夜を過ごした二人の張り詰めていた糸がぷつりと切れた。同時に深く安堵の息をつき、ケイゾーは震える手で顔を覆い、クニモトは壁にそっと手をついて体重を預け、天を仰いだ。
「ノゾミくんも、驚くほど大人しく治療を受けてくれています。賢い子ですね。自分の状況を理解しているのかもしれません」
そう神崎は続けた。
「そうですか・・・よかった・・・本当に・・・」
ケイゾーの声は、安堵と疲労で掠れ、言葉にならなかった。ただ、何度も「よかった」と繰り返す彼の目には、うっすらと光るものがあった。
「先生・・・ノゾミの今後について、詳しくお聞かせいただけますか」
クニモトは、神崎に尋ねる。その表情には、安堵の中にも厳しい現実を見据えるホースマンとしての覚悟が滲んでいた。
「まず競走馬復帰は、残念ながら極めて厳しいと言わざるを得ません。骨の損傷も深刻ですが、それ以上に周囲の軟部組織や神経へのダメージも広範囲に及んでいます。
今はただ、彼が穏やかに過ごせるようになること、それだけを目標にすべきかと存じます」
神崎の言葉は、静かで、だが揺るぎない重みを持っていた。それは残酷な宣告ではなく、受け入れねばならない現実を、最大限の配慮をもって伝える医師の誠意だった。
「えぇ、えぇ・・・。それは、もう十分に分かっています。ノゾミが、河合牧場に無事に帰ってきてくれさえすれば。それで・・・」
ケイゾーは、そうしみじみと言った。
瞼の裏には、今も鮮やかにあの日の光景が焼き付いている。ノゾミの勝利を確信した瞬間、天にも昇るような高揚感と共に叫んだ声。
だが、三津騎手が下馬した瞬間に襲ってきた、背筋が凍るような嫌な予感。そして、信じられない角度に折れ曲がったノゾミの右後脚を目にした瞬間から、どうやって愛馬のもとに駆けつけたのか、記憶すら曖昧だった。ただ、胸の中で狂ったように繰り返したのは、たった一つの願い。
もう一度、あの緑の牧場で、ノゾミが穏やかに草を食む姿を見たい。
もう走れなくてもいい。
ただ、生きて、河合牧場に帰ってきてくれれば――。
その一心だった。
「退院は、今のところ一ヶ月後を目安に考えています。もちろん、ノゾミくんの回復力次第ではありますが。」
「分かりました。先生、本当に・・・本当にありがとうございました」
ケイゾーは深々と頭を下げた。神崎は「いえ、私たちの仕事ですから」と静かに応え、そして一つの提案をした。
「それでは少しですが、ノゾミくんと会っていかれますか? きっと彼も喜びます」
「いいんですか!? ぜひ・・・お願いします!」
急遽のノゾミとの面会の提案にケイゾーは首を大きく縦に振った。
厳重な殺菌処理の後、消毒液の匂いが微かに漂う、静まり返った馬房エリアの一室。ノゾミのいる部屋の分厚い扉が、重々しい音を立ててゆっくりと開かれた。
そしてそこにノゾミはいた。
「よぉーノゾミ、頑張ったな。元気かー?」
ケイゾーが、努めて明るい声でノゾミに話しかける。
「ヒンッ」
その声に反応して、、ノゾミはか細く、だが確かに応えるように鳴き、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
「ノゾミ。大変な目に遭ったな・・・」
ケイゾーの視線は、痛々しく固定された右後脚に吸い寄せられる。
ノゾミの右後脚は、分厚い包帯と冷たい金属製の固定具で厳重に覆われており、包帯にわずかに滲む血の痕が、あの壮絶な手術の過酷さを無言で物語っていた。
ケイゾーはゆっくりとノゾミに近づき、熱っぽく汗ばんだその首筋を優しく撫でた。指先に伝わる微熱が、手術のダメージと麻酔の副作用で、まだ体調が万全でないことを示している。
「心配すんな、ノゾミ。お前はすげー馬だからな。きっとすぐに良くなる」
ケイゾーは、明るくノゾミに語りかけた
「ヒヒン」
ノゾミは、「任せておけ」と言わんばかりに鼻を鳴らせて見せた。その瞳には、まだ深い苦痛の色と疲労が滲んでいたが、少しだけ笑みを浮かべたような気がした。
「・・・申し訳ありません。面会時間、終了のお時間です」
看護スタッフが申し訳なさそうに告げる。時計を見れば既に面会時間の5分を過ぎていた。
「わかりました。後はどうか、よろしくお願いいたします。
じゃあな。ノゾミ。またすぐに会いに来るからな」
「ヒンッ」
「はいよー」と言わんばかりのノゾミ返事に2人は笑みを浮かべながら、動物病院を後にした。
外の空気は、病院内の張り詰めた薬の匂いとは違い、どこか春の柔らかな匂いがして、それがかえって胸に沁みた。
「本当に・・・ひとまず、一安心ですね、オーナー」
「えぇ。そうですね、神崎先生には、いくら感謝してもしきれません」
二人はそう言って目を見合わせ、強張っていた表情をわずかに緩めた。しかし、その安堵はまだ、薄氷の上に立っているような危うさを伴っていた。
今後の事務的な手続きや話し合いのため、近くの喫茶店に入る。珈琲の香りが、少しだけ強張った神経を和らげる。
「・・・ということで、ケイゾーさん、改めての確認になりますが、ノゾミは今後、引退という方向でよろしいでしょうか」
クニモトは、運ばれてきたコーヒーカップを静かに置き、ケイゾーに切り出した。その声には、プロとしての冷静さと、一人のホースマンとしての苦渋が滲んでいた。
「そうですね。もう、あんな大きな怪我を乗り越えようとしているあの子に、これ以上無理はさせたくありません。穏やかに余生を過ごさせてやりたい。それが今の私の偽らざる気持ちです」
ケイゾーは、窓の外の喧騒に目を向けたまま、静かに答えた。
「なるほど・・・承知いたしました」
クニモトは静かに頷き、二人はしばし無言で運ばれてきたコーヒーに口をつけた。それは、心なしかいつもよりずっと苦く、そして冷めて感じられた。
「それで・・・センセー・・・」
ケイゾーが、不意に顔を上げた。
「もし・・・もし可能であれば、ノゾミの引退式を執り行いたいと考えているのですが……どうでしょうか? あいつの・・・あいつの最後の花道を、作ってやりたいんです」
クニモトは一瞬、ケイゾーの言葉に息を呑んだが、すぐに真摯な眼差しで力強く頷いた。
「昨年のG1での活躍、そして何よりファンの皆様からの絶大な人気を考えれば、間違いなく可能だと思います。
ただ、やはり脚の骨折が完全に癒え、彼自身がファンの前に元気な姿を見せられる状態になってから、ということになるでしょうね。少し時間はかかるかもしれませんが」
「わかりました。その時は、どうかよろしくお願いいたします」
そう言って、ケイゾーは頭を下げた。ノゾミが再びファンの前に立てるかもしれない。その事実は、暗闇の中に差し込む、細くとも確かな一条の光のように感じられた。
「それでですね、ケイゾーさん。ノゾミの競走馬登録についてなのですが・・・これは、抹消の手続きを進めてもよろしいでしょうか?」
競走馬登録抹消――。
その言葉の響きが、ケイゾーの胸に重くのしかかる。JRAに登録されている競走馬としての籍を抜き、公式なレースへの出走資格を失うこと。
それは、競走馬としての「死」を意味するにも等しい。競走能力の低下や、怪我、繁殖入りなど、様々な理由で行われる、競走馬のキャリアにおける重大な転換点。一度抹消すれば、二度と中央競馬のターフを駆けることは叶わない。その馬のその後の運命を大きく左右する、重い手続きだ。
ケイゾーは、カップを持つ手を止め、指先がグッと強く握りしめた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「・・・クニモト先生。もし、無理を承知でお願いできるのなら・・・引退式が終わるその日まで、ノゾミを『競走馬フッカツノネガイ』のままでいさせてやりたいんです。あの子が、あの子自身の名前でターフに別れを告げるその日まで・・・」
その言葉に、クニモトは深く頷いた。
「分かりました。ケイゾーさんのそのお気持ち、痛いほど分かります。抹消の手続きは、引退式が無事に終わるまで、こちらで保留にしておきましょう。」
「・・・本当に、ありがとうございます。ご無理を言って申し訳ありません」
ケイゾーは心からの感謝を込めて頭を下げた。その目には、再び涙が滲んでいた。
しばらくの沈黙の、後にクニモトの携帯に着信がなる。ディスプレイを一瞥すると、彼はわずかに眉をひそめ、恐縮しながら席を立った。
「すみません、オーナー。厩舎で少し急ぎの用事が。また改めてご連絡します」
「すいません。わざわざありがとうございました」
「いえいえ、気にしないでください。また何かあったら電話してきてください。それでは失礼します」
そう言って、クニモトは慌ただしく喫茶店を後にしていった。
「・・・はぁ」
一人残されたケイゾーは、と重たい息を吐き出した。先程までの緊張と、わずかな希望、そして再び押し寄せる現実の重みに、心が軋むようだった。
何か気を紛らわせようと、テーブルの隅に置かれていたスポーツ新聞に無意識に手を伸ばす。
目に飛び込んできたのは、『フッカツノネガイ、右後脚複雑開放骨折!復帰は絶望的か』という、赤黒くどぎつい、そして残酷なほど大きな見出しだった。
その見出しがまるで、自分に向けられた糾弾の言葉のように見えた。
「あぁ、そうか・・・そりゃあ、G1レースの、あれだけの大事故だ。騒がれて当然か・・・」
諦めたように呟き、彼は記事のページをめくった。そこには、追い打ちをかけるような心無い言葉が、冷たい活字で並んでいた。
『調教師・国本英雄の管理責任は?酷使が招いた悲劇か?』
『原因は昨年の過酷なローテーションか。陣営の欲が生んだ悲劇との声も』
『なぜ三津ジョッキーはもっと早く馬を止めることができなかったのか。』
言いたい放題の憶測と、無責任な批判。まるで、鋭い棘が無数に突き刺さってくるようだ。
「そんなんじゃない・・・そんなんじゃないんだよ・・・。これは、誰も悪くない。
ノゾミは、最後まで、本当に最後まで頑張ってくれたんだ・・・。本当に、ただ・・・ただ不運な、事故だったんだ・・・」
見ていられなくなったケイゾーは、新聞を元の場所に戻した。コーヒーは、もうすっかり冷え切っていた。ふと自分の携帯を見ると、着信履歴には、知人や関係者からの夥しい数の不在着信が残っていた。その一つ一つが、今の彼には耐え難いほど重く感じられた。励ましや同情の言葉だとしても、今の彼にはそれを受け止める余裕はなかった。
そっと携帯の電源を落とし、ジャケットのポケットに深くしまい込む。
「もう終わり、なのか・・・? 案外、早かったな・・・」
別に、ノゾミに最初からG1をいくつも勝つような大活躍を期待していたわけではなかった。
ただ、あの子が持てる力の限り、ターフを誇り高く駆け抜ける姿を、一日でも長く見ていたかった。
そして、怪我なんかではなく、いつか来る引退の日まで、ファンの声援に包まれて、誇り高く走り切ってほしかった。
生きていてくれるだけでありがたい。
そう思わなければならないのは、頭では痛いほど分かっている。
しかし、今ケイゾーは底知れない虚無感と、どうしようもない無力感に襲われていた。喫茶店の窓から差し込む午後の光が、やけに眩しく感じられた。
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事務所の電話が鳴り、アオキが静かに受話器を取った。その表情には、ここ数日の寝不足と心労が色濃く刻まれている。
「はい、河合牧場です。・・・はい、アオキです・・・そうですか・・・! ケイゾーさん! よかった・・・本当に、よかった・・・!」
アオキはケイゾーからの電話の一報を受け、張り詰めていたものが一気に緩むのを感じ、深く安堵の息を漏らしながら胸を撫で下ろした。
電話口の向こうから聞こえるケイゾーの声もまた、疲労困憊ではあったが、それでもどこか吹っ切れたような、そして確かな安堵の響きがあった。
「・・・はい、分かりました。・・・えぇ、もちろんです。はい、退院でき次第、輸送ですね。万全の準備をしておきます。・・・はい、お気をつけて。ケイゾーさんも、少しは休んでくださいよ。はい、失礼します」
アオキは静かに受話器を置くと、ふぅ、と長い息を吐いた。その表情には、数日間の極度の緊張から解放された安堵と、それだけではない複雑な感情が入り混じっていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、事務所をあとにする。
そして向かう先は夕焼けに染まる牧場の片隅にある、あの小さな慰霊碑。
アオキは慰霊碑の前で、そっと手を合わせた。
「・・・ノゾミを、守ってくれてありがとな。あいつ、この牧場に帰ってくるぞ」
誰に言うともなく呟いたその声は、春の優しい夕風に乗り、どこか清々しささえ含んでいた。しかし、その肩はわずかに震え、目頭が熱くなっているのを自分でも感じていた。
「ノゾミ、どうだったの?」
事務所から出てきた河合牧場の従業員である神無月加奈子が、手を合わせるアオキに心配そうに声をかける。
「とりあえず、峠は越えたみたいです。ケイゾーさんも、明日には一度、牧場に戻ってくるって言ってました」
「そう・・・本当に、本当によかったわ・・・」
アオキの言葉を聞き、カナコは胸を撫で下ろし、微笑みを浮かべた。
「ノゾミ、引退、なんでしょ? やっぱり・・・」
カナコが、少し寂しそうに尋ねる。
「・・・うん。たぶん、そうなるんじゃないんですかね。詳しいことは、まだ・・・でも、命があるだけ、本当に」
アオキは言葉を濁したが、その表情が全てを物語っていた。
「まぁ、生きてるだけ儲けもんよねー。あの子にとっては、それが一番よ」
カナコは努めて明るく、アオキの肩を軽く叩いた。
「ハハっ、確かにそうですね。欲を言えばキリがないですから」
アオキは力なく笑ったが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
「そうね。じゃあ私仕事に戻るわ寝藁の準備が終わってないの」
「わかりました。俺もすぐに戻ります」
「急がなくていいわよ。今日は私がやっておくわ」
そう言ってカナコは、アオキに気遣うように一人にして、馬房の方へ向かった。
一人になったアオキは、ゆっくりと夕焼け空を見上げた。茜色に染まる空は、美しくもどこか切なかった。
「引退か・・・」
アオキは、噛みしめるように呟いた。
「それが、あいつにとって一番の幸せのはずなんだ。・・・そうだよな。ターフを駆けることだけが、馬の幸せじゃない。決して・・・。生きて、この牧草の匂いを嗅いで、仲間たちと穏やかに過ごす。それだけで、十分すぎる。十分すぎるはずなんだ・・・」
アオキは、どこまでも広がる春の牧草地、その向こうに静かに沈もうとする夕日を見つめながら、まるで自分自身に何度も言い聞かせるように、そう呟いた。




